Once upon a time 1971
1968(昭和43)年、8月10日付の山城ろうあ協会の機関紙に次のような記事が載った。以下概略を掲載する。
又 来よったワ
10年前の資料で説明 あきれました!!この態度!
7月8日、私たち2名は、身障3団体連合協議会のルーズな運営の行政責任を正すため、市役所内の福祉事務所をたずねた。
窓口の女の人が僕たちを見つけて、いやな顔つきでとなりの女の人に
「又 来よった」とか何とかささやき、二人でこちらを見てから、のろのろと対応に出てこられた。
ぶっきらぼうに
「用件は!!」
ああこの態度、これでも公僕か……。
ろうあ者が相談事をもちこめないのも無理ないなあと思いながらも用件を話す。
「昨日の身障3団体役員会ギの時、私達があいまいな会計について追求したところ、毎年社協(注:社会福祉協議会の略称)から出ている助成金が10月頃決まり、実際手に入るのは年末。
それで、会計がうまく出来ず会計係が経費を立て替えたり、どこかで借金をしてやっている。
それに、(注:社協が)予算案を持っていないということが明らかになった。
このようなことについてどう思われるかおたずねしたい。」
「(注:社協の)身障部の方へ早くお金を出してあるが、各団体へ分けるのがおそくなっているのとちがうか。今年は7月末に決まる予定。10月決定というのはありえない。」
「では昨日の話はどうなのか。」
「それは、身障連の方が申請がおそくなれば、年末になるかも分からない。もっと早く申請して各団体に分けるよう各協会(注:障害者団体のこと)からいったらよい。」
「では、昨年はいつ頃申決定し、いつごろ渡されましたか。」
帳ボを調べて
「7月に決まっています。しかし、身障の方からとりにこられなかった」
「じゃあ何故取りに来ないといってほおっておいたのですか。
申請がない、取りに来ないといって待っているのじゃなくて、なぜそれがないのか原因をつかんで、その上で指導するのが、ここの仕事ではないですか。」
「指導は再三しているが、それだけ身障の方が不熱心であるのとちがうか」
「再三指導したとおっしゃいますが、一体どんな指導をされたのですか。又取りに来なかった原因は調べられたのですか」
「早く申請するよう再三指導しているので、身障の方がもっと早く申請してもら分ければ-身障の決算についても、提出するようにいったらなかなか出てこない。やかましく言うとやっと書類を持ってきたが、何も出来ていない。仕方がないから私のほうで全部決算書を作成してやったようなこともある。昨年。」
「じゃその提出された決算書と、作成してやったというのも見せてください」
「ない。出納ボによって決算してやった。だからぜんぜん指導していないのとちがうから、あなた方からもそのように働きかけてほしい」
「今の話は、みんなこっちがサボっているようなものばかりだ。本当に僕たちがサボっているのか。」
山城ろうあ協会の事務局長は、
「しかし、月給1万5千円そこそこで生活させられている上、活動もしなければならない僕たちのことを考えておられるのか。
見えない目。不自由な手足。聞こえない耳で、毎日夜おそくまでやっているのですよ。一日の仕事のつかれの上に。
ここの仕事は何ですか。上司の命令をそのままておちなく、ぬかりなくかたずけていけばよい。
事務的に処理していけばよい。そんなことで、身障者の福祉はよくなりますか。
もちろん、僕たちも僕たちの組織である身障連をよくしていくようにがんばります。
けど、あなたの話をきいていれば、当然役所がやらなければならないことを、僕たちに押しつけようとされている。そんな感じですよ。責任転嫁ですよ。」
「そんなことはありません。こちらはちゃんとやっています。」
「じゃ今まで何をされ、これから何をされるのですか。ひとつひつと説明してください。行政指導のカントクも含めて」
「そんなことばかり、こちらもやれない。だから、あなたたちの方で、そんな役員を選ばないようにしたら。一体役員はどうして選んでいるんですか。」
「何がそんなことばっかりだ。これを(注:障害者福祉)やるのがここの仕事で、それをやってこそ、あなた方は税金で給料をもらえるのだ。
助成金をぬかりなく配分する。汽車の割引き券を出す。それだけが仕事じゃない。
指導、指導おっしゃっている尻から、どうやって役員を選ぶのですか、だと。
そんなことわからなくても、今までよく指導して来られましたネ。我々に対する認識不足もはなはだしいですよ。重大な差別ですヨ。
一体福祉協ギ会というのは、どんな仕事をするところですか。一つきかせてください。」
すると二人の女の人が一枚のプリントを持ってこられた。
「社会福祉協ギ会とは」と印刷されたものであった。
あとでわかったことであるが、これは、約10年前に印刷されたものであったらしい。
10年前の時代の行政を客観情勢の変わりにも無関係に今もつづけているらしい。
所長が病気欠勤とのことで、これ以上話しても口かけ論になると二人で相談して帰ることにした。
山城ろうあ協会の記事が大問題になるが
山城ろうあ協会は、京都市以外の奈良県境までのろうあ協会でつくられていた。
43年前のガリ版で印刷された機関紙。大変な努力であったことがうかがえられる。もう、ほとんど色あせて、ほろぼろになったざら紙の記事を再現してみた。
それにしても、これほどの会話をどのように記録したのであったのか、後日聞く機会があった。
手話通訳なんてとてものぞめないから、一人が話をすれば、話をしない一人が口話を見て記録する。福祉事務所の職員の口話を読み取るのは簡単だった、と言われた。
当時、行政は社会福祉協議会を通じて障害者団体への助成を行っていたが、社会福祉協議会は福祉事務所に置かれ、職員が対応していた。
ところが、口話を読み取って書かれた機関紙の記事が大問題へと発展していくことになる。
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