Once upon a time 1969
徴兵検査後のONさんに原爆が襲いかかる
8月9日長崎。
ONさん26歳。
いつもと同じ時間、いつもと同じ仕事。
だがその日は、長崎のすべての人々の運命を根底からひっくり返した日であった。
仕事をしているONさんに青・黄・緑、さまざまな色が飛び込んできた。
驚いたONさんは、仲間の手まねきで仕事場から外に出る。
その瞬間。
空前の爆発。
爆風で飛び散った家々のガラス。
身につけたものが強奪された爆風。
山中での一夜。
翌10日。
ONさんは県庁の倉庫に豆があると聞き拾いに行く。豆はまだ熱く、食べられそうだったと証言する。が、ONさんたちには、それがどれだけの放射能を浴びていたのか知る由もなかった。
翌11日。
母とともに知り合いの熊本に避難。その時の長崎駅の光景。
長崎市内から脱出しようとする人々の群れ。
焼けただれた子供の顔。
ともかく長崎を後にしてONさんは熊本で過ごし、食料を詰め込んで再び長崎に戻ってくる。
8月14日。
ONさんの胸に消えない、長崎市内で何が生じたのか、をという疑問を解こうとする。
自分の目で確かめたい。と爆心地に向かう。また、ろう学校の様子を心配する。
自分の目で確かめたい NGASAKIで何があったのか
長崎駅から、がれきの山々を通りながら、友達やろう学校の先生の家を探す。
だがあるべきところに何もない。
大学病院、浦上天主堂、ろう学校、屋根は吹き飛び去っていた。
死んだ人、動物の死骸。
焼けただれた人。
髪の毛が抜け落ちた人。
友人から聞いた首のない子供。
それまで生きていた街の様子を全くを残さない情景の中で、ONさんの心の底から生まれてきたのは、鼈甲細工の仕事をしていたから生き残れたのだという兄への感謝であったと証言する。
異臭が漂う中、ONさんは、ひたすら兄への感謝を心に込めたと言う。
聞こえない子供が生まれるという反対を押し切っての結婚
長崎に原爆が投下された翌年、ONさん27歳。
21歳のヤエさんと結婚する。
聞こえない者同士の結婚は、聞こえない子供が生まれるという反対を押し切っての結婚だった。
結婚の翌年に長男、結婚4年の後に長女、結婚7年後に次男誕生。
3人の子供を育てていくことは大変だったが、結婚に反対したお母さんの援助で子供たちを育てられたという。
お母さんは、ONさんは36歳のときに亡くなり、それから次第に生活が苦しくなっていったと証言してている。
鼈甲細工の仕事をやめ、日雇いの労働につく。長崎市内の公園の樹木の整備が主な仕事だった。
ONさんの手の器用さは、この時大いに役立ったとのこと。
この仕事を32年間続け、現在は、長女の家族と同居して可愛い2人の孫に囲まれた幸せな日々だ、という。
終戦。
それはとてもうれしかった
60歳のとき、胃の手術をしたが、それは原爆を投下直後に手に入れた豆が原因しているのではないかと考えたりすると証言している。
終戦。
それはとてもうれしかった、と手話で表現するONさんの写真が本に掲載されている。
「原爆を見た聞こえない人々」の本のONさんの写真は、最後の部分で、笑みが一体こぼれている。
が、逆に写真を遡ってみるとONさんのすべての人生が見えてくるように思えてならない。
扉表紙の写真、原爆を直後に仕事場から外に出た時の証言の写真、熊本に疎開するときの敵の様子の証言の写真、焼けただれた子供のことを証言する写真。ともう1度見直してみるとONさんが地獄の苦しみの中から生き抜き、手話通訳者と心から打ち解けて証言するすべてが読み取れるように思える。
またそれは、ONさんの人生のすべてでもあった。
何十年もして、手話通訳でろうあ者が「事実」を知る
5枚の写真とONさんの証言を組み合わせてもう1度深く考えてみると、ONさんの優しさとともに優しさを切り裂いてきた時代が見えてくる。
長崎でのろうあ者の被爆を中心とする記録の取り組みは、ろうあ協会と全通研長崎支部の取り組みで30年以上もつづけられている。
その特徴は、ろうあ者の証言をもとに真実を追究する取り組みでもあり、当時の面影や逃げ惑ったところを同じようにして共に歩き、考えた記録である。
そのため、なんの脚色もされていないが、それだけ私たちはあらゆる角度から、いろいろなことを知ることが出来る。
「数十年して、あの爆弾が、原子爆弾であったこと」
「被爆者手帳が交付されることを知ったこと」
「自分を投げ捨てて逃げたと思っていたがそうではなかったこと。」
「数十年もして、ろうあ者をいじめたことを詫びた人」などなど「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣)をぜひ読んでいただきたいと思う。
長崎に呼びかけた同時期、広島にも呼びかけたが、ろうあ協会の役員の反対などなど複雑な経過で個人が記録しているが、長崎の記録と根本的に違うものがある。
手話通訳は、その瞬間だけの手の動かし方と思われている昨今。
何十年もして、手話通訳でろうあ者が「事実」を知る、という長い長い時間がかかる手話通訳もあることも知ってほしい。
2003年8月9日。58回目の「原爆の日」を迎えた長崎の平和公園で開催された「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で、ろうあ者で長崎市在住の山崎栄子さん(当時76歳)が演壇から全国の人々に訴えることが出来たのも、長崎の長く苦しい地道な取り組みの結果でもあったということも知ってほしいと思う。
被爆したろうあ者は、長崎や広島だけに住んでいたわけではなく、全国で生活していた。
私も、その話を聞いたし、大阪では、広島で被爆し、逃げた長崎で再び被爆したろうあ者の話も報告されている。
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