Once upon a time 1969
A先生の文章はもっと長いが、現在の状況を考えるために少し掲載させていただく。
なお、これまで書いてきた、手話や手話通訳のことについては、現在テレビなどで見られる手話や手話通訳とまったくと言っていいくらい違う。
このことを説明すると長くなるので、ろうあ者の人たちねがいや取り組みを1969年や1970年代初頭がら考えてみたい。
すりかえられる住民や親のねがい
1970年11月に「すべての子どもは 教育をうける権利がある」その3
たしかに障害児を持っている親たちは学校を建てて欲しいという要求はもっていますし、ある一定の運動はどこでもしています。
ところがその学校ができた段階で完全にすりかえられてしまっております。
住民の要求、親の要求は、学校ができあがった段階でとりかえられてしまっているのです。
要求を受けとめた形で学校が、今度は子どもたちを選択する
要求を受けとめた形で学校が、今度は子どもたちを選択していく。
そういう形になっています。
私たちの養護学校では、そういう意味で学校作りはこれから(注;1970年から)が本番だと考えています。
親たちの子どもを学校に入れてくださいという要求に応えて学校が建った。
ところがこの学校はIQ45以下は入れませんという。
子どもの学校にならない、住民の学校にならないというわけです。
この子どもを学校に入れて下さいという入学申請書運動
だから、私たちはこの運動の中で、「申請書運動」というのにとり組みました。
これは入学申請書運動なのです。
学校を建てることを知事が約束した段階で、親たちは、うちの子どもはこれこれこういう障害を持っている子どもです。
寝たままの子どもです。
ことばがいえない子どもです。
この子どもを学校に入れて下さいという入学申請書を親たちが、どつと出してきました。
それも、これまで運動に参加していた親たらがそのことをやつたというだけでなくて、その入学申請書を出す運動を地域でやったわけなんです。
とくに、宮津の親の会の人たちが中心になって、舞鶴までも二晩も三晩もまいりましたし、久美浜、網野と各町ごとにまわって行って、そこで、その地域の学校へ行ってない子ども、就学猶予・免除で在家庭の子どものお父さんお母さんがたを集め、みなさんも一緒に学校へ入れてもらえるように申請書を書いてくださいという話し合いをやったわけです。
うちの子どもも入れてもらえるような
そんな学校がができるんですか
だけどさきほどいいましたように、そういう親たちは、これまであらゆるところへ行っております。
そしてどこへ行ってもみなシャットアウトされているのです。
だから、もうこの子どもは私が見てやるよりほかに誰も見てくれるものがない。
この子どもにしてやれる最大のことは、いくらお金をこの子どものために残してやるかということが最大の仕事なんだというように追いこめられているわけですね。
だからそういう話しかけをしていっても一回や二回でそうですかという話にはならないのです。
何しに来やはったんですかと、第一回は完全に門前払いですね。二回、三回行ってはじめて、そんなことがあるんですかという話になるのです。
うちの子どもも入れてもらえるような、そんなところができるんですかという話になるわけです。
しかも、それが学校ですよという話になつてきたら、そんな学校があるんですかということになります。
だから、親たちの会の人たちが中心になって、私たちは今日までこういう考え方で、こういう学校を建ててくれという運動を続けてきた。
そして今学校が建とうとしているのだ。
その学校をどういうふうな学校にして行くかということは、私たちの要求で作り上げて行くんです。
だから、みなさんも一緒にやろうじやありませんか。
そんなら、うらの子どもも人れてくれますか。
あなたの子どもの入れる学校を作ろうじやありませんか
今入れてくれますかじゃなしに、あなたの子どもの入れる学校を作ろうじやありませんかということで地域をずうっと組織していきました。
そして、先ほどいいましたように、50数名の就学猶予・免除の子どもたちが、ずうっとそこに結集されてくるわけなのです。
児童相談所は在家庭の子どもたちの名簿をもつています。
どこかの施設に入れてほしいというものの名簿を待機ケースという形でもつているのです。
ところが、どこかの施設に入れようと思っても、その施設に空席ができなければ入れない。
だから待機ヶースというのですが、待っているだけなんですね。
舞鶴の児童相談所の場合40数ケースを名簿としてもっていました。与謝の海養護学校
ができた途端に3ケースか4ケースぐらいしか手持ちケースがないというようになりました。
学校の存在が難しくなる難問をみんなの力で
そして今、問題はいろいろありますが、少くとも学校に来ることができたということで
一学期間終ったわけです。
この一学期間の中でも、6月の始めに寄宿舎の寮母から問題があがってきました。(以下略)
次から次へと出てくる「絶望と言っていいような事態」を与謝の海養護学校は一つひとつ乗り越えられていく。
教育は免除としながら、絶対免除しなかったこと
私はたちは、この取り組みに大いに励まされたし、ろうあ者もろうあ協会も共に与謝の海養護学校をつくる運動と連帯していく。
さて、1970年11月に「すべての子どもは 教育をうける権利がある」というテーマでA先生が講演された中で、
「就学猶予・免除」という制度があります。
これは、特に身体的な事情であるとか、知恵が著るしく遅れているというような子どもは学校にやらなくてよろしいというふうな制度なんです。われわれはこれには基本的に反対しつづけて来ました。
「就学猶予・免除」というのは、結局教育をしても、一定の戦力と(兵隊)してつかえない、あるいは、一定の生産力として、利用できない、そういう子どもたちは、教育の対象ではないという考え方が、明治以来、ずーとあつたわけです。
という文章がある。
すべての子どもが教育が保障されなかっい時代。
だが、男性の場合どんな障害があっても絶対受けさせられたことがあった。
それは「徴兵検査」であった。
そのことを多くのろうあ者から聞いたので、次から書いて行きたい。
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