2013年7月31日水曜日

涙を流して放ったろう学校分会長のことば 教職員の亀裂 そして新しい輪の形成        ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(5)

 


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   ろうあ協会は
 ろう学校生徒の真の要求が理解出来ていなかったが

   京都府ろうあ協会編の「授業拒否 ー3.3声明に関する資料」には、「授業拒否」について事件前後の高等部生徒の日記が掲載されている。

 だが、この日記の小見出しが「写生会拒否事件」と書かれているように「資料」が出された段階でもろうあ協会としての本質と全容が把握されていないことがうかがえる。
 この資料から現在判明していることと本質に迫る問題点を提起しておきたい。


  一生懸命読む先生たちの姿に感動した生徒会長

 生徒会長の日記にこのような記述がある。

「朝七時から登校してガリ版の印刷をし、印刷のにおいも真新しいプリントを八時頃から次々と登校される先生方に直接手渡し、一読下さるようお願いする。
 私達と今まで何の関係も先生方が、一生懸命読んで下さる姿を見た時、今までの疲れも一ぺんにふきとぶほどよい気持ちだった。
 私達は写生会を確かに放棄した。しかし、それは学校を休んだのと意味が違う。」


 たしかに生徒会のプリントは、ろう学校の教職員に衝撃を与えた。

 よくぞここまで生徒たちがまとまって意見をだし、表現した。
 しかも要求していることは正当で教育の根本のあり方を提起している。
 今まで以上にもっと真剣に誠意を持って教育実践をすすめなければならない、と昨日のことのように覚えているとある高齢な元ろう学校の先生が証言している。
 

 だが、その先生の意見は圧倒的に少数だった。

  教職員の対立と本音の激論


 生徒が教師をビラでひはんするとはなのごとだ。
 馬鹿な生徒を教える苦労を彼らは解っていない。
 でたらめなことばかりいっているではないか。
 生徒の主張を聞いているとますます彼らを甘やかすことになる。

 教職員の意見はろう学校内で渦巻いた。
 ろう学校の教職員は、京都府立高等学校教職員組合ろう学校分会(ろう分会)に入っていた。
 そのため、ろう分会では、高等部の生徒のビラや主張行動をめぐってケンケンがくがくの論議が繰り返された。


   生徒の立場に立つのか、教職員の立場に立つのか、
     と分会長を攻め抜く

 すでに、述べたようにろう学校中学部の教師は、高等部生徒のビラに一部課題はあるものの全面的に受けとめながら考えるべきことだという意見を出した。
 これに対して

「組合というものは、教職員の立場に立つべきだろう。なのに、そうではないではないか。」

「ろう学校の施設設備・教職員定数の改善など毎回京都府議会に請願を出し続けている。教職員の権利や労働条件を守り発展させることと生徒のよりよき教育を受けたい、というねがいは対立するものではない。」  

「そんなことを言って生徒の立場に立ちすぎだ。教職員の立場はどうなのだ。」

「先生を首にせよと生徒は言っているのに分会は黙っているのか。」

「それは、生徒会自身がゆきすぎたあやまりだったと訂正している。」

「そんなことを言わすこと自体が生徒を甘やかしているのだ。」

「社会に出て、そんなことが通じないことを教えてやるべきではないか。」

 等々の意見の末に、

「分会は、生徒の立場に立つのか、教職員の立場に立つのか、どちらかだ。どっちなんだ。」

ということだけになり当時分会長(中学部)だったM先生に二者択一だけを迫る意見だけが集中した。

  涙を流しながら発言した分会長 へ分裂と攻撃の嵐

「あれは、忘れもしない夜の11時頃だった。
 M先生は、涙を流しながら
 『分会は、教職員を守るのと同時に生徒を守る分会。そういう分会になってほしいし、そういう分会にならないと……』
とあとは涙声だけで充分聞き取れないほどだった。 

 従来あったろう学校の『悪しき伝統』を無くしていこうという心からの叫びであったように思える。」 
 結果的に数名の教職員が脱退。

 それ以降、内容如何に関わらずことごとく分会を批判し、組合員の脱退を工作して、ろう分会は、分裂状況に直面する。

 しかし、もっといい教育やいい学校環境をつくるための取り組みは、休むことがなかった。

  学習会を繰り返す先頭に立ったろう学校教員

 ろう分会では、他の障害者団体やさまざまな学習会に参加していたが、もっと広く子どもたちの発達と教育、障害児者やその家族・関係者がともに学習しなければ、ろう教育も京都の障害児教育の発展もない、という考えに至っていた。

 そして、京都大学医学部病院前にあった修学旅行生用の旅館の一室を借り、少人数から初めて学習会を繰り返していた。

 そして、全国にもそのことを発信していたが、全国障害者問題研究会が結成されることに連帯して、全国組織が出来る前に京都支部を結成した。

  「夜明け前」の機関誌に籠められた涙
 

 その支部長にろう学校のM先生がなった。

 そのときの涙は、分会会議で流した涙ではなかった。

 京都の障害児者の取り組みを発表する機関誌が出され、「障害種別」を超えた取り組みが多くの人々が知ることになった。


 その機関誌の名前は、「夜明け」と名付けられた。
                                                                      ( つづく )

 

2013年7月29日月曜日

どうしても出来ないという苦しみ 不安 ろう学校生徒の気持ち ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(4)


 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
  先生たちは 私達から逃げているのでは

  先生達さえ、口話法から ー いや私達ろうあ者から逃げていらっしゃるのではありませんか。
 これはろうあ者への重大な差別以外の何ものでもありません。

 私遠は、口話法で話しをしたい。

   どうしても出来ないという苦しみ

 しかしどうしても出来ないという苦しみを常にもっています。

 
 校長先生は、このような私達の不安や苦しみを、ただの一度でもお考え下さったことがあるでしょうか。

 先生方がどんな理由でこの学校へ来られたかは知りませんが。
 文部省の方針だから、校長先生が言われたからというだけで、私達とは問答無用だといったお考えの人がおられますし私達へ差別的な無理解な発言を平気でなさる先生もあります。

  手話が出来る出来ないで
      先生を いい 悪い とは言ってない

 私達は先生を

 「あの先生は手話ができるからよい先生だ」

とか

「あの先生は手話が出来ないからわるい先生だ」とか

 ー そんなことをいっているのではありません。

 ろう教育に対する、又私達に対する誠実さと、理解及認識の深浅を問題にしているのです。

 このことに関し校長先生を含めた先生方の反省を求め、手話及び口話に関する
明確な回答を望みます。


   後輩に このような苦しみを味わわせたくない

 補記、私達と先生方との話し合いは通訳の先生がないと出来ません。
 私達はこのような現状を悲しみます。

 こういうことをなくすため、私達は立ち上ったのです。
 私達の後輩には、このような苦しみを味わわせたくないのです。

 これは生徒会会員全部の一致した意見です。

昭和40年11月19日
京都府立聾学校高等部生徒会

  京都府ろうあ協会編集人のコメント

 以上が写生会拒否事件をめぐって生徒会が全校の教師及び登校してくる父兄を対象に配布したビラの全文であり、われわれはこの内容が、もっとも正しく事件の真相に触れていると確信している。
 しかし、もう少し事件の背暴を明らかにしておく必要があると思うので、当時の生徒会役員で、現本協会会員である2、3の人物に登場してもらうことにする。
 いずれも事件前後の日記を提出してもらった。


  ※ 現在、少なくない手話を学ぶ人々は、この「授業拒否」問題を「手話と口話」の問題として、生徒たちが手話を要求して「授業拒否」したかのように書いている。

 その典型として、以降の掲載する京都府ろうあ協会が声明を出した「3・3声明」を引用している。

 だが、「授業拒否」問題を「手話と口話」の問題だけに問題を単純化して考えるのはあやまっている、と思える。


 生徒たちのビラに書いた、

    私達は先生を「あの先生は手話ができるからよい先生だ」とか「あの先生は手話が出来ないからわるい先生だ」とか ー そんなことをいっているのではありません。ろう教育に対する、又私達に対する誠実さと、理解及認識の深浅を問題にしているのです。

と言うことを深く理解していかなければならないのではないか、と思う。

 最近、手話を覚えたりろう学校の教師になろうとしたり、なった教師の中で、
  「あの先生は手話ができるからよい先生だ」
 「あの先生は手話が出来ないからわるい先生だ」

 と言っている事を非常によく聞くようになった。

 だが、あえて書くと「手話が通じていないかどうかは、関係なく手話をする事でろう教育をしているのだ」と錯覚しているのではないか、とも思える。

 手話が「出来る」= ろう学校の生徒への「理解及認識」が出来ていると思い込んではいないだろうか。

 「授業拒否」問題で生徒たちが提起したことを単純化している。
 教育とは、そんなに単純な方法や簡単に出来る問題ではない。

 さらに、生徒たちやろうあ協会が、事件を「教育の基本問題」と言い、「ろう教育の基本問題」と言わなかった深層が理解されていないように思える。

 単純化すれば、読まれるだろうが、あえて、多様な生徒たちの要求と基本に迫っていきたい。
                                                     ( つづく )

2013年7月23日火曜日

声を出さない私達の口形が どれだけ読みとれますか ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(3)





教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


※ 聾学校高等部生徒会の出した「全校の皆さんに訴えます 京都府立聾学校高等部生徒会」のビラは、教職員の中で衝撃とともに充分読まれた。
 のちになって判明するが、この生徒会のビラを読んだ先生の中で感銘を受けた先生は少なかった。

  高等部の先生ではなく 中学部の先生が批判される

 大半は、「なんということをするのだ。」「教師攻撃だ」とする意見だった。

 しかし、聾学校の高等部ではなく、中学部の教師の中で生徒会のビラを大いに歓迎する意見が多かった。
 生徒自身が自分たちの要求を持ったこと、意見を出したこと、しかも自主的に。
   こういう動きは、聾学校では何よりも大切にしていかなければならない。


 とくに、中学部の教師たちが休日を返上して「京都高校生の交流集会」の手話通訳をはじめ、同じ高校生と交流した機会を持てるようにしたことが高等部の生徒たちを大きく成長させたなどの喜びが溢れていた。

 高等部と対照的な中学部の先生の考えは、後々、激しい教職員からの批判を浴びることになる。

 高等部の生徒たちの授業に対する要求は

 また、高等部の生徒たちが先生と話をしたいという「授業」については、ビラには具体的に書かれていないが、調べて見るよ次のようなことだった。
 
「授業がよくわかるもの中心であり、こうした差別には納得がいかない」
 
「一生懸命に質問に答えても、先生は聞こえないふりをする」
 
「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」
 
「手話で教えて欲しい」
 
「授業がわかるように研究をもっとやって欲しい」
 
「私たちと先生は仲よく勉強したい」
 
「何のために勉強するのか、その目的について話してほしい」

1965(昭和40)年11月19日 ろう学校の生徒会は、再び全校にビラを配布した。
  以下その文を掲載する。


  特に高等部の生徒は手話をやめて
  口話で話すように と校長

 校長先生及び全校の先生方へ!!

 11月13日土曜日の朝礼で校長先生は私達に

「中・高の生徒は手話が多すぎる。これでは小学部でせっかく一生懸命口話をやっても何にもならない。
 特に高等部の生徒は手話をやめて、口話で話すように」


「明日の憲法討論集会にはT先生とF先生に行ってもらうから承知するように」

とおっしゃいました。〈後者は高等部主事のお話し〉

  声を出さない私達の口形が、どれだけ読みとれますか

 このことは、言外に手話が出来るM先生やFU先生は行かさないと言った意味を含めていると私達は解釈します。

 又生徒は、集会の日につきそって下さった二人の先生が、私達には何の役にも立たなかったことや、万一の場合を考えないで、早く帰ってしまわれたことにも問題がありますが、このことには今回はふれません。

 校長先生は

「手話をやめて、口話でやれ、身振り程度ならかまわないが…...」

とおっしゃいました。

 T先生は生徒指導部の主任ですが、私達とはことごとく話が通じ合わず、意見が対立します。

 校長先生のお話があってから、T先生は

「校長先生があのようにおっしゃるから、私は手話を使わない」

とおっしゃいました。

「よろしい、ではT先生は声を出さない私達の口形が、どれだけ読みとれますか、それは苦しいことでしょう。お疲れになることでしょう。」

 私達は実際にこのことを実験しました。

  十分な口話が出来るために
 学校や教育委員会はなにをして下さいましたか

 そして私達が常に人の口をいや応なしに読ませられ、苦しく疲れてしまうことを説明しました。
 この切実な切実な声を、T先生、校長先生はどうお考えでしょうか。


 勿論、私達だって完全な読話や発音が出来るようになりたいし、口話教育が大切なことを否定しません。

 他の先生方からも、このことについては、よく聞かされ、自分達でも考えているからです。

 しかし私達が十分な口話が出来るために、学校や教育委員会はなにをして下さいましたか。

 ある先生のお話では、このためには、やはり三才位から、十分な教育条件を整えてやらなければ不可能だとおっしゃいました。

  小学部の生徒達は手話を使っている
    授業中先生は手話を使って話しているのに

 私達は殆どが六才~八才になってろう学校へ入って来た者ばかりです。

 当時は幼稚部もありませんでしたし、かりにあっても家庭の事情で、その教育を受けられるものばかりではありませんでした。

 家が遠く寄宿に入っても寮母さんは私達の食事や身のまわりの世話に忙がしくて、とても学校で学習したことを教えて下さる余裕はありません。

 担任の先生もよく変ったし、いつのまにか私達は手話を覚えて先生達も手話を使われました。

 今だって小学部は口話に一生懸命だとおっしゃいますが、小学部の生徒達は手話を使っていますし、授業中先生は手話を使って話しておられます。

 私達高等部の生徒はよくその様子をみかけます。

 校長先生は、何故そのような過程を無視して急に口話、口話と言い出されたのでしょう。

  口話法さえちやらんぽらんでいながら
  口話だ口話だといって居られる先生も数多い

 口話教育が大切だとお考えならば、なぜ全校の先生とよく相談した上でいろんな意見をまとめた上で私達におっしやって下さらないのですか。
 

 何故口話が大切で手話がいけないのか。
 よく判るように説明して下さらないのですか。

 先生達は何故もっと口話法の勉強をし、どんな風に教えたら私達にわかりやすいか、何を教えたらよいか-例えば、生徒会の集団討議では、どう口話を生かしたらよいか-を研究して下さらないのですか。

 口話法とは何なのか、このことを充分にきわめつくして行けば必ずその限界線上に手話が浮び上がって来ると思います。

 しかし残念ながら、口話法さえちやらんぽらんでいながら、口話だ口話だといって居られる先生も数多いと思います。
                                                                ( つづく )

 

2013年7月22日月曜日

ろう学校を驚愕させた 一枚のビラ ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(2)



教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  生徒たち登校して自主的な学習をしていたことを考えて

 ※ 最初にお断りしておかなければならないのは、当時、聾学校では、約200人の生徒中聴力が90㏈以上の生徒は、(現在デシベルの国際基準に合わせて、両耳の聴力レベルがそれぞれ100デシベル以上のもの・両耳全ろう)京都府教育委員会が京都府議会で正式に答弁したのは、30%。

 
 従って、聾学校高等部には、補聴器を付けても充分聞き取れる生徒。
 補聴器を付けなくても聞こえる生徒。
 口話で先生の言っていることがほとんど読み取れる。
 進行性の難聴だった生徒。
 重複障害だった生徒がいた。

 
 その生徒たちが集まって、それぞれの記録を出し合い、先生の言ったことをつき合わせて事実をしっかりおさえて、生徒会の「全校の皆さんに訴えます    京都府立聾学校高等部生徒会」のビラを密かにつくったのです。
 そのビラを見た先生たちは仰天。青天の霹靂であったという。
 そして、教職員の中で意見が二分し、大論議と対立と分裂が生じたことが最近分かりった。それらも後々述べていたい。

 だが、今回のことを調べて見て「授業拒否 ー3・3声明に関する資料集」のタイトルが、ことの本質を不充分現していないのではないか、と考えた。

 写生会は、教育外特別活動であって一般授業と切り離されて考えられている。
 生徒たちは、それにNOと言い、学校に登校したのだから「同盟登校 ー写生会拒否」のような名称が当時の表現としてふさわしかったのではないか、と思う。
 なぜなら、生徒たちの教育要求は「まともな授業をしてほしい」と言うことであったからである。

 「全校の皆さんに訴えます  京都府立聾学校高等部生徒会」の続きを掲載します。

  先生は組織活動のいろはも御存知ない

3,ある先生がおっしゃいました。
「先生にはいろいろの考え方がある。生徒会としては、一番よいと思う考え方に従えばよい」と。


これでは生徒会はたまったものではありません。
 卓球部の大会派遣選手の練習については、Y先生のお考えもあります。

 M先生のお考えもあります。勿論、T先生、F先生、N先生のお考えもあるでしょう。
 このようなとき、生徒会は一番信頼しているN先生の考えを取り上げた場合、一体どうなるとお考えでしょうか。

 私達は生徒会活動の中で、組織活動とはどのようなものか、実践を通じて体得しはじめています。
 それなのに、先生は組織活動のいろはも御存知なくて、それでも先生として指導なさろうと言われるのでしょうか。


 ある意味では、こんな恐ろしいことはないと思います。

 今よりもなお高く、今よりも
       もっと先生方と親密になることを

 


この書類を提出するに当って、ただ一つ心残りがあります。
 それは、指導部のN先生と、この件について相談出来ないことです。
 何故かといいますと、N先生と相談すれば、その結果、もし説得役として、N先生が来られたら、私達は、先生方と話し合うことも何もかも、できなくなってしまうからです。

 このような重大な問題は、直接の当事者がN先生であろうとも、やはり、高等部の先生全部の話し合いの中で深められ、高められなければ意味がないと思います。

 生意気な生徒達だ、けしからんと思われる先生もあるでしょう。
 相変わらず生徒は常識がないと言われるかも知れません。

 しかし私達生徒は、このような問題が誠実に取り上げられることによって、高等部生徒会が今よりもなお高く、今よりも、もっと先生方と親密になることを希望して、最後の手段をとるのです。

 くれぐれも申し上げますが、
「私は全く関係がない。これは生徒の誤解だ」
などと不誠実な回答を賜わりませんように。

 浮き上がりだ、一部の生徒のとんでもない考えだ、など軽々しく考えないようにお願いします。
 私達は以上のような書類を生徒会で書き上げ、そして生徒指導部に提出することを全員一致で決定し、それにもとづき、11月12日、午後1時、役員の手から、直接部長であるT先生に手渡しました。

  何の断りもなしに、約束を破って帰ってしまわれた

 その日の放課後生徒集会をもちましたが、その時、指導部のT先生とF先生が来られ、いろいろと話をされました。

 しかし、そのお話は、一部の生徒のみにしかわからなかったのに加え、私達が要求した回答ではないと判断し、11月16日の放課後、3時10分から指導部の先生三人と、生徒代表とが話し合う約束を致しました。
 生徒代表は、3時10分約束の時間に集まったのに対して、約束を守ってきちんと来て下さったのはN先生だけでした。

 T先生は、しびれを切らして、呼びに行った会長、副会長にいわれて、やっと来て下ださったし、F先生は、呼びに行った2名の生徒の目の前で、用事があるからと、私達に何の断りもなしに、約束を破って帰ってしまわれました。

  自分は生徒会から退くことにします
          私は校長にそう伝えます

 仕方がありません。
 先生2人と、生徒会代表とで、話し合いがもたれました。
 
 その時のT生徒指導部長の回答は次のようなものでした。


「自分は、このようにごたごたすると困ると思って居りました。
 なるべくおだやかにすませたいと思って居りましたが、事ここに至っては非常に難しくなって来た。
 現在では、自分はN先生とは意見が合いません。
 TはTとして立場をはっきりしなければならなくなりました。この際自分は生徒会から退くことにします。私は校長にそう伝えます」


 これでは、前記の提出書類に対する回答にはなりません。
 しかし、T先生は、このことを、くり返しくり返し、一生けんめいに、みんながわかるために言って下さいました。

 この態度は立派であると思い、私達は態度に誠意のあるのを見いだしました。 しかしF先生の、前述のあの態度には、残念ながら一かけらの誠意さえ見いだせません。

 その上、11月17日の生徒集会においても、会長の言動に対し、

「馬鹿野郎」

とカンカンに怒ってどなられたのです。

  みなさん方も 
  皆さん方の問題としてとらえ 私達と共に考えて

 私違は16日の指導部との話し合いによって、親密になれることを期待していました。
 しかし、このような態度の先生とは親密になろうと思っても無理だと判断しました。
 そして先生としても失格であると判断しました。
すみやかに御退職されることを要求します。


 又、主事は提出書類の問題については、指導部の責任だ責任がの一点張りで、私達に対して、ひとかけらの誠意も示して下さいません。
 このようなことには、明らかに問題があると判断します。

 幼稚部、小学部、そして中高等部の先生方、私達は、今日、今日予定されていた写生会をけり、登校致しました。

 私達は満足に日本語をあやつることができません。
 そのかわり、このプリントをお渡しします。


 皆さん、私は関係がないなどとおっしやらず、私達が当面しているこの重大な問題を、このプリントから理解して下さい。

 そして、皆さん方も、皆さん方の問題としてとらえ、私達と共に考えて下さい。

                                                                      ( つづく)

 

2013年7月21日日曜日

無責任ででたらめな言葉に対して はっきり抗議した ろう学校の生徒たち ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(1)

 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


※ 以下長文になるが、ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見、特に生徒会のビラを中心に掲載する。
 
 読めば、48年前のろう学校の生徒たちの思いがジンジン伝わる。
 だが、このビラは生徒たち自身が先生たちに見つからないようぬ充分相談してつくりあげたものである。


 しかし、学校も、京都府教育委員会もこれらの動きには、必ず裏で画策している教師がいるとして、その教師をおさえれば問題が解決すると考え続けていたことが事件から数十年て明確になる。

 裏で画策している教師がいる、と考えた教師には、のちのち手話通訳に携わる人たちにあまりにも有名になった先生たちは、まったく除外されていた。
 なぜなら、その先生たちは、学校や学校外で一切沈黙し続けたからである。

 

 むしろ高等部以外の先生たちから、生徒の要求の正当性を認める意見が出てきたが、その先生に対する嫌がらせは、中途半端なものでなかった。

 教師同士の間で、自由にものが言え、お互いに批判し、よりよき教育をすすめて行こうとすることは極めて大切であるが、現在の教育界でもそのことが、上下関係の中で抹殺されているように思える。

 すでに掲載したA先生の実践 …… 学校は 日常実践の悩みや喜びを語り合い 疑問を出し合い学習を深め 教育論議をし お互いに実践的統一を計りつつ支え合い 育ち合うところ …… をもう一度読んでいただければと思う。

 実は、A先生は、ろう学校授業拒否事件を熟知していて、教職員集団のあり方の基本を考えていた。

 教師が、バラバラで、お互いの責任をなすりつけ合うようでは教育も子どもたちもすすまないことを。

 
それを「反面教師」として考えたことは、与謝の海養護学校設立に生かされていることを知る人はほとんどいない。

 
 この胸振るわす生徒たちの48年前の意見。
 ろう学校の教師たちは、大歓迎すべきであったと思うのだが。


  いつまでたっても誠意を示さないのは誰

  全校の皆さんに訴えます        京都府立聾学校高等部生徒会

1.私達は、第一学期の末、プール掃除の問題や、学習上の問題で先生方と話し合った時、二学期から時々生徒との話し合いを持とうと約束しました。
 私達生徒会では、この約束に従って、指導部(注ろう学校の生徒担当)メンバーの一人であるN先生を通じ、指導部と生徒との話し合いを持とうと、9月上旬に申し入れました。
 しかし実現しませんでした。


 9月下旬にも申し入れましたが、やはり実現しませんでした。
 さらに10月にも、三たび申し入れました。
 やはり実現しませんでした。

 この三度にわたる申し入れをにぎりつぶしたのは誰でしょう。
 又、そのうちにやりましょうとか何とかいって、いつまでたっても誠意を示さないのは誰でしょう。


   誠意のない態度を徹底的ににくむ

 私達は、その人が誰であってもにくみません。

 しかし、このような誠意のない態度を徹底的ににくみます。

 私達が話し合いを望むのには、それ相応の理由があります。

 問題をかかえているからです。
 その問題とは、次のようなものです。


  1、第一学期の末、学習について生徒集会を持ち、討論を行ないました。

 その結果、様々な意見が出ましたので、この件につき、先生と生徒との話し合いを持ち、積極的にとりくみたいと思いました。

 とりあえず、生徒の意見を間違いなく生徒指導部の先生に伝え、さらにこの問題を高等部の先生方皆で深めていただきたいと思いました。

 にもかかわらず、一寸もとりあおうとされないのは、一体どういう考え方なのでしょう。

 忙しいから、家庭の事情があるからといっても、もう二学期のはじめから申し入れてあることです。
「遅くなってすみません。そのうちにお話しましょう」
というようなお返事を、万一いただくようでしたら、生徒会は本当にふんだりけったりだと思います。

 何故、このような誠意のない態度がとられたのか、先生も含めてこのことを徹底的にみんなで考えねばいけないと思います。

  学校の根本問題 学習   どうせ生徒は

  学習についてといえば、学校の根本問題ではありませんか。

 私達は、このことが高等部の先生皆で肘議され、誠意あ回答が与えられることを望みます。
2,第一学期の末、プール掃除の問題について話し合った時、率直に返事をして下さったのは、ただ一人の先生で、他の先生の場合、先生問の連絡の手落ちは一応棚上げにして、色々理由をおっしゃったことの裏には、
「どうせ生徒は」
という気持が見えすいているように感じられました。

 この問題は、生徒の納得のいかないまま、うやむやになっています。

 運動会の反省の資料として、主事M先生がおっしゃったことの記録がありますが、その中に、

「生徒は自主性のはきちがいをしている」

ということばがありました。

   ろうあ者は常識がない 自主性をはきちがえている

 私達は、運動会については、特に朝、椅子やライン引きの準備が出来ていなかったことや、騎馬戦の練習時間について考え方の足らなかったことは認めますが、生徒は自主性をはきちがえていると、簡単にはきすてるほど、生徒はわけの分からない集団なのでしょうか。

 昨年の運動会では、あとしまつは、係の先生がブーブー言いながら生徒をかき集めてどうにか終ったのではなかりたでしょうか。
 私達は、こんな無責任ででたらめな言葉に対しては、はっきり抗議するために、学芸会ではこのような問題をとりあげ、生徒会の総力をあげてとりくみました。
 そして私達は、必ず、この誤った言葉だけのでたらめな態度をあらためていただこうと決心致しました。

 事実を確めず、生徒会という集団の誠実さをちょっともみとめず、何かあれば、頭の中だけで、すぐ

 ろうあ者は常識がない、自主性をはきちがえている

などというのは、全く自分自身を絶対的なものと考え、少しの反省もしない態度だと言えます。

 私達はその人を憎みませんが、このような態度を徹底的に憎みます。
 M先生はお忙しい先生です。
 M先生がお忙しければ、どうして指導部の先生方が私達と話し合いをされないで、ほっておかれるのでしょう。


 私達は無頼漢の集まりではありませんよ。
                                                              ( つづく )

 

2013年7月19日金曜日

ろうあ者みんなも 平和の中にしあわせに生きていく権利をもっている ろう学校授業拒否事件(3)



教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  1965年11月に起きたろう学校の「授業拒否」問題は、48年前の「過去の問題」として考えらている。

 そして、のちに資料として掲載する「3・3声明」がろうあ者団体や手話通訳関係者の間で広まっているが、その内容と経過の中でしばしばろうあ協会や当時のろう学校の生徒が主張している「教育の本質」「教育とはなにか」「教育をひとしく受ける権利」の問題は、脇に置かれた状況になっている。

 
 そのためろう学校の「授業拒否」問題もまた「聾学校は特殊な領域である」であるという骨組みに組み込まれてしまっている危惧がある。

 そのため「特別支援教育論」や「特別なニーズ論」を唱える人々は、この48年前にろう学校の生徒たちやあまりにも過酷な労働の中でも時間を切り裂いてあつまり教育を考え、教育の本質を広く国民に知らせた取り組みを注視しないでいる。

 個別ニーズと討論を重ねた上での「集団ニーズ」は、日本で取り組まれていた。

 「特別支援教育論」や「特別なニーズ論」を唱える人々がよく引用するイギリス系教育システムのごく一部分などは、すでに日本で問題提起され取り組まれてきていた。
 問題なのは、それに注視せず、無視してきた教育行政や国、研究者にあったのではないかと思わざるを得ない。

 夜明けの白々とした明るみを眺めながら、48年前の教訓を再考するために当時のろう学校の生徒の出したビラ、関係者から事情を充分聞いたことを元に長くなるが、あえてこの問題を深めるために掲載してみたいと考えた。

 同時に、これを考えるための資料を印刷して残してくれたろうあ協会のみなさんの血の滲む努力に敬意を表明しておきたい。

 以下「1,はじめに」を掲載し、次回からは、当時のろう学校高等部の生徒が出したビラを掲載したい。


  教育問題にさしたる関心を抱かず
    取組みらしい取組みもしてこなかった

 今まで教育問題にさしたる関心を抱かず、取組みらしい取組みもしてこなかったことが、この大切な人間としての願いに、このような非生産的な表現しか与えてこなかったのではないか。

 このことを十分点検し反省しないで、下手にわれわれがこの問題に手を出すとどうなるか。

 ビラの中で後輩がつたなくも触れている個人批判にひっかかり、ろうあ協会650名の会員による特定教師に対する総攻撃ともなりかねない。
 それは絶対してはならない。

 そのためには、まず事実をもっと具体的に調べる必要がある。

 後輩のビラだけではどうもよくわからないところもある。

 かくて、11月29日われわれの代表が京都府立ろう学校へおもむき学校長に会見を申し入れることとなった。

 このあとの経過は、以下の資料および本協会発行の「京都府ろうあ協会の歴史と諸問題」の記述が克明に示している。

  教育の基本問題だとする姿勢を一貫してくずさなかった

 問題はわれわれが予期した以上に大きくなり、劇的に二転、三転し、数ヵ月にわたって紛糾を重ねた。

 われわれろうあ協会としても全組織をあげて取組まざるをえず、協会の平常の事業はしばらくの問完全に麻痺した。



そうなったのは、

 われわれがこれを教育の基本問題だとする姿勢を一貫してくずさなかった

からである。

 われわれがこの問題からなにを学んだか。今の時点で整理できることは、「あとがき」の中で述べたい。

 以上の記述で明らかなように、われわれは決してはじめからこの問題の本質をはっきり把握した上で取り組んだのではない。

  平和の中にしあわせに生きていく権利をもっている

 われわれの出発点はもっと素朴なものだった。

 われわれろうあ者も等しく、日本国憲法に明記された人間としてのもろもろの権利を  享受し、平和の中にしあわせに生きていく権利をもっているという信念から、後輩の問題を教育上の基本問題としっかり捉えたところから出発した。

「あとがき」の中でのべる一つ一つの具体的な結論や教訓は、われわれが「教育問題」というきわめて未熟未経験な分野でのたたかいをすすめていく過程で、われわれの前に次々と明らかにされていったことである。

 しかし、われわれをそこまでたたかわせたものは、

「われわれ自身がろうあ者である」

という事実以外のなにものでもなかった。

 これを読まれる方々の適切なご批判によって、われわれの結論や教訓がより豊かに、より普遍的なものとなることを願ってやまない。
  
                                                                 ( つづく )

 

2013年7月16日火曜日

後輩が寄せた次の手記を読めば それは今も昔も変らない




教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  われわれは、今の時点で歴史的、社会的に見たこの問題の本質や意義が十分客観的に正しく把えられるとは思わない。
 それはいずれわれわれの今後の努力や、この社会のほんとうの民主化を目指す国民運動の発展によって当時われわれが提起した課題や取組みのあり方が、歴史の発展の法則にかなっていたかどうかを正しく評価され位置づけられるものと思う。


 「授業拒否」の冊子の「はじめに」に書かれたこの部分は、何度読み返しても格調高く、謙虚に書かれている。
 だが、今日に至っても、「歴史の発展の法則にかなっていたかどうかを正しく評価され位置づけられるもの」という提起への評価や意見はほとんど書かれていないで紹介程度に留まっている。

 引きつづき「はじめに」の文章を紹介したい。


  理屈ぬきでそう直感した  「これは教育の基本問題だ。」

 このような時にあの事件が起った。
 子供を聾学校へ通わせている一会員から伝えられた。
 生徒の配布したビラも資料として出された。


 「これは教育の基本問題だ。」

 われわれは自分たちの経験から理屈ぬきでそう直感した。

 しかし、われわれが今行き当っている問題とのつながりは正直にいってまだ意識の表面にのぼっていなかった。

  われわれの未経験  後輩(生徒)たちの問題の出し方

 当惑した……というのがむしろその時のわれわれの受けとめ方だった。

 われわれの当面の関心から外れた教育の場でおこった問題だった。

 われわれ自身、10周年記念式典をめぐる山積する仕事の処理をかかえていた。 しかし、われわれを神経質にしたのは、後輩(生徒)たちの問題の出し方と、教育上の問題の取扱いに関するわれわれの未経験だった。

 後輩たちのビラの内容は生徒なりの素朴な形で教育上の基本問題を提起していた。

 しかし行きがかり上やむを得なかったとはいえ、取扱いをむずかしくする個人批判も含んでいた。

 一方、われわれの中には、われわれの大部分を教育してくれた京都府立聾学校、ひいてはろう教育一般に対する抜きがたい不信感、不満が常に暗く渦巻いている。

 われわれを直接的にそうさせたものは何か、
 後輩が寄せた次の手記を読めば、それは今も昔も変らない。

 
 このことをわれわれははっきりと感じる。

 誰からもかわいがられる聾唖者にするためがんばる

 前略ー僕が高等部へ入学した時だった。

 ランプがついて授業がはじまる。先生が来た。
 話をはじめた。

「私は私の教育の信条に従い、皆さんを誰からもかわいがられる聾唖者にするためがんばるつもりです。

 皆さんはこれまでのようにむやみに文句を言ったり、反抗してはなりません。 そんなことをすれば人様から嫌われます。
 耳が聞えないならば聞えないなりに、うまく生きる方法を考えなくてはなりません。」


 ベルの音。
 別の先生がやって来た。


  耳が不自由なのだから 
       数学、国語などを学ぶのに無理がある

「職業科の勉強は他の教科よりも特に大切だと思うから、そのつもりでいてもらいたい。
 数学、国語も結構だが、耳が不自由なのだから、それを学ぶにも無理がある。 その点技術の習得にはげめば、聾であっても立派に生きていける。
 
 嘘だと思えば君達の先輩をみるがよい。
 
 聾唖者は生きるためにガマンすることが大切だ」


 ずいぶんいろいろなことをしゃべる先生達。

 僕を含めた全員、もっともだといわぬばかりの顔つきで熱心にきいている。

 無邪気な表情。

  聾学校の職業科偏重の教育は僕達に対する差別教育の一つ

 そして、一年生の時はすべて先生のおっしゃる通りに過ぎていった。ー中略-

 僕は今、聾学校の職業科偏重の教育は僕達に対する差別教育の一つであったことを知った。

 そして僕は、職業科偏重教育のみならず、現在の聾学校における教育が、僕達の将来とは全く切りはなされたもの、役に立たないものであることを知っている。

 ……しかし、僕達よりも一足早く社会へ出ていった多くの先輩の中には、毎日毎日、技術という観念に束縛され、朝から晩までわき目もふらず仕事をしている人がいる。

 社会の進歩、発展、歴史の流れにとり残され、社会全体から忘れられた存在となって細細と暮している人達がいる。

  聾唖者をこんな現実に対決していけないほど
                                                   無力にしたのは誰

 自分達の受けている差別にも、おかされている権利にも気がつかず、その日その日をせいいっぱいに生きればそれでよいと思っている人がいる。

 先生のおっしやることに対して批判する力ももてず、ただ盲目的に従っている人がいる。

 僕らの友達はこれでいいのか。

 聾唖者の不幸とはこれらの現実ではないのか。

 一体僕を含めた聾唖者をこんな現実に対決していけないほど無力にしたのは誰なのか-後略-

 この手記は後半で問題をかなり整理して提起している。

 しかし、後輩だけでなく、当のわれわれの中にも暗く渦巻いているろう教育に対する不信感、不満ーは、ほとんどすべての会員がくぐりぬけてきた、前半の部分に象徴されるろう教育の現状から生まれてくるのではないか。

  不信感・不満は
   ろう学校の教育に対して寄せる切々たる願望の裏返し

 しかし、われわれ自身にも問題がなかったか。

 この不信感・不満-は、かつてろう学校で不十分な教育しか受けず、社会へ出てもさまざまな悪条件、差別の中でおしひしげられているわれわれが、人なみの平和でしあわせな生活を願い、教育に対して寄せる切々たる願望の裏返しではないか。







 

                                                      ( つづく )

2013年7月15日月曜日

われわれの努力は どうして報われないのか。



 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 1960年代末。
  京都ろうあ協会青年部のある人から、一冊の冊子を読んで感想を求められた。
 それが、


 「授業拒否 ー3・3声明に箝する資料集ー 社団法人京都府ろうあ協会編」


であった。
 1968年6月3日発行のものであったが、当時京都府ろうあ協会の連絡先は同窓会と同じ京都府立ろう学校となっていた。
 この段階で、この冊子の発行の経過や問題点が何となく分かる気がした。


 この冊子のはじめに書かれていることから紹介して、順次考えたことを述べてゆきたい。(※ 尚小見出しは原文に則して読みやすくするため加えさせていだだきます。)
 
目立ない形ではあるが   着実な形で進展している

 1、はじめに

 1965(昭・40〉年11月18日、京都府立聾学校では、高等部の全生徒が当日船岡山公園で行われる予定だった学校行事の写生会を拒否して登校し、生徒集会を開き、自分たちの立場を明らかにするビラを全職員、生徒に配布するという事件がおこった。

 これが問題の直接の発端である。
 ここにまとめた資料は、この事件を発端とする一連の問題の発展を、それと密接なつながりを持ってきだわれわれ京都府下の成人ろうあ者の団体、社団法人京都府ろうあ協会の立場から、跡づけるためのものである。

 問題の根は広く深かった。
 それだけに当初の発展は人目を奪う劇的なものだった。
 そして、今も目立ない形ではあるが、引き続いて着実な形で進展している。


  全国の関係者の方々にありのままの形で出し
     有益なご批判をいただいておくことの必要を痛感

 われわれは、今の時点で歴史的、社会的に見たこの問題の本質や意義が十分客観的に正しく把えられるとは思わない。

 それはいずれわれわれの今後の努力や、この社会のほんとうの民主化を目指す国民運動の発展によって当時われわれが提起した課題や取組みのあり方が、歴史の発展の法則にかなっていたかどうかを正しく評価され位置づけられるものと思う。

 それだけに、きわめて劇的だった当時の発展を、出来るだけ評価をまじえない確実な形で整理しておくこと、又、この際広く全国の関係者の方々にありのままの形で出し、有益なご批判をいただいておくことの必要を痛感する。

 これがこの資料集の作成を企画した目的である。

 ただしその前に、この資料集をよりよく理解していただくために、問題が劇的な形で表面化していった当時に、われわれ成人ろうあ者集団京都府ろうあ協会がどのような状態にあったかを、別の資料として、「まえがき」の形を借りて述べておく。
 
   われわれの努力はどして報われないのか

  同じ頃、われわれはある一つの課題をかかえて緊張していた。

 任意団体として発足した京都府ろうあ協会は、昭和31年5月10日に京都府より社団法人認可を受けている。

 昭和41年はちょうど、この認可を受けてから10年目であった。


 この10年目を一つのエポックとして、今までわれわれがして来た仕事に一応の区切りと評価を下すこと、より具体的には10周年記念式典(大会)を挙行すること、付帯事業として「京都府ろうあ協会史」を編纂すること、「全国ろうあ青年研究討論会」を開くことなどが当時のわれわれの議題にのぼり、そのため連夜理会が招集されていた。

 われわれは長い間文化的、娯楽的な事業の他に、次に記すよういくつかの政治的、行政的目標をかかげ、その実現に努力してきた。

一、手話のわかるろうあ者のための専任福祉司をおかれたい。

一、成人ろうあ者の文化、教養活動の中心としてのろうあ者会館を設立されたい。

一、身体障害者雇用促進法を完全実施されたい。さしあたって府・市の公務員にろうあ者を採用されたい。

一、ろうあ者にも自動車運転免許を与えられたい。

部分的な成果はあった。
 しかし、この中一つとして当時完全に実現されていなかったし、今も実現されていない。


 低賃金、住宅難、結婚難、意志疎通の困難、職場,家庭での疎外、差別--さまざまな悪条件の中で生活している会員の切々たる声を受け、上に向っては押しても引いてもびくともしない政治の厚いカベに行き当り、われわれは正直に言って疲れていた。

 われわれはなぜこんな条件の中に置かれなければならないのか。

 この条件はどうして改められないのか。

 われわれの努力はどして報われないのか。

 これからわれわれはどうしていけばいいのか。


--「京都府ろうあ協会史」の編集をめぐって、われわれは、これまでの活動の総括として、この問いにわれわれなりの答を出すことを迫られていた。会議のたびにこの問いをめぐって熱い議論が交されていた。
                                                                                                          ( つづく )

 

2013年7月11日木曜日

未来を切り拓く教訓があった京都ろう学校における「授業拒否事件」




教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 ろう学校の未来展望のためにすでに掲載した文章をもう一度引用しておきたい。

  寄宿舎に入れてろう学校で学べた
                                お母ちゃんが喜んで…

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 2年ほど前に京都府立聾学校や教育行政・養護学校づくり・普通校などを経験し、退職したB先生(ご本人は実名でも良いとおっしゃっていたがインターネットに掲載する関係でイニシャルにする。)にインタビューを行った。そして、今では誰も持っていない重要な資料をお借りした。
 そのインタビューで聾教育・聾学校等に関わる部分について掲載したい。

  1952年 新採として350人の生徒がいたろう学校へ

 聾学校の教諭になられたのはどのような理由からですか。 
・1952(昭和27)年新採。
 ある校長に呼ばれて、


「子ども好きか」

と聞かれて、

「好きです」

と答えたら

「ほな明日からきてくれ」

と言われて行ったらろう学校やった。

(※注 この時校長から手話をぜひ覚えてほしいと言われたことが、ブログに掲載したとき消えていたので追記しておきます。)

 教師二人、寄宿舎寮母一人の三人の採用でした。
 ろう学校には先輩方がおられて学んで行ったという状態です。


 私は、小学部と中学部の重複学級教えていました。
 重複学級は、学校全体から言えば数名でした。
 小学部が一番多くて、一学級15,6人。それが各学年3学級あった。


  荒れはてていたろう学校の教師たち

  1952(昭和27年)新採で行った頃のろう学校は、府庁前から御室の仁和寺に移転したばかりの学校でしたが、と思う以上に「荒れはてていた。」

 職員室の机の下に一升瓶置いたり、ウイスキーの瓶が転がってたり、宿直で麻雀している先生などたくさんいた。

 学校の周りの畑に先生が、ネギとりにいって、すき焼きする。校長が「ネギ取りに行くな」というそんな時代。
 

 無政府状態の学校。
 背景にあったのは、障害者差別でしょうね。
 子どもに何言ってもわからへん。
 子どもの言っていることがわからへん。
  ろう学校の教師のろう学校の生徒への考え

 ろう学校の先生の中でも「ろう学校から出してくれ。出るようにしてくれ。」と先生が言ってきた。

 「なんでや」

って聞いたら、

「うちの嫁はんが責め立てる。私は高校の教師と結婚したんで、ろう学校の教師と結婚したんではない。」

「ろう学校の教師をしているんやったら、私は離婚します。」

と言われる。責められる。普通の高校に出すようにしてくれ。

「なんでそんなこと言うんや」

と言い、

「それはろう学校の生徒に対して差別していることになる。」

と大げんかになった。


「聾教育は『「特殊か領域』」? 」

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー」


  聾教育は特殊な領域である

 最近、聾学校の現職の教諭がいくつかの本を出している。

 その中のある本に次のような事が書かれていた。

 私の率直な思いを書かせていただくと、聾教育というのは、かなり特殊な領域であるように思います。

 学生の頃、ある聾学校の先生から「あの大学の先生(研究者)は、教育現場のことをわかっていないと最もよく(陰口)を言うところは、聾学校だよ」と言われたことがあり、「これは研究者と現場の教員の『乖離』を嘆く一つであり、自分も研究・教育実践にあたって注意しなければならない」と私は受けとめました。
 また、大学のいろいろな先生方と話をしていますと、障害児教育一般のことはよくご存じでも、聾教育や聾学校について良くご存じないと感じることが何回かありました。
 例えば、「現在の聾学校は、重複障害児が大半を占めている。」とか「聴覚障害だけある子どもと(軽度)知的な障害をあわせもつ子どもは、一般の知能検査によって容易に区別できる」とかいう「誤解」が、その一例です。
 
 聾教育に携わる現職の教諭として責任ある態度は、

 聾学校は特殊な領域であるとする根拠としてあげている

1,あの大学の先生(研究者)は、教育現場のことをわかっていないと最もよく(陰口)を言うところは、聾学校だよ。
2,現在の聾学校は、重複障害児が大半を占めている。
3,聴覚障害だけある子どもと(軽度)知的な障害をあわせもつ子どもは、一般の知能検査によって容易に区別できる
のうち、1,聾学校の先生が言っている記述として書かれ、2,3は、研究者の言っていることとして書かれている。
 だが、1,2,3とも聾学校の教師が言い続けてきていることである。
 そのため、3つの根拠を持って、「聾学校は特殊な領域である」という結論にはならない。

 率直に思っているのは筆者であって「聾教育というのは、かなり特殊な領域であるように思います。」と書いている以上は、筆者がその根拠を書く必要があるだろう。
 誰々が言っているから、と根拠だけで現職の聾学校の教諭の自分自身の感想、意見を裏付けるのは責任ある態度とは思えない。

  未来を切り拓く教訓があった京都ろう学校
               における「授業拒否事件」

1952(昭和27年)から現在まで上記のことを比較してみると現在まで京都ろう学校が抱えてきた底流がみえる。

 ろう学校の底流を大きく改革する機会は、幾度もあった。

 だがそうならなかった背景には、「聾教育というのは、かなり特殊な領域である」と断定している処にあると思われる。

 京都府立盲学校舞鶴分校・京都府立ろう学校舞鶴分校(盲ろう分校)と髙野小学校との共同教育の取り組み。
 山城高校の聴覚障害教育の取り組み。
 与謝の海養護学校の設立までとその取り組み。

と比較するとそのことが鮮明になる。
 

 そのことを踏まえて、京都ろう学校における「授業拒否事件」を重要な教訓として今日的視点から検証してみたい。


 

2013年7月8日月曜日

ろう学校に手話を導入することだけでは ろう教育は変わらない


 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
 これまで、1970年代に中心的に取り組まれた京都の障害児教育。
 とりわけ、京都府立盲学校舞鶴分校・京都府立ろう学校舞鶴分校(盲ろう分校)と髙野小学校との共同教育の取り組み、山城高校の聴覚障害教育の取り組み、与謝の海養護学校の設立までとその取り組み、当時の教育委員会の状況など今日ほとんど知らされていない教育の一部を紹介してきた。


 これらの中に未来への遺産としての障害児教育の教訓があると考えている。
 だが、これらの教訓を研究者はもとより多くの教職員が知ろうとしないのはきわめて残念なことである。

  特別支援教育は
            障害児教育の「元年」だろうか

 当時の教職員は、あらゆる機会に自分たちの取り組みを報告し、多くの人々の意見を聞いている。子どもたちの意見や文章も子どもたちから求められない限り、子どもたちの意見や考えを「すべて」残している。

 一人ひとりの子どもたちの意見をどこまでも尊重した証でもある。

 だが、それらの記録は謄写版の手刷り印刷であったため今開いて読んでみると紙がバラバラッと散り去るほど脆くなっている。
 何とか、この記録を保存したいとN教育大学の教授と取り組んでいるが、この貴重な資料を見ることすらしないで過去の障害児教育と決めつけ、バッサリ切り捨てる人が多い。


 だが、そういう人ほど歴史的に誤りとされ多くの障害児を差別・選別の能力主義をあおる手法を、「現代特別支援教育の元年」として、障害児教育が行き着いた最先端とまで持ち上げている。

 はたしてそうなんだろうか。

   ろう学校に手話を
  教職員が手話教育を!でろう教育の未来が見えるか

 そこで、これから京都府立聾学校の過去の教訓を学ぶとどのようなことが現在のろう学校の課題となるのかを述べてみたい。

 まず、最初に述べておきたいのは、ろう学校に手話を。ろう学校の教職員は手話が出来るようにすべきだ、と盛んに主張する意見について述べておく。

 ろう学校で手話が取り入れられたとしても、ろう教育の未来は保障されるわけではない、ということである。

 口話教育に対抗手話教育で、ろう学校教育が変わるかのような単純な問題ではない、ということである。
 
 


 このように書くと批判が続出するだろうが、すでにこのブログで書いた未就学のろうあ者やろうあ者の人々の暮らしを読んでからご批判いただきたい。

  日本手話や音声対応手話
       などは近年勝手につくられた名称

 第二番目に強調しておきたいのは、日本手話や音声対応手話という用語は、ある人々が言い出したことで、明治生まれ以降のろうあ者から手話を学んだものとして、教えていただいた方々に尊敬の念を添えて書いておきたい。

 自分たちの使っている手話は、日本手話や音声対応手話などと区別しないで「手話」と言っていたことを。

 そこには、音声言語の影響を受けたものもたくさんあったし、またろうあ者同士が話し合うために創造されてきた手話もたくさんあった。

 線引きをする、区別することすら出来ないほど、ろうあ者の人々はコミニケーションをはかるために「あらゆる叡智」を出してきたのである。

 そのことが無視されているのではないろうか。

  ろうあ者の人々が創造してきた手話が破壊される時代
           底流でろうあ者の叡智を否定する

 いや、ろうあ者の人々が創造してきた手話そのものが崩されている時代が今ではなかろうか。

 そのことを踏まえずして「特定の人が作った手話」を教育現場に強要するのは、標準語の名の下に日本語が画一化されてきた時代に逆行するのではないか、と思う。

 すでに述べてきたように、教育は教育としての基礎の上にろう教育を考えなければならないと思う。

 京都の手話で、教える、と言う手話は人差し指を横にして目の前から前後に振る、という表現であった。
 この手話をめぐって、明治、大正、昭和の初期をろう学校で学んだろうあ者は、先生が黒板に書いたことを棒で指し示した。
 でも、しばしば、いたずらをしたり、理解出来なかったこと場合、先生はその棒で生徒をシバイタ、と言う。

 そんなところから教えるという表現が出来たのかもしれないと思っていると、あるろうあ者は、学問の神様の北野天満宮の鳥居を省略したものであるという。

 手話表現ひとつでも、いろいろな意味合いが含まれているのである。

 が、学は、人差し指を曲げて眼の中に入るという手話表現である。

     眼に入って 学ぶ

 学ぶこと、すなわち目を通して知っていく、という表現なのである。

 こういう手話に重ねられたろうあ者の生活と想いと創造を踏まえないで、単に手指だけになる。

 しかも、手話テキスト通りの手話をろう学校に導入しても、それは本当に生徒のコミュニケーションを発展さたいという要求にはならないろう。

 ろう学校の卒業生から見れば、教えるということと学ぶということは、同列ではないのである。
 

2013年7月2日火曜日

再来してきている 子どもたちを「あやつり人形」と見ること


 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 古い革で覆われた教育を新しい教育展望に変革されるときは、いつも多くの困難と課題にぶちあたり、それを解決して行かなければならなかった。
 
 血と涙と汗を流しながら 数え切れない人々の参加が

 1950年代から1960年代にかけての京都の障害児教育は、それらの問題を集中的に取り組んだ点で学ぶべきことはあまりにも多すぎる。

 このことを学ばないで、最近かって京都の障害児教育を評価してきた人々の中にそれと逆流することを平然と述べられていることには驚きを通り越して唖然とすることがあまりにも多い。


  教育対象外とされた子どもたちの教育の可能性を訴え、それを実現してきたこと。
 すべての子どもの発達の可能性を実践的に立証してきたことの背景には、すでに述べてきた岩に自らの身体をぶち当て血と涙と汗を流しながらも数え切れない人々の参加によってその岩を揺り動かした人々のことは、軽々に否定・無視してはならないと思う。


  人間の知能は
知能検査だけで測定できると考えるほど単純だろうか

 そのひとつ「教育対象外」とされた根拠に知能検査・IQ問題がある。

 最近、「発達障害の子ども」をめぐってさかんに特定のIQ検査法の講習会が開かれで、この子はノーマルで知的に問題がないが……とか、IQの数値はこうだから……と子どもたちのIQを具体的に公表し「発達障害の子ども」の課題を論じている人々が多くなった。

 このことは、1950年代から1960年代にかけての京都の障害児教育でさかんに論じられ、それを克服する取り組みがすすめられてきたことへの「否定的教育」でもあると言えるのではないだろうか。


 
 このように書けば、その当時の知能検査・IQは未熟なもので現在の検査方法は、もっと科学的に証明されているという反論が来るだろう。
 だがそうだろうか。
 
 知能検査だけで測定できるほど
人間の知能は単純ではない

 

 人間の知能を知能検査だけで測定できると考えられるほど、人間の知能は「単純」なのだろうか。

 それに対する答えは、「NO」である。

  1973年1月。矢川徳光氏は「教育とはなにか」の中で京都の与謝の海養護学校の実践から書き起こし、この知能検査に附いて全面的な批判を書いている。
 その一部を紹介したい。


  人種主義に基ずくテストは……

 日本の子どもたち、教師たち、父母たちをなやませているテストは、その由来をたずねると、人種主義ということへゆきつくからです。

 そのはっきりした証拠は、アメリカの心理学者ソーンダイクにみられます。
 かれは、1904年に『精神的社会的測定理論入門』という本を書いて、知能検査のためのテスト理論の体系をはじめてまとめました。

 また、1943には『人間とその事業』という本をだしましたが、これらの本でみられるソーンダイクの思想はたいへん明瞭な人種差別主義でした。
   かれによりますと、人間には「精神のゲン」(精神の遺伝子)が遺伝の法則にしたがってそなわっており、その作用によって、人間は「生得的能力」をもって生まれてくる、というのです。

 ところで、その「生得的能力」を、白色人種の方が有色人種のばあいよりも、より豊かにそなえていると、ソーンダイクは主張しました。

 ソーンダイクが人間には「精神のゲン」があるというばあい、かれは精神も遺伝されるとみるあやまった見解をもっていたことを意味しているのです。

  すでに指摘されていた  知能テストの根本的な誤り

 ソーンダイクのあとをうけて、知能指数(IQ)の理論の発展やテストの作製に活躍した学者としてアメリカの心理学者ターマンがいますが、ターマンのテスト法(じつはピネ=ターマン法というのですが)は1920年代後半から1930年代前半にわたって、ソ連の学校教育に禍いしました。

 それを批判した学者たちは、知能テストの根本的な誤りは、子どもの思考を「刺激-反応」という図式でしかとらえてやらず、子どもの個性または人格をみてやらないことにあると、指摘しました。

 ある学者は、知能テストをやる者は「子どもをあやつり人形(マリオネツト)」としかみていない、といいました。

  子どもたちは あやつり人形ではない

 IQをさぐりだす知能テストはイギリスの教育界にもながいあいだ禍いしてきました。

 イギリスでは「イレヴン・プラス」検査といって、子どもが11歳になるとIQの数値のいかんによって、子どもたちはその後の進路や進学コースをきめられてきたのでした。
 今日は、それの非教育性が明ちかにされ、新しい型の総合制学校(コンプリヘンシヴ・スクール)をつくる運動がすめられています。


 その運動の先頭にたっている学者たちの一人にブライアン・サイモンという教育学者(レスター大学教授)がいます。
 そのサイモンは、人種差別(とくに黒人差別)の思想にこりかたまっているアーサー・ジェンセンというアメリカのカリフォルニァ大学心理学教授が知能検査の有効性をイギリスで宣伝したとき、その非科学性を暴露し、同じ見解をもつ人たちとともに、ジェンセンを批判しました。

 それは1970年のことなのです。
  よそごとであるとうけとってはならない  IQ(知能指数)の有効さ
 ジェンセンの考え方は、知能水準や能力は遣伝法則によって決定されている、というものです。

 黒人の知能と生活も、労働者階級の知能と生活も、遺伝がおそまつだから、貧しいのだと、ジェンセンは主張しています。

 かれは、知能水準の低いものたちの学校教育は丸暗記式の学習をさせておけばよい、かれらは「思考する」能力をもっていないからである、と考えているのです。


 こういうことは、むかしのソ連のこと、いまのアメリカのこと、イギリスのこと、などといったぐあいに、よそごとであるとうけとってはならないものです。

 ジェンセンのばあいから判断できるわけですが、IQ(知能指数)の有効さを主張する思想の根っこは人種差別や階級差別と切りはなせなく結びついています。
 

 そういう思想の源泉が遺伝決定論にあることは、すでに指摘しました。
 
  差別・選別の能力主義

 この思想は日本の教育における「能力主義」の奥底にもひそんでいるものです。
 「能力主義」は差別主義の思想であります。
 そのもっとも露骨なあらわれは、同年齢層の青少年のなかには、知能が優秀で科学的な思考力に富んだものは3パーセントか5パーセントしかいないとしているエリート選抜思想にみられます。

 それは、テスト主義と切りはなせません。

 中教審が、いまの六・三・三制とは別に、「幼児学校」を新設してエリート訓練の苗床にしようとしているのも、同じ考え方からでているもので、差別・選別主義のあらわれです。

 そこで、この問題の検討は教育の事実とてらしあわせて、もすこし深めてみる必要があります。

   知能偏差値が高いほど 知能はすぐれているのか
 
 知能指数は上昇する。
 IQ(知能指数)については、それがなにかしら生まれつきのものであって、変化しないものであるかのように考えている人たちが、まだかなり多いようにみうけられます。

 とくにわが子の教育に熱心ないわゆる「教育ママ」たちのあいだでは、これはそうとう大きな頭痛のたねのようです。

 いやそういうお母さんたちだけでなく、教師たちのなかにも、IQは子どもの能力とかねうちとかを計る尺度の一つのように考えている人がかなりいそうです。

 それどころか、「知能検査」を売り物にしている学者のなかにも、まだそういう人たちがいるようです。

 そのうちの一人とおぼしき学者が、まえにあげたターマンをかつぎながら、こう書いています。


「知能指数70以下で、50~70のものを痴愚、25~50のものを魯鈍、20または25以下のものを白痴として区別することがある。」

 この「区別する」ということばは、差別すると表現した方がより適切だったろうに、と思わくらいれます。

 これは「バカ」の位づけなのでしょうが、これを書いた学者は、つづいて知能偏差値についての説明をしています。

 知能偏差値というのは、知能検査であらわれるある個人の得点と、その年齢層(満の月)の人びとの平均得点との差を一定のやり方で操作してだされる数値のことです。

 知能偏差値が高いほど、知能はすぐれているとされるものです。