2012年1月11日水曜日

哀しみの中から立ち上がった壮大な構想


Once upon a time 1969

 1986年10月の衆議院社会労働委員会での国側の答弁まで、手話は、自由闊達に表現されてきた。
 各都道府県で手話表現が異なっていても、ろうあ者同士が自由に会話することにより、通じ合う喜び、話し合う喜びを得ることが出来た。
 だが、このことが国側によって大きく、意図的に変えられていく。
 このことについて、特にこの動きを知るものとして、後で述べる。


     もう騙されないと 京都ろうあセンターを発足

 戦前、戦後を通じて哀しみを喜びに転化してきたろうあ者は、1966(昭和41)年12月21日京都府議会本会議(ブログ 2011年12月1日  ろうあ者の方々のために、本当に生きがいのある社会にするように努力してまいりたいと、これはお約束いたします の項、参照 )を契機にその要求運動は、大きく発展する。

 1969年4月。
 京都府ろうあ協会は、京都市北区にあったライトハウスの移転に伴ってその跡地を京都市から借り受けて京都ろうあセンターを発足する。
 それは、戦前からのろうあ協会やろうあ者の夢であった「ろうあ会館」の実現でもあった。

 このろうあ会館は、ろうあ者の集うところだけでなく、ろうあ者福祉の拠点として、またその発信地としての意味合いなどを籠めて考えられていた。
 しかし、全国的にはベル会館問題、京都では第二教室問題とろうあ者はだましに騙され続けてきた。
 特に、京都では、自分たちの所有権である土地建物をめぐって有能で無償に近い形でろうあ者の立場に立った弁護士が力を貸してくれて争ったが、事実上騙された結果になった。



自分たちの力で運営し、それを公的保障に変える

 北部では、ろう学校建設。京都市内および南部ではろうあ会館からろうあセンターへとその要求は充実されていった。
 いつまでも待てない。


ライトハウス移転に伴う旧ライトハウスを京都市が貸してくれる経過にはさまざまな紆余曲折があった。
 でも、自分たちの力で運営し、それを公的保障に変えていこうという気概は、はてしなくあった。




  民間から公的保障への転換をめざす壮大な発想

 日本で最初につくられた「京都のろう学校」も全国の少なくないろう学校は、篤志家はもちろん多くの人々の協力と援助に支えられ発展し、公的学校へと転化させてきた歴史があった。
 近年さかんに言われている「官から民に」と逆に「民から公」という発想であった。

 ナゼなら、社会保障や社会福祉は憲法に書かれているように
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

 これこれこのように出来る、と示して
   行政ならもっと出来るはずだ、と迫る

 行政が、なにもやらないからと待っていても、結局なにもないとことになる。
 私たちが、これこれこのように出来る、ということを示して、行政ならもっと出来るはずだ、としていかなければならないという必死の覚悟であった。
 「待ち」でない「行動する要求」。
 この発想は戦前戦後の苦しみとみんなの知恵と意見の違いを乗り越えて、産まれてきた。
 が、旧ライトハウスを借りても、電気代はおろかあらゆるものがない中での出発点であった。


 みんなは行政と交渉する一方、寄付集めやイス、机などをはじめ何から何まで準備しなければならなかった。

 
 府民や市民はあたたかく、多くの協力を得られた。また倒産した会社の労働者かがイス、机などの事務機器などが運ばれるなど、ろうあセンターは、なけなしの荒野から多くの人々の協力を得て、開拓をはじめた。

 だから、京都市、京都府への要求は、揺るがない信念のもとみんなは結束して行動を開始した。

 だが、京都府、特に窓口となる京都府民生労働部の対応は、冷たく許しがたいものがあった。

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