Once upon a time 1969
「米国機10機・日本機20機、ひいたら何機になるか?」
「ひいたら日本機は10機。だから日本はやっぱり強い。」
こんな勉強がろう学校で教えられた。
ともかく、数が上回るのが、日本。
それが算数の勉強である、あらゆる教科や学ぶ内容が一方的になり、しかも暴力で無理矢理学ばされたとの証言がほとんどだった。
1942(昭和17)年にYさんは、徴兵検査を受けたが
1942(昭和17)年に、Yさんに、徴兵検査があり、お母さんとともに検査に行った。
徴兵検査は、検査は男性ばかり、しかも「ふんどし」ひとつで検査がされる。そして、全裸にされ身体の隅々まで調べられる。
だから、女性立入禁止。
それでもYさんのお母さんは、Yさんといっしょに行った、とのこと。
この時のお母さんの気持ち、どんな思いでYさんのお母さんは徴兵検査場へ行ったのか……は、すでに述べたようにお母さんは亡くなっていて聞きようがなかった。
成人した男性が
全裸の徴兵検査会場に行かねばならないおかさんの心情
徴兵令のもとに満20才になる男子は、戸主を通じて、本籍地の市町村長に届出をなすことが義務づけられており、この届出をもとに、名簿が作成され徴兵検査の事務がすすめられる。(時代の推移とともに変えられますが……)
まさに成人した男性が、全裸で検査され、罵声がとぶ、なぐられるなどしばしばあった非人間的な状況の中で、ろうあ者Yさんと、お母さんがそこへ行く気持は極めて複雑で強い決意があっただろう。
当然、検査でYさんは「耳が聞こえない」ということを軍人に疑われたらしい。
が、そこでのやりとりなどはYさんはまったく分からなかった。
ただ、お母さんが、ただただ謝り、何度も何度も頭を下げて検査をしている軍人にあやまり、何か必死になって言っている姿をYさんは忘れられない出来事として深く覚えている、との話だった。
戦争で死んでもいいと思っていたけれど
聞こえなくてすみません
Yさんのお母さんは、前もって何度もおねがいして作ってもらった町内会で作成してもらったYさんについての詳細な文章を持っていっていた。
町内会の証明・お母さんの証言。
このことで、Yさんは、ろうあ者であることがようやく認められた。
その時のYさんは
「戦争で死んでもいいと思っていたけれど、聞こえなくてすみません。すみません……。」
と心の中でつぶやいていた。
家に帰ってお母さんは
「ろうあ者だから、天皇に背いたのと同じだ…」
と言っていたことは忘れられない、と証言してくれた。
あやまって、殴られて、倒れてでも殴られて、血を流す光景
お母さんは、どんなことを言って軍人にあやまったのか、その時の本当の気持はどうだったのか。
軍人たぶん下士官か、軍医は、ろうあ者Yさんのお母さんにどんなことを言ったのか、を知ることによって、当時の軍の考え・家族の気持・ろうあ者の社会的状況がよくわかるが、それがYさんにも分からない哀しみがあった。
何度も何度もYさんの記憶を聞いてみたし、Yさんもそのことを思い出したかったが、
眼に焼き付いた「お母さんがしきりにあやまっていた」ということだけだった。
当事者のYさんは全く聞こえていないから……当時の情景しか言えない。
私は、Yさん以外のろうあ者の人々にも徴兵検査場について聞いた。
しかし、兄さんと行った、お父さんと行った。
ともかくむちゃくちゃ殴られ続けていた。
あやまって、あやまって、殴られて、倒れてでも殴られて、兄さんやお父さんが血を流しつづけてもがく光景。
ろうあ者自身も棒で何度も、何度も殴り倒されたという証言は、あったもののその全容は把握出来なかった。
ろうあ者の徴兵検査について、多くの人からの証言を得たがすべて同じだった。
そこで、徴兵検査についてろうあ者と共に徹底的に学習した。
すると、多くの人々が徴兵されると家族が飢え死にする。
一家の大黒柱がいなくなると言うことで、徴兵検査の前に大量の醤油を飲んだり、自ら身体を切り落としたり、さまざまなことをして徴兵回避していたことが分かってきた。
しかし、かなりの数の障害者が徴兵されたことは間違いがないことは充分推定できた。
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