Once upon a time 1969
(解説) 手話通訳者が、どの場所で手話通訳するかで、ろうあ者の基本的人権がどのように守られているか、どうか、ということが分かる場合がしばしばある。
特に、議会の傍聴席で手話通訳が行われたらろうあ者は、議場全体の状況が分からないまま、手話通訳を見ることになる。
従って、議場の真ん中。
すなわち質問、答弁の行われる横で手話通訳が行われた場合、議場全体の様子と話されていることがリアルに分かることになる。
手話通訳者がどの位置で手話通訳するか、どうか、
はろうあ者に対する基本的人権保障の目安
後に述べる選挙における立ち会い演説会(現在はなくなったが)の場合も、手話通訳者の位置とろうあ者がそれを見る位置は、手話通訳保障の点でもきわめて重要な意味を持つ。
しかし、議会の議場は、議会運営上や「要人」が多数居る関係などさまざまな制限があり、手話通釈者は議場には入れないことが現在でもある。
多くの人に知られた長崎の平和祈念式でろうあ者の山崎さんが演壇に立ち、手話で語ったことは、長崎の人々の言い尽くせない努力の結果であった。
しかし、あの祈念集会での手話通訳保障は一度きりにさせられ、手話通訳者が演壇に立ち、被爆ろうあ者や参列しているろうあ者の手話通訳保障が今だ行われていない、ということを知り人々はあまりにも少ない。
だが、1966年に京都府議会では議場の中で手話通訳が行われた。
1966(昭和41)年12月21日京都府議会本会議 ( その2 )
京都の二千人のろうあ者にたつた二人の手話通訳者
ろうあ協会は創立されて、今年で十年になります。
事務所は、ろうあ学校内という事になっておりますけれども、事務室もありません。
西田先生や中西先生の教室が事務所という事になっております。専従者もおりません。
今、ここで通訳して頂いております向野先生は、福祉センターで課長をやっておられます。
日本で有数な通訳の一人です。
この京都に二千人のろうあ者がおり、協会の会員が六百人おりますけれども、通訳はたった二人です。
この現状を皆さんはどう思います?
ろうあ者に対する補助金行政の京都府
今日までのろうあ者に対する京都府の行政というのは、一口で言いますと、補助金行政です。
これはろうあ者だけじゃないです。
盲目の人に対しても、肢体不自由(児)の人に対しても、身体障害者に対する府の行政というのは、メッセージを贈ることと、補助金を流す事だけです。
この事が、さらにこのまま続けられていいでしょうか。
ろうあ者の人々は耳もききこえないし、ものも言えない。
電話をかけることもできません。
バイクに乗る事もできない。
今日たくさんの方がこうやって傍聴に見えておるのも、一人一人が電車に乗って、バスに乗って、連絡し、さそいあわせて見えてています。
郡部からも見えております。
地方事務所に行かれても、通訳、いないでしょう。
選挙権もありながら、投票場へ行ってどういう扱いを受けるのですか、その意味では、異国の人と全く変わらない実情です。
ろうあ者の結婚の問題、就職の問題、将来の問題、いろいろな事が個宅に持ち込まれている
あるいは、ろうあ者の方々は云います。
子供が病気の時に一番困るのは、病院に行って自分の気持ちがお医者さんに通じない事だ、もし、子供に間違った注射をされたら一体どうなるか…、この事が心配でたまらない、こう云っております。
自主的な、自立的な生活が出来ない状態、しかし、基本的な人権というものは厳として存在しております。
しかも今日、福祉センターがありますが、この福祉センターも、ろうあ者にとってはほとんど無縁です。
つまり訓練が中心になっておりますから。
ろうあ者の人々は、昼も夜も、この向野先生の所へ行きます。
二人の中の一人の通訳の先生です。
自分の気持の通ずる先生は、向野先生をおいてないんですから。
勤務中でも向野先生をたずねて行きます。
夜、自宅に帰っても、向野先生の家はろうあ者で一杯であります。
そこで、結婚の問題、就職の問題、将来の問題、いろいろな事が話をされ、向野先生はその相談にのっているんです。
一人のろうあ者に一人の手話通訳の制度を
しかし今日、福祉センターの機構は、その様になっておりません。
向野先生のしている仕事は、これは役所で云いますと、規定以外の事をやっているという事になります。
ですから、ろうあ者の皆さんは、一人のろうあ者に一人の通訳を養成してもらいたい、これを制度化してもらいたい。
ー役所というのは問題を持ち込みますと、すぐ、法律がどうだとか、規則がどうだとか、条例がどうだとか言います。制度が出来てないという事を云います。
しかし、制度がなければ作ればいいじゃないですか、なぜこのろうあ者に対する通訳養成の制度化が遅れているのか。
もちろん、一人のろうあ者に一人の通訳をつけるのには、若干の日時を要するでしょう。
しかし、さしあたり出来る事は、府の地方事務所や、あるいは、民生安定所等は、当然ろうあ者を配置すべきです。
そうして相談を、生活相談を受ける体制を確立する事が緊急の問題であると思います。
ろうあ者が持っている能力を最大限に引き出し、そして、一人一人の基本的な権利をとことんまで守りぬくことを
非常に差別が行なわれております。
ろうあ者は無能だ、能力がないという事が云われて、社会的にも排除され、就職がらも除外されておりますけれども、ろうあ協会の会長をしておられる高田さんは、京都市の一級建築士です。
それで職場の人々と手まねで会話をしながら勤務をしておられます。
身体障害者の雇用促進法というのがあります。
ー私は法律は嫌いですけれども、府の諸君は、理事者が、口をひらけば法律法律と云いますから申し上げましょうー。
その法律の中には、身体障害者の採用に関する計画を作制しなけりゃならんと、国や地方自治体は計画を作れという事が出ております。
一体そういう計画がありますか。
まず、京都府においてろうあ者を採用してはどうですか?
京都においてはわずかに一名しかろうあ者が採用されておりません。
そして今日、向野先生の家が、ろうあ者にとっての、唯一のセンターになっております。
なぜ、センターを作らないんでしょうか。
センターを作るまでさしあたりは、勤労会館や職員会館、あるいは婦人会館を利用さして頂きたいというのが、皆さん方の要求です。
ろうあ者が持っている能力を最大限に引き出し、そして、一人一人の基本的な権利をとことんまで守りぬくという事が私たちのつとめであるし、これの障害になる一さいの制度、あるいは障害になる人がおるならばそれを乗りこえていくべきだと私は思います。
Once upon a time 1969
未就学のろうあ者も含めたろうあ者も含めて京都のろうあ者の悲惨な生活を大きく変えていく取り組みの胎動は、1969年にあった。
そして、それから急速にろうあ者運動は発展して行くことになる。
旧府議会本会議場で見上げた傍聴席
2011年6月以降。私は久しぶりに京都府議会図書館を何度も訪れ、1960年代から1980年代にかけての京都の障害児教育が、府議会本会議でどのようにとり上げられたかを調べに行った。
議事録は公開されていたが、そのコピー代は情報開示の事務局に支払わなければならないという煩わしさがあった。
しかし、この事務局は、旧京都府議会議事場にあり、手入れはまったくされていないが昔の立派な府議会議事場の面影を残していた。
そして、45年前にこの議事場で、京都のろうあ者問題の重要な転機になる出来事があったことを沸々と思いだし、手話通訳者はここに立って、手話通訳した。
傍聴席は、二階に有ったからろうあ者から十分見渡せた、と思うと感無量になった。
もちろんその時は、私は居ないかったが、ろうあ者から何度も何度も聞かされていたので二階の傍聴席をしばらく見上げて佇んでしまった。
日本最初にろうあ者問題がとりあげられたのは
1962(昭和32)年7月10日福島県議会本会議
議会で、日本最初にろうあ者問題がとりあげられたのは、1962(昭和32)年7月10日福島県議会本会議であり、京都はそれから4年おくれた1966(昭和41)年12月21日であった。
しかし、京都において初めてろうあ者問題が府議会本会議でとりあげられた点で歴史的な出来事であり、京都のろうあ者の生活を大きく変え、ろうあ者福祉を前進させた画期的な出来事であったので、少し長くなるが府議会本会議の議事録からろうあ者に関わる部分のみ紹介させていただく。
なお、解りにくい所もあるので(解説)を書かせていただく。
なお、読みやすくするため改行と見出しなどを入れたが、京都府議会本会議議事録にはそういったものはない。だだ、文章は議事録をそのまま掲載した。
府議会本会議場の発言議員席の横に手話通訳が立ち傍聴席
にいるろうあ者が本会議場すべてを見渡せるようにされた
1966(昭和41)年12月21日京都府議会本会議 ( その1 )
灘井五郎府議質問
今日この傍聴席にろうあ者の人々がーおそらく府議会始って初めてだと思いますがー傍聴席に見えております。
ろうあ協会から三つの要請が議長あてに行なわれました。
つまり
。本会議を傍聴さしてもらいたい。
。福祉センターの向野先生を通訳として使ってもらいたい。
。向野先生を本会議場において通訳をしてもらいたい。
この三点の要求が出ておりました。
これは、きわめて基本的な問題であり、いろいろな論議はありましたけれども、府会の幹事会においてこのことが採用されましたことを、まず私は評価をしておきたいと思います。
つまり、ろうあ者の社会復帰であるとか、あるいは、リハビリーテーションであるとかいうことばが言われておる訳でありますが、社会復帰というのは、単に、社会の片すみにおくといことではなしに、一人一人のろうあ者の基本的な権利をとことんまで守るということが、リハビリーテーションの本質であろうと私は思います。
ところが、今日までの京都府のろうあ者に対する行政は一体どうなっておりましたか。 二千人余りのろうあ者が京都におられます。
ものが言えない、耳がきこえないという状態で、その人々が今日求めているのは、
一人のろうあ者に対して一人の通訳を要求しております。
これは当然のことであります。
就職の問題にしても、結婚の問題にしても、あらゆる生活相談の問題が、通訳を経ずして自分の意志が伝わらない、歌を歌うこともできないし、ものを言うことがでぎないというこの人々に対する京都府の行政は一体どうなっておりますか。
己の問題として始めから終りまでしっかり聞いて
ええかっこしいはやめて
私が今日、ここで問題にしようと思っておりますのは、
○ろうあ者の問題
○吃音者つまりどもりの人々
○原爆被災者の問題
○サリドマイドの問題
○府立医大の問題
この五つの問題を、私は理事者側に質問いたしますけれども、あらかじめはっきり、ここに らっしゃる知事をはじめすべての理事者に申し上げておきます。
これは民生労働部の事であるとか、あるいは総務部の事であるとか、あるいは所管が違う企固管理部のことであるとか、衛生部のことであるというふうな理解のし方をしてもらっては困ります。
一人一人の理事者が己の問題として始めから終りまでしっかり聞いてください。
そうして知事をはじめすべての理事者が、私が今日おたずねする五つの問題について自ら責任を持ち、自ら解決をしていくという立場に立って答弁をして頂きたいと思うのです。
ええかっこしいはやめてもらいます。
口先だけの事は止めてもらいます。
このことを私はます申し上げておきたいと思うんです。
Once upon a time 1969
ある日のこと。
相談員Oさんと同行して京都府下南部の小さな家を訪ねた。
現在では見られなくなった南部の広い農村地帯。稲穂のなびくたんぼ道をOさんと探しあぐねて、ある集落にたどり着いた。
そして、その集落から少し離れた所にポッンと存在しているある小さな家を訪ね、家に入ったとたん、サーッと人影が消えた。
あらゆる責任が
その子を産んだ母親の細身に投げつけられていた
お母さんが出てきて話が始まった。
お母さんと娘の二人暮らし。
周りの家々との交流はほとんどない。
いや閉ざされていた。
聞こえないというだけでも肩身が狭いのに娘は、まともでない。身の回りも充分出来ないままお母さんは年老い、娘も年老いた、これから先のことは考えるすべもない、とお母さんは言う。
そのことばの重み。
もちろん娘さんは「未就学」だった。
生まれてこの方ほとんど家を出ることはなかったと言う。
就学免除が生きていた時代。
あらゆる事の責任がその子を産んだ母親の細身に投げつけられていた。
「なにも出来ないのか」「こんなことで人生が終わっていいのか」「人間としての可能性がある」 「家だけの人生でお母さんが死んだら、娘さんは餓死するしかない」
しばらくして恐る恐る顔を出した娘さんの顔は幼さの中に老いが混在して現れていた。
お母さんは年老い、娘も年老いた、これから先のことは考えるすべもない、とお母さんの「ことば」を胸にOさんと私はもうすぐ残されるであろう娘さんの状況を少しでも改善するために、自分の家以外にも家がある、人々がいる、社会がある。
そして「なかま」であるろうあ者がいることを知ってもらい、娘さんの未来を切り拓く道筋を探し求めてOさんと奔走したが為すすべもなかった。
「なにも出来ないのか」「こんなことで人生が終わっていいのか」「人間としての可能性がある」「家だけの人生でお母さんが死んだら、娘さんは餓死するしかない」
役所にあたっても、施設にあたっても、さまざまなところを探しても「ない」「ない」ずくめだった。
このような問題に出会う度、Oさんと共に心の奥底にどっしりした重さを共有した。
それから数え切れないほどの時間のみが過ぎ去っていった。
ある時、綾部にある聴覚障害者の施設いこいの村を訪れる機会があり、廊下を歩いていると忘れることの出来ない娘さんに出会った。
昔の面影は残しながも表情は生き生きしていた。
聞けば、いこいの村が出来て真っ先に入所したとのこと。
薄暗い家にじっとして人が来るとおびえていた面影はもうまったく見られなった。
人とのコミュニケーションがとれるようになって手話も、読み書きも、自分の身の周りのことも少しずつ出来るようになってきていると指導員は言う。
いこいの村では、施設に入った聴覚障害者を「なかま」と呼び合うことも聞いた。
なかま、あの「娘さん」にもなかまが出来たのだ、人間の発達の可能性と推し量れない無限性を実感した。
不可能を
可能にしたことの喜びの共感
その聴覚障害者の施設いこいの村の所長はOさんだった。
さっそく出会ってOさんと話をした。
Oさんはにこにこして[
「出会ったやろうあのなかま」とすぐ言ってきた。
「この施設が出来て、いの一番にあのことを思いだして、……」
Oさんの話には喜びが溢れていた。もちろん私にも。
「例の娘さん」は、いこいの村に入って次から次へと「とても不可能だ」と思われてきたことを可能にした。
具体的に例をあげながらOさんは説明してくれたが、それは信じがたいことであった。
Oさんも信じがたかったと言う。
どのような障害であっても
人間としての共通の発達のすじみちを通って自己を実現していく
私は故田中昌人氏の1960年代以前から実証を重ね1960年代初頭に発表した、
「障害のタイプによって発達のすじみちがちがうのではない。どのような障害であっても人間としての共通の発達のすじみちを通って自己を実現していく。このすじみちは偉大な学者といえどもとびこすことはできない。
別のすじみちを通ることもない。
どんな障害をもっている人でもこのすじみちの中にある。
あなたも障害児の発達のすじみちを通ってきたのである。
ここで大切なことは人間はすべて同じ道を通っているのだということである。
つぎに大切なことは、同じ道を通るのだが、その人あるいはその人をめぐる諸条件によって、人間はだれしも、その道のどこかの曲がり角などで一休みしたり、もつれてとどまったりするのだということである。」
と言う言葉と意味をかみ続けた。
詳しくは、教育と労働安全衛生と福祉の事実(Google)11月
エピローグ 滋賀大学教育学部窪島務氏へ の項参照。
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Once upon a time 1969
純に生きる。
聾学校中学部卒のE君がバイクにはねられて交通事故に遭った。
入院、治療と事態は進んだけれど、加害者からの保障は皆無であった。
そのためE君のお母さんは困り果た。医療費が過大な負担になっていたからである。
そこでこの問題の解決のためE君の家を訪れた。
雨風を防ぐだけの家をすり抜けてたどり着く
E君の家は、モルタルづくりの家が重なるように造られた家々の隙間を横になって縫うようにすすんでいかないとたどり着けない場所にあった。
密集した家、というよりは雨風を防ぐために建築資材の廃材でつなぎ合わせたような家々が、上へ上へと積まれている。その一階部分にE君の4畳半ばかりの部屋があった。
出迎えてくれたお母さんは、非常に喜んでともかく「おおきに」「おおきに」を繰り返した。E君はまだ入院していた。
事故の補償は福祉事務所は関知しない、と言うが
E君の家庭は非常に複雑で、Eさん宅を揶揄する人々は少なくなかった。
E君には父親もいなし、ろう者の兄とお母さんの3人が住む狭い部屋。
お母さんは、「日雇い労働者」(当時)で、仕事もほとんどなかった。
そのため生活保護を受けていたが、福祉事務所は、「事故の補償は事故保険が適用されるので福祉事務所は関知しない」という態度がとられていたためお母さんはどうしたらいいのか困り果てていた。
E君の加害者は、バイクは無保険。自賠責の保険が有効期間が過ぎても保険料を支払っていなかった。
お母さんの「ええ、あそこの」「いつって」の話から解ったこと
E君の貧困な家庭に「莫大な入院の治療費」がかかってきた。
そこでお母さんとどのようにしてこのことを解決するのかという事を話し合ったのだが、話のとっかかりから暗礁に乗り上げた。
E君の事故の様子や問題の解決のために1,いつ。2,どこで。3,どんな事故がおきたのか。4,加害者はどんなことを言っていたのか。5,どんな約束をしたのか。
を聞き出そうとするが、お母さんは、「ええ、あそこの」「いつって」を繰り替えした。
「ええっ……」と返事するばかりのお母さんによくよく聞いてみると学校にはまったく行ってないし、読み書きはまったく出来ないと言うことが解った。
学校に行きたかったけれど行かせてもらえないほどの貧困生活。
だれの子ともうまく言えないお母さんは、せめて二人の聞こえない息子をろう学校に入れてやりたいと必死になって生きてきた。
でも、カレンダーも読めない。いつ、どこでと聞いても答えようがないそんな戸惑いが全身から発信されていた。
字が読めない、書けないので…とすまなそうに
お母さんは、「字が読めない、書けないので……」とすまなそうに言った。
お母さんが小学校にすら行けなかったのは、お母さんの責任ではないですよ、と言ってもお母さんは謝るばかり。
謝るばかりの人生を過ごしてこられたことが、ありありと解った。
そのため直接、加害者と会って話をするしかなかった。
加害者は何とか補償するのではないか、と思ったが
ろう学校の先生も一緒に行くという連絡を受け二人で加害者の家を訪ねることになった。
加害者のアパートを訪ねると、奥さんが出てきて夜遅くにならないと主人は帰らないのでもう一度出直して欲しい、とていねいに言う。
そこで何度も加害者の家を訪ねたけれど、また、奥さんが出てきて夜遅くにならないと主人は帰らないのでもう一度出直して欲しい、と言う。
奥さんの話ぶりから、加害者は夜おそくまで働いていて、E君の事故補償を少しでもしてくれるのではないか、とろう学校の先生と淡い期待を持った。
そのため、深夜に加害者の家を訪ねた。
「お前らどうにでもしてやる。」と凄みと脅迫
加害者にやっと会えたが、加害者は最初から暴力的威圧を繰り返し、ていねいに答えていた奥さんは知らんぷり。
さらに加害者は暴力団の組員である、「お前らどうにでもしてやる。」と凄みをきかせた。 「そででも……」と言うと逆上して「ドスのような物」をちらつかせてきた。
ろう学校の先生は、すくんでしまって「帰ろう。お話わかりました。」と言いだす。
「帰る言ってんのやら帰れ!!」
と加害者に言われてろう学校の先生は、加害者の家から出てしまった。
私は追いかけて「ここで、引っ込んだどうしようもなくなる。」「もう一度、行こう」と言ったが、返事もなかった。
何もかもが不利な状況に追いやられていた
Eさんたちを救済できる道
示談は当事者同士の話し合い、とされているがEさんにとっては何もかもが不利な状況に追いやられていた。
結局、私は強制保険に加入していなかったということで保険会社の自賠責を処理する事務所を訪ねたりした。しかしその証明、手続きは複雑でEさん家族に援助してもとても処理できる内容ではなかった。せめて、お母さんが「読み書き」出来たら、補償の可能性は広がるが、と思うのはお母さんにより酷なことを言うだけに過ぎなかった。
ジレンマ。あらゆる方法を考えなければならなかった。
福祉事務所の断る論理を打ち破るための言い争い
結局、Eさんの家族の生活保障のためには福祉事務所の援助なしに解決しないことが判明し、私とEさんの母さんと福祉事務所を訪ねた。
担当ケースワーカーは威圧的でけんもほろろにEさんに言う。
「事故の補償は事故保険が適用されるので福祉事務所は関知しない」の繰り返し。
話の様子から、担当ケースワーカーは加害者が暴力団員であることを知っていたことが解った。
私は怒りが先に立って、そのワーカーと「事故の補償は事故保険が適用されるので福祉事務所は関知しない」と言うが「事故の補償で事故保険が適用されない。」「だからる福祉事務所は関係するということになるのではないか」と激しい言い争いになった。
どれくらいの時間が経ったか忘れたが、その言い争いの間Eさんのお母さんは2,3分おきにトイレに行っていた。
身体の調子が悪いのかなぁ、と思っていたが、引くに引けなかった。
生きるための最低限のお金をきりさいての「お礼」
福祉事務所を出たとき、おかあさんは、「ええまあどうしたらいいのか……」と繰り返した。
お上に楯突く、事なんてとうてい考えられなかったらしかった。
結局、福祉事務所の言い分が通せない、と判断。
Eさんの「当座の生活と治療費」は福祉事務所から支払われることになった。
ところが、その後、お母さんからぜひ会いたいという連絡が来た。
お母さんと会うと、もじもじして何も言わない。時間ばかりが過ぎていったが、意を決したのか、お母さんは私に数万のお金を手渡たそうとしてきた。
お礼です、とお母さんは言う。
が、それは福祉事務所から出た生きる上で欠かすことの出来ない重要なお金の一部だった。それをさいてまで母さんはお礼をする。
お母さんの純で素朴な気持ちの表現が伝わったが、それを断るのに苦労したのは言うまでもない。
ろうあ者もその家族も弱い立場に置かれれば置かれるほど、生きにくくされている社会の仕組みを知らされると同時に、それでも純に生きる人がいる、ことも知らされた。
私は手話通訳者以前に人間として、これらの人々が裏切られることのないようにしなければならないと思った。
Once upon a time 1969
思いっきり手を振って、私たちを見送ってくれたDさん。
「いらん、いらん、」「今がいい」と言っていたIさんたちは、その後ろうあ協会の運動で大きな力を発揮してくれる。
行政交渉に「同じ」・「同じ」=「そうや」「そうや」
と手話での「相づち」
京都府、京都市などとの要求を掲げての話し合いには、必ず参加し、ろうあ協会の要求と発言に「同じ」・「同じ」=「そうや」「そうや」と手話での「相づち」を打ち、行政の回答に「おかしい」「ヘン」の手話を繰り返して行く。
この力が、今日のろうあ者の人々の悩みや困難の理解をひろげ、手話や手話通訳を社会的に認めさせていくようになったと確信している。
一部の人や一握りの集団が、今日の社会的理解を産みだしたのではない、と私は思い続けている。
そのことについてはまたの機会に紹介したい。
外出を禁じられているC子さんと結婚したいとTさん
京都の2月は底冷えがひどい。
鉄鍋の底を凍らすジンジンした寒さ、比叡おろしの風はこころの底まで冷えさせるような気持ちがする。
そのような2月。
私は、ろうあ協会の役員とろうあ者3人である県のK市を訪れた。
同行のTさんは、ろうあ者のC子さんと結婚の約束をしていた。しかし、C子さんが外出はもちろん、京都に来ることについて固く禁じられていたからだ。
そのため、この際C子さんの家族と率直な話をしようと言うことになった。その手話通訳として私が行くことになった。
父親が死ぬときの遺言で「結婚させるな」と言ったから
私たちを待ち受けていたのは、C子さんの母親、姉、親類であった。
母親、姉、親類は、口をそろえて一斉に、Tさんとの結婚はすでに断ったはずだ、Tさんの顔も見たくない、すぐ帰れ、と言い張った。
そこで3人はなぜ結婚に反対するのか、を強く問うた。
するとC子さんの父親が死ぬときの遺言で「結婚させるな」と言ったからだという。
それなら「C子さんは、一生結婚させないのか?」と聞くと「そうではない」と答える。
C子さんは「無能力」で 放蕩三昧
さらに「C子は、経済力が全くなく、何もできない。」とC子さんのは「無能力」であると決めつけ、それを強く、強く強調した。
そのうえ、C子さんは放蕩三昧で家族も困っている、とまで言い出す始末であった。
このように書くと、すらすら言われたかのように思われるか知れないが、母親、姉、親類が一方的にまくし立てる。
語調も強い。表情には怒りだけで、私たちを人間として見てくれているとはとうてい思えないような状況だった。
手話通訳するのが非常に辛い時期から新しく回る時代
最近、N大学教育学部の4回生の学生さんと話したときに、「手話ってかっこいい、と思ったのは小学生から」と聞いてびっくりしてしまったし、うれしくもあった。
手話通訳の私もろうあ者も「ひとくくりにして罵声を浴びせ」かけられる。
「かっこいい」って思ったこともなかったし、ろうあ者と一緒に惨めな思いをするばかりだったからだ。
あまりのひどい言い方に、つい、つい、手話通訳できなくなってしまう。
ろうあ者から「なに、なに」「何を言っているの?」と聞かれて手話通訳するのが非常に辛かった。
C子さんの母親、姉、親類から浴びせかけられたときもそうだった。
時代は変わる。
時代は新しく回ると思って、N大学教育学部の4回生の学生さんの話を聞いてうれしかった。カッコイイ、か、と。
Tさんと結婚したい、が、親、親類の反対を
押し切って結婚することは出来ない
私たちは、軟禁状況にされているというC子さんの家を辞した。
前も調べて置いた情報をもとにC子さんが働くス-パーを訪れた。
C子さんの仕事が終わるのを待って、C子さんと話をした。
が、C子さんは親、親類の反対を押し切って結婚すると他の人々に迷惑がかかると動揺し続けた。
Tさんは、これ以上優しく表現しようがないという手話で話しかけていたが、長い時間が経ってもC子さんの本心はTさんと結婚したい、ということだが、親、親類の反対を押し切って結婚することは出来ない、と言い続けた。
この結婚問題は、結局うまく行かず当事者に苦々しい思いだけが残った。
断種手術と本人の意志による結婚
結婚は二人の意思が尊重されることがきわめて少なかった。
ろうあ者同士の結婚には、家族、親類、社会の計り知れない「全面否定的状況」があった。
また、ろうあ者自身の一部には結婚は自分たちの意志で決定できるのだ、ということすら知らさせていなかった。
ましてやこの時期以前からろうあ者が結婚して子供を産むと「また聞こえない子が産まれる」として、すでに書いてきたが、本人の知らない幼児期に断種手術が行われていることが多々見受けられた。
雪の積もった中でも梅の花が咲くように
結婚したのに子供が産まれない、と悩むろうあ者が医者に行くと「断種手術」が行われていたことが分かり多くの悲劇を生んでいた。
今、このことを書いても現在信じる人はきわめて少ないと思う。
が、歴史的事実としても書き留めておかなければならないことだろう。
ろうあ者が人として平等な権利が保障されていない歪んだ社会状況は、戦前の「悪しき伝統」をひきつづき継いでいて、戦後の憲法は、聴覚障害者の生活に生かされていなかった。
そのためろうあ者は、多くの仲間と集い、憲法学習を重ねたがそれはまさに「人間の復権の道」でもあった。
人間としての平等な権利保障が、ろうあ者に一貫して貫かれていたのか、という検討をろうあ者自身が考え、行動を起こしたその切っ掛けのひとつ。 それが、Tさんの結婚をC子さんの家族と親類に「認めて」もらうという行動だった。
TさんのC子さんへの想いは結局実を結ばなかったが、この時期を境に雪の積もった中でも梅の花が咲くようにろうあ者の結婚は、次々と花咲いていくようになって行った。
Once upon a time 1969
ある日。
50歳頃の年頃の聴覚障害者Dさんが相談員のOさんを訪ねてきた。
「家の立ち退き」を迫られてどうしたらいいのか困っている、という話だった。
そこでOさんと共に四条の繁華街を少し下ったDさんの家を訪ねた。
現在、京都には高層ビルが立ち並んでいるが、当時はまだまだ空き地もあったし和風の家々も多く残っていた。
その和風の家々でもひときわ家が密集し、すき間だらけで・壁土が崩れかけた古ぼけ今にも崩れ落ちるような、これ以上傾きようのない「蔵」がDさんの住まいであった。
京傘職人として生きてきた節くれ立った手がすべてを語る
この住まいを家主は他の人に貸すから、と言ってDさんに立ち退きをせまっていた。
Dさんは妻と子供の4人暮らし。
つつましやかにひっそりと生活をしてきた。
住まいそのものにもその生活ぶりが推し量れた。
Dさんと奥さんは、私たちの訪問を大歓迎してくれた。
Dさんは、ろう学校を卒業して京傘職人として生きてきた節くれ立った手を動かしながら、切々と訴えてきた。
その手を見るだけでもDさんが、どれだけ必死になって働き、どれだけ傘を作り続けてきたかが解った。
また手話表現から、Dさんたちのだだひたすら正直に生きてきた人生が見えた。
ろう学校を卒業して
傘職人になった時からほとんど上がらない給料
休みも、旅行も、友人との語らいも十分出来ないままDさんは働いてきたという。
聞けばDさんの給料は、当時の大学卒業の人の初任給にもとどいてはいなかった。
ろう学校を卒業して三十数年以上。
ひたすら傘を作り、修理してきた技術者の給料が……あまりにも低すぎた。
Dさんの給料は、ろう学校を卒業して、傘職人になった時からほとんど上がっていなかった。
Dさんたちにとって住居を奪われることは、即、生きて行くことが不可能とされるほど切実な状態だった。
転居するにしても金がまったくない。
そこで、今までDさんは何度も「このまま住まわせてもらえないか」と家主に話しかけても相手にもされなかった。
こうなれば、転居するためにDさんの給料を上げてもらうしかない、ということになり、Dさんも三十数年以上ほとんど変わらない給料を少しでも上げてほしい、という気持ちを持ち続けていたから、喜んで、大きな店を構える傘商店の親方を訪ねた。
お前のようなろうあは、だれが雇うと言うのや
親方に「家を追い出されるので、給料を少しでも上げてもらえないか」という話を切り出すと、話どころではなくなってしまった。
「誰のおかげで、おまえのような奴を雇ってやったと思うのだ。」
「なに、給料だと、出してもらっているだけでもありがたいと思え。」
「お前のようなろうあは、だれが雇うと言うのや」
「頼まれたから、使ってやっているのにその恩もわからんのか。」
と親方は怒り、怒鳴りちらし、手当たり次第に物をを投げてきた。
もちろん、Dさんをめがけて投げるが、Oさんにも私にも傘の柄や道具が飛んできた。
もう話し合いどころではなかった。
それでも、Dさんの手話通訳をしたが、すると、私へ怒鳴り、ものを投げてきた。
「お前がなんで言うんや」と。「黙っとれ」。
しかし、私はDさんのことを思ってひたすら耐え続けた。
Dさんの手話は次第に弱々しくなり、下を俯いたままになり、手話通訳を見るどころではなくなっていった。
Dさんの誠実な顔だけが私の胸に残り
怒鳴り返せないDさんの弱い立場が胸を裂いた
Dさんの誠実な顔だけが私の胸に残り、怒鳴り返せないDさんの弱い立場が胸を鋭利な刃物で突かれたような気持ちだったが、Dさんはそれ以上だっただろう。
ろう学校を出て、ひたすら「はい、はい」と礼儀を尽くし続けてきたDさん。
それが、ろうあ者の生きる道だ、とも教えられていたことも後で知った。
徒弟関係と言うけれど、そこには、血も涙も流れていなかった。
結局Dさんは、傘職人の仕事も奪われ、それまで以上の苦しい生活に進むことになったが、Dさんの顔は晴々としていた。
「やめんならんようになって、ゴメンな」
とOさんと私。
でも、Dさんは晴れ晴れとした顔で、
「ありがとう。ありがとう。」
「ありがとう。ありがとう。」
を繰り返してばかり。
「私の言いたかったことが初めて言ってもらって、こんなうれしいことはない。」
と永年堪え忍んできた、自分の言いたいことが言えた事への満足感があったからだったのだろうが、ともかく夫婦でうれしさ一杯の顔で力いっぱいの手を振って見送られたときは、やるせない気持ちが溢れてどうしようもなかった。
Oさんと安酒をあおったが、悔し涙しか出なかった。
「手に職」を持つことが大切とされても一瞬で壊される
ろうあ者には「手に職」を持つことが大切、とずいぶん古くから言われ、そのため職業教育は、ろう学校教育で重視されてきた。
どんなに勉強しても、手に職がなかったら生活できないから、雇ってもらえないから、とさまざまな職業教育がろう教育の場で展開されてきた。
でもその教育を受けたろうあ者たちの、10年後、20年後、30年後はどうなって行くのかを考えられていたのだろうか。
多感な時期だった私は、あきらめることのない深い疑問を持ち続けた。
Once upon a time 1969
ろうあ者の協力を得てのインタビューと文章による記録は、何度も行った。
なぜ文章による記録が必要か、と言うと映像に残してもろうあ者が語る手話の意味を後々の人々に伝わらないのではないかという危惧感があったからである。
同時にろうあ者の手話の多種多様な表現を記録保存しておきたいという意味もあった。
すでに述べたように「市電」という手話も時代、時代で表現が変わったと書いたが、それは市電の運転方法が時代、時代で変わったという反映でもあった。
また来るな、と約束して私は病気で倒れて
今まで書いてきた文も簡単にろうあ者の手話表現から「見聞き」したものではない。
ひとつの手話表現の意味を知るために幾度も聞いたり、会話した結果、知り得たことでもある。
例えば、着物という手話表現でも数多くある。
着物の袖=大丸と表現された時代もあった。
売り子さんが着物を着ていたから、との説明を受けてその時代、時代の写真や本と照合したりして多くの時間もかかったし、ろうあ者の思い過ごしもあって繰り返し聞きに行く、という取り組みをした。
Iさんの話も結婚して、無一文からの京都での生活をはじめたというところまで記録され、また来るな、と約束して私は病気で倒れて長い闘病生活を余儀なくされた。
医師から手話通訳を禁じられたばかりか、身体全身が動かなくなって倒れる日々が続いた。
長崎で被爆体験を中心に引き継がれている取り組み
Iさんの続きの記録を、と少なくない手話通訳者に頼んだが梨の礫で、少し病気がよくなった頃には、Iさん夫婦は死んでいた。
痛恨の極みであった。
いつでも出会えるからと身近なひとの記録を後にしたのが……と後悔は尽きなかった。
これらの取り組みは、全国に行くたびに多くの手話通訳者に呼びかけていたが、長崎で被爆体験を中心に受けとめられて続けられている。そのことも、後に紹介したい。
手指だけの動かし方が手話でない ろうあ者は表現の「名人だ」
解らない手話表現があったとき、実に的確にろうあ者は空文字(人差し指で空に文字を書く)・メモに漢字で書く、絵を描いてくれる、別の手話表現で表して「同じ」と示してくれるなど、実に多彩な方法で私に教えてくれた。
その点では、ろうあ者は表現の「名人だ」と思うこともあったし、手指だけの動かし方が手話でないということも学んだ。
さて、Iさんの手話表現の「蚕」は、唇の下に人差し指と中指をあてて微妙に動かす表現だった。
「白い」「虫」ではなかった。
私も「まねて何度もやって見ても出来なかった」。Iさんの奥さんもやってみたが、Iさんと同じように出来ないで大笑いした。
唇の下に人差し指と中指をあてて、「上下に動かす」ことは出来たが、Iさんはそれはちがう、と人差し指と中指を「交叉にうねうね」と動かした。
私もIさんの奥さんも万歳してしまって、Iさんに聞くと「蚕が繭を作るときの生絲(きいと)だ」と言う。
蚕が繭作るときに出すものは、一本の糸になるのとちがうの、と聞いてもちがうと言う。
その手話出来るように練習わ、と言って帰ってから、京都工業繊維大学養蚕科(当時)の学生に聞いて調べてもらった。
大学教授に聞いたところ、Iさんの言う通りだとのこと。
蚕は繭を作るとき二つの液を出してそれを絡ませてる。
見た目には1本に見えるけれどちがうのだ、と言う返事だった。
学生も私も「へーっ」で終わってしまっていた。
ともかく蚕=加悦+谷で、加悦谷がIさんの生まれたところだと理解していた。
ハイスピードカメラなどと
同じような眼で蚕の繭をつくる様子を見ていた
ところが昨年、NHKの「アインシュタインの眼」の放映を見てびっくりしてしまった。
NHKで、カイコ(蚕)が糸をはきながら繭を作る様子をコマ撮りカメラ、軟性内視鏡レンズ、ハイスピードカメラ等を使い撮影した様子が放映されていた。
蚕が、頭を8の字を描きながら、2日間で1000メートル以上もの長さの絹(シルク)をはく様子である。
その蚕の頭の動きとはき出す二本の液体状が絡み合う様子は、まさにIさんの「人差し指と中指」の動きとまったく同じだった。
驚愕以外の何物でもなかった。
ハイスピードカメラなどと同じような眼で蚕の繭を作る様子を見ていたIさん。
またそれを表現したろうあ者の人々の手話。
この「二本の液体状が絡み合う」ことで絹糸の品質が決まる、と言うその瞬間を写し取って手話にする。
なんと微細で、瞬間を捉えて、それが生活に関わる意味合いを籠めて、表現する手話。
あまりにも見事さに、奥深い手話表現の意味を知った。
養蚕農家、丹後縮緬、西陣織のほとんどが
消え去ったようにみえるが
Iさんたちの蚕という手話表現は、京でもほとんど知る人はいなくなっただろう。
養蚕農家、丹後縮緬、西陣織、さまざまな行程でろうあ者が働き、日本の経済を支えてきたものは消え去ってしまった。
でも、このIさんの手話に籠められた生活や哀しみ苦しみ、それでも大笑いする人生は知ってほしいと思う。
Once upon a time 1969
すれ違っただけで、この女性は聞こえない、と思ったIさん。
奥さんに聞くと「ただ歩いていただけ、手話も知らなかったし。」「いつのことかも知らなかったわ、その頃は。」とあっさりした返事。
探して、探して、探して、やっと会えた女人
モジモジしたIさんは宮津だったと言う。
「それで、」と私は聞いた。
戦前の自転車なんて持っている人の少なかった時代、豪商Iさん宅には自転車があった。
Iさんは、昼休みになるとすぐ自転車を必死にこいで、Iさんの奥さんと「すれ違った場所に行き探す」、見つからないで慌てて帰る。
仕事が終わるとまた自転車で、休日は一日中探し回った、とIさんは言う。
「それで、」と聞くと。
Iさんは、「探す」と言う手話を次第に大きく(広げて)していく。
「で、みっかったん。」と私。
Iさんはしょんぼり。
何ヶ月も繰り繰り返しさがして、次第に地域を広げていったとのこと。
当時の道は舗装もされていない細い道で山道の高低差も多かっただろうが、Iさんの話にはそれが出てこないで、「探す」「探す」の繰り返し。
同じ繰り返しについ、「それで見つかったの」と結論を聞いてしまった。
雨が降ろうと暑かろうと
大雪が降ろうと全然気にせず通い詰めた
Iさんの表情は急に柔和になった。
岩滝町を走っていたときに、ついに、ついに、すれ違った女性に出会った。
1年ははるかに過ぎていた、と言う。
「一度すれ違っただけで、その女性とわかったん。」と聞くと、Iさんはコックリうなずく。
「で、奥さんはどうIさんのこと覚えていたの」と聞くと。
「全然、知らなかった。」
「でも、聞こえなくて寂しい思いをしていたとき、聞こえない人と出会えてうれしかった。」
と言う。
それから、Iさんは奥さんの住む岩滝町に通いづめ。
雨が降ろうと暑かろうと、大雪が降ろうと全然気にせず通い詰めたとのこと。
知らない人がいないほどの丹後小町と呼ばれた美人
「私は、丹後小町で有名だったから、」と奥さん。
「え、タンゴコマチ?」と言うと奥さんは、自分の写真アルバムを持ち出してきた。
その写真を見てびっくり、どんな女優よりも美人だ、と言うほどの美人。
ついつい、「ウソや」と言ってしまったら、Iさんは真顔で「ホント」「ホント」の手話を繰り返した。
すると奥さんは、今はこんな姿顔になったけれど、若い頃は妹の友だちが「姉さんの写真をとってこい」と男友だちに脅されて、黙ってアルバムから「私の写真」を剥がしてもっていった。
後で気がついて、「ほらここにのり付けした写真を剥がした痕があるでしょう」とその痕を見せてく
れた。
数カ所にその痕があった。
でもね、
私は聞こえないもの同士では話せる生きていけるということを
そこで冗談でIさんに「丹後小町やからほれたんやろ」と言うと、これまた真顔で「ちがうちがう、聞こえないもの同士で話したかったんや」と言い出して、ここから冗談と腹を抱えるいつもの話になった。
丹後小町で知れ渡っていたIさんの奥さんのところには、数知れないほどの結婚話が持ち込まれたとのこと、「でもね、私は聞こえないもの同士では話せる生きていけるということを一番の幸せと思っていたからすべて断ってもらったの。」と奥さん。
Iさんの家は、身分が違うと大反対。
しかも「聞こえないものと結婚するなんて許せん。聞こえる人といくらでも結婚出来るではないか。」と家族、親類の大反対があった。
将来の不安はない、もともと何もなかったのだから
だが、Iさんは家との縁を切られてでも結婚したかった。
着の身着のままで奥さんをつれて京都に来た。
奥さんは初めて汽車に乗る喜びで、不安はなかったとのこと。
保津峡をうねうね走る国鉄山陰線の景色を見るのは初めてでとても美しくてきれいだった。
嬉しかった、汽車に乗れて。
それが、二人の新婚旅行で、最初で最後の旅。
後は働きづめの二人の生活。
「私はもともとなにもない家で育ったから、なーんとも思わなかった。けど、主人は」
と言うと、Iさんは、「同じ」「幸せ」を繰り返した。
なにもない家で育った奥さんと
有り余る贅沢が出来た家で育ったIさん、でも
なにもない家で育った奥さんと有り余る贅沢が出来た家で育ったIさん。
でも、二人の気持ちを結びつけたものは、同じ聞こえないという深い絆だった。
2011年の夏前。
岩滝町にある与謝の海養護学校を訪ね、そこの校長をしていた故A先生の加悦町の家を訪ねた。二つの町は、今はひとつになり与謝野町となっている。
車で走りながら、Iさんが通ったであろう旧道を見ていたがずいぶん距離がある。
あらためてIさんの想いの強さを知ると共に「二つのこと」に気がついた。
ひとつは、私が記録をしているときに、あるろうあ者が戦争孤児となって京都駅で万引きなどをしていて飢えをしのいだときに、いろいろと助けられたことがある、と話していたことである。
その戦争孤児を集めて、戦後すぐ生活と学習を教えたのが京都師範の学生だったA先生たちの学生だったこと。
その取り組みをした少なくない学生が、教師になり京都の障害児教育に取り組み初めたと言う事実だった。
もっと詳しく聞いておけば、という反省もしたが、今ではどうしようもないという痛恨の思いだった。
もうひとつは、Iさんが手話で現した「加悦」=蚕という手話表現のことだった。
Once upon a time 1969
自分たちが織ったものが永遠に自分たちのところに来ることはない、とは悲しいぁ、と言ったが、Iさん夫婦は手を振って「いらん、いらん」「今がいい」と言った意味を知ったのは、それから十年ほど後のことだった。
国際障害者年に向けて戦前・戦後を通じて生きてきた
ろうあ者の体験を映像と文章で記録
私は、国際障害者年に向けて戦前・戦後を通じて生きてきたろうあ者のこと。戦争中の体験を映像にも文章にも記録することこそが、国際障害者年に取り組むことだと考えた。
そのため聴覚言語障害者センターのビデオ担当の協力とひとりひとりのろうあ者の協力を得て、インタビューと記録をはじめた。
多くのろうあ者が快く引き受けてくれてた。
ビデオ撮影は順調に進んだ。また近畿テレビ(当時)の人々が撮影後の営業用のビデオテープを寄付してくれた。何人かのろうあ者の撮影を終えて、その普及版として「平和を求めて生きる」という一本のビデオを作成した。そのビデオがディレクターの眼にとまり、テレビ放映された。
「いいよ、いいよ、私の話でもよかったら」
と人生・戦争体験が映像として記録されたが
すべてのろうあ者の証言を記録する。
大変な仕事であったが、リハーサルなしに撮影する手法をとって、ろうあ者から出来るだけ生きた証言を得ようとした。
このことも、ろうあ者から「いいよ、いいよ、私の話でもよかったら」と快諾を得た。
信頼関係の大切さと共に、本当に言いたかったことが記録されることの喜びがろうあ者から言われた。
私が手話で聞き、ろうあ者が手話で答えるという方式でカメラはろうあ者に向けられていたが、ろうあ者の方々は、カメラを意識せずに次から次へと語ってくれた。
その頃私は、病魔に襲われていることに気づいていなかった。
そして、Iさんのの証言をしてもらうことになった。
大富豪の家で生まれたIさんはろう学校に入学できた
Iさんは、夫婦で一緒に話したいと言う。
「どうぞどうぞという」ことになり、二人そろって撮影が始まった。
Iさんは、京都北部の山間の加悦町の生まれ。
加悦町でも非常に裕福な家庭に生まれたと言い、家族の写真を見せてくれた。
大家族の後ろには、大きな表彰状が次々と欄間の上に掲げてあった。
ひときわ大きい表彰状は、「天皇陛下からいただいたものだ」とIさんは指さした。
よく聞くと丹後縮緬(たんごちりめん)を一手に引き受ける商家で大金持ちだったとのこと。
いろいろ見せてくれる子どもの頃の写真は豪商であることがハッキリ解った。
だから、自分は耳が聞こえないことが解って、親はあらゆる病院に連れて行ってくれたこと。結局よくならないので、汽車に乗り遠くの京都まで行き、ろう学校に入学して、寄宿舎生活をして、休みの度に加悦町の実家に帰ったことをスラスラと話してくれたのだが。
ともかく、ただひたすらキチンと座っていた小学校
奥さんは、海に面した岩滝町の生まれ。
家が貧しく、その日暮らしが精一杯で、耳が悪くても医者にも行けず、小さいときから仕事をしていた。
小学校は地元。
ともかく、ただひたすらキチンと座っていたが、先生が何を言っているのかさっぱり解らなまま、しんぼう、がまんの日々だったという。
そして、しんぼうし切れずに学校をやめさせてもらい、幼い頃からしていた漁業の仕事を続けていた。
恥ずかしがって顔を真っ赤にして俯いてしまったIさん
そこで、私は、「そんな二人がどうして知り合ったの?」と聞いてみた。
すると、Iさんが恥ずかしがって顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「え、どうしたの」といつも冗談を言うのに神妙になるIさんにもう一度聞いてみたが、ますますIさんは照れて、照れて、何も言わない。
やっと言い出したのが、宮津で奥さんとすれ違ったとき、
「あっ、この人は聞こえない人だ」
と思って、すぐ振り向いて追いかけたけれど、姿を見失った。と、その時のことを想い出して、「悲愴な顔」をした。
それから、Iさんは信じられない日々を過ごすことになるのだが、この話も顔を真っ赤にして、少し少し(京では、ボチボチの手話表現。鉛筆を人差し指に見立てて、鉛筆を削る手の動きをする。)話し始めた。
Once upon a time 1969
京に住んでいていいですねぇ、とよく言われる。
その「いい」ものの中に京都の伝統工芸などをあげられると私は急に落ち込んでしまう。
一晩遊ぶ金を一度でも障害者にボーナスとしてでも出したことが
最近になってようやく、京の伝統工芸品を美術鑑賞できるようになったが、必ずある工芸品が展示されているところは必ず迂回してしまう。
何代OO家のOOOOO氏の作品。
その作品は、OO家のOOOOO氏が本当に作ったのかよ、と叫びたくなるからだ。
そのほとんどを障害者が作って、OO家のOOOOO氏は遊んでばかりいて、出来上がったものに「判」をついて、桐箱に入れるだけだったことを知っているからだ。
せめて、障害者が作った作品を彼らが買える給料を一度でも出したことがあるのか。
一晩遊ぶ金を、一度でも障害者にボーナスとしてでも出したことがあるのか、と思うからである。
隣から強い目線を感じて
ある日歯科治療中に隣から強い目線を感じて、ふとみるとIさんが居た。
彼が先に治療が終わって待合室で待っていて、先生に聞きたいことがある。手話通訳してくれないか、と言う話だった。
もちろんすぐ、先生におねがいしてIさんのたずねたいことを手話通訳した。
Iさんは「差し歯」が抜けて、治療を受けに来ていたが、実は
「この差し歯のをのみ込んでしまったんです。お腹の中で引っかからないでしょうか。」
と歯科医に聞いた。
歯科医は、カルテを見て、自分ののどから胃、腸をを指で這わせて、お尻に握り拳を当てて、「パー」にした。
Iさんは大笑い。
「うんこで出るん。大丈夫ですか、本当に」とそれでも歯科医に聞くと歯科医は「心配しなさんな、アンタの差し歯なら大丈夫。」「また新しいのを作るから。」と説明してくれた。
転げ回って笑い続けて、「お尻」「パー」
歯科医の帰り道。
二人で転げ回って笑い続けて、「お尻」「パー」を繰り返した。
それからIさんと話し合うことがたびたび会ったが、会うたびに「パー」の話になって笑い転げてから、話し合ったり、手話通訳したりした。
Iさんの家は小さな家だったが、家のすべてを西陣の織機が占領し、機械音が鳴り響いていいた。
息子が勉強しないで遊んでばかり困るというIさんに、
「聞こえる息子さんなら家の中二階の部屋で勉強しようにもうるさすぎて、出来ないよ。」
と言うと、
「へー、そんなにうるさいの。」「どうしたらいいやろ」
などの話をしながら、Iさんの息子さんとも話をするっようになった。
行くたびにIさん夫婦と冗談や手話表現のおもしろさや聞いた話、あった話が尽きることはなかった。
薄暗いIさんの家でひときわ光り輝いて
眼に飛び込んむ金糸、銀糸
ある日、ふと何気なしに「Iさんそれ何を織っているの」と聞くと、機械を止めて、西陣の着物の帯を今は織っている、と絹糸から織る行程すべてを説明してくれた。
すごく手間のかかる仕事であることが、手に取るように解った。
納期をせかされると、夫婦二人がかりで織機を動かし、交代して寝ることが出来ればましなほうだと説明された。
織りあがりつつある金糸、銀糸に彩られて薄暗いIさんの家でひときわ光り輝いて眼に飛び込んできた。
これが着物の帯なんか、と感心していると柄や生糸の特徴や糸の太さ細さなど細かく説明してくれた。
死ぬまで自分たちの織った帯を締めることはない
「いらん、いらん」「今がいい」
どんな人がこの帯を締めるのだろうか、と思うほどのまばゆい帯。
Iさん夫婦の織りの技術は高いことは聞いていたが、このことか、と感心した。
「それで、この帯、自分で着物を着たとき締めることもあるの」と聞いたとたん、Iさん夫婦が目を見張り、「とてもとても買えるような値段ではない。」「死ぬまで自分たちの織った帯を締めることはない。」といいきったので吃驚した。
「え、買われへんの」「いくらするのこの帯」
返ってきた答えは信じられないほどの高価な値段だった。
自分たちが織ったものが永遠に自分たちのところに来ることはない、とは悲しいぁ、と言ったが、Iさん夫婦は手を振って「いらん、いらん」「今がいい」と言う。
そんなものかなぁ、と思っていたが、後々になって戦前Iさんたちが結婚したいきさつを来たときは、驚愕を通り越して、この世にこんなドラマなような話があるのか、と思える事実だった。
Once upon a time 1969
1969年当時、私はろう学校に用事があって行くときはいつも嫌だった。
仁和寺のバス停を降りて、ろう学校に行く道すがら、青々とした樹々に覆われた道に心が洗われるのではなく、非常に苦しく、悲しい情景を見なければならなかったからである。
樹々に覆われた道に 飛ぶビンタ
樹々に覆われた道は夏は涼しく、春夏は心地よく、冬は京の底冷えを防いでくれた。
だが、幼稚部から帰路につく親子の姿を見るのは辛かった。
多くの場合は、お母さんが本気で子どもにビンタを打ち続けるか、拳を振り上げ頭をたたいているかのどちらかであった。
その他の光景は見ることはなかった。
お母さんの言っている様子からすると、子どもが今日の「授業」でしくじったこと。ことばを覚えていないことを大声で繰り返し、子どもに「教えて」いた。
子どもは泣いて、お母さんはすごい形相をしている。
「ナニナニでしょう。もう一度行って」
「〇∥…~」
「ちがうでしょ。もう一度。」とビンタ。
何度そのような姿を見たか知れない。
親の必死さは解らないでもないが、あの暴力の中で5歳までの子どもたちが「ことば」を教えられていいのだろうか。
そんな思いがするのでいつも幼稚部帰りの親子に出くわさないように行くのだが、「ことば」を覚えていなかった子どもは残されるので、遅く行けば行くほど「見てられない光景」に出くわした。
その当時、ろう学校幼稚部では親子がそろって授業を受け、多くの宿題を持ち帰って「ことば」を覚えさせる「宿題」があった。
それは小学校入学までに覚えれば覚えるほどいいのだ、とされていた。
そして、それがこなされない子どもは、たとえ普通小学校に入っても「9歳の壁」にぶつかり、ろう学校にUターンせざるを得なくなると経験主義から出された方針が一水の隙もないほどに貫徹されていた。
障害者間の犯罪を取り締まらない警察に対して
ある日の夜。
ろうあ協会の役員に呼ばれて、次のようなことを依頼された。
家族全員がろうあ者だけれど、一人だけ聞こえる男性が居る。
親も兄弟も全員がろうあ者だから手話も覚えて上手だが、巧みに若いろうあ者の女性を言いくるめて金品ばかりかすべてのものを巻き上げ続けている。
警察に被害届を題しても「聾唖者はこれを罰せず、という刑法があるから、取り組むだけ無駄だ」と言って、問題をとりあげてくれない。
これ以上被害を増やすことは出来ないので、被害状況を調べて、ろうあ協会のことをよくよく知って今まで協力してくれた弁護士がいるので、弁護士を通じて加害者を訴えたい。
ぜひ、協力してくれ、と言う話だった。
聞こえる立場同士で話をしてとっちめて
証拠をつかんでくれ
大変な問題だったが、熱意に押されて被害者の家を順に訪ねることとなった。
しかし、被害者の家に絶対入れてもらえないばかりか、被害者のろうあ者の女性にも出会うことは出来なかった。
とするとこんどは、ろうあ協会の役員が加害者の家に行って、聞こえる立場同士で話をしてとっちめて、証拠をつかんでくれ、と言われた。
「被害者の哀しみを考えてくれ、アンタなら出来る。」「やってくれ」
殺生な頼みだったが、今回も気迫に押されて加害者の家に行くことになった。
何度行っても加害者は留守だった。
ある日、家に上がって待っていて、と加害者の兄に家に入れてもらった。
両親が聞こえないのに
両親が子どもと共に「ことばの宿題」をしてくるように
そこで見た光景は、両親ろうあ者が必死になって、幼稚部に通う自分の子どものろう児に幼稚部の宿題を教えている光景だった。
ビンタなどは一切なく、テーブルに置かれたもののことばを両親が必死になって教えている。
靴をもって「くつ」、鉛筆をもって「えんぴつ」と両親が口を開けて解りやすく言っているのだろうけど「発音」は明瞭でないことは言うまでもない。
子どもは、お父さんややお母さんの口形を見て、必死になって「く・つ」「え・ん・ぴ・つ」と言っている。
私はいたたまれなかった。
こんな宿題があるだろうか。
聞こえるお母さんが、ことばの宿題を教えるならまだしも、両親が聞こえないのに、両親が子どもと共に「ことばの宿題」をしてくるようにすることは、あまりにも惨すぎる。
加害者を待つ時間を忘れて、私はその哀しみの中に浸っていた。
代わりに私が「ことばの宿題」を……と言いかけたが堪え続けた。
ろう学校分会代表との大げんか
数年後、私は教職員組合の役員をしていた。
その時、ろう学校分会の府教委あての要求書が出されてきた。
私は、ろう学校幼稚部のろうあ者の子どもの付き添いと家庭での宿題のために教師を派遣する項目を付けては、どうか、と提案した。
ろう学校分会で相談して返ってきた答えは、「不必要」と言う答えだった。
絶対譲れない、私は言い続け大げんかになった。
こんな話は、昔話になっているだろうか。
Once upon a time 1969
ある日。聴覚障害児のお母さんが訪ねてきた。
他にも障害があるので幼稚部に入学できない
聞けば、
「ろう学校の幼稚部に入りたいけれど、うちの子どもは他にも障害があるので幼稚部に入学できないと断られたんです。」「耳だけが悪ければいいと言うことなんですが……」
と言われた。
よくよく聞いてみると聴覚障害児の教育は早期教育が大切だと聞いて、ろう学校の幼稚部を訪ねたけれど
「聴覚以外の障害もあるからダメだ。」
と断られてお母さんは藁をもすがる思いで話された。
私も、その場にいたろうあ者も非常に驚いた。
聴覚障害以外は、ノーマルでないとダメ
「なぜ、他にも障害があるとダメなんだろうかと」考えた。
ろう学校に問い合わせてみると
「幼児の場合は、聴覚障害以外の障害があると言語指導の効果がないからお断りしています。」「聴覚障害以外は、ノーマルでないとダメです。」
と言うことだった。
今のろうあ者でなく普通児に
さらに私たちが驚いたのは、お母さんのねがいが
「早期教育を受けて他のろう児と同じように普通校に入学したい。」
「幼稚部以外のろう学校の小学部・中学部・高等部にはうちの子を入れたくはない。」
「今のろうあ者のようになるのは困るのです。」
とろうあ者の目の前で言われたことだった。
手話通訳を食い入るように見詰めていたろうあ者の顔色はみるみる変わったが、「マア、マア 」とみんなが気持ちを抑える手話をしていた。
この「マア、マア 」とみんなが気持ちを抑える手話をしていたことは、京のろうあ者やろうあ協会の懐の広さを現していて未だ記憶に残っている。
幼稚部の先生にお母さんの言っていることを確かめて、と
お母さんが帰った後、ろう学校の幼稚部の先生にお母さんの言っていることを確かめてくれとろうあ者から委任された。
それは全日本ろうあ協会の役員をしている人の奥さんがろう学校の幼稚部の先生をしていることもあったからだっただろう、と今は思える。
教師ではない
子どもを話させるようにする
「魔法のメソッドとスキル」のもち主
後日。ろう学校幼稚部のある先生と話をした。
「普通校にインテグレートすることはすでに大きな成果を上げている」
と前置きしたうえで、その先生は、
「ろう児はもはやろう児ではなく、ことばをどんどん覚え、聞こえる子どもと同じくらい話せるようになり、どんどんと聞こえる子どもの中に溶け込めるようになる。手話なんかは必要でなくなり、ろうあ協会は自然消滅するでしょう。」
口を挟む間もないくらいに一気に話され、質問をしても
「教えたことのないあなたには解らないでしょう。」
「ろう児が話せるように、あなたは出来るんですか。出来ないでしょう。そこには特別なメソッドとスキルが必要なんです。」
疑問や質問に答えることが出来ない威圧感で迫られてきた。
が、ふと、この人は先生なんだろうか。子どもを教え育てていくと言うより、子どもを話させるようにする「魔法のメソッドとスキル」の持ち主と思い込んでいるのではないか、と次第に腹立たしくなってきた。
そこで、訪ねてきたお母さんの話をすると、
「ああ、あの子ね。聴覚だけではなく知恵遅れがあるからことばを覚えることは無理なんです。教えても、ことばは覚えられないでしょうね。」
と実にサバサバした調子で断定的に言われた。
インテグレーション、ノーマル、スキル、メソッドと
ことば、書き、普通
私は、この時、お母さん以上の疑問をその先生達に抱いた。
インテグレーション、ノーマル、メソッド、スキル、ことば、書き、普通……連発して飛び出すことばへの疑問と学習は、私の人生のテーマになった。
いとも簡単に成人したろうあ者の姿を否定し、新しい普通児を造る。
そんなに人間は、造形物のように造ったり、壊したり、造り直したり、造ったものを否定されていいのだろうか。
帰って、ろうあ者にどう説明したらいいのか。
悩み続けた。
「マア、マア」という手話が飛び交うのか。足は前に踏み出そうとしなかった。
1969年のことだった。
Once upon a time 1969
「もの言えん人をつかまえたのでたのんます」突然KN署から電話があったのは丁度、秋頃の季節だったと思う。
まだまだ未熟で経験不足だった私だがは、KN署を訪れた。
困った△△店からの通報で
多くの警官がいるのに「ガラーン」としたKN署の一階の片すみに、年老いた二人のろうあ者Fさんとその愛人AM子さんがしょんぼりと座っていた。
しわが何重にも重なり、ふるぼけた帽子の間から白髪がはみでていたFさんは、私たちと視線があうと、解放されたごとくしきりに語りかけてきた。
警官は語る。
Fさんは多くの店舗のある大きな△△店に何度となく訪れ、店の主人に会わせろ、やれ△△店は自分とは親類であるとか、生活に困っているので援助してほしいなどなど手振り、身振りで絶えずやってくる。
商売上△△店の御主人は困りはて、KN署に連絡があったとのことである。
「△△店に迷惑をかけない」ということを約束をしたものの
警官はFさんの行動をしきりにたしなめ続けるが、ついつい捜査口調になり、聞こえないFさんの手話通訳している私が取り調べを受けているかのようなった。
そのため、警官からしばらく時間をもらいFさんになぜ△△店へ行くのかと聞くと、「△△店は私の親類にまちがいはない。自分は聞こえないから相手にされないのだ」と言いつづける。
警察はFさんは△△店へ行かないようにと考え、Fさんは△△店へ行くのは当然だ、と話は進展せず、時間はムダに過ぎ去る一方だった。
私はFさんとゆっくり話し合う必要も感じたし、Fさんも、いつまでも警察箸にいるのが辛くなりともかく「△△店に迷惑をかけない」ということを約束をして警察署を出ることができた。
死に際に言った実母のことばを信じ続けて生きてきた
それからが大へんだった。
Fさんの話によると、Fさんは幼少の頃、養子になり姓が変わったがそれ以前は△△と言っていた。
実の母親が死ぬ時、Fさんを枕元に呼び
「もしもお前が困った時、△△親類にたよっていきなさい」
と言ったとのこと。
だからFさんも本当の親類は、△△という姓であると心に刻みつけた。
実の母親の死に際に言った通り、困ったので△△店を訪ねたのだと言う。
けれど、△△親類かどうかぜひ、もう一度確かめてほしい、と懇願した。
結局、△△店は協力してくれて、自分たちの戸籍を次々ととり寄せてくれた。
一方Fさんの戸籍をとり寄せ、親類関係を調べたが、△△という姓は同じでもFさんと△△店の人々と血縁関係は全く無いし、Fさんの親類はすべて死亡していることが明らかになった。
ガックリと肩をおとして「本当」
何十年も以前にろうあ者が生きていくために親類をたよるしかないと判断した母親の最後の言葉。
そして、それを唯一頼りにして生きてこなければならなかったFさん。
すべてが判明した時、Fさんはもう一度「本当」と手話で語り、ガックリと肩をおとした。
その後、数回の話し合いの中で定職につけるようになったさんは、AM子さんとろうあ者同士の人間的な触れ合いを深めていった。
ところが、その後、Fさんが突然苦しみ、ひっそりと死んだ話がAM子さんから報告があった。
Fさんの生き方には多くの非難することがあるかも知れない。
が、泥沼の中で実母の死に際のことばを唯一の支えにして、黙々と生きてきたFさんの人生にかぎりない愛着を感じざるを得なかった。