Once upon a time 1969
母親が言うには、
兵役免除のハンコは、徴兵検査官がその場でおすんだそうで、そうでないとききめも何もねえんだってヨ。
だからおれ、タケこと、検査場に連れていくよ。はじを忍んで連れていくよ
そして母親は涙を拭いた。
涙は忍び切れぬいたみの故ではなかったろうか。
それでもただ一つ幸いなことに、検査当日は快晴だった。
母親はタケちゃんの妹たちに手伝わせてタケちゃんをリヤカーにのせた。
行ってくるよ
と、タケちゃんははしゃぎ気味だ。
おそらくタケちゃんは
沼も見られるし、汽車も見られるんだから
と母親に説得されていたのだろう。
そして母親は母親で、
一人で大丈夫かい
と声をかける隣組の人々に言った。
大丈夫だよ。大丈夫だから心配しねえでくろ。こんな非常時に、役にも立たねえがきを持つだけでも気がひけるのに、この上迷惑なんどかけちゃ、あと、あと、合わせる顔がなくなるからヨ
ぽたり、ぽたりと涙をこぼして
日ごろ、農家組合とか隣組とかいってつき合ってはいても、こんな際には何んの手も貸そうとはしない人たち。
しかし考えてみると、その人たちも既にむすごを、或いは夫を戦場に送っていたし、なかには戦死のしらせを受けているものもあって、そう易々とは手を貸せない状況だったのだ。
その夕方、タケちゃんの母親は、
タケに小遺いをもらったお返しだ
と言って、中筑一杯の甘藷をとどけてくれた。
甘藷は苗床に伏せた種いもの残りで、品種はカゴシマ。
肉質のしまったこの甘藷は、保存がよければ夏まで大丈夫とのこと。
さて、母親はその甘藷を一つ一つ取り出しながら、
おらもこれで大役(大厄)がすんだよ
そしてぽたり、ぽたりと涙をこぼした。
タケよ、タケよ
徴兵検査場にあてられた龍ヶ崎の学校までは約2里半(10キロ)。
快晴ながら、母子にとってそれはどんなに辛い行程だったろうか。
ハンドルを握る母親は、
タケよ、タケよ
と、リヤカーにうずくまる麻痺の子を案じ、何度も何度もふり向いたにちがいない。
そして町のなかでは人目をはじて深々とうなだれもしただろう。
更に徴兵検査には非国民のように扱われ、泣くに泣けぬ思いをしたかもしれぬ。
もし、そうでないとするなら、なぜに検査場に出頭させる必要があったのか、と私は言いたい。
私も暫くは泣くに泣かれぬ思いだった。
もう二度と、あんな残酷を繰り返さすものかと髪を逆立てる
タケちゃんはそれから4年目に死んだ。曽て知人がみたてた通りだった。
そしてタケちゃんの母親も、死んでもう3年になろうか。
私はこの日ごろ、改憲とか国防とか、或いは靖国法案とか聞くたびに、母親のリヤカーに乗って徴兵検査に向ったタケちゃんの後姿を思い出す。
そして、もう二度と、あんな残酷を繰り返さすものかと髪を逆立てる。
うれしいことに、この思い、"孤"ではない。
昭和五十三年九月十八日の「朝日歌壇」に私は友をみつけた。
友の名は石井百代。
徴兵は命かけてもはばむべし
母祖母おみな牢に満つるとも
石井さん。ほんとうにありがとうございます。
と、住井すゑさんは、一人の小児麻痺のタケちゃん徴兵検査のことを書いておられます。
タケちゃんのおかさんの住井すゑさんに言った言葉。
その奥深い哀しみ。
徴兵は命かけてもはばむべし の意味を噛みしめていたが、出版された「原爆を見た聞こえない人々」のONさんの被爆証言に綴られた「徴兵検査」の一文を、住井すゑさんのように深く理解出来ていなかったことに気がついたのはかなりの年数が経ってからだった。
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