Once upon a time 1969
あるろうあ協会の会議で、HAさんが、
「ろうあ協会の会計をやらしてほしい。」
「ろうあ協会の機関紙読めないけれど、説明してほしい。説明してもらったら、ろうあ協会の機関紙を配布する仕事をさせてほしい。」
「おねがい。」「たのむ」
と言いだした。
「読み書き」出来ない
手話も十分出来ない、口話も十分出来ない、のに
その真剣な眼差しに回り人は驚いた。
会計の仕事と言っても大変だ。
ろうあ協会の会員の家一軒一軒訪ねて月々の会費をもらわなければならない。
機関紙もいつ出来るか分からない。
書く人、ガリ版でガリキリをする人、謄写版で印刷する場所。費用の問題。などなどある。
しかし、出来たらすぐみんなに配らなければならないときもある。
広い広い地域。HAさんがいくらがんばっても一日二日で配りきれない。
その上、一番の問題はHAさんが「読み書き」出来ないし、手話も十分出来ないし、口話も十分出来ないという状況だった。
ろうあ者成人講座で育ってきたとしても、会員の名前を読んで記入していくことはとても難しいことだった。
みんなの名前から字を覚えたい
たじろぐろうあ協会の会員を心配してろうあ協会の会長がHAさんさんにあえて質問した。
「HAさん、この仕事は大変だし、引き受けてくれるのはうれしいけれど読んだり、書いたりせんならんのや。無理なんと違う」
すると、HAさんは、
「自分は、読んだり、書いたり出来ないから、みんなの名前を覚えることから字を覚えたいのや。」
「みんなの家に行って、話して手話ももっとうまく出来るようになりたい。」
「だから、会計と機関紙配りをさせてほしい。」
「たのむ、おねがいや。字が読めて、字が書けるようになりたいのや。」
「みんなの名前からはじめたい。たのむやらしてほしい。」
と必死に言う。
HAさんの気持ちは痛いほど分かるが、みんなの姓名から覚えることのほうが難しい、と言う気持ちがあったが、一方、仲間の姓名から字を覚えたいというHAさんの気持ちもうれしかった。
じゃ、やってみて
「じゃ、やってみて。ありがとう。」
ろうあ協会の会長が言うとHAさんは、満面の笑みを浮かべた。
見よう見まね、と言っていいのかどうか迷うがあえて書くと、HAさんの写しとった会員の名前は形だけで何となく自分の名前が書かれていると分かる程度だったが、だれ一人HAさんに文句も言うろうあ者は居なかった。
「ありがとう。」
その一言から、HAさんの会費集めと機関紙配布がはじまった。
こんな土砂降りの雨の日には絶対来ないと思っていたのに
彼は、雨が降ろうが、雪が降ろうが会費集めと機関紙配布を続けた。
台風が来て、こんな土砂降りの雨の中では絶対機関紙を配らないだろうと思って、ひょっとして、と思ってポストをのぞいてみると、機関紙が入っていたなどHAさんの決意に対してみんなの評価は高まる一方だった。
手話表現も豊かになり、HAさんと親しくなる人の輪が広がり、ついに結婚することになった。
ささやかな祝いの席に大勢のろうあ者が集まってHAさんの「この世の春」がはじまった。
友人知人が、しばしばHAさん宅を訪れて、日々楽しい団らんがHAさん宅で広がった。でも、彼は約束通り、一時も会費集めと機関紙配布をおこたることがなかった。
家の金も何もかもがスッカラカンになったHAさん
ところがある日。
HAさんの奥さんが、他の男と駆け落ちしてしまった。
家の金もすべて持ち出されて、HAさんはスッカラカンになってしまった。
そればかりか、奥さんの居ない部屋でさびしく過ごすことも多くなった。
ろうあ協会の会員の中では、「きのどくになぁ」「HAさんに対してひどいことする。」と言う同情の声が日増しに高まり、「今回からは、HAさんが会費集めと機関紙配布に来なくなっても絶対みんな何も言ったらダメや」という打ち合わせが行われた。
みんながみんな、HAさんはしばらく来ないだろうと思い込んでいた。
しかし、HAさんはいつもの通りきっちりやってきて会費を集める、機関紙を配布する仕事を続けた。
しばらく、みんなのほうが、おどおどしたがHAさんの態度は揺るぐことはなかった。
それからしばらくして、ふっ、と会員が気づくと、いつしか、「会員の名前は形だけで何となく自分の名前が書かれていると分かる程度だった文字」が、きちんと書かれ、いろいろ誤字はあるもののポストに入れられたHAさんのメモは意味が通じるようになっていた。
「HAさん、かけるようになったんや」
「よくわかったで」
「ありがとう」
とろうあ協会の会員のみんなが言うようになった。
その時のHAさんの満面の笑みは、今まで最高のものだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿