Once upon a time 1969
これまで、戦前、戦中のろうあ者の事を掲載してきた。だが、戦後の京都ろうあ者には新しい運動が芽生えた。
われわれは勉強しなければならない、と肝に銘じている
京都北部のろうあ協会の役員は、
「戦時中、隣接地が警察本部長官舎であるという理由で、府立ろうあ学校の校舎の一部と寄宿舎がとりこわされた。そのため、やむなく中途退学をせざるを得なくなったが、戦後も寄宿舎が、設けられていないため復学することもできない。」
だから、
「教育こそが障害者の社会参加への道をひらくための第一の条件であると考えている。私たちは、『われわれは勉強しなければならない』と肝に銘じている」
と主張して運動するようになって行く。
「われわれは勉強しなければならない」と言う主張には、戦争を体験していた、ろうあ者の切実な凝縮されたねがいがあり、学ぶ、というとは、単に、学校教育を受けたい、ということだけではなかった。
学ぶという意味は、あの大戦下で聞える人以上に情報が制限されていたろうあ者がろう学校の中で軍国主義教育を受け「必ず勝つ、負けるはずはない」と思いつづけていた……「戦争に負けたのだ」と聞える人に知らされても、ろうあ者にはそのことすら知らされなかった。
事実を知りたい、真実を知りたい、人間として
「事実を知りたい、真実を知りたい、人間として。ろうあ、という障害があっても、みんなの力の中で育ち合ってゆくためには、学ばなければ、ということを知り「われわれは学ばなければならない」
というろうあ者の必死の運動と請願運動が行れる。
京都北部では、ろう学校をつくる運動が。
京都市内周辺においては、ろうあ者の生活と権利を守るろうあセンターをたてる運動が展開されて行く。
その運動が実って1952(昭和27)年京都府立盲学校舞鶴分校と京都府立聾学校舞鶴分校が同一敷地内につくられるようになる。そのため通称、京都府立舞鶴盲聾分校と呼ばれるようになった。
この時のろうあ者の喜びは計り知れないものがあった。もちろん、盲人の人々も同様であった。
戦争の苦しみの中から産み出された
学校をつぶしてはならないと、必死の取り組みが
ところが、1981(昭和56)年を前後して、この京都府立舞鶴盲聾分校の廃止の動きが強まり、その第一波として京都府立聾学校舞鶴分校の中学部の廃止が打ち出される。
この時、分校の保護者や教職員はもちろん、ろうあ協会も大反対の運動を展開した。
新校舎改築とひきかえに聾分校中学部の廃止
200㎞離れた本校に行けとは
京都府立舞鶴盲聾分校は「風がふけば窓が落ち、雨漏りのする危険極まりのない老朽校舎」になっていた。
そのため、父母をはじめ多くの先生方で「分校校舎改築推進委員会」が結成され、新校舎の建設にむけ陳情や請願などさまざまな運動が15年以上もねばり強くすすめられ、その間校舎の全面改築の請願が京都府議会で承認されてきた。
推進委員会の結成、その運動は障害児教育の一層の充実をねがう、京都北部をはじめ、広範な京都府民の共感を読んだ結果だった。
ところが、京都府教育委員会は、校舎改築とひきかえに聾分校中学部の廃止(100km~200㎞離れた本校への統合)を打ちだし、父母・先生たち、地域の多くの人々たちや地元府会議員の強い反対を押しぎって中学部廃止決定を強行した。
しかし、「せめて義務教育までは地元で」「障害児を地域の主人公として、中学部存続をの運動は長く続けられてきた。
その頃、京都府ろうあ協会のOさんが集会に集まった多くの人々に訴えた記録が残っている。
長くなるのがその一部を分割して掲載する。
Oさんが訴えた記録 その1
ろう学校に通っていたろうあ協会の役員が
ふるさとにもどりそこで見たものは
京都府立舞鶴盲聾分校は、戦後の平和憲法を生み出むた民主主義の高まりのなかで、1952(昭和27)年6月開校しました。
当時、ふるさとを遠くはなれ、京都市内で学ばねばならなかった何人かのろうあ協会の先輩は、卒業後、ふるさとにもどり、そこで義務教育からも見離され悲惨な状態におかれている聞こえない子供たちや同年齢の仲間たちの暮らしをつぶさに見、この京都北部の地に学ぶ場を作ろうと立ち上がりました。
「耳の聞こえないものは勉強しなければならない」そして「社会に貢献しなければならない」と。
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