2011年9月16日金曜日

たくさんの労働者の「血と汗が文章」になっている労働安全衛生法  闘わなければすぐに形骸化する怖い分野


山城貞治(みなさんへの通信84)
「教職員の労働安全衛生問題の政策とその実現のために 第1次討議資料」の実現した事項(1997年から2006年までの約10年間)
政策「労働安全衛生対策について」はどれだけ実現したのか(その64)


随分波風があった労働基準法から分かれて
労働安全衛生法が出来るときに

 事業者とか国というものが、本来的には働く者のいのちと健康を守るという責任を有していると私は思います。
 ただ、これは天から降ってきたものではありません。
 労働安全衛生というのは、働く者の財産です。
その中に、職場の中でのいのちと健康を守るための具体的な方策がいっぱい詰まっているわけです。
  しかし、労働基準法から分かれて労働安全衛生法が出来るときには随分波風が立ち、ある労働組合の活動家のかたがたは、労働安全衛生法は不十分で、不足がある云々の議論をしました。不十分な点もあるかもしれないけれど、私はやっぱりこれは財産だと思います。


  労働者の怒りの中で労働安全衛生法
が生まれてきた

 この財産とはどういう意味かと言えば、たとえば生産職場で、具体的に労働者がケガをすることが多発する中で労働安全衛生として規則を作り、「こういう基準を作らなければいけない」という労働者の怒りの中で労働安全衛生法が生まれてきた背景があるからです。
  そういう意味でいえば、労働安全衛生法の中身というのは、たくさんの労働者のかたがたの「血と汗が文章」になっている財産だと思っていただきたいと思うのです。
 しかもそれは、一人ひとりの労働者がいろいろと言って勝ち取れる内容ではないのです。
 やはり労働組合が団結して、いろいろな運動をして、その力で勝ち取ってきたものです。
 しかも闘わなければ、労働安全衛生というのは、すぐに形骸化して形だけのものになってしまうという、怖い分野です。


ひとりの労働者の「意識」だけでは絶対なくならない労働災害 

 そのことは、みなさんも実感されてきているかもしれないし、この数年の問に
「えっ、教職員の職場にも労働安全衛生法って、関係あったの」
という議論から、出発していった面があるかもしれません。
 実際は、みなさんがこの間の闘いの中で実感していくことだと思いますけれども、闘って具体的な要求をあげていく中で、一つひとつ前進を勝ち取っていくと思います。
 先ほども言いましたが、一人ひとりの労働者の「意識」だけでは、労働災害は絶対なくなりません。
 だから、労働安全衛生法3条で、
「事業者は、単にこの法律で定める労働災害の防止のための最低基準を守るだけではなく、快適な職場環境の実現と労働条件の改善を通じて、職場における労働者の安全と健康を確保するようにしなければならない」
と、わざわざ書いてあるのです。

 事業者にこそ、労働者の健康を守る責任があるということです。

労働安全衛生法の学習を先にやろうと思うと絶対出来ない

 ただ、こういう議論でいろいろと条文に入っていくことは、今日はあまりしません。
私の発想でいうと、あまり頭でっかちになっても駄目だと思うのです。
 だいたい労働安全衛生法には細かい条文がいっぱい書いてあって、安全衛生規則なども連動して読まないと全体のイメージが解らないというような法律でもあるのです。

 だから、そういう学習を先にやろうなどと思うと、だいたい半分ぐらいで眠くなって、最後まで絶対いかないことは、私が保証します。
 そういうことではなくて、働く者の財産であって、労働者の血と汗によって作られてきたものだということを、なぜ強調したのかというと、あえて言うと働く人々はそういう難しい勉強をして労働安全衛生が出来てきたものだとは思えないのです。

労働安全衛生法学習よりも  一人ひとりの仲間の健康といのちを守るという視点からとらえ直して むしろ、現場なり職場の中で寄り合いをしたり、労働が終わった後に一杯飲み屋に行ったりして、
「今日はこうだった」

「こういうのはしんどいな」
「俺、身体の調子はこうなんだ」
というような話をする中で
「じつは、俺もそうなんだ」

「何かおかしいのと違うか」
「どこかで話を聞いてみようか」
ということになり、そこから具体的な職場の安全衛生が出発したようなところがあるのです。
 そういう意味で、一人ひとりの仲間の状況を健康といのちを守るという視点からとらえ直していく。
 そういうことの方が、労働安全衛生法のいろいろ難しい条文をいっぱい読むよりも、私は必要ではないかと思うのです。
 そういうことでは、みなさんの安全衛生対策委員会の中で、なるべく分かりやすく、こういうことでどうなんだと、みんなで話をすることの方がいいのではないかと、私は思います。


組合など関係なく
「あの人がしんどそうだから、私が手伝ってやる」があったはず

 具体的にいうと、たとえば組合員でない人も含めて、職場の一人ひとりの健康状況や仕事のことをどう思っているのか、などみなさんの組合や分会でつかんでいるか、ということです。
 教職員のみなさんのいろいろな人と話をするのですが、みなさん非常に「多忙」で、お疲れになっている。
 でも昔は学校でも、いろいろな職場でも、ある意味で力のある人がいて、いろいろな人のしんどいところの状況が分かっていて、
「あの人がしんどそうだから、私が手伝ってやる」
というようなこともあった。
 職場の周りの状況をある程度把握しながら、お互いに融通しあいながらやっていくというようなことが、組合など関係なく、職場でやれた時期はあったはずです。
 それが今はどうか。

 その辺のところを、十分把握できているかどうかです。

労働安全衛生の出発点は
職場の一人のひとりの健康状況や働き方
「想い」といったものを受けとめていないと、何もできない

 労働安全衛生というのは、職場の一人ひとりのいのちと健康を守るための取り組みです。
 そういう意味でいえば、出発点は職場の一人のひとりの健康状況や、働き方、「想い」といったものを受けとめていないと、何もできないということであり、そういうことを率直に話し合いができ、把握しあうような場があるかどうかということです。
 本来であれば、そういうことは学校長がやらなければいけないと思うのです。
 全教の三栄国康さんが、どこかの雑誌で、学校長が朝の朝礼で
「教職員のみなさん、今日のみなさんの体調はいかがですか。身体の調子の悪い人は、ぜひ私に申し出てください。いろいろな職務分掌も含めて検討したいと思いますので」
というような挨拶をすることがあってもおかしくない、と書いておられました。
 校長は事業者である府教委などより、具体的な職場の中での実行行為者として責任を持っているわけですから、本来ならば学校長がそういう形で職場の安全衛生の問題に率先して取り組んで、一人ひとりの健康状況について申告して議論しようという雰囲気を作っても、何もおかしくないのです。


 ただ、いっぺんにそこまではいきません。


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