Once upon a time 1969
MKさんは、ろう学校の疎開で学校に行けなくなり、ろう学校を中途で終らざるを得なかった。
そしてその後すぐ、「昭和20年3月13日、わすれもしない、大阪にB29がたくさんやってきて、爆撃をうけました。」と証言してくれた。
が、その時、MHさんが大阪空襲後の自分が歩いた光景を絵に書いたものを持参し、O君は、お父さんから聞いたB29(透明のビニール板の上に)と高射砲の炸裂する大阪の空を書いて一緒に参加してくれた。
紅蓮の炎が巻き上がる大阪の空にゆっくり飛ぶB52の編隊
MHさんの家は、大阪の東住吉区(模擬原子爆弾が投下されたすぐ近く)にあった。
空襲があるので、防空壕に避難していたが、外のことが気になって仕方がなかった。
そのため、防空壕にいる人の引き留めも聞かず、防空壕のすき間から、大阪の街を見た。
その時、大阪は夜。にもかかわらず街が、赤く赤く、燃え上がるのを見た。
そこをB299がゆっくりと編隊をくんで飛んでゆく。
5分か、3分ぐらいしてまた、そしてまた……とつぎからつぎへと編隊をくんで飛んでゆく。
として、O君が書いた紅蓮の炎が巻き上がる大阪の空の絵を示して、透明のナイロン板に描かれたB29の編隊の様子をビニール板を少しずつずらしながら、B29の編隊がゆっくり、ゆっくり飛ぶ様子を知らせてくれた。
B29からは数え切れない爆弾が落とされ、赤く赤く、真っ赤に燃え上がった大阪の空には火の粉がまいあがり、次第にそれがどんどんと広がり、ふくれ上がっていった。
翌朝、家のだれよりもまず早くおきて、防空壕から出て大阪の街をみると、大阪城が『ぐーん』と近づいてくる……。
『おかしいな……』と思って回りをみると、なんと今まで回りにあった家や建物がすべてなくなり、大阪城しか見えず、大阪城だけが残って、すぐそこ、に見えた。
手を合せておがむ顔には
とめどもない涙が
そこで大阪の阿倍野へ歩いて行った。
今まであった家々は燃えて平らになり、阿倍野から動物園、難波まで歩き回った。
たくさんの人が死んでたおれていた。
この情景は今もわすれることが出来ない。
多くの人が……横たわっている……赤ちゃん、妊娠している人、子供……黒こげになった死体。
それをみて、涙がとめどもなく流れた……。
一歩あるき、見た人が死んでいると手を合せておがみ、また一歩、と手を合せ、手を合せ、手を合せ、手を合せ続けて歩いた。
そして、必死に親類の家をさがしました。だが、全くわからない。
やむなく家へ帰ったのが、14歳のとき。
極貧生活 でも、ろう学校を卒業したい
そしてついに……8月15日。
ごはんを食べているとき、みんなは、食事の手をとめて、うつむき、ボロボロと涙をながしました。
お母さんが「戦争は終った」と言ったけれど戦争が終るなどとは全く知らなかった。
「まだまだ、戦争は終っていない」と言いつづけた。
その後、MHさんも向学心に燃え、なんどとなくろう学校へと思うが、極貧生活がそれを許さなかった。
そのため、働いて、働いて、お金を貯めて、再び、大阪のろう学校に入り、小学部5、6年まで、勉強し、卒業出来た。
その時、19歳だった。
戦争などは、二度とあってはならないと不屈の意志で
MHさんは、戦争で学習できなかった苦しみを、父親に字を教えてもらったりしながら自分で必死になって勉強したそうである。
「大阪空襲そればかりか戦争などは、二度とあってはならない」
と、その決意のもと戦後、労働運動に参加。
きびしい分裂攻撃、障害者を利用した悪らつな差別の中で、不屈の意志でつらぬきながら聞える人と連帯して統一と団結を勝ちとって来たことを笑顔で証言。
そして、大阪空襲の時の様子を戦争を全く知らず、ともすれば「これがほしい」「あれがほしい」「友だちが持っているから」と物質主義におち入りがちになるにではなく、平和運動の中に身を入れるべきだとO君に今までの人生を語り、O君はそれを聞いて、お父さんを心底信頼するようになり、お父さんの戦争体験を記録すると聞いて、お父さんから聞いた話をもとに絵を書いた。
戦争体験が、親から子供へ戦争体験が語り継がれることが出来ることを知ってなによりも喜んだのは、MHさんだった。
それから数年後、MHさんからO君の結婚招待状が届いた。
結婚相手は、K子さんだった。
結婚式当日、K子さんのお母さんにお祝いの言葉を述べたが、返事も、目を合わすこともされなかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿