Once upon a time 1969
「ハイライトクダサイ」と言ったAさんの声を聞いて正直びっくりした自分なのに、Aさんと手話で話をしていくことが増えるにつれ、Aさんの声が気にならなくなり、どこに居ても平気になってしまった。
「慣れによる聞き取り」と「慣れでない聞き取り」
このことについて「Aさんの声になれてしまったからだ」と思われる人も多い。
たしかにコミニケーションが重なるとはじめは分からなかったり、聞き取れなかった「ことば」が聞き慣れたのか、聞き取れるようになることも多い。
けれど、Aさんとの手話による会話で、より深くAさんの気持ちがわかったとき、Aさんの声に驚きはしなっていったように思われる。
Aさんの中に人間として生きてきた素晴らしい姿を知ったときに、「ハイライトクダサイ」が「ハイライトください」と聞こえるようになったと思えるのだ。
同時に、Aさんの気持ちを尊重することも知った。
Aさんも
「自分で出来ることは自分でするから」
ということで、手話通訳を頼まなかったことも解ってきた。
手話通訳は
何から何まで全てろうあ者のためにすることではなく
手話通訳は、何から何まで全てろうあ者のためにするものではなく、ろうあ者の要求と必要に応じてすべきものであり、それを押しのけてまでするとろうあ者の気持ちを踏みにじることになる、とAさんは私に知らせたようであった。
このことは、私の手話通訳に貫かれていくようになるが、「このことの応用」となると非常に微妙な問題も生じた。
「待ってくれ!!」「速すぎる!」「止まって!!」と叫んでも
「聞こえなかったら困るだろう」とただ頭の中で考えると、実際に経験することとの間で差が生じ、それをどう理解するか、で手話通訳者の方向が決まるようにも思う。
私が手話通訳で経験した最初の思い出では、京都ろうあセンターに電話を設置することであった。
職員のOさんと一緒にセンターの玄関から自転車に乗り、電電公社(当時)に向かった。
Oさんは、電電公社の場所を知っているので先に走り、私があとについて行くことになった。
Oさんは当時流行のサイクリング車。スピードをどんどんあげた。
私は、中古自転車。距離がどんどん開いて行く。
坂道、登り道を必死になって自転車をこいだ。
それでも追いつけず、思わず
「Oさん待ってくれ!!」「速すぎる!」「止まって!!」
と叫んでしまった。
待ってくれ、を伝えるのは、ただひとつの方法だけ
叫んでしまってから、叫んでもOさんは聞こえないのだ、ということを思い出した。
困った見失う、どうしよう、電電公社に行けそうにない、電話を引くややこしい話をしなければならないのに、と思っても、Oさんに「Oさん待ってくれ!!」「速すぎる!」「止まって!!」と叫んだことを「伝えるのはただひとつの方法」のみ。
Oさんに追いつくしかなかった。
汗をだらだら流しペダルを必死になってこいでやっとOさんに追いついた、と思ったら電電公社の前だった。
鳴らない黒電話
息つく間もなく必死になって電話を引くための手続き。電電公社の人が言っていることはややこしくて手話通訳するのが難しく、ノートに書いたり、指さしたりしたが、Oさんは分かった分かったとうなずく。
何かヘンな、理解しがたい気持ちだった。
電話番号が分かってろうあ協会の人に知らせた。
電話工事の日。
電話配線、黒電話。通話確認。電電公社の人は工事終了と言って帰った。
「電話がかかってくるだろうから、通訳して」とOさんに言われて待ったけれど、待てど暮らせど、電話のベルが鳴ることはなかった。
1日、2日が経っても同じだった。
Oさんも私も「おかしなあっ」と言っていたが、数日後になってその原因が解った。
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