Once upon a time 1969
最近のこと、手話通訳を永くやってきた仲間が集まって話したことがある。
その中で「今、手話を学ぶ、ということになれば、たぶん学ばないだろうなぁ」ということで意見が一致した。
手を動かす手話が手話なんて
手話検定試験とかが横行する中、ろうあ者の人々が創り上げてきた手話について人間性が省かれてしまって、まるで機械化された手話が手話とされている。
手話のもっている本来の人間同士のコミニケーションが、次第に失われていっているのではないか。
また、聞こえる人間が手話を学び、手話通訳をするときの人間的基礎が「瓦解」されているのではないか。
手を動かすことだけが手話ではないことをもっと多くの人々に知ってもらいたい。
手話を覚えた切っ掛けは
「へー、なるほど」
「そうなんか」
「そんな表現、うーん」
という感動というか、極限まで追い詰められた人間が人間性を取り戻すための表現手段としての手話に、いいようのない人間的ぬくもりに抱かれたことから手話を学びはじめたのではないか、ということになった。
手話を学び、手話通訳をはじめた頃
そこで、手話を学び、手話通訳をはじめた頃の話を掲載することになった。
昔々ではなく、今も今も、として。
そのため、手話を知らない、学んだことも、みたこともないという人にこれからの話を読んでいただきたい。
現在、手話を学んでいる人からすれば、そんな時代もあったのとか。そんなことはない、という強い反発があることも予想しながら連載をはじめたい。
なお文中の用語についてその都度、説明をしてゆきたい。
聾とは…
まず最初に、「聾」について、龍+耳で構成されているが、龍にこもる、たちこめるという意味から形成されてきているが、「こもる」「たちこめる」ことから「ハッキリとではないが」「ぼんやりと聞こえる」という意味をも含んでいて、全く聞こえない、という意味ではないと考えている。
このことについては諸説あるが、聾学校や聾者の理解としては全く聞こえないということではないと理解している。
そのため以降の文のなかで、ろうあ者と書いても必ずしも「全く聞こえない人」「音声言語を全く発せない」という意味で使わない場合がある。
近年は、京都では、ろうあ協会と言わないで、聴覚障害者協会というようになってきているが、それはそれで、難聴者との対立関係を解消する意味で大切なことだと考えている。
このことに対する異論があると思うが、それよりも手話が聞こえる人々に受けとめられず、ごく一部の人々が手話を学び、手話通訳をしていた時代のことを書いて行きたい。
何かしなければという焦りが手話通訳者を襲うが
人間は、新たな体験をしたとき、その印象は強く残るものである。
ましてや知らなかった、いや知らされていなかったことを、知ったときの印象は心を揺さぶるものが強く残る。
手話を覚えはじめた頃、手話通訳として何かやらなければ、でも手話が分っているのか、という気持ちが右往左往して、複雑な気持ちになることがある。
ハイライトクダサイ
あるとき、ろうあ者のAさんが喫茶店に連れて行ってくれて、いつものごとく表現一杯の手話を教えてくれた。
ホッとした気持ちになって帰ろうとしたとき、Aさんはたばこ屋に向かいたばこを買おうとした。慌ててAさんのところに行って手話通訳をしようとすると、Aさんは押しとどめる仕草をしたため佇んだ。
「ハイライトクダサイ」
そのAさんの声を聞いて正直びっくりした。
なんと弱々しい声だろう、なんと悲しげな声だろう、なんと圧迫された声だろう、と思ったが、Aさんは平気でハイライトを受け取るとすたすたと歩いて行った。
店の人にAさんの声が通じたのだ、と思って二度びっくりしたことは今だ忘れられない。
しかし、私はその時、Aさんから重要なことを教えられていたのだが、気がつかなかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿