Once upon a time 1969
両親が働く人々にとって、保育所入所は切実な要求である。
40年以上前は、両親ろうあ者の場合は、児童福祉法ににもづく「保育に欠ける」という条件として両親ろうあ者の保育所入所は困難を極めた。
しかし、保育園で働く保母(当時)さんたちは、積極的に保育所入所の運動を進めてくれた。
また、そのために障害者団体とともに行動してくれたことは忘れてはならないことだろう。
これらの必死の運動で、両親ろうあ者の子どもも保育園に入所出来るようになったことは記憶に留めておかなければならないことだろう。
日給月給と瓦製造業
ろうあ者のMさんは、瓦職製造の会社に勤め奥さんが長男を保育園に連れて行っていた。
その頃から、瓦製造業界は不況で、冬期は仕事もなく収入は極めて不安定だった。
日給月給。
なにか、給料制度に聞こえるが、その内実は働いた日にちだけお金が支払われるという時給制度と同じであった。
この日給月給を手話で直接現すと、日給・月給となり、月給制度に働いた日数分だけおkぁねが支払われると理解され、月給より多くの収入が得られると思うろうあ者は少なくなかった。
そのため、仕事に就く時の「うちは、日給月給です。」という会社の説明に対しては、ていねいできちんとした手話通訳がもとめられた。
両親が聞こえないということもあり遊んでもらえない長男
Mさんには長男に続き、長女も生まれた。
生活はますます苦しくなり、奥さんも働かないとやって行けない状況になった。
長男も近所の子どもたちと、両親が聞こえないということもあり遊んでもらえず、寂しい思いをしてますます無口になっていた。
そのため引っ越しを考えたが、先立つものがない。
そこで、ろうあ者相談員とともに役場の身障担当を訪ねた。
子どもの保育のことを相談するために来るところではない
話はのっけから
「耳が聞こえないぐらいで、保育に欠けるとは考えられない。」
「保育所入所措置はしない。」
「だいたい、ここはMさんや子どもの保育のことを相談するために来るところではない。」
「社会福祉協議会に行って、相談すべきことだ。」
と頭ごなし、威圧的にガミガミ言われた。
残酷なことが書かれている筆談メモ
その時、手話通訳者が同行していなかったために筆談のメモが残っていてあとから読むと、なんとひどい、残酷なことを平気で書くのか、とおどろいた。
しかし、このようなことはどこでも同じようなことが見られた。
民生(福祉)行政は、ガミガミ言うが、なにもしてくれない、というのが「常識」だった。
点在して住んでいるろうあ者の問題は
社会福祉協議会では、担当の人が親切に応対してくれて、奥さんの仕事も一緒になってあちこちと探し回ってくれた。
その結果、役場から保育所入所を考えて見るという返事が来た。
京都府下は、京都市内と違いろうあ者が点在し住んでいる。
そのため協力することも、困った時の相談することも出来ない。
その上、行政が非常に高圧的であった。
そのことを、ひとつひとつ紐解くことが、ろうあ者の喜びにつながった。
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