2011年11月25日金曜日

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本


Once upon a time 1969

 思いっきり手を振って、私たちを見送ってくれたDさん。
 「いらん、いらん、」「今がいい」と言っていたIさんたちは、その後ろうあ協会の運動で大きな力を発揮してくれる。

行政交渉に「同じ」・「同じ」=「そうや」「そうや」
       と手話での「相づち」

 京都府、京都市などとの要求を掲げての話し合いには、必ず参加し、ろうあ協会の要求と発言に「同じ」・「同じ」=「そうや」「そうや」と手話での「相づち」を打ち、行政の回答に「おかしい」「ヘン」の手話を繰り返して行く。
 この力が、今日のろうあ者の人々の悩みや困難の理解をひろげ、手話や手話通訳を社会的に認めさせていくようになったと確信している。
 一部の人や一握りの集団が、今日の社会的理解を産みだしたのではない、と私は思い続けている。

 そのことについてはまたの機会に紹介したい。

 外出を禁じられているC子さんと結婚したいとTさん

 京都の2月は底冷えがひどい。
 鉄鍋の底を凍らすジンジンした寒さ、比叡おろしの風はこころの底まで冷えさせるような気持ちがする。
 そのような2月。


 私は、ろうあ協会の役員とろうあ者3人である県のK市を訪れた。
 同行のTさんは、ろうあ者のC子さんと結婚の約束をしていた。しかし、C子さんが外出はもちろん、京都に来ることについて固く禁じられていたからだ。


 そのため、この際C子さんの家族と率直な話をしようと言うことになった。その手話通訳として私が行くことになった。

父親が死ぬときの遺言で「結婚させるな」と言ったから

  私たちを待ち受けていたのは、C子さんの母親、姉、親類であった。
 母親、姉、親類は、口をそろえて一斉に、Tさんとの結婚はすでに断ったはずだ、Tさんの顔も見たくない、すぐ帰れ、と言い張った。
 そこで3人はなぜ結婚に反対するのか、を強く問うた。
 するとC子さんの父親が死ぬときの遺言で「結婚させるな」と言ったからだという。
 それなら「C子さんは、一生結婚させないのか?」と聞くと「そうではない」と答える。


C子さんは「無能力」で  放蕩三昧

 さらに「C子は、経済力が全くなく、何もできない。」とC子さんのは「無能力」であると決めつけ、それを強く、強く強調した。
 そのうえ、C子さんは放蕩三昧で家族も困っている、とまで言い出す始末であった。
  このように書くと、すらすら言われたかのように思われるか知れないが、母親、姉、親類が一方的にまくし立てる。

 語調も強い。表情には怒りだけで、私たちを人間として見てくれているとはとうてい思えないような状況だった。

手話通訳するのが非常に辛い時期から新しく回る時代

 最近、N大学教育学部の4回生の学生さんと話したときに、「手話ってかっこいい、と思ったのは小学生から」と聞いてびっくりしてしまったし、うれしくもあった。
 手話通訳の私もろうあ者も「ひとくくりにして罵声を浴びせ」かけられる。
「かっこいい」って思ったこともなかったし、ろうあ者と一緒に惨めな思いをするばかりだったからだ。
 あまりのひどい言い方に、つい、つい、手話通訳できなくなってしまう。

 ろうあ者から「なに、なに」「何を言っているの?」と聞かれて手話通訳するのが非常に辛かった。
 C子さんの母親、姉、親類から浴びせかけられたときもそうだった。
 時代は変わる。

 時代は新しく回ると思って、N大学教育学部の4回生の学生さんの話を聞いてうれしかった。カッコイイ、か、と。

Tさんと結婚したい、が、親、親類の反対を
     押し切って結婚することは出来ない

 私たちは、軟禁状況にされているというC子さんの家を辞した。
 前も調べて置いた情報をもとにC子さんが働くス-パーを訪れた。
 C子さんの仕事が終わるのを待って、C子さんと話をした。

 が、C子さんは親、親類の反対を押し切って結婚すると他の人々に迷惑がかかると動揺し続けた。
  Tさんは、これ以上優しく表現しようがないという手話で話しかけていたが、長い時間が経ってもC子さんの本心はTさんと結婚したい、ということだが、親、親類の反対を押し切って結婚することは出来ない、と言い続けた。

 この結婚問題は、結局うまく行かず当事者に苦々しい思いだけが残った。

断種手術と本人の意志による結婚

 結婚は二人の意思が尊重されることがきわめて少なかった。
 ろうあ者同士の結婚には、家族、親類、社会の計り知れない「全面否定的状況」があった。
 また、ろうあ者自身の一部には結婚は自分たちの意志で決定できるのだ、ということすら知らさせていなかった。
 ましてやこの時期以前からろうあ者が結婚して子供を産むと「また聞こえない子が産まれる」として、すでに書いてきたが、本人の知らない幼児期に断種手術が行われていることが多々見受けられた。


雪の積もった中でも梅の花が咲くように

 結婚したのに子供が産まれない、と悩むろうあ者が医者に行くと「断種手術」が行われていたことが分かり多くの悲劇を生んでいた。
 今、このことを書いても現在信じる人はきわめて少ないと思う。


 が、歴史的事実としても書き留めておかなければならないことだろう。
 ろうあ者が人として平等な権利が保障されていない歪んだ社会状況は、戦前の「悪しき伝統」をひきつづき継いでいて、戦後の憲法は、聴覚障害者の生活に生かされていなかった。

 そのためろうあ者は、多くの仲間と集い、憲法学習を重ねたがそれはまさに「人間の復権の道」でもあった。

 人間としての平等な権利保障が、ろうあ者に一貫して貫かれていたのか、という検討をろうあ者自身が考え、行動を起こしたその切っ掛けのひとつ。
 それが、Tさんの結婚をC子さんの家族と親類に「認めて」もらうという行動だった。


 TさんのC子さんへの想いは結局実を結ばなかったが、この時期を境に雪の積もった中でも梅の花が咲くようにろうあ者の結婚は、次々と花咲いていくようになって行った。




 

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