2013年12月6日金曜日

インテグレーション  子どもが笑顔を取り戻す教育

 
 
   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 5 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


            お互いよそよそしい関係

 話し合いは、親の家で行われた。
 話し合いの時間がかかるので、親は、聴覚障害の子を連れて集まっていた。
 ろう学校幼稚部の先生は、親の話に参加する一方で手分けをして子どもたちと時間を過ごすようにした。

 ところが、ろう学校にいた頃は、子どもたちはまとまって遊んでいたのに、それぞれ違った小学校に入ったことでお互いよそよそしい関係になって、話し合うこともしなかった。

 幼稚部の子どもたちは自分たち同士で遊ぶ。

 普通小学校に行った子どもたちは、幼稚部時代と違ってまったく知らんぷり。
 めいめいが、自分だけの世界に入り込んでいるようだった。特に親しかった子ども同士でも。

 幼稚部の先生たちは、まずそのことに驚いた。
 

  花いちもんめ が知らせてくれた

 
 そこで、先生たちは親の話しの合間に子どもたちを二手に分けて遊ぶ「花いちもんめ」の遊びをすることを子どもたちに提案した。

 子どもたちは、賛成したが、
 

 「か~ってうれしいはないちもんめ」
 「まけ~てくやしいはないちもんめ」。
 「あの子が欲しい」
 「 あの子じゃわからん」

 はじめのうちは歌はそろわない。

 あの子が欲しい、とこの子が欲しいと、言うことがなかなか出来なかった。


  自分の気持ちを相手に伝える
        相手の気持ちを受けとめる

 ようするに子たちは、自分の気持ちを相手に伝える、相手の気持ちを受けとめることができなかったのである。

 粘り強く「はないちもんめ」を繰り返していくと、次第に子どもたちの声がそろい、歌と足拍手、が合うようになり、子どもたちの喜びの輪が広がっていった。

 さらに「イスとり遊び」「壁新聞づくり」などをする中で、聴覚障害の子どもたち同士の思いやりや助け合いが生まれだしてきた。
 そして、そういう取り組みをするために中心になって聴覚障害の子どもたちに呼びかけ、遊びの輪の中に入れるようにする子どもも出て来た。

 いつしか、各学校にバラバラに通っていた聴覚障害の子どもたちが、1週間に一度集まり、話したり、遊んだりするようになって行った。

  どうしても必要   聴覚障害児の子どもたち同士の友だち


 この取り組みに参加していたろう学校幼稚部の先生の中から、聴覚障害の子どもたちは、ひとりぼっち、では自分の気持ちを出すことはできないばかりか相手の気持ちを受けとめられなくなってしまうことに気がついた。

 さらに、聴覚障害の子どもたちには、健聴児の子どもたちの友だちも必要だが、聴覚障害児の子どもたち同士の友だちがどうしても必要だ、と確信するようになっていった。

                                                            ( つづく )

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2013年12月5日木曜日

インテグレーション  一番大切なことをわすれてる


   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 4 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   経済的困窮がますますひどくなったが……

 ろう学校幼稚部の教育は、親の付き添いが絶対条件であった。

 経済的に困難を抱えている家庭では、両親が働いていてもどちらか一方が辞めざるを得なかった。
 そのためますます経済的困難にさらに経済的困難が追い打ちをかけたが、子どもたちのためにと必死になって生活してきた。


 小学校に入ると、なんとか時間がとれるのではないかと考えていた。
 でも、ろう学校幼稚部の先生のアフターがなくなるとどうなるのか、幼稚部の親も普通小学校に入学していた親も途方にくれる。

  困ったらいつでもというねがいが……

 困ったらいつでも相談できるところがほしい。

 そういう教育相談所設置願いを望むようになっていった。
 ところが、強固に京都市教育委員会から「設置ができない」と言われた。

 考えあぐねたあげく親の中から京都府下で行われている通級制の難聴学級(聴力の制限はなかった。)を作ってほしい、聞こえの教室を作って欲しい、と要求するようになっていった。

  くり返し、くり返し話し合う中で

 それでも京都市教育委員会は、話し合ってもかたくなに通級制の難聴学級の設置を受け入れなかった。
 聴覚障害児の親の中で何度も何度も話し合いが繰り返されてきた。

その話し合いの中で、

 普通小学校通っていると、発語がだんだん崩れてくる。


 発音指導なんとか京都市教育委員会のとしてやってもらいたい。

 でも、発音指導だけ子どもたちに保障してやればいいのだろうか。

 大きな集団の中に入れてやったことが、聴覚障害児にとって、良い言語環境と なっていると言い切れるだろうか。

 大きい集団に入って、健聴児の友だちが出来たら、聴覚障害児の友だちはもう いらないということになるのだろうか。

  何が一番大切で必要なことなのだろうか
   そのことが忘れられているのでは

 先生や友だちの話の20%ぐらいしか判読出来ないのに教科学習について行けていると言えるだろうか。

 ついていけない教科は、家庭で親がしたり、家庭教師を頼んだりしているのだが、それで良いのだろうか。

 受け入れ体制が充分でない場合は、子どもは学校の中やクラスの中にきちんと学校生活が出来ているとは言えないのではないか。

などなどの反芻した意見が聴覚障害児の親の中から出され、討論し合う中で本当に聴覚障害の自分の子どもにとって何が一番大切で必要なことなのだろうか、そのことが忘れられているのではないか、という話になっていった。

  子どもの眼に投影された 親の話し合いや行動が

 これらの話し合いは、聴覚障害児の親の家に集まって話し合われた。

 話し合いが夜遅くまでされ、ときには明け方4時ごろになることもしばしばあった。
 しかし、話し合えば話し合おうほど聴覚障害児の親の団結は強まり、さらに他の親の中に話が広がった。

 この親の取り組みは、その後の子どもたちや教師たちに大きな影響を与えた。

 真剣に自分のことを考えてくれている親。考えるだけでなく行動する親。
 

 聴覚障害児の子どもたちにも教師たちにもその姿が、次第に「見える存在」として映し出されていった。

                                                                                             ( つづく )


 

インテグレーション 教育はだれが責任を持つの



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 3 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 卒業後のアフタ-ケアの複雑ないきさつ

 1960年代末から1970年代にかけてろう学校幼稚部では、言語力を持ってもっと大きな集団である地域の普通小学校通学することで社会性を身につける手段としてとらえていた。

 かんじんな教科指導については親が責任を持つ。
 しかし、発音指導は、課題が残ったので「歪みや」「正しい発語」のため教師が何らかの形でアフターケアをするということになっていた。

 このアフターケアを良心的に行う教師。
 アフターケアーの名の下に金銭や物そのた教師の私生活に対する「親からのお礼」も横行していた。
 これらのことは、ろう学校ではタブーでありながら半ば公然と行われる「慣習」があり、新採用の教師は激しい憤りさえ感じていた。
 ところが、朱に交われば赤くなるというようにそれがあたりまえのような感覚に陥る雰囲気に次第に呑み込まれてしまう傾向も少なくなかった。

  進学先の学校の発音指導はしてはならないという現実

 さまざまないきさつから1973年3月からろう学校幼稚部卒業の子どもについては、進学先の学校の発音指導はしてはならないということになった。
 これはある意味では当然のことであった。


 責任の持つべき生徒たちでない生徒に対して、教育委員会の所管外の学校に教師が関わることは問題があったからである。

 現在、特別支援教育という名目で教育委員会の所管外の学校に教師が関わることが、公然と行われているが、その責任の所在はあいまいで、問題が生じる度に教師個人の責任とされ「自殺」に追い込まれていることがあまりにも多くなっている。

 制度はつくっても責任は持たない教育行政の姿勢は、現在に至っても改善されていないのである。

  難聴児教育相談所設置のねがい


 ろう学校幼稚部を卒業した生徒のほとんどは、京都市内であった。

 
 ところが、京都市教育委員会は、京都市内は固定制難聴学級を作っていた。
 ろう学校幼稚部から来た生徒は、固定制難聴学級でないと指導しないと京都市教育委員会は、頑固な方針であった。

 そのため各行政区に点在している小学校に入学している聴覚障害児は、アフターを受けることが全くできなくなった。

 そこで、聴覚障害児の親は、京都市教育委員会に「難聴児教育相談所設置」のねがいを出した。

 しかし、京都市教育委員会はそれをまったく受け付けなかった。
 今まで陳情や請願など行政にたして要求いた経験のない聴覚障害児の行動を起こした。
 

何も知りません、というのではあまりにも無責任

 その取り組みにろう学校幼稚部の教師たちも参加しはじめて行った。

 幼稚部を卒業したから私たちは、何も知りません、というのではあまりにも無責任だという気持ちからだった。

 聴覚障害児の親が、

 聴覚に障害を持ったわが子になんとか「ことば」を話させてやりたい、と幼稚部3年間を必死で朝・昼・晩もおかまいなしにはなしかけた。
 バスの中。
 買い物。
 どんな時にも、子どもに話しかけ、ことばを教え続けてきた。

 そんな気持ちを無にしていいのか、という気持ちがろう学校幼稚部の先生からうまれてきた。
                                                   ( つづく )