Once upon a time 1969
自分たちが織ったものが永遠に自分たちのところに来ることはない、とは悲しいぁ、と言ったが、Iさん夫婦は手を振って「いらん、いらん」「今がいい」と言った意味を知ったのは、それから十年ほど後のことだった。
国際障害者年に向けて戦前・戦後を通じて生きてきた
ろうあ者の体験を映像と文章で記録
私は、国際障害者年に向けて戦前・戦後を通じて生きてきたろうあ者のこと。戦争中の体験を映像にも文章にも記録することこそが、国際障害者年に取り組むことだと考えた。
そのため聴覚言語障害者センターのビデオ担当の協力とひとりひとりのろうあ者の協力を得て、インタビューと記録をはじめた。
多くのろうあ者が快く引き受けてくれてた。
ビデオ撮影は順調に進んだ。また近畿テレビ(当時)の人々が撮影後の営業用のビデオテープを寄付してくれた。何人かのろうあ者の撮影を終えて、その普及版として「平和を求めて生きる」という一本のビデオを作成した。そのビデオがディレクターの眼にとまり、テレビ放映された。
「いいよ、いいよ、私の話でもよかったら」
と人生・戦争体験が映像として記録されたが
すべてのろうあ者の証言を記録する。
大変な仕事であったが、リハーサルなしに撮影する手法をとって、ろうあ者から出来るだけ生きた証言を得ようとした。
このことも、ろうあ者から「いいよ、いいよ、私の話でもよかったら」と快諾を得た。
信頼関係の大切さと共に、本当に言いたかったことが記録されることの喜びがろうあ者から言われた。
私が手話で聞き、ろうあ者が手話で答えるという方式でカメラはろうあ者に向けられていたが、ろうあ者の方々は、カメラを意識せずに次から次へと語ってくれた。
その頃私は、病魔に襲われていることに気づいていなかった。
そして、Iさんのの証言をしてもらうことになった。
大富豪の家で生まれたIさんはろう学校に入学できた
Iさんは、夫婦で一緒に話したいと言う。
「どうぞどうぞという」ことになり、二人そろって撮影が始まった。
Iさんは、京都北部の山間の加悦町の生まれ。
加悦町でも非常に裕福な家庭に生まれたと言い、家族の写真を見せてくれた。
大家族の後ろには、大きな表彰状が次々と欄間の上に掲げてあった。
ひときわ大きい表彰状は、「天皇陛下からいただいたものだ」とIさんは指さした。
よく聞くと丹後縮緬(たんごちりめん)を一手に引き受ける商家で大金持ちだったとのこと。
いろいろ見せてくれる子どもの頃の写真は豪商であることがハッキリ解った。
だから、自分は耳が聞こえないことが解って、親はあらゆる病院に連れて行ってくれたこと。結局よくならないので、汽車に乗り遠くの京都まで行き、ろう学校に入学して、寄宿舎生活をして、休みの度に加悦町の実家に帰ったことをスラスラと話してくれたのだが。
ともかく、ただひたすらキチンと座っていた小学校
奥さんは、海に面した岩滝町の生まれ。
家が貧しく、その日暮らしが精一杯で、耳が悪くても医者にも行けず、小さいときから仕事をしていた。
小学校は地元。
ともかく、ただひたすらキチンと座っていたが、先生が何を言っているのかさっぱり解らなまま、しんぼう、がまんの日々だったという。
そして、しんぼうし切れずに学校をやめさせてもらい、幼い頃からしていた漁業の仕事を続けていた。
恥ずかしがって顔を真っ赤にして俯いてしまったIさん
そこで、私は、「そんな二人がどうして知り合ったの?」と聞いてみた。
すると、Iさんが恥ずかしがって顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「え、どうしたの」といつも冗談を言うのに神妙になるIさんにもう一度聞いてみたが、ますますIさんは照れて、照れて、何も言わない。
やっと言い出したのが、宮津で奥さんとすれ違ったとき、
「あっ、この人は聞こえない人だ」
と思って、すぐ振り向いて追いかけたけれど、姿を見失った。と、その時のことを想い出して、「悲愴な顔」をした。
それから、Iさんは信じられない日々を過ごすことになるのだが、この話も顔を真っ赤にして、少し少し(京では、ボチボチの手話表現。鉛筆を人差し指に見立てて、鉛筆を削る手の動きをする。)話し始めた。
0 件のコメント:
コメントを投稿