Once upon a time 1969
手話通訳保障がされ、ろうあ者が立会演説会に参加出来る保障がされたのは、京都府知事選挙の立会演説会からであった。
一番難しい手話通訳がもとめられる地域
立会演説会は、京都府下の北部からはじまり、南部まで縦断する。
そして、京都市内の大有権者の地域で終わるものであった。
第1回の立会演説会は、丹後(現在の京丹後市)のM小学校の体育館で行われた。
丹後地方(当時)のろうあ者は、未就学だったろうあ者が圧倒的に多く、手話というより身振り、手振りでのコミニケーションであったし、かって裕福な家に生まれたろうあ者は、戦前の手話でコミニケーションにをしていた。
コミニケーション方法は、あまりにも大きな違いがあり、手話通訳をすることは一番困難な地域でもあった。
なぜなら、Aさんに通じても、Bさんには通じないということなどなどが多々あったからである。
この場合は、以前のブログで「同じ」という手話表現の説明したが、参加するろうあ者の手話表現や手話の認識状況に合わせるとこの「同じ」という手話表現をより多く使わなければならなかった。
しかし、このことを繰り返していると候補者の演説が終わり、次の候補者の演説がはじまっても手話通訳しているという結果になる。
候補者の演説が終われば、手話通訳も終わるようにしなければならないという手話通訳者としては、非常に難しい手話通訳が求めらることになる。
2011年11月〘違いを強調し、極限まで考えるよりも「同じ」で一致すれば「違い」が解ってくる 参照〙
ろうあ者の参政権保障の第一歩を確実なものにしなければ
私たちは、前日から京都市内を出て宿泊。
宿泊先で丹後地方のろうあ者の生活やコミニケーションの特徴を再学習して入念な打ち合わせを行った。
ろうあ者にとっても、手話通訳者にとってもこの第一回目の立会演説会がキチンと終了し、ろうあ者の参政権保障の第一歩を確実なものにしなければ、今後の立会演説会の保障が見込めなくなるという緊張感に包まれていた。
立会演説会当日。
数時間早く会場に行き、手話通訳者の位置やろうあ者の席を確認し準備した。
ろうあ協会の役員もその時間帯に一番列車とバスや徒歩で会場にたどり着いて、早く来るろうあ者をろうあ者席に誘導していた。
初めて立会演説会に来たろうあ者は、自分たちの席が準備されていることに驚き、ためらい、ためらいしながら席についた。
聞こえる人の席は一杯だけど、本当にここでいいの
ところが、もっと驚いたことに、そのころM小学校の体育館にぞくぞくと人が集まり、ろうあ者席以外は、ほとんど席は埋めつくされるようになっていた。
ろうあ者から
「ここの席空いてるけど、座っていていいの?」
「聞こえる人の席は一杯だけど、本当にここでいいの」
との質問が出された。
ろうあ協会の役員は、
「あとから来るろうあ者の席だから、空けておかないと手話通訳が見えなくなるから……ここのままで。」
と説明した。が、ぞくぞくと来る人は途絶えることがなかった。
選挙管理委員会から、「席をもっと前に詰めてください」という放送がなされて、体育館はびっしりの人で超満員になった。
入り口付近の人々は立ったままで、これ以上入れる余地はなかった。
ろうあ者から、○○さんはもうじき来るのに入れなくなる、どうしよう、という心配が出されたがどうしようもないほどの人が集まっていた。
そうなると、よけいろうあ者席の空席が目立つ。
ろうあ者から、
「空いているところに聞こえる人も座ってもらっていいと言ってもらえないか。」
との話があり、選挙管理委員会と話をしたが「いやそのままで結構です。」との返事。
体育館の床を揺り動かす大拍手が、さらに大きな拍手になった
体育館以外にも第二会場(放送のみ)、第三会場が設けられた。
おくれてきたろうあ者は、会場前列まで人垣をかき分けて来ることは、とうてい難しいだろうとみんなが思い込んでいたが、ひとり、また、ひとりとろうあ者がやってきた。
「どうしてこの席までこれたの」
とろうあ者が尋ね続けたが、当のろうあ者本人も首をかしげるばかり。
立会演説会の時間が来て、選挙管理委員会から立会演説会の注意事項とともに
「この立会演説会には、ろうあ者の方々のため席が設けられており手話通訳が行われます。みなさんの御理解をおねがいします。」
と言ったとたん、体育館は割れんばかりの拍手が鳴り響き、体育館の床が振動するほどだった。
ろうあ者は、みんなにお礼の頭を下げるとよけいに、拍手が鳴り響いた。
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