Once upon a time 1971
40年も経過すると福祉制度は、いい意味でも、悪い意味でも大きく変わる。
でも、自動車取得税や自動車税の減免制度が延々と続いた訳を考えると、最初の一歩で充分な論議と検討がされたことがあげられるように思う。
思いつきの制度はその時期、大騒ぎになるがいつしか消え去ってしまう。
最近はやたらカタカナ表記が多いが、日本語訳すると何の意味もない場合が多い。
現在では禁止用語になっている福祉の分野の「ことば」でも、振り返って考えてみれば、それなりの意味を持っているように思えてならない。
ようは、ことばの言い回し、言い方でなく、その内容を的確に表現されているかどうか、ということではないだろうか。
障害者に遠い存在
1971年当時、全国的にろうあ者は福祉事務所を「汽車・割引・場所」と手話表現していた。
「幸せ・司る・事務・所」と言う表現ではなかった。
なぜなら、福祉事務所に行く時は、国鉄の割引証の福祉事務所の証明(印)をもらいに行くぐらいなもので、他にいくことはないという縁遠い存在が福祉事務所であったからである。
この本質を突いた手話表現を残して置いてほしいものである。
事の本質と時代を反映したものであるからである。
悪循環の事務作業をうわまわる悲しみ
さて、身体障害者手帳を届ける仕事は、続けた。
続ければ続けるほど、身体障害児者の置かれている環境がよく解ってくる。
手帳取得後の制度だけで話は終わらず、さまざまな質問や相談が出されることが多くなっていった。
だから、昼休み時間が過ぎて役所に戻ることが多くなっていった。
帰ってみると書類が山積みで、その中に身体障害者手帳の申請書があったりする。
印がなかったり、必要事項の記載がなかったりなどがあり、そのため連絡を取り家に寄せていただき帰るとまた同じようなことが…という繰り返しであった。
この中で、哀しくて辛い思いをすることも少なくなかった。
障害者手帳には、写真を貼ることになっているが、児童の場合の写真を見ると入院中か、施設に入っている写真が時々あった。
正面からの写真が撮れないほど重症の子どもたちであった。
あふれ出る涙の哀しみのはてに
その中である子どもさんのことは今だに忘れきれない。
障害者手帳を持って、長い坂道を三度越えたら急な下りになって道がうねっている。
そして、その先を曲がった所にその子の家があった。
お母さんが待っていてくれて、いつものように手帳を渡し、福祉制度を説明したが、お母さんは始終下を向いたままだった。
なにか、苦しいことがあるのだろう、と推測できたが、それは聴いてはいけないことだった。
そして、顔をあげられたお母さんの顔は涙で溢れていた。
「ありがとうございます。この子がこの手帳を手にすることが出来たら…ありがとうございます。」
それしか、お母さんは言われなかった。
役所へ帰る自転車のペダルはいつも以上に重く感じられ、キーキー悲鳴をあげる自転車になぜか腹立たしさと愛着を感じたことだけが残った。
お母さん。詫びなくてもいいのに…
数ヶ月して、机に戻った私の所に所長がやってきた。
「福祉事務所が本当にあたたかいことをしていただいてと感謝された。」
と所長。
聞けば、手帳を渡してしばらくして、受け取るべきその子がなくなったこと。
お母さんとしては、早く手帳を返さなければならないと思いながら返せず、今日になったことを詫びておられたとのこと。
お母さん。詫びなくてもいいのに…と思いつつ、お母さんの言っていた
「この子がこの手帳を手にすることが出来たら」
のことばが胸を突いた。
この仕事は、辛く哀しい。
そう思うと手帳を手渡しに行く自転車のペダルに力が入らなくなった。
その日を境に、手帳を届けることを反対する職員は無くなったが、そんなことはどうでもいい、と言う気持ちがまさった。
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