山城貞治(みなさんへの通信82)
「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その62)
労働安全衛生で学んだことをみんなのものに
京都府高労働安全衛生対策委員会は、学習会をしたことは必ず冊子にして教職員だけではなく、多くの方々に学んだことを広めてきた。
たとえば、
「安全配慮義務の法理とその活用 弁護士 岡村親宜」
「教職員組合労働安全衛生委員会の労働者側委員は、なにをなすべきか 大阪労働健康センター 北口修造」
「教職員の精神衛生を考える 医師 鈴木安名」
「教職員のみなさんとともに考える労働時間 弁護士 伊藤誠一」
「教職員のためのリラクゼーション 長崎県大浦診療所 井出政子」
「京都府高労安対策委員会機関紙「教職員のいのちと健康と労働合本1、2、3、4、5」
その他出版したものとして、
「教職員のいのちと健康を守るために 京都からの発信 川上雅詮編 文理閣」
「学校がよみがえる労働安全衛生 辻村一郎・川上雅詮編 文理閣」
などなど多数ある。
本当に多くの方々の協力と援助で京都府高が学習できたのだと思う。
そこで、今後のために「学校がよみがえる労働安全衛生」の内弁護士 佐藤克昭氏の「だれでも共感できるいのちと健康 今こそ言いたい、教職員の労働安全衛生」の一部の概略を紹介させていただく。
一番に言いたいことはいかに有益で必要な事業であっても、労働者の身体を壊すようなことは許されない
1995年9月に福岡高裁で、長崎じん肺の判決が出ました。この判決文の中で、裁判官がこういうことを書いています。
「いかに社会的に必要、かつ有益な事業であるからといって、業務遂行の過程で労働者の身体健康の障害が発生しても、それが許されてよい、という理由は見出し難い」。
どんなに社会的に必要で有益な事業だといっても、そういうことをやる中で、労働者の健康や身体が壊れるようなことがあったら、いかに有益で必要な事業であっても、労働者の身体を壊すようなことは許されないということを、福岡高裁の長崎じん
肺判決は、判決文の中でいっているわけです。
どんな立派な事業内容や仕事であっても、その中で働く労働者の健康被害が発生するようなことがあれば、それは駄目だと思います。
それはおかしいのです。
そういうようにみなさん自身、思っておられますか、ということです。
ここが、今日の私の一番言いたいところです。
危機感を感じることがない
「ああ、忙しい」「忙しいことがたくさんある」なのか
教職員のみなさんにいろいろお聞きをすると、京都の教職員の現職死亡というのは、1991年から1996年の6年間に100人だそうです。
1ヵ月以上の長期病休者というのは、毎年200人以上おられるそうです。
「ああ、そんなものか」
と思われる人がいるとすると、私もショックです。
京都府高の川上委員長の決意がすばらしいと言いましたけれども、はっきり言って、学校の先生は、砕けた表現をすれば、「へろへろ」になっているのではないかという感じがしているのです。(注:京都府高労安対策委員会機関紙「教職員のいのちと健康と労働」合本1の冒頭「発行にあたって」に「1997年、私たちはこれ以上、教職員仲間を殺すことや、健康破壊を許さないと、背水の陣を構えた」と書いていること。)
しつくりこない「多忙化」という言葉
「多忙化」ということが、京教組の新聞などに出ていますが、私は率直にいって、この言葉がしっくり来ません。
「多忙化」というのは語感として、「ああ、忙しい」「忙しいことがたくさんある」というだけで、あまり危機感を感じることがないのです。
冒頭にいった「背水の陣」と「多忙」というのは、私の語感ではちょっとズレるのです。
「忙しいことがたくさんある」
ということではなくて、
「えらく大変だ。背水の陣だ」
という京都府高の川上委員長の言葉の方がすっきりします。
大変な 年間300人以上の教職員の過労死が出ること
現状認識と用語のズレということだけなのか、「多忙化」には、もう少しいろいろな思いがこもっているのか、教えていただきたいところです。
ちなみに、今のような状況で抜本的な教職員の労働条件の改善がないと、全国で年間300人以上の教職員の過労死が出ると、全日本教職員組合(全教)の常任弁護団は言っているそうです。
私は常任弁護団ではありませんが、年間300人以上の過労死が出るということになれば、これは大変なことです。
先ほど青年労働者の実態をご紹介しましたが、それに匹敵するということです。
年間総労働時間が3000時間を超えると「過労死軍団」
だいたい全国の過労死弁護団の議論でいうと、年間総労働時間が3000時間を超えると、まず「過労死予備軍」でなくて「過労死軍団」です。
ようするに、過労死事案で申請や裁判で闘うときに、年間総労働時間を計算して、裁判でこういう労働実態だとやるのですが、過労死で倒れるというのは、3000時間が1つの目安になってきている。
率直に言って、私は教職員が「多忙」というより「過労」ではないのか、という感じがします。
しかもそれについて、背水の陣なのかもしれないけれども。
じつを言うと私の兄は京都府立高校の先生をしているので率直に思うのですが、本当に危機感がないというか……。
「あなた、自分の身体をどう思っているの」
と、思わず言ってしまいたくなるぐらいです。
子どものためにここまでやらなくては駄目だから
これは手を抜けない、と
みなさんの中には、休むということを躇躇する、ということはありませんか。
「いや、今は休めない。これとこれがあって」
と言われれば、
「あなた、休めないのはいいけど、家族はどうするの。まだ子どもさんは高校だよ」
と思ってしまいます。
しかも、倒れたら
「残された生徒は、どうするのですか」
と思ってしまいます。
実際に話をすると、どうも学校の先生の基本姿勢というのは、
子どもがいて、やることがあって、これこれをやらなければ自分の教職員としての使命が果たせない。
だから、子どものためにここまでやらなくては駄目だから、
これは手を抜けない、ということになっていないだろうかと思うのです。
「教育と労働安全衛生と福祉の事実」は、ブログを変更しましたが、連続掲載されています。以前のブログをご覧になりたい方は、以下にアクセスしてください。
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