2011年11月1日火曜日

すべてを同じ尺度で計ることは、教育学の最大の誤解をすすめているのが滋賀大学教育学部窪島務氏の「ニーズ論」


 窪島氏には、子どもたちに対する指導によって子どもたちが何を獲得できるように取り組んでいるのかという目的・目標が見られない。
 文字を知ることで、喜びとなる生き生きとした子どもの姿を、窪島氏は捉えようとしないと考えられるのである。

  雪という字を書いてもらうと、「“ゆき”知ってる。“雨”に“ヨ”やろ」(4年男)として、頑張っても失敗してしまう、一生懸命直そうとして、「ここ『ヨ』やな」と言いながら1本多くなってしまうというふうなエラー、間違いが起きてくるところです。

と言うなら、その子どもたちが「エラー、間違いが起きてくる」のことないメソッド(方法)を研究者としてしめさないかぎり彼のLD研究は、教育実践に生かされないで、彼のようにLDの子どもはこのようなエラー、間違いが起を起こすのだという傍観者的立場の人々を増やし、LDの子どもが「ほったらかし」にされる、またそのように仕向けている、としか考えようがない。

 LD指導がLDをつくるということが英語圏では時々いわれますが、そういうことが起きている可能性がある、ということを理解しておくことは「窪島氏自身の自問自答」ではないか。


LD、ADHD、PDDなどは併存するとしながら
  その併存した子どもたちに言及しない

 さらに彼は、

 最初に発達障害と読み書き障害の関係について見ておきます。
LD(学習障害)は単独で成立するということももちろんあるわけですが、実はADHD、PDDあるいは発達性の協調運動障害などと併存する傾向があります。
 これらは学習障害をあわせもつ可能性が非常に高いといえます。
 その併存の可能性は3割から8割といわれています。
確定的ではないのですが、いずれにしても重なる場合が非常に多いといわれています。
 重なった場合、それぞれの発達障害にとっても、あるいは学習(読み書き)障害にとっても、大きな困難がでてきます。


としながら、「LD(学習障害)は単独で成立するということももちろんあるわけですが、実はADHD、PDDあるいは発達性の協調運動障害などと併存する傾向」に対することは、ふれようともしないのである。
  「重なった場合、それぞれの発達障害にとっても、あるいは学習(読み書き)障害にとっても、大きな困難がでて」くるのに、なぜ、彼はそれを回避して、細分化したある限られた部分について「少しのべ」それをあたかも全体であるかのように述べるのか。


 学校には学校独自の対応の仕方がある、としながら

さらに窪島氏は、

 私たちのところでは、現在30数人の子どもたちに対して1対1で、月数回の指導をしております。
 学校では、このようにはできません。
 学校に対しては、私たちのところと同じやり方でやれるとは考えていません。
 学校には学校独自の対応の仕方があります。
 例えば、視覚的な刺激が混乱を巻き起こしてしまうような子どもたちの場合には、耳で聞いてあげれば十分理解ができます。
 先生の話していることが十分理解ができる子どもの場合には、字は見なくてもよい、書かなくてもよい、ノートをとらなくてもよい、先生の話に耳で集中して理解をすることに集中させる、このことを重視します。
 このような対応をしてもらっている子どもが何人かいます。
 しかし、それだけでは十分ではありませんが、少なくとも子どもがしんどい思いをしなくてすむ、学習理解においてもそれなりの理解がすすむ状況をつくりだす必要があります。


と述べている。

4年後には
学校には学校独自の対応の仕方を否定する「動揺ぶり」

 ところが、4年後には、すでに「少人数学級は生徒・教師を息苦しくさせるか 滋賀大学教育学部窪島務氏への疑問(9)」で述べた「日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)の「LD・読み書き障害の発達的理解・アセスメント及び指導法の探求」では、

  少人数学級はこれまでの日本の学校の教育観と矛盾を呈することになる可能性さえ有している。旧態依然とした関係で子どもに臨むならば,子どもだけでなく教師もともに一層息苦しくなるであろう。少人数学級への懸念として,学級集団と学習集団がことなることを理由にその教育的意味に疑問が呈されることがある。
 6歳の子どもの有する柔軟性は学級集団と学習集団を交代する程度の変化には十分対応可能である。根本的問題は,その際の指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方にある。


「現在30数人の子どもたちに対して1対1で、月数回の指導をしております。学校では、このようにはできません。学校に対しては、私たちのところと同じやり方でやれるとは考えていません。学校には学校独自の対応の仕方があります。」
を否定して、「根本的問題は、その際の指導のあり方や日常の学習指導における子どもとの関係の取り方」と根拠も研究的もしないで断じているのである。

ヴィゴッキーの
「すべてを同じ尺度で計ることは、教育学の最大の誤解である」  を意図的に外す

 彼は、「ヴィゴッキー心理学論集」の
 教育者には二つの課題が立てられる。


 第一に、すべての生徒について、すべての特質の個別的研究をおこなうこと、
 第二に、それぞれの生徒に対するすべての教育方法および社会的環境の影響の個別的適     用をはかることである。


を思考しながら書いていることが充分予測できるが、窪島務氏は、次の部分が理解できないでいる。
 すなわち


 すべてを同じ尺度で計ることは、教育学の最大の誤解である。
 教育学の基本的前提として個別化の要求 ー すなわち、すべての生徒に対し個別的目的

を意識的に正確に定義することである。

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