Once upon a time 1969
手話通訳の3名配置と言うことは、ろうあ者の手話通訳保障として画期的な出来事であった。
それまでは、聞こえる側が言う、ろうあ者側が言う、というやりとりの往復であったが、
エキサイトした場合。
ただただ時間つぶしをして事を済まそうとする場合。
だけでなく論点がそれていった場合などなど素早く対応することが出来るようになったからである。
ようは、ろうあ者の主張を保障する手話通訳配置として重要な意味合いがあった。
今日、手話通訳を情報保障とする言い方をする人々があるが、
そこには、
ダレのための
ナンのため
包み隠さず情報が開示されているのかどうか
は問題にされず、コレコレコノコトを言った、という「アリバイ情報」が多いように思える。
あくまでもろうあ者の言いたいことがキチント言える保障。
それが手話通訳保障であると京都の手話通訳者の中では徹底されていた時代があった。
こころから喜ぶと同時に
府としても出来るだけ援助をしてまいりたい
ろうあ協会役員が和紙に包まれた知事の祝辞が書かれた文章を広げ、読んだ。
「皆さんがつくられた京都ろうあセンターにこころから喜ぶと同時に、府としても出来るだけ援助をしてまいりたいと……」
と知事の今年開かれたろうあ者新年大会に寄せられた祝辞にハッキリ書かれているではないか、
京都府の担当幹部は、
「知事が京都ろうあセンターの必要を認め援助すると言っているのに担当部・課はそれを認めないというのか。」
「京都府議会本会議場で手話通訳が議場内ですることを認められた。」
「その手話通訳をしたのは、京都府職員ではないか。」
「京都府議会は、手話通訳の必要を認めたというのに担当部・課は必要ないというのか。」
京都府の幹部は、驚きの表情と矢継ぎ早の追求の前で黙り込んでしまった。
まさか、こんなところで知事の祝辞が出されるとは思ってもいなかった、驚いたばかりではなく、重大な部・課の責任を感じていたからである。
剥がれ落ちた言い分と逃げと詫び
当時、京都府知事は知事宛の手紙や文章をほとんど読んでいた。
祝辞などは、担当課、すなわち今回の場合は、民生労働部社会課が起案し、課長も目を通した上で知事の決裁がおりていた。
知事はこのような祝辞に対してもしばしば筆を入れ、訂正するのが常だったためろうあ協会の言っていることに対してまったく否定できなかった。
そればかりか、あの祝辞の最初は、担当課である私が「起案」したものである、と言えば、
「団体としてなされていることは充分承知していますが、団体がなされることで行政といたしましては……」
「善処していますが、とうてい出来かけることではないので……」
「言われていることはそうのとおりですが……」
と言っていたことがすべてウソになる。
いいかげんに事を済まそうとしていたことがすべて明るみに出る。
この場合、行政はひたすら逃げの手を打つ。
その方法は、黙ると言うことしかなかった。
雪崩のごとく手話が舞飛ぶ訴えと手話通訳
交渉の場は、一転してろうあ者の表情が生き生きして、次から次へと要求が出されるになった。
その度、そうや、そうだ、とうなづいたろうあ者は、それなら私も言いたいことがあると雪崩のごとく手話が舞飛んだ。
3人の手話通訳者は、それぞれのろうあ者を同時にそれぞれ手話通訳したため会場は、要求の声も飛び交い、京都府民生労働部・課は、ひたすら
「お話をおうかがいをして、部・課で検討させてください。」
と平身低頭の姿勢に変わった。
「今回は、ここまでで終わらせてください。」
と言う京都府の幹部に対して、
「じゃ、次回はいつ。時間も考えてほしい。残業しないと生活できないからはじめるのを遅くしてほしい。」
「次回は、もっと広い場所で、手話通訳も3人は絶対配置するようにしてほしい。」
というろうあ者の「声」えに押されて、京都府の幹部は、
「そのようにします。」
と言うことになった。
いつものことだが、交渉が終わると京都府の幹部はすぐ帰り、記録をメモしていた京都府職員が会場整理をしはじめた。
ところが、ほとんどのろうあ者が残って机イスの整理から掃除まですべてをあっという間に仕上げて、ひとりひとり職員に頭を下げ、手話で簡単な合図を送って帰った。
京都府職員の顔を見ているだけでも、感激と新しい世界がはじまることが予測できた。
事実そうだった。
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