Once upon a time 1969
A鉄工所の争議問題は、Dさんの悩みや迷いはDさんがろうあ者であったために生じたと言うより、Dさんが労働争議の激しい闘いの渦の中で悩み・迷ったということであると「働くろうあ者を守る会」では考えた。
自分で判断できる聞こえの保障を
だれしも、労働争議に巻き込まれると悩み迷うものである。
生きる。
そのためには、だましも、裏切りも渦巻いて行く。
その時に、ろうあ者も主体的に判断できる「聞こえの保障」(ろうあ者のための単なる情報保障ではない。聞きたい、知りたい、理解したい、その上で自分なりの判断が出来るという保障。)が必要だと考えた。
学ぶ必要を感じた ろうあ者も手話通訳者も
労働者の権利や安全、いのちと健康を守ることを
「働くろうあ者を守る会」では、労働組合が聞こえないろうあ者の問題を全面的にとりあげるべきだとか。
Dさんの問題は、労働組合の闘いや労働運動とは別だととか。
そういう意見もあったが、むしろろうあ者も手話通訳者も、もっと労働者の権利や安全、いのちと健康を守ること、などなど労働運動が蓄積してきた経験を謙虚に学ばなければならないと切実に感じた。
あまりにも、労働者の権利やいのちと健康を守ることについて知らなすぎたからである。
働くろうあ者の問題は、労働運動の中で
だから、働くろうあ者の問題は、ろうあ者問題だけでは解決できない、労働運動の中でこそ解決できるのだと考えた。
ろうあ者問題だけを別個に論じ、問題にするのではなく、それぞれぞれ関係する団体や人々と粘りに粘って協力出来る関係をつくる。
その広がりの中でろうあ者問題もひとつひとつ解決される。
ろうあ者側から自分たちだけの理解を強調しても、では、理解を求めている側の人々のことを理解しているのか、と自問すれば必ずしもそうでないことがある。
現在は、露骨にろうあ者のことを偏見の眼で見て話をする人は少なくなったとも言える。
だが、本音はどうだろうか。
口先だけの理解は数え切れないが、最も聞こえないということの基本的問題では理解されていると言えるだろうか。
手話はオールマイティーではない 多くの限界もある
A鉄工所問題を今説明すると、即返ってくるのは
「労働組合の人が手話を覚えてくれれば」「ろうあ者の情報保障を考えてくれればいい」
という返事がしばしば返ってくる。
では、どのような手話通訳をするのか?
具体的にA鉄工所で起きた具体例で手話通訳をしてみてほしい。
と言うとほとんどの人が手話通訳出来ない。
手話通訳出来ない、と言うのも自分のプライドが許さないのだろうか、だだなにもしないでいるだけである。
手話はオールマイティーではない。
多くの限界もあるコミニケーション方法だと理解出来ていない人があまりも多いように思える。
働く者同士だから、通じ合うコミニケーション
思えばA鉄工所問題も労働組合の人たちが手話を覚えてくれたら、とは守る会の全員が思わなかったのはなぜか、と今頃思う。
それは、手話が出来て通じたらいいと言うよりももっと深いところでみんなが考えていたからではないかと思う。
同じ職場で働く人同士には、その人たちだけが通じ合うこころのコミニケーションがある。
オハヨウ という言葉が聞こえなくても手をあげるだけで、夕べみんなと呑んだ心意気が通じる。
働く者同士だから、通じ合うコミニケーションに守る会の全員が気づき、それを大事にしようとしていたのではないか、と思う。
このことは、ろうあ者問題だけではないと思える。
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