2011年12月31日土曜日

舞鶴盲聾分校の父母の要望についてどう対処してするのかは地元議員の血の叫び


Once upon a time 1969

Oさんが訴えた記録( まとめの話 )

障害児・者をしめ出し
 弱いものいじめ、弱いものを排除する地域にしてはいけない

障害児と聞こえる子供たちがたがいに学び合い共に高まり生きてゆく。
 その基礎は教育にあり、学校にあります。
 機械的に一つの学校に障害児を入学させるだけでなく、障害児教育機関としての学校が、地域の一般学校とつないで機能してこそ、こうしたすばらしい子供たちに育つのです。

 人数が少ないからとかいって、舞鶴盲聾分校中学部を廃止すること。
 それこそ地域から障害児・者をしめ出し、そして、弱いものいじめ、弱いものを排除する地域にすることであり、人間性の破壊と同時に、まさに地域つぶし、地域の破壊につらなってゆくでしょう。


 人間が本来人間として豊かに発達し合ってゆく
  地域づくりをめざしてゆきたいとの大切な意味

 従って、舞鶴盲聾分校のお母さん・お父さん方の「義務教育は地元で、さらに分校に高等部を」との願いは、一方では人間が本来人間として豊かに発達し合ってゆく地域づくりをめざしてゆきたいとの大切な意味を持っているのです。

 舞鶴盲聾分校中学部の統廃合は、教育・福祉切り捨て、軍拡の臨調路線のろう教育版に他ならないといわれています。

 この本質をつかみ、これまでつちかってきた民主主義の地力を一層中学部存続の闘いに結集してゆかねばなりません。

 そのことは、ろう学校の本校が、単にインテグレーションへの現象的矛盾という一面を大きくのりこえ、聴覚障害児の発達保障をめざす教育機関への発展と、私たちの願いを実現することにつながるものです。
 

舞鶴盲聾分校の父母の要望についてどう対処してするのかは
         地元議員の血の叫び

( 資料 舞鶴聾学校の中学部廃止が京都府議会本会議でどのように問題にされたか
1981(昭和56)年 12月 舞鶴地方府会議員の盲聾分校について京都府議会本会議質問より一部のみ抜粋  )


府会議員 きょうは舞鶴盲聾分校、特にろう学校中学部廃止の措置並びに教育委員会のとってきた経過等含めて疑問点についてただしておきたいとおもいます。
 宮津、舞鶴、福知山等、北部の市町村がそれぞれろう学校の必要を求められて、昭和24年に舞鶴市身体障害者福祉連合会が発足すると同時にその会の重点項目としてろう学校の設置が取り上げられ、自来その強力な運動にこたえられて昭和27年3月に臨時教育委委員会の決議として舞鶴盲聾学校の分校の設置が決められ、日赤の移転後の仮庁舎からスタートして盲聾分校が発生いたしました。
 自来、今日まで北部の盲聾関係児童の唯一の教育施設として府民の愛顧を受け、育ってきたわけでありますが、校舎が老朽してまいりまして、56年前後から全面改築という要望が出てまいりました。

 聾学校の父兄の方々と中学部統合についての要望を聞き、あるいは懇談会に参加してまいりました。
 これらの中で一番強調されたことは、教育効果もさることながら、盲学校の児童の場合には電話ですべてコミニケーションがとれるが、聾学校の児童の場合には口の動きを見る、目と目で合うという話し合いの中でないとコミニケーションがとりにくい。


 したがって本校統廃合の場合にはどうしてもそのことができにくくなって、教育よりは児童の発達に影響するのではないかという父兄の心配が強く、できたら義務教育中学部までは家庭の近くに置いてほしいとか、あるいはぜひそういった意味で中学部を存続したまま学校改築をしてもらいたいとかいう要望がきつく出てまいりました。

 これに対して京都府教育委委員会は「それは親離れが出来ていないのだ」と、「障害児であっても適当なときには親から離れさす、そして学校集団の中で教育をせしめていくことがより効果的だ」という自信と確信にあふれた発言でありました。

 
 私は教壇に立ったこともなければ、教育に携わったこともありません。
 人を教えるような資格は生まれつき持ち合わせっていませんので、これだけの確信と自信を持って言われれば、そのことが多分正しいのであろうと。
 だから逆に、母親の方々が言われていることの方があるいは子供を愛溺している行為ではなかろうかという疑問を持ちながら、教育委員会の行為、処置、それから父兄の心配等を理事者に伝えながら経過を見てまいりました。

 教育担当の荒巻副知事は「そういうことは事実でありましょう」と、「聾学校の寄宿舎に母親が子供と面接される場所をつくり、そして北部から金曜日の夜ぐらいに寄宿舎に入ってもらう。そして子供と接しながら土曜日の授業を参観して土曜日に北部へ帰ってもらって、日曜日という親子の接触を通ずる中で両立ができるのではないでしょうか」、というような意見の開陳も聞かしてもらいました。

 ところが、いよいよ59年の11月23日付で京都府広報によって教育委員会はこの聾学校の廃止の布告をいたしました。設置規則の一部改正がされました。
 恐らく、私はそういうことのできた、そういう討議、親や周辺の方々の要望等を
聞いてこういう布告をした教育委員会は、12月定例府議会に少なくとも聾学校宿舎の調査費か改築費ぐらいは補正予算で提案されてぐるのだろう、あるいは知事に対して予算要求されるのであろう。
 それを、あんなこと言っておった教育担当の荒巻副知事が削ったのかなという疑問を持ちながら12月定例府議会に参加させてもらいました。
 全然教育委員会から予算の要求もありません。
 そうするとこの布告は、理論、理屈だけの自信に基づいておるのであって、本件についての教育委員会の実践というのは、だれやらがきのう申し上げましたように、全然ゼロなのかという疑問を抱きながら聾学校の寄宿舎を見せてもらいに行ってまいりました。
 当時の身体障害者連合会の顧問の江守芳太郎さんの息子さんの光起さんが、代表質問でど最初に盲聾分校の寄宿舎についてはどうなっておるのかということを質問いたしましたのも、こういう父母の要望についてどう対処してくれるのかという、こういうことに隣地してきた地元議員の血の叫びであります。

 行ってまいりました。

 何と、半分、丁委員の10人の部分については新しい寄宿舎が建つています。それと管理棟はできています。
 ところが定員15人とおっしゃっている寄宿舎は木造の2階建て、古いものであります。 

 そして15人の定員を、入舎定員をつくるために一番奥の8畳の間の廊下に畳を敷いて、入口を廊下の端に切りかえることによって10畳5人という定員をつくり、そして養護室を2つに仕切って2人の定員の部屋をつくったということで15人の定員がつくってあります。
 これは維持修繕費でつくった間仕切りであります。
 そして教育長は、「卒業生が4人ありまして新しく入ってくる生徒が3人ですから江守先生心配しないでください」と、「明るく豊かな寮生活ができるでしょう」という答弁がされた。
 こんなことで教育長は本当に、聾生徒の寄宿舎だという、定員が25名だといったようなことが、本会議場を通じて議員のまじめな質問に対する姿勢なのでしょうか。

 私は疑問を抱いてなりません。

0 件のコメント: