Once upon a time 1969
かつて私の耳を診て下さった医者と、中学3年間を担任して下さった先生が、ろう学校というのがあるから、一度見に行ったらどうかと父にもちかけたのです。
「ろう学校で背広を作る勉強をしたらどうか、百姓ではかわいそう」
と考えて下さったのでしょうか。
眼に飛び込んできた ひろびろとしたろう学校
中学卒業も間近い2月、母と担任に連れられ御室にあるろう学校を見学に行きました。
市バスや電車を乗り迷いながらやっと見つけたろう学校。
小さな小さな学校でした。
しかし、よく見ると、それは寄宿舎。
坂を登ると広々とした京都府立ろう学校が私の目に飛びこんできたのです。
ろう学校では、たくさんの生徒さんが背広を作り、着物を縫い、絵を描いていました。
はじめて見る手話と口話でのスローテンポな授業風景に目をみはりました。
なんと たくさんの聞こえない生徒がいることか
という驚き
世界で自分だけが聞こえないのではないと知った驚き
しかしもっと驚いたことは、「何と大勢な聞こえない人がいるのだろう」ということでした。
聞こえないのは、この日本で、いや世界で自分一人と思いこんでいたのです。
まだあります。
その大勢の生徒さんは、手を猛烈に動かして話をしているのです。
手と手がしゃべりあうのです。
何というすばらしい、ことば、でしょう。
手話との出合いは一生、人と自由に語り合えないと思いこんでいた私にとって、まるで夢のようでした。
「うん」と答えるとだまってしまった母
当時、父は寝たきりの病人。
母一人朝から夜中までコンクリート・ブロック工場で働き、生活保護を受けながら、私たち兄弟3人を育ててくれていました。
兄は中卒で就職しました。
私だけ進学できるはずがありません。
しかし、私は何とかこの新しい世界を私の中にとりこみたいと思いました。
母が「ここ、行く?」と聞きます。
「うん」と答えると母はだまっていました。
何かふっきれないものが
私の胸の中に少しずつくすぶりつづけるようになった
ろう学校からの入学通知が来て、中学卒業の私にも、まっさらな「中学一年」とある教科書をもらって高等部に通いはじめました。
国語、数学、理科、社会、そして英語もあり、それに職業科の勉強も週の半分ぐらいありました。毎日ミシンの踏み方を習いました。
母や叔母が、近所からボタン穴のくずれた背広やほころびたズボンの注文をとってきては、もう一人前の洋服屋だといわんばかりに私におしつけ、全く閉口してしまいました。
充実した毎日でしたが、何かふっきれないものが私の胸の中に少しずつくすぶりつづけるようになったのは、高等部3年の終わり頃でしょうか。
中学校卒業したOさんに
まっさらな中学1年の教科書が渡された背景
{注} 中学校卒業したOさんに中学1年の教科書を渡す当時のろう学校のことが、たった1行で書かれています。
ろう学校の生徒は、教師の中で3年、4年以上おくれているのが当たり前とされ、それが平然と行われていました。以降の文中に書かれていませんが最終的にOさんを中心として生徒たちが「授業拒否」(生徒のストライキ)を起こします。
このことも切っ掛けにろうあ者のろう学校改革を求める強力な運動が進められます。
またそのひとつとして、京都府・京都府教育委員会・京都府議会で問題が採り上げられていきます。
京都府議会編の質問等は、ブログ「歴史に残る1966(昭和41)年12月21日京都府議会本会議」の項参照。
京都ろう学校の教師の中には、以降の文章でOさんが述べる職業感が根深くあり、大阪や兵庫のろう学校のように高等部に普通科が設置されてきませんでした。
そのためO君らには高校の教科書すら渡されなかったのです。
渡すのが、教育制度上通常でしたが。
1969(昭和44)年になると京都府立高校に聴覚障害の生徒を受け入れ、教育保障をすすめてほしい、という新しい運動が起こり、1970(昭和45年)京都府議会で請願が採択。
翌年の1971(昭和46)年4月から京都府立山城高校全日制(普通科・商業科)・定時制(普通科)で聴覚障害生徒を受け入れた全国で例のない教育保障システムがすすめられる。(詳しくは京都府立山城高校ホームページ参照)
この段階でも、ろう学校高等部に普通科を設置して、普通高校とろう学校が対立関係になるのではなく共存・競合関係・選択肢の枠組みを広げる、ことで聴覚障害生徒の教育を保障していくべきだという意見が、府教委・行政・普通高校関係者やその他の学識経験者などなどから出された。
しかし、特にろう学校高等部教職員のろう学校生徒の進路と関わる職業感の固持が強く、多くの意見に対して反対し、高等部には、職業学科しか設置されてこなかった。
しかし、2010年頃からこの考えが改めはじめられ、ろう学校高等部には新しい動きと新学科編成が実現してきている。
機械の一部になって
ロボットのように不平不満を言わず黙々と働かねば
遅々として進まない授業。
加えて一般教科時間の少なさ。
中間テスト、期末テストになると試験問題を黒板に書いて「予習」がされる異様な風景。
勉強よりも手に職。手に技術を。
という教育が優先し、英語は高1年で打ち切り。
宿直あけの先生が酒くさい息をはきながら、朝礼に出てくる……まだまだあります。
仕事をやめたい、とかでひんぱんに学校にやってくる先輩の姿。そして次のような先生の話。
「君たちの先輩は、小さな洋服屋や織屋で、朝は早くから深夜まで、5年間は辛抱して腕をみがかねば、給料なんてろくにもらえない」
「人のいやがる仕事でも何でも、はいはいとやらねば、かわいがってもらえない」
「ミシンや機械の一部になってロボットのように不平不満を言わず黙々と働かねば、やめてくれ、と追い出されてしまう……。」
「君たちも辛抱強い人間になって、人からかわいがられるようにならねば……。」
「せめて学校にいる間、みっちり腕をみがきなさい。そのためには、今から夜なべもして着物を縫いあげられるように……」
これまで考えることもなかった
「何のために学ぶのか」
を生徒会でとりあげ、みんなで考えはじめた
私は、そんな話を聞くたびに暗澹たる気持ちにならざるを得ません。
今のままでは、私も先輩たちと同じように、ロボットにならなければなりません。
しかし、先輩はこうも話してくれました。
「今の社会で、聞こえないという十字架を背負って生きていくことがどんなに辛いことか、レコードやテレビが聞こえないことは、仕方がない、その辛さには耐える人間にならねばならない。
しかし、ただ聞こえないことや、ろうあ者だからということだけを理由にして、ロボットあつかいをしたり、辛抱が足りないと首をきったり、ろくに給料を払わないという、こういう人が人を差別することからくる辛さは耐えるためのものではない。
それは君たちが、なくしていかねばならないものなのだ。」
「君たちは、そのためにこそ勉強しているのではないか……。」
このことから私たちは、これまで考えることもなかった「何のために学ぶのか」を生徒会でとりあげ、みんなで考えはじめたのです。
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