(はじめに)
現在N教育大学のT教授の依頼・協力要請(なかば強要?)で、戦後京都の障害児教育の歴史と課題と未来への展望を研究する手伝いをしている。
が、N教育大学のT教授は徹底した研究をする人でいいかげんなことは決して許さない姿勢。
あちこち、行って聞いたり、文献を調べたり、教育をうけた生徒たちの意見や批判を聞いて回っている。
諸外国を評価しすぎて
日本の教育実践の教訓が一刀両断で切り捨てられている
しかし、調べれば調べるほど他の研究者が外国の論文を引用して、日本の教育に機械的にあてはめようとする傾向に非常な危険性を感じるようになってきた。
やたらカタカナを乱発し、外国では、アメリカでは、国際的には、と書かれているが原文を読んでみると都合のいい部分だけ引用していることがあまりにも多いのに驚く。
そればかりか、諸外国を評価しすぎて、諸外国より優れた日本の教育実践が一刀両断で切り捨てている事に大いなる疑問を抱いてきた。
日本の教育や障害児教育は、諸外国よりはるかにおくれてきたのであろうか。
諸外国の文献を読むと、日本が遙か昔に解決してきた教育課題をあれこれ解釈していることに驚きを禁じられないことも多い。
非人道的な教育
乗り越えて来た過程を知って
そこで、現在まで解っている教育実践、とりわけ障害児教育・ろう教育・聴覚障害児教育を中心に書き、教育とはなにか、日本の教育には多くの問題があるけれどそれを凌駕して育ってきた子どもたちの事を断片的だが書いて行きたい。
ここには、今まであきらかにされなかった非人道的な教育も掲載するが、それを断定的に判断しないで、それを乗り越えて来た過程を知っていただきたいと思う。
1973年 京都北部舞鶴市立高野小学校の教師であった四方修吉先生は、京都府立盲学校舞鶴分校・聾学校舞鶴分校との共同実践を次のように書いておられる。
高野の教育 (その1)
数年前、こんな学年があった(分裂攻撃のはげしいとき)。
道で遊べなくなった、山へもいけない 、 つつみも川も、もちろん禁止地区。 広場はない、球を投げても、打っても叱られた、自転車に乗ったら、スピード出すな、遠乗りするな。……
「ええい」と電信棒めがけて石を投げたはずれた。
西瓜に穴があいた。
野荒ししたと、こつぴどく叱られた。
弱い者をいじめるようになった。
女の子を泣かすようになった。
掃除や当番は弱い者がする仕事になった。
家へ帰ってもおとうちゃんもおかあちゃんもおらへん。
うちにおじいちゃんがいる。
うちにはおばあちゃんはいるけど「うるさい」「死んでしまえ」勉強なんかわからへん。
する気にならん
けれど、この学年は、みんなといっしょうに芋をくったり、魚をとったり、郷土の歴史を調べたり、池を作ったり、労働する中で、父母集団といっしょに労働もする中で変っていった。
地域の要求を学習し、ともに要求運動をおこしていく中で、子どもは変革され、立派に成長していった学年でした。
中学校でもよく学び、よく運動し、高校へも全員が入学したと聞いています。
その後、かたちは変ったが、
うずくまって何かはしているが、ぼんやり立っている子に表情がない、感動がない、子どもらしい気力を感じない、生き生きした子どもらしい集団を見ることがない。
(これでよいのだろうかと教師)
学校の勉強がわからん。
どう教えたらよいのだろうか。
この教科書これでよいのだろうか。
親は「遊んでばかりで、少しも勉強しない」というけれど……。
遊ばん、遊びを知らん、自分の発活に工夫がない、集団のよろこびを知らないとちがうだろうか。
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