Once upon a time 1969
Oさんが訴えた記録 その2
かけずりまわった舞鶴宮津、与謝、丹後、若狭
私たちの先輩は、毎日毎日自転車のペダルをこいで、今日は舞鶴、明日は宮津、与謝、丹後遠くは福井県の若狭までかけずりまわり、一軒一軒分校設立の署名を集めまわったのです。
(注:舞鶴から若狭方面は距離的に近く、ろうあ者との交流も深かった。分校が出来てから、福井県から旧国鉄で通学する生徒もいた。当時のろうあ者は、直線距離にして、20㎞から50㎞、道路事情の悪い中での道のりを計算してみても、遠いところで100㎞を越えている。それらを手分けして、署名を集めるのだから想像を絶する努力だったと言える。)
ろうあ者自身の手による「私塾鶴ろうあ塾」を開設
門口に立って、聞こえないとわかっただけで署名用紙を見せる間もなく、塩をふりかけられ、追っぱらわれるということも再三。
それにもくじけず、ついに地域の民主主義の結晶としての500人もの署名をあつめ、さらに、当時の京都府議会、舞鶴市議会にも働きかけるなど、精力的に活動を展開したのです。
あわせて、自ら私塾「舞鶴ろうあ塾」を開設するなど、足かけ4年の寝食を忘れた闘いは、ついに1952(昭和27)年6月、自らの力で自らの学び舎を生み出したのでした。
ううあ協会を作ろうと活動をはじめたら
150人もの聞こえない子供や
私と同じくらいの聞こえない人々が
勉強もできないまま放ったらかしにされていた
分校の誕生。
それは直接的には、北部における障害児の教育権、学校権の保障を意味します。
しかし、この運動にかけずりまわった先輩は、しみじみと語っています。
「私は、勉強するために、生まれ育ったふるさとから出なければならなかった。30歳になって、舞鶴に帰ってきた。
舞丹ろうあ協会を作ろうと活動をはじめた。
そしたら150人もの聞こえない子供や、私と同じくらいの聞こえない人々が勉強もできないまま放ったらかしにされている。
この町に学校を作らなければ、ろうあ者は、この舞鶴で、丹後で人間として暮らして
いくことは出来ない」
聞こえる人と共に暮らしてゆける地域にしなければ
4年もの歳月を分校作りにかけずりまわった先輩の心の底には、
「ろうあ者も人間だ。勉強しなければならないのだ。そして、このふるさとで暮らしてゆけるようにしなければならないのだ。聞こえる人と共に暮らしてゆける地域にしなければならないのだ」
との、すばらしい地域論が脈々と流れていたに違いありません。
分校づくりは、もう一つ、民主的な地域づくりという意味を持っていたのです。
500名もの署名。
それはとりもなおさず障害児者と共に生きる。
共に育ち合う地域づくりとの崇高な願いへの共鳴に他ならないと思うのです。
この精神は、同時に1949(昭和24)年以来の与謝の海養護学校づくりの10年にわたる運動にも生かされ、さらに今、分校中学部を守り発展させようという運動に引きつがれているのです。
Oさんの失聴で失ったものは
さて、私が生まれ育ったのは、牛がのろのろとうんこをしながら、その後に追いついたオンボロバスが、これも道の狭さに追いこせず、とうとうエンコしてしまう。そんなのどかな田舎でした。
よく遊びました。
鬼ごっこ、かくれんぼ、メンコにビー玉、石けりにカンけり、チャンバラごっこに探検ごっこ……。近所の子供たちにかこまれて楽しかったあの遠い日々が、今でもかすかに思い出されます。
ところが小学3年生の終わり頃、先生が言ったのと違うページを読んでは皆に笑われる。あてられもしないのに立ちあがる。
またドッーと友達が笑う。
先生も友だちも、そして私自身耳がおかしいと思い、母に連れられて病院へ行くことになります。
医者は「扁桃腺のところを切れば、もとのようによく聞こえますよ」と言ったそうです。
近代的な手術室もない普通の外来診察室の椅子に手足をしばられ目かくしされた格好は、電気椅子にすわらされた心地でした。
それから、のどに赤チンを一杯つけてのどをしびれさせての手術。
1時間程も続いたでしょうか、ひたすら耐えて、1日入院して帰宅。
耳が聞こえなくなって一番の「地獄」は
けれど、やはり先生の話も友達の話も、はっきりききわけられず、それどころか日に日に聞きにくくなる一方でした。
それは、かつて悪ガキどもにかこまれて得意の絶頂になって遊びまわっていた私が一歩一歩地獄の奈落につき落とされてゆく日々でもありました。
何が地獄だったでしょうか。
テストの答案が10点、20点でつき返されてくる事。
そんな事は先生の授業が聞こえないからとひらき直ることで気持をごまかすことができます。
かつて遊びまわった友達と話し一つ出来なくなった事。
これも一人本を読むことで、どうにか心なぐさめられます。
しかし、登校途中の私の役目。
それはカバン持ち。学校につけばカバンの中の点検。検便の日、マッチ箱をぶらさげて行くのが私の役目。
こういう自分の姿ほど、つらかったことはありません。
先生からも
「キョロキョロガサガサやめなさい、君は聞こえないから先生の話がわからないのは、わかっている。しかし学校は君一人のためにあるのではありません、少しは静かにしていなさい」
と言われるにおよんで、私は生きていることすら苦痛でなりませんでした。
今から25年も前です。
障害児教育とか、障害者問題とか、そんな言語も私の住んでいるところでは交されることがありません。
奴隷みたいな姿に何一つ抗議できず
逃げるしかなかった自分の姿
私にとって、何よりもやりきれなかったのは、そんな奴隷みたいな姿に何一つ抗議できず、逃げるしかなかった自分の姿そのものでした。
石を雨アラレのように投げつけられても、それでも何一つ人間的な叫びをあげられない自分の姿でした。
中学卒業後は、人から笑われもせず、石も投げられない一人で働ける百姓が向いているとだけしか考えられない自分に対してでした。
何という、いじけた、つまらない人間だったでしょうか。
この私の姿こそ、小学3年から中学生にかけての私への教育の到達点ではなかったかと思うのです。
しかし地獄にも仏と言います。
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