2011年12月9日金曜日

すべての子どもは 教育をうける権利がある


Once upon a time 1969

 すでに掲載したタイトル、
「ろうあ者の方々のために、本当に生きがいのある社会にするように努力してまいりたいと、これはお約束いたします」
で、1966(昭和41)年12月21日京都府議会本会議で知事が言ったことの具体的ひとつである「ろうあ者成人講座」のことは、すでに書いてきた。
 しかし、知事の言った「本当に生きがいのある社会にするように努力してまいりたいと、これはお約束いたします」の「本当に生きがいのある社会」の意味は充分理解出来ていなかった。
 その意味が最近分かってきたので順次述べていきたい。


ひとつひとつを読む度に
 人間の素晴らしさがこころに染み入るお母さんのノート

 これもすでに掲載した、
「丹後小町が選んだ相手は豪商の息子だったが、貧困だけが待っていた 」
のタイトルのところで次の文章を書いた。

 2011年の夏前。岩滝町にある与謝の海養護学校を訪ね、そこの校長をしていた故A先生の加悦町の家を訪ねた。二つの町は、今はひとつになり与謝野町となっている。
 車で走りながら、Iさんが通ったであろう旧道を見ていたが……


 なぜ、与謝野町に行ったのか。
 それは、N大学教育学部のT先生が、京都の障害児教育、とりわけ与謝の海養護学校の設立とその教育を研究されていたので、少しだけ協力させてもらっていたからだ。

 T先生は、与謝の海養護学校に関する膨大な資料と研究をされていて、つい最近、二度目の宮津市、与謝野町への道行きとなった。
 与謝の海養護学校(現在は、京都府・京都府教育委員会が与謝の海支援学校と名称を変更させたが、与謝の海養護学校をつくってきた人々に尊敬の念を込めてこの名称で書く。)の先生たちとの意見交換をして、与謝の海養護学校をつくってきた一人であるあるお母さんと宮津市内で会った。
 お母さんは、与謝の海養護学校が出来る以前からの子どもさんの記録・日記をていねいに書き綴られていて、ひとつひとつを読む度に人間の素晴らしさがこころに染み込んだ。
 おかあさんの家を出てしばらく歩いていたとき、どうもこのあたりに来たことがある、と思ったがあまりにも街の様子が変わっていてその時は思い出せなかった。


盲ろうの人と出会ったこと
 居酒屋の女将さんの泣きながらの話だけの記憶

 帰宅後、ふっと思い出した。
 たしか、お母さんの家の幾筋か向こうの海岸に近いところで、私が初めて盲ろうに人と出会ったところだ、と。

 ある手話通訳者に連れられて、その盲ろうの人と話、少し飲もうと言うことになって近くの居酒屋で飲んだ。
 客は私たち3人だけだった。

 その時、居酒屋の女将さんが私たちの様子を見ていて、「障害者の方とその方々の仕事をしている人ですか。」と訪ねてこられた。
 「ええ、まあ」と話をすると女将さんは堰を切ったように自分の子どもが重度の障害児で、今施設に預けている。一緒に住みたいけれど、どうしようもなく、今このような仕事をして一生懸命働いている。
 私の子どもに将来があるのでしょうか、と切々と悩みを打ち明けられた。
 盲ろうの人に同行した手話通訳の人がどのように伝えていたか、記憶はまったく残っていないが、盲ろうの人と出会ったこと、居酒屋の女将さんの泣きながらの話だけが記憶として残っている。


 

ふと呼び寄せられた一冊の本から甦ったこと

 与謝の海養護学校をつくってきた一人であるあるお母さんと宮津市内であった後、再び
与謝野町のA先生宅を訪ねた。
 そして、いろいろな話をして、N大学教育学部のT先生はA先生宅に保存してあった大量の資料を借りて、いざ帰ろうとした時、ふと、玄関の本棚の本に目が向いて、ある本をバラパラっと読んで見た。

 A先生が、与謝の海養護学校をつくるまでの経過と、開校1年目のことを書いている。
 この本を読みたいので、お借りできないか、とたのんで借りて帰京した。
 そして、その本を読んでいてびっくりしてしまった。

 少し長い文章だが、抜粋して掲載させていただく。

教育をしても、一定の戦力と(兵隊)してつかえない、
あるいは、一定の生産力として、利用できない
そういう子どもたちは、教育の対象ではないという考え方から「就学猶予・免除」がつくられた

 文章は、1970年11月に「すべての子どもは 教育をうける権利がある」というテーマでA先生が講演された記録であった。以下、1970年以前の障害児者の状況と教育の部分だけ引用する。

 「就学猶予・免除」という制度があります。
 これは、特に身体的な事情であるとか、知恵が著るしく遅れているというような子どもは学校にやらなくてよろしいというふうな制度なんです。われわれはこれには基本的に反対しつづけて来ました。
 「就学猶予・免除」というのは、結局教育をしても、一定の戦力と(兵隊)してつかえない、あるいは、一定の生産力として、利用できない、そういう子どもたちは、教育の対象ではないという考え方が、明治以来、ずーとあつたわけです。

 新憲法の中で、すべての子どもに均しく教育をといわれているけれども、なお、制度としては現在も残っているわけなんです。

 私たちが今日までとり組んできました中では、それは基本的におかしい就学猶予免除の制度そのものが子どもたちの教育権の剥奪を合法化していることなんだということで、そこへのたたかいを組んできたわけです。

 その結果として与謝の海養護学校が設立しましたから、今日まで何年間か就学猶予・免除で、家庭に放置されていた子どもたち、約50名を受け入れております。

 それから、このような学校づくりが、単に障害児の親や一部の教師のわくを破って、障害児、障害者問題としてひろく地域に提起をして来ましたが、地域に対するこうした提起が単に障害児の教育だけの問題ではなくて、人間の尊厳といいますか、基本的な権利をどのように見ていくのか、どのように守っていくのかということで、地域の民主化のたたかいとして、とり組んで来たところに特徴があると思うのです。

 そしてそのような把握がこの学校を作り出したということになると思います。


 

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