Once upon a time 1969
2003年8月9日。58回目の「原爆の日」を迎えた長崎の平和公園で開催された「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で、ろうあ者で長崎市在住の山崎栄子さん(当時76歳)が、初めて自分の生い立ちや被爆体験を語ってくれたときの長崎から送られてきた写真を前回「長崎ではじまった被爆したろうあ者の勇気ある証言」で掲載したが、とても同一人物であるとは思えない写真である。このように、手話表現は全身全霊を籠めて表現されることが多い。
特に、被爆した時のろうあ者の手話表現と、平和になったときの手話表現には、全身に恐怖を超越したものと、全身に安堵感と喜び、が「対照」として現される。
30年以上も引き続き長崎では、非常に困難な中でろうあ者の被爆体験が平和のねがいを織り込んで記録されている。
このうえもない励まし コミュニケーションに深い理解
さて、ろう学校に11歳で入学したONさんは、中学部1年に木工科を専攻する。
戦時色が強くなったろう学校の授業、午前は教科、午後は職業科で学びつつ、次第に畑仕事が増えていく。
ろう学校時代、ONさんにはあることが強い印象として残っていると証言している。
I先生の手話教育。
手話教育から、口話教育への転換に対してきわめて批判的であり、ONさんたちのコミュニケーションに深い理解を示したこと。
それはONさんたちにとってこのうえもない励ましだったのである。
戦争前は、教師は自由に教育のことを語り合い、自由に教育を行えなかった面もある。
しかし、その中でも子どもたちに合った教育方法、教育内容が真剣に教師の中で考えられていたことがONさんの証言からも推察できる。
ONさん22歳でろう学校を卒業。
12年間学んだろう学校での生活は、何度も繰り返すことになるが聞こえない人々にとっては極めて重要な影響と生きる力を形成していくことになっていた。
24歳 徴兵検査の通知 兄の付き添い 兵役免除
木工の仕事ではなく、鼈甲の仕事をつかざるを得なかったONさん。
家族と一緒に、鼈甲細工の仕事を10年間続ける。
ONさん24歳のころから戦争が激化。食物確保のために奔走。
徴兵検査の通知。
兄の付き添い。兵役免除。
この日のことはあまり詳しく述べられていないが、すでに述べてきたように付き添いのお兄さんにとってもONさんにとっても屈辱的な日であったことは間違いがない。
鼈甲細工は、平和時の産業。
戦争はその仕事を奪い、ONさんは三菱造船に働きに行くことになる。
危険な造船作業。ONさんは恐怖に震えてその仕事を引き上げる。
と、ここまでは、初期原稿から本を編集、校正、発行、発行後、何度も読み続けてきた。
だが、ある日、住井すゑの書いた文章の「おらもこれで大役(大厄)がすんだよ そしてぽたり、ぽたりと涙をこぼした。」のことを思いだして、もう一度、ONさんの証言を読み返してみた。
すると、兄さんの付き添いで徴兵検査に行ったONさんは、徴兵検査の帰路や家で兄さんから徴兵検査の結果に対する言葉を知ったのではない、ことに気がついた。
大声を出して叱る言葉の奥底に秘められた想い
ONさんを一番支えて、援助してくれた兄さんは、徴兵検査が終わって一緒に行った、みんながいる銭湯で、ONさんを怒鳴りつけたと証言していることをもう一度読んでハッとした。
このときのONさんの気持ち、お兄さんの気持ち想像することは極めて大切である。
なぜ、町内の人々が集まってくる銭湯でお兄さんは聞こえないにONさんに対して大声で叱ったのか。
その大声は、ONさんに向けられていたのであろうか。
聞こえないが故に戦地に行けないONさん。
そのようなことがだれでも分かるのに、それを肯定できない軍国主義の重圧。回りの人々は理解をしていても口に出して言うことはできなかったのかもしれない。
いや、そうに違いない。
兄さんも回りの人々もONさんのことを分かりながらも、大声を出してONさんを叱る、叱らざるを得ない、社会状況。
兄さんが銭湯で大声を出したのは、悲しみと怒りと不平等さと平和の願いが硬くなに包まれた心の中にあったと思えてならない。
初めて知った お兄さんがONさんを守る愛情
私の意見に対して、少なくない人々はお兄さんが聞こえないようONさんに対して理解がなかった、人間扱いしていなかったと言い切る人がいた。
だが、お兄さんは、なぜ家で、ONさんを激しく叱らないで、あえて、身近な人々が多くいる銭湯で叱ったのか。
お兄さんがONさんを守る愛情であったと、初めて気がついた。
悲しみながら、あえて言わざるを得ない、言うことがONさんが生きていくすべになる、ONさんがぎりぎりの生活の中でも、人からそれなりに理解されるようにと。
今の私たちには考えられないような深い複雑な愛情を含む気持ちの中でお兄さんはONさんを叱ったのではないだろう。
銭湯で大声で叱る兄さんの声が消えるとき
私は、長崎のろうあ者被爆体験の証言や家族の人々の動きまわりの人々の動き、何度も総合的に考え見つめ直してみた。
もの言えない時代を考慮して、言った、言わなかった、言っていたことの真の意味。
行動したことの意味などなどを単純に断定しないで、深く深く考えなければと思う気持ちが日に日に強まってきたのである。
銭湯での声は、風呂屋全体に広がる。
男風呂であろうと女風呂であろうとすべての人々にONさんへの怒鳴り声は聞こえたことだろう。
銭湯の中で大声を出すと独特の響きを持つ。
その中にお兄さんの声は消えていく。
そして、地域の人々の中で、お兄さんが聞こえない弟をしかったことが、噂が噂を呼び話題になったことだろう。あそこまで言わなくても、とか。
徴兵検査。兵役免除。
この言葉は、なん残酷でと重々しいものだろうか。
男にとって生命の分岐点でさえあったとも言うべき、徴兵検査。
聞こえないが故に戦地に行けないONさん。
そのようなことがだれでも分かるのに、それを肯定できない軍国主義の暗黒の重圧。
回りの人々はそのことを理解をしていても口に出して言うことはできなかったのかもしれない。
いや、そうに違いない。
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