Once upon a time 1969
1960年に京都府ろうあ協会と手話通訳者が府民向け手話テキストを発行し、手話講習会を呼びかけた。
その当時は、ほとんど手話に関心を寄せる人々がいなかったが、京都府ろうあ協会と手話通訳者が必死になって文章を推敲し、手話を絵で表した。
その一部をこのブログに掲載してきた。
この1960年作成の手話テキストには、手話とは、ということが掘り下げて掲載されている。そのためその全文を掲載する。
手話を始めて学ぶ人たちに
厚生省の統計(白書)によると、現在日本には、約22万人の聴覚障害者がいます。
この中には単に耳が遠いというだけの人々や、老人性難聴者も含まれてていますから、いわゆるろう(聾)者、ろうあ(聾唖)者といわれる人々は、この約半数で10万人ぐらいではないかと思われます。
手話とは ろうあ者が日常の伝達の手段として用いている記号
かんたんに言えば、手話とはこのろうあ者が日常の伝達の手段として用いている記号の1種です。
これらの人々は生まれたときからか、または非常に幼いときから聴力に障害を持っているため、ふつうの人々と同じように自然に言葉を習得することが出来ず、特殊な教育を受けて、言葉を学んできた人々です。
ろうあ者同志の集団の中から発生させ、発展させられた手話
そして、特殊な教育で言葉を学んでも、やはり聴力に障害がありますから、ふつうの人と同じように、らくに言葉を使つて話をすることができず、そのために、手話という独特の記号を、ろうあ者同志の集団の中から発生させ、発展させ、日常の生活の中で会話の補助手段として使っている訳です。
ろうあ者に対する教育がはじまつた時は、手話を使って言葉を教えていました。
ところが今から約40年ほど前、口話法という新しい教育方法がはじめられ、今では日本全国のろう学校では、すべて、この口話法で教育するようになっています。
口話法とは、ろうあ者にもやはり発声器官を訓練して発音することを教え、また、唇の形や働きから、言葉を読みとる技術を訓練をし、それと平行して言葉を教えていくやり方です。
教育の方法論だといっても
口話法、手話法は
一筋なわ、二筋なわだけで律し切れるものではない
口話法がよいか、手話法がよいか、かって激烈な理論的、実践的論争が繰り返されました。
そして、一応、口話法の時代になった今でも、「手話も必要か、必要でないか」といった形で論争が続いているのが今日の姿です。
こういう論争は非常に狭い専門的な立場から行われたもので、一般の人々にはなかなか理解出来ないものです。
もともと一人の人間がこのややこしい世の中で、人間としての権利の享受を全とうして、生きていくという大テーマの内容は想像するだけでも複雑なもので、それを、いくら教育の方法論だといっても、口話法、手話法の一筋なわ、二筋なわだけで律し切れる。
全責任をもてるという訳ではありません。
語学の教育でも、一ダースぐらいの方法論があります。
今のろうあ者は
決して手話だけで話をしているのではないという事実を
そして、ここではっきりと確認していただきたい事実は、今のろうあ者は決して手話だけで話をしているのではないということです。
ろうあ者といっても今では、言葉の教育を受けています。
そして、はっきりとした発語として表現するにせよ、表にあらわれない内言語として使用するにせよ、完全・不完全の程度の差はあっても言葉で話をしている訳です。
ただ、それをお互いに伝達する手段として、口話や手話や指話をいろいろまぜ合わせて使っている訳です。
ろうあ者の人々と交際し
ろうあ者が持っているいろいろな喜びや悲しみや社会問題に
じかにふれた生なましい実感の中から学んでいただきたい
こう書いてきますと、書いている本人にはよくわかっているつもりでも、はじめて手話を学ぼうとされる方々には、なんだかわけのわからないようをことを書いてしまったようです。
しかし、これ以上のことは、白い紙に黒い文字でかいた知識としてではなく、実際に手話を学ぶグループの中で学習し、さらにろうあ者の人々と交際し、ろうあ者が持っているいろいろな喜びや悲しみや社会問題に、じかにふれた生なましい実感の中から学んでいっていただきたいものと思います。
「手話」という言葉に
あるていど、ずっしりとした実感を感じることができるようになって
いただいた後に
勿論、手話にも、もっと高度な社会的、歴史的、理論的研究の分野もあります。
しかしこれは以上のようにして、「手話」という言葉に、あるていど、ずっしりとした実感を感じることができるようになっていただいた後の問題です。
このパンフレットもそのつもりで、きわめて初歩的、現象的なあみ方をしました。
その方が実際の目的にかなうと考えたからです。
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