Once upon a time 1969
ある日。
50歳頃の年頃の聴覚障害者Dさんが相談員のOさんを訪ねてきた。
「家の立ち退き」を迫られてどうしたらいいのか困っている、という話だった。
そこでOさんと共に四条の繁華街を少し下ったDさんの家を訪ねた。
現在、京都には高層ビルが立ち並んでいるが、当時はまだまだ空き地もあったし和風の家々も多く残っていた。
その和風の家々でもひときわ家が密集し、すき間だらけで・壁土が崩れかけた古ぼけ今にも崩れ落ちるような、これ以上傾きようのない「蔵」がDさんの住まいであった。
京傘職人として生きてきた節くれ立った手がすべてを語る
この住まいを家主は他の人に貸すから、と言ってDさんに立ち退きをせまっていた。
Dさんは妻と子供の4人暮らし。
つつましやかにひっそりと生活をしてきた。
住まいそのものにもその生活ぶりが推し量れた。
Dさんと奥さんは、私たちの訪問を大歓迎してくれた。
Dさんは、ろう学校を卒業して京傘職人として生きてきた節くれ立った手を動かしながら、切々と訴えてきた。
その手を見るだけでもDさんが、どれだけ必死になって働き、どれだけ傘を作り続けてきたかが解った。
また手話表現から、Dさんたちのだだひたすら正直に生きてきた人生が見えた。
ろう学校を卒業して
傘職人になった時からほとんど上がらない給料
休みも、旅行も、友人との語らいも十分出来ないままDさんは働いてきたという。
聞けばDさんの給料は、当時の大学卒業の人の初任給にもとどいてはいなかった。
ろう学校を卒業して三十数年以上。
ひたすら傘を作り、修理してきた技術者の給料が……あまりにも低すぎた。
Dさんの給料は、ろう学校を卒業して、傘職人になった時からほとんど上がっていなかった。
Dさんたちにとって住居を奪われることは、即、生きて行くことが不可能とされるほど切実な状態だった。
転居するにしても金がまったくない。
そこで、今までDさんは何度も「このまま住まわせてもらえないか」と家主に話しかけても相手にもされなかった。
こうなれば、転居するためにDさんの給料を上げてもらうしかない、ということになり、Dさんも三十数年以上ほとんど変わらない給料を少しでも上げてほしい、という気持ちを持ち続けていたから、喜んで、大きな店を構える傘商店の親方を訪ねた。
お前のようなろうあは、だれが雇うと言うのや
親方に「家を追い出されるので、給料を少しでも上げてもらえないか」という話を切り出すと、話どころではなくなってしまった。
「誰のおかげで、おまえのような奴を雇ってやったと思うのだ。」
「なに、給料だと、出してもらっているだけでもありがたいと思え。」
「お前のようなろうあは、だれが雇うと言うのや」
「頼まれたから、使ってやっているのにその恩もわからんのか。」
と親方は怒り、怒鳴りちらし、手当たり次第に物をを投げてきた。
もちろん、Dさんをめがけて投げるが、Oさんにも私にも傘の柄や道具が飛んできた。
もう話し合いどころではなかった。
それでも、Dさんの手話通訳をしたが、すると、私へ怒鳴り、ものを投げてきた。
「お前がなんで言うんや」と。「黙っとれ」。
しかし、私はDさんのことを思ってひたすら耐え続けた。
Dさんの手話は次第に弱々しくなり、下を俯いたままになり、手話通訳を見るどころではなくなっていった。
Dさんの誠実な顔だけが私の胸に残り
怒鳴り返せないDさんの弱い立場が胸を裂いた
Dさんの誠実な顔だけが私の胸に残り、怒鳴り返せないDさんの弱い立場が胸を鋭利な刃物で突かれたような気持ちだったが、Dさんはそれ以上だっただろう。
ろう学校を出て、ひたすら「はい、はい」と礼儀を尽くし続けてきたDさん。
それが、ろうあ者の生きる道だ、とも教えられていたことも後で知った。
徒弟関係と言うけれど、そこには、血も涙も流れていなかった。
結局Dさんは、傘職人の仕事も奪われ、それまで以上の苦しい生活に進むことになったが、Dさんの顔は晴々としていた。
「やめんならんようになって、ゴメンな」
とOさんと私。
でも、Dさんは晴れ晴れとした顔で、
「ありがとう。ありがとう。」
「ありがとう。ありがとう。」
を繰り返してばかり。
「私の言いたかったことが初めて言ってもらって、こんなうれしいことはない。」
と永年堪え忍んできた、自分の言いたいことが言えた事への満足感があったからだったのだろうが、ともかく夫婦でうれしさ一杯の顔で力いっぱいの手を振って見送られたときは、やるせない気持ちが溢れてどうしようもなかった。
Oさんと安酒をあおったが、悔し涙しか出なかった。
「手に職」を持つことが大切とされても一瞬で壊される
ろうあ者には「手に職」を持つことが大切、とずいぶん古くから言われ、そのため職業教育は、ろう学校教育で重視されてきた。
どんなに勉強しても、手に職がなかったら生活できないから、雇ってもらえないから、とさまざまな職業教育がろう教育の場で展開されてきた。
でもその教育を受けたろうあ者たちの、10年後、20年後、30年後はどうなって行くのかを考えられていたのだろうか。
多感な時期だった私は、あきらめることのない深い疑問を持ち続けた。
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