Once upon a time 1969
みじめでくさったような私の目をさましてくた
「耳の聞こえないものが(聞こえる高校生の集いに)行ったところで何になるか」と、先生方に反対されながらも京都の「平和憲法記念高校生春季討論集会」や「高校生部落問題研究集会」などに参加し、聞こえる高校生の方とも交流しはじめたのは、その頃でした。
ろう学校生徒会主催の「学習について」の校内討論会や高校生との交流は、かつてのみじめでくさったような私の目をさましてくれました。
先生方がろう学校の教師であることに
誇りを持てるろう学校にしなければ
洋服屋になろうとろう学校に入った私の目を、広く、ろうあ者の暮らしの現実と社会に向けさせてくれたのです。
新聞も本もろくに読めず、高等部を卒業しても、大学進学などとても考えられない。
社会の片すみで、ひっそり辛抱してくらしていかねばならない現実、をどうかえてゆくか。
そのために先生方がろう学校の教師であることに誇りを持てる。
そんなろう学校にしてゆかなければ、私たちの力はつかない、と考えるようになって行きました。
学ぶことが出来た「 学ぶ目的、生きる目的、その道すじ」
学ぶ目的、生きる目的、その道すじ
これを小学校・中学校と9年間を通してできなかったこの大切なことを、私はろう学校高等部の3年間で学ぶことができたのです。
今日、インテグレーションの波におされ、ろう学校から普通学校にすすむ「ろう学校ばなれ」がすすんでいるとはいえ、私は京都ろう学校に学んだことを誇りとしています。
これは、分校で学んだ仲間にとってもおそらく共通の想いでしょう。
そして、私の苦しかった昔の思いも、今大きな変化を示してきています。
( 注:京都ろう学校幼稚部では、1965年頃からさかんにインテグレーションが叫ばれ、Oさんが話をしている頃には、幼稚部の生徒は、ろう学校小学部に行くことはなく普通校に入学した。ブログ「インテグレーションと魔法のメソッド・スキル」「残酷な『「ことばの宿題』」参照 )
2000もの瞳の輝きの中に見いだした教育の方向
とりわけ、舞鶴盲ろう分校は10数年も地域の小学校・中学校との共同教育のとりくみによって障害児・者が主人公の一人として生きてゆける地域づくり、を理念のもとに、一人ひとりの民主的人格の形成にとりくんできた長い伝統を今日も蓄積し続げているのです。
私は3年前、舞鶴盲ろう分校の隣にある城北中学校に招かれ、全校の生徒さんの前で、私の歩んだ道をお話しさせていただきました。
1時間をこえる長い話しではありましたが、1000人の2000もの瞳は、最後まで私にそそがれ、その上、分校と交流しておられる2年生の教室まで引っ張り込まれて、もっと話してほしいと言うのです。
人間に対する深く、限りない愛情が育った共同教育
舞鶴盲聾分校が高野小学校との共同教育をはじめた当時、分校の子供たちと手をにぎると「つんぼがうつる」どさわいでいた子供たち。
しかし、共に学び合うなかで「つんぼはうつらない」ことを自ら確かめ、
「同じ人間であること、耳がきこえず、しゃべることもうまく出来ず、勉強することも大変なんだ」
という、すばらしいとらえ方ができるように成長しているのです。
さらに、人間に対する深く限りない愛情も育ち、そうした子供たちは大きくなり、今日では、地域の手話サークルに参加しているのです。
舞鶴盲聾分校が高野小学校との
竹馬の交換からはじまった「共同教育」について
{注}
1973年1月。
京都大学の故田中昌人氏は、京都舞鶴盲校の報告に対して、共同教育として高めていく課題として以下のように指摘された。
「すべての子どもたちがひとしく教育」をうける点で重要な指摘だったので参考として掲載する。(なお、この頃には、就学猶予・免除制度により学校に行けない障害児がまだまだ多くいた。)
「共同教育は、学習する権利の平等性をふまえ学習する内容における普通教育としての普遍性を前提として、障害児が学習上の基礎集団をもちつつ、必要な新しい仲間と共同に学び合つ教育機会を保障する教育活動である。
そこに必要な複数の集団の保障と、民主的な見とおし路線の形成と必要な諸科学の総合的発展を現実のものにしてゆく活動の芽がある。
従って、ここに言う共同育教は、集団の単なる分解合成であってはならないーとして、
中教審路線にある適応教育・統合教育を実践的に克服してゆくこと、
教職員が地域や学校の民主化をすすめつつ、子ども集団の民主的発展にとっ て必要なときに、注意ぶかく準備された共同活動が必要なのだということ、 共同活動は、子どもたちが自覚的に、文化継承の基礎になる活動を追求しは じめるとき成果をあげてゆくということ、
従って、教職員がこれを共同の事業として、年次計画をたてて取り組み、そ れをはばむものには、共同の反撃を加えてゆく規律が必要であること」
故田中昌人氏が、「学習する権利の平等性をふまえ学習する内容における普通教育としての普遍性を前提」を強調したのは、
高野小学校と舞鶴盲分校・聾分校の「共同学習」として出されたレポートと討論の中で、高野小学校の生徒が舞鶴盲分校・聾分校を訪れたときに高野小学校の生徒が自分と同じ学年の舞鶴盲分校・聾分校の生徒が同じ教科書ではなかったことへの素直な疑問に対する当時受けとめていた。
しかし、現在では、障害児教育は普通教育ではなく、障害児は、技術を持って卒業していかないと卒業してから働く場がないから、義務教育段階で職業教育をすべきであるとする意見に対して、日本国憲法の第26条〔教育を受ける権利、教育を受けさせる義務、義務教育の無償〕の「ひとしく教育を受ける権利を有する。」「普通教育を受けさせる義務を負ふ。」をもとに学習することの平等と共通性がなければ、本当の意味の共同教育にならないことをまず明らかにしていることとして考えられる。
「障害児が学習上の基礎集団を持ちつつ」と、学習集団を基礎集団として、それを解体、分割することなく、基本にして、ただどこでもいいとか、安易な「交流」ではなく、基礎集団に「必要な新しい仲間」としていることは実に意味深いものがある。
そのうえで「共同に学び合つ教育機会を保障する教育活動」が「共同教育」であるとしているのである。
そして、「必要な」「複数の集団の保障」が必要であるとしている。
基礎集団と関わる複数の集団は、どんな集団でもいいということだけではない。吟味された「復習の集団」との関わりが大切であると故田中昌人氏は、指摘している。
たんなる「基礎集団」と他の集団の関わりだけではだめなのだと言っているのである。
そして、「民主的な見とおし」をもち、「基礎集団」と「複数の集団」の保障を形成をすすめる。
が、そこには「必要な諸科学の総合的発展」を現実のものにしてゆく活動の芽がある、の部分になるとその意味の深さに考え込んでしまう。
故田中昌人氏は、障害児教育は障害児教育だけで成立するのではなく、他の領域の科学的な到達点と成果を取り込むことによって、障害児教育が科学的に裏打ちされたものとなりその発展は無限に広がるということを意図して述べたのだと思われる。。
そして、教職員の役割としては、「教職員が地域や学校の民主化をすすめつつ」「子ども集団の民主的発展にとって必要なとき」「注意ぶかく準備された共同活動が必要」であり、その成果は、「子どもたちが自覚的に、文化継承の基礎になる活動を追求しはじめるとき」に現れるとしている。
ここでも、教育の主体に対する慎重でかつ綿密な考えがうちだされている。 そして、教職員は、「共同の事業として、年次計画をたてて取り組み」という先に述べ、「民主的な見とおし路線の形成」の具体例を挙げている。
ここで注視しなければならないのは、「それをはばむものには、共同の反撃を加えてゆく規律が必要である」と述べられていることである。
この点が弱かったため、共同教育の取り組みは、舞鶴盲聾分校の教訓が引き継がれることが少なく、文部省(当時)は、舞鶴盲聾分校の共同教育の広がりと影響を憂う。
そして、官製化した「交流教育」などを打ち出す。このため一部の教職員の中で「交流教育」と「共同教育」と混同してとらえ評価していく傾向が生まれ、今日の特別支援教育へと連動していく。
Oさんは、失聴してろう学校に入学した鋭敏な感覚で、学び、これらの教育問題を簡素に述べている。
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