Once upon a time 1969
故田中昌人先生から指摘された
手話表現の「同じ」の普遍的共通性
「同じ」という手話は、未就学のろうあ者に多くの手話やことば、文字を学んでいく上で重要な手話表現であり、手話の基本中の基本である。
しかも、この手話表現は人間なら誰しも通ことばの獲得の道筋なのである。私は何気なく、この同じという手話表現を使っていたが、故田中昌人先生(当時京都大学教育学部)から人間発達の意見交換したときに重要な指摘をしてもらった。
人間はみな同じ発達の筋道を通って発達する もちろん「ことば」も
詳しく書くと長文になるからやめる。
しかし、「手話の同じ」は、コレとアレ、ソレとコレと「無限に広がる」。
手話に地方性があるからそこ地域で使われている手話は、他の地域では通じないから「統一した」「規格化」した手話が必要だと言っていた人々がいた。
たしかに、「?」となって手話による会話が途絶えることがある。
しかし、お互いに話をしていれば、
「あああ、あなたはこのような手話を使うのか」
「私はこのような手話を使う」。
あなたの手話と私の手話は「同じ」。とお互いの理解が広がると相手の手話を採り入れて話をしたり、この手話のほうがぴったり来るとなるとお互いが一つの手話で話をするようになる。
そういう場面を、あらゆる機会に見てきた。
だから、手話の表し方が違っても、お互いが話をしたり、交流すると「通じ合う」のである。
このことは手話でないけれど、「気持ちが通じ合う」と言う点では、「同じ」ではないだろうか。
「繰り返し」粘り強く繰り返すと
無限の表現を獲得した未就学のろうあ者
私たちはこのことに気がついて、手話もことばも文字も獲得していない未就学のろうあ者に次のような取り組みをした。
家にある釜を指さして「手話で釜」を表す。
未就学のろうあ者に「釜」の手話表現をしてもらう。
出来たら、お互いに拍手。にこにこ笑顔が飛び出す。
ソレを繰り返す。
次に「釜」をガス台の上に置く。
火をつける。手話で、「燃える」を表す。
未就学のろうあ者に「燃える」の手話表現をしてもらう。
出来たら、お互いに拍手。にこにこ笑顔が飛び出す
コレが出来たら、釜にといだ米と水を入れてガスの上に置いて、火をつける。
「釜」+「釜に入れて」+火をつける=「炊く」
米を指さし、「米」の手話を表す。「炊く」
炊けて、茶碗に盛る。(コレは動作で)
そして、「食べる」の手話をして、同じようにしてもらう。
焼き魚があれば、ソレを「食べる」。
同じ」の手話が「そうそう、その通り」、「そうだ」となると
手話表現と同じものが次第に多くなってくると手話で「同じ」とするとみんな大喜び。
この時点で、「同じ」の手話は「そうそう、その通り」、「そうだ」、と言う意味を持ってくるのである。
こうなると、「手話表現」=「ことば」は、無限に広がる。
故田中昌人先生はそのことへのアプローチと意味を教えてくれた。
F県に言ったときに昭和初期に生まれたろうあ者は、「私が生まれたのは(南座と同じ手話)6年で~」と話をしはじめて聞いてみると「照る」=昭の意味で手話が使われていることが解った。
漢字を巧みに省略して採り入れる手話表現だが、写真の「南座」の表現は、京では「照」「電気」という意味などの多様な表現がされていた。
ただし、「照」位置はおでこではない。南座の表現の場合は、電柱が立てられその先から照らされてたことからこの表現が普及したが、歴史的にもろうあ者が初めて見た電気の輝きの表現だが、今はほとんど知られていない。
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