Once upon a time 1969
純に生きる。
聾学校中学部卒のE君がバイクにはねられて交通事故に遭った。
入院、治療と事態は進んだけれど、加害者からの保障は皆無であった。
そのためE君のお母さんは困り果た。医療費が過大な負担になっていたからである。
そこでこの問題の解決のためE君の家を訪れた。
雨風を防ぐだけの家をすり抜けてたどり着く
E君の家は、モルタルづくりの家が重なるように造られた家々の隙間を横になって縫うようにすすんでいかないとたどり着けない場所にあった。
密集した家、というよりは雨風を防ぐために建築資材の廃材でつなぎ合わせたような家々が、上へ上へと積まれている。その一階部分にE君の4畳半ばかりの部屋があった。
出迎えてくれたお母さんは、非常に喜んでともかく「おおきに」「おおきに」を繰り返した。E君はまだ入院していた。
事故の補償は福祉事務所は関知しない、と言うが
E君の家庭は非常に複雑で、Eさん宅を揶揄する人々は少なくなかった。
E君には父親もいなし、ろう者の兄とお母さんの3人が住む狭い部屋。
お母さんは、「日雇い労働者」(当時)で、仕事もほとんどなかった。
そのため生活保護を受けていたが、福祉事務所は、「事故の補償は事故保険が適用されるので福祉事務所は関知しない」という態度がとられていたためお母さんはどうしたらいいのか困り果てていた。
E君の加害者は、バイクは無保険。自賠責の保険が有効期間が過ぎても保険料を支払っていなかった。
お母さんの「ええ、あそこの」「いつって」の話から解ったこと
E君の貧困な家庭に「莫大な入院の治療費」がかかってきた。
そこでお母さんとどのようにしてこのことを解決するのかという事を話し合ったのだが、話のとっかかりから暗礁に乗り上げた。
E君の事故の様子や問題の解決のために1,いつ。2,どこで。3,どんな事故がおきたのか。4,加害者はどんなことを言っていたのか。5,どんな約束をしたのか。
を聞き出そうとするが、お母さんは、「ええ、あそこの」「いつって」を繰り替えした。
「ええっ……」と返事するばかりのお母さんによくよく聞いてみると学校にはまったく行ってないし、読み書きはまったく出来ないと言うことが解った。
学校に行きたかったけれど行かせてもらえないほどの貧困生活。
だれの子ともうまく言えないお母さんは、せめて二人の聞こえない息子をろう学校に入れてやりたいと必死になって生きてきた。
でも、カレンダーも読めない。いつ、どこでと聞いても答えようがないそんな戸惑いが全身から発信されていた。
字が読めない、書けないので…とすまなそうに
お母さんは、「字が読めない、書けないので……」とすまなそうに言った。
お母さんが小学校にすら行けなかったのは、お母さんの責任ではないですよ、と言ってもお母さんは謝るばかり。
謝るばかりの人生を過ごしてこられたことが、ありありと解った。
そのため直接、加害者と会って話をするしかなかった。
加害者は何とか補償するのではないか、と思ったが
ろう学校の先生も一緒に行くという連絡を受け二人で加害者の家を訪ねることになった。
加害者のアパートを訪ねると、奥さんが出てきて夜遅くにならないと主人は帰らないのでもう一度出直して欲しい、とていねいに言う。
そこで何度も加害者の家を訪ねたけれど、また、奥さんが出てきて夜遅くにならないと主人は帰らないのでもう一度出直して欲しい、と言う。
奥さんの話ぶりから、加害者は夜おそくまで働いていて、E君の事故補償を少しでもしてくれるのではないか、とろう学校の先生と淡い期待を持った。
そのため、深夜に加害者の家を訪ねた。
「お前らどうにでもしてやる。」と凄みと脅迫
加害者にやっと会えたが、加害者は最初から暴力的威圧を繰り返し、ていねいに答えていた奥さんは知らんぷり。
さらに加害者は暴力団の組員である、「お前らどうにでもしてやる。」と凄みをきかせた。 「そででも……」と言うと逆上して「ドスのような物」をちらつかせてきた。
ろう学校の先生は、すくんでしまって「帰ろう。お話わかりました。」と言いだす。
「帰る言ってんのやら帰れ!!」
と加害者に言われてろう学校の先生は、加害者の家から出てしまった。
私は追いかけて「ここで、引っ込んだどうしようもなくなる。」「もう一度、行こう」と言ったが、返事もなかった。
何もかもが不利な状況に追いやられていた
Eさんたちを救済できる道
示談は当事者同士の話し合い、とされているがEさんにとっては何もかもが不利な状況に追いやられていた。
結局、私は強制保険に加入していなかったということで保険会社の自賠責を処理する事務所を訪ねたりした。しかしその証明、手続きは複雑でEさん家族に援助してもとても処理できる内容ではなかった。せめて、お母さんが「読み書き」出来たら、補償の可能性は広がるが、と思うのはお母さんにより酷なことを言うだけに過ぎなかった。
ジレンマ。あらゆる方法を考えなければならなかった。
福祉事務所の断る論理を打ち破るための言い争い
結局、Eさんの家族の生活保障のためには福祉事務所の援助なしに解決しないことが判明し、私とEさんの母さんと福祉事務所を訪ねた。
担当ケースワーカーは威圧的でけんもほろろにEさんに言う。
「事故の補償は事故保険が適用されるので福祉事務所は関知しない」の繰り返し。
話の様子から、担当ケースワーカーは加害者が暴力団員であることを知っていたことが解った。
私は怒りが先に立って、そのワーカーと「事故の補償は事故保険が適用されるので福祉事務所は関知しない」と言うが「事故の補償で事故保険が適用されない。」「だからる福祉事務所は関係するということになるのではないか」と激しい言い争いになった。
どれくらいの時間が経ったか忘れたが、その言い争いの間Eさんのお母さんは2,3分おきにトイレに行っていた。
身体の調子が悪いのかなぁ、と思っていたが、引くに引けなかった。
生きるための最低限のお金をきりさいての「お礼」
福祉事務所を出たとき、おかあさんは、「ええまあどうしたらいいのか……」と繰り返した。
お上に楯突く、事なんてとうてい考えられなかったらしかった。
結局、福祉事務所の言い分が通せない、と判断。
Eさんの「当座の生活と治療費」は福祉事務所から支払われることになった。
ところが、その後、お母さんからぜひ会いたいという連絡が来た。
お母さんと会うと、もじもじして何も言わない。時間ばかりが過ぎていったが、意を決したのか、お母さんは私に数万のお金を手渡たそうとしてきた。
お礼です、とお母さんは言う。
が、それは福祉事務所から出た生きる上で欠かすことの出来ない重要なお金の一部だった。それをさいてまで母さんはお礼をする。
お母さんの純で素朴な気持ちの表現が伝わったが、それを断るのに苦労したのは言うまでもない。
ろうあ者もその家族も弱い立場に置かれれば置かれるほど、生きにくくされている社会の仕組みを知らされると同時に、それでも純に生きる人がいる、ことも知らされた。
私は手話通訳者以前に人間として、これらの人々が裏切られることのないようにしなければならないと思った。
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