教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
高野の教育 (その5)
先生 おばあちやんからうつったかな?
生徒 うつっとらん うつっとらん
うつる病気になった人は
入院院したり、家で休んでおらんならん
先生 しんちゃんは、はしかで休んどったし、
みっちゃんは、今おたふくかぜで休んでいるね。
うつる病気になった人は、入院院したり、家で休んでおらんならんので学校へ来たり、遠足 にいっしょにいったりしとってない
耳が聞こえん人や、目が見えん人から、うつることはぜったいないのです。
生徒 ………………
先生 遠足はいろんな人が行きます。
目が見えん人や耳の聞こえん人も来とってかもわからんよ。
出合ったらどうする?
先生 いっしよに遊ぶ?
生徒 (即座に)いやあ(と体を傾けて何かをさける様子をする)
先生 そう………
教師は うつらんと力んでみたが
生徒 ぼくとこのおじいちやん、お仕事かてようしてや。
生徒 目が見えんでも、一生けんめいお仕事したり お勉強したり 遠足したりしてやもんね。
ぼくらもきばって歩いていこうね。
生徒 てるてるぼうず作ろ作ろ作う
ついに絶対にうつらんと力んでみたがこの子たちに。
言葉で教えることは全く無意味なことであった。
これからのいろいろな機会に子どもたち一人一人が、じかに見、はだで触れる体験を重ねる中でなら本当にうつらんことを理解する子どもに育てることができるかも知れない………。
ひとつだけ 同じキャラメルをおやつにしようと考えた先生たち
(感想)
この1年生の子どもたちの記録は、何度読んでも、こころ惹かれ、見せられる。
素直に見て、素直に考えて、素直に発言する。
先生は、「ついに絶対にうつらんと力んでみたが」と反省する。
「あしたの遠足で一、二年は目的地の円隆寺で(京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと)合流します。特別の配慮や事前の指導をしないでいきましょう」ということである転任して間もない新米の私は迷った、と先生は書いている。
別々の登り口から遠足がはじまり 合流点で出合う。
その時、京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちに1年生の子どもたちが、悲しませることをしないだろうか。
京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちは、高野小学校の子どもたちをいやらないだろうか。
先生の頭の中にぐるぐる不安が渦巻いたと言う。
だが 「あしたの遠足で一、二年は目的地の円隆寺で(京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと)合流します。特別の配慮や事前の指導をしないでいきましょう」
という京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の先生と高野小学校の先生の事前の打ち合わせに、納得したようで、納得していなかった。
だから、
先生は、「耳が聞こえん人や、目が見えん人から、うつることはぜったいないのです。」と言ってしまった。
だがそれに対する生徒の答えは、
生徒 ………………
だった。
このことも教師もまた素直に受け入れていく。
これが、共同教育にとって最も大切なことであったことにあとで気づく。
「特別の配慮や事前の指導をしないでいきましょう」の両校の先生の打ち合わせには、一つだけ共通する「おやつ」を子どもたちが持っていくようにしていた。
それは、グリコのキャラメルとしていた。
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