Once upon a time 1971
身体障害者手帳が交付されると福祉(福祉事務所)から障害児・者の家に持っていくということは、想像以上の反対を受けた。
役所は、完全な上意下達。
今までしてきたことをほんの少し変えるだけでいろいろと言われる。
だれが責任とるの公文書綴りを無くせば
「手帳を受け取ったときに交付台帳に印を押してもらわなければならない。その交付台帳を持ち出すことは出来ない。」
「じゃ、その一番最近の部分だけ取り外して、身体障害者手帳と一緒に持っていって印をもらったら。」
「それを失ったら、だれが責任を持つ」
「私が責任をとります。」
「君だけの責任にならないから、言っている」(自分も責任をとらなければならないのは困るの意味。)
「そもそも、申請しに来たのに、こちらが持っていくのはおかしい。」
「では、生活保護のケースワーカーは、生活保護所帯に障害児・者が居ると障害加算されるということで、家庭訪問して、申請書に書いてもらい。交付されたら本人さんに渡しに行っているじゃないですか。」
「それは、生活保護所帯だから」
昼休みか夜に届けると
さらに、
「君が居ない時に来られた方の対応や仕事はどうする。」
「渡して福祉に戻ってから、その仕事をします。」
あれやこれやのやりとりがあり、あちこちでひそひそ話が広がった。
当時は、昼休み時間の窓口業務をしていなかったので、
「あの、昼の場合は昼休みはじまる前直前に身体障害者手帳を持っていきます。昼休みが終わる頃には戻れるようにします。」
「そうでない場合は、夕方から夜に届けます。」
とまで言った。
当時、身体障害者手帳の交付は多くの矛盾や問題があり、市では交付は絶えず行われては居なかった。
こんなやりとりのあげく、「あなたが責任持って」という条件で認められた。
手渡すまでの困難は今では考えられないほど
身体障害者手帳が府から交付されて来ると、昼休み前になると猛ダッシュでさび付いた自転車を走らせたが、申請された方の家がわからず、また猛ダッシュで帰ってくことがしばしばだった。
交付されたことはすぐ手紙で知らせてあるが、取りに来てもらうのは…という気持ちだった。
このようなことを書くと、前もって電話で連絡しておけばいいのに、と思われる方があるかもしれない。
でも、当時は電話を引くために多額の費用が必要だったために身体障害者手帳を申請される方々の家にはほとんど電話がなかった。
福祉制度の説明して残るむなしさ
やっとたどり着いても家には表札もなかった。
外から声をかけて、名乗ると「どうぞ」という声。
手帳を渡し、手帳を持っていると減免やこのような福祉の制度が受けられると説明したら、やっと「助かります。」「おおきに」の返事が返ってきた。
そんなことがしばしばだった。
隣近所にも遠慮して生きている障害者の方々の様子を知るにつれ、手帳をやっと取得しても受けられる福祉は制限されて、目に見えて生活が良くなるなんて、およそ考えられないことだった。
説明していてもむなしさが残った。
ある府税事務所の職員の苦しみから生まれた案が国を動かす
だから、障害者問題のさまざまな学習会に参加したり、行政で働く人々の研究会や交流会に出席した。
ある時、府税事務所で働く京都府職員から次のような話が出された。
「自分の子どもは障害がある。だから、行政として何か出来ないか。いつも考えているが、配属されるのは税務関係ばかり。」
「税金をとることばかりで、家に帰るとがっくり」
「税金をとるだけでなく、障害児者に何か少しでも役立つことがないかと考えてきた。府税事務所で。」
「これはどうかなあっと思うけれど」と話された提案にびっくりした。
またさまざまな意見が飛び出したが、それが国を動かす制度まで発展するとは思いもしなかった。
「教育と労働安全衛生と福祉の事実」は、ブログを変更しましたが、連続掲載されています。以前のブログをご覧になりたい方は、以下にアクセスしてください。
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