2012年9月28日金曜日

本当の事をいってやっぱり不安だらけ


   教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 コミニケーションのあらゆる基本は、聴覚障害生徒が学ぶ機会をつくったが、ひとつの方法だけがいいとか、これが聴覚障害生徒にはいいと、はしなかった。
 青年期になると、コミニケーションの選択は、聴覚障害生徒自身が考え、自分にとっても、周りの人々のコミニケーションにとっても一番いいものはなにか、を考えることが出来るようなる時期でもあると考えたからである。


   一番かんじんな聴覚障害生徒の聞こえの権利保障への関心

  聞こえの権利保障に消極的であったが (了)

 高1の時と比べて、活動目的は増えた様に思えるが、一番かんじんなのが聴障生たちの気であって、聴障生たちがその気にならない限り、ある目的まで到達するのはなかなか難しい事だと思う。
 今までは、主にOHP(要約筆記)で済ませて来て、今年の卒業式に、手話通訳者をつけてもらった程度のものであって、全体的に乏しい様に感じられた。

 それも、そもそも私たち聴障生皆が「聞こえの権利保障」、に無関心に近い立場にあったからではないかと思う。

 かなり消極的であった  私も聞こえの権利保障の活動に

 これからは、聴覚障害者である事を自ら自覚し、「聞こえの権利保障」の活動に積極的に参加し、努力して行くべきだと思った。

 最後に、えらそうなことばかり並べたてた。

 私も、やはり、「聞こえの権利保障」の活動に関しては、かなり消極的であったと思う。

   自分の将来と進路の抱負について

 私は、今年の4月6日の歯科技工科の入学式に出席する。

 この時からもう私の将来は決まっている様なもんである。
 あと決まらないものといえば、勤め先である。
 まあ、この先3年間の成果が将来の勤め先に影響を与えるだろうけど、そんな事は現在の私にとってはもうどうでも良い事である。

まだうだうだと言っている私の器はまだ小さい

 何の因果でこの道を進む事になったかは、今でもはっきりしないが、本当の事をいってやっぱり不安だらけである。

 本当にやって行けるのか、又は自分の性に合っているのかという風に悩みの種はつきない。
 歯科技工科に関する興味は確かにあるのだが、やはり半分遊び程度にしか見てない様な気もする。

 しかし実際将来の仕事、生活に関わるのかと思うとよけいに不安になって来る。

 今さら、あ一だとこ一だと、うだうだ言っていられないという事はわかっているのに、この様にしてまだうだうだと言っている私の器はまだ小さいと見える。

 うだうだと言っている割には「後悔」という言葉はどこにも見つからない。

 自分自身、後悔だけはしたくないという強い願望を持っているからなのかも知れない。

 もう後は後悔せぬ様、がんばるのみしかないと思っている。

                                                                             Esperanza

 

2012年9月26日水曜日

私たちが 聞こえの権利保障を要求するといった力があったの


  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  普通学校で学んだ障害児のことが書かれた本は多い。
 だが、交流や理解の広がりやその逆のことが書かれても授業の工夫やその実践はほとんど書かれていない。
 それは、小学校は6年。中学校は3年。高等学校は3年。としてひとつの事例としてしか残っていかないからである。

 近年は、大学の取り組みは燎原の火のように広がっている。
 そのなかで高等学校の取り組みが遅れたのは……と考える時がしばしばある。


   聞こえの権利保障に消極的であったが (5)

聞く事、話す事 (各種行事での聞こえの権利保障について)

 「聞こえの権利保障」、という言葉はよく耳にする。

 さて、「聞こえの権利保障」とは何であるのだろうか。
 「聞こえの権利保障」、とは、簡単に言えば、私たち聴障生が生活して行く上で、健聴者が耳から聞こえるものを同じ様に正確に聞き知る事が出来る様にする事であって、すなわち「聴覚保障」のことである。

 聞こえの権利保障を要求するといった力が
            あまり無かったように思えて

 現在の社会は、はた目から見ても、わかる様にほとんど何から何までも、健常者向きに又、健常者中心であると言っても過言ではない。

 そんな社会の中に、聴覚障害者が何百万人も存在しているのだから、それだけ聞こえの権利保障、はどうしても重要となってくる。

 それなのに、私たち聴障生は、「聞こえの権利保障」、それらを要求するといった力があまり無かった様に思えて来る。

 山城高校に3年間居ながらも、そういうものに関しては自ら関心を持たなかったというふうにも見られる。
 先生の話している言葉が全然わからなくっても、「無理もないや」というふうに、当り前の様に心のどこかで諦めが出ていたのかも知れない。

山城高校へ
わざわざノートを写しに来ただけのようなものでいいの

 毎日の授業の意味等、全然わからないのに、私たちは山城高校3年間ずうっと根気強く通っていた。

 よく考えてみると全くおかしいものである。
 それに間違っているとも思える。
 私たちは今までずうっと教科書や友達のノートをあてにして勉強して来た。


 これじゃまるで山城高校へわざわざノートを写しに来ただけの様なものである。
 不利な事に、聴障生は健聴生とちがって、真面目に聞いていても聞こえないのである。
 やはり、聴覚障害生たちだって、健聴生と同じ様に、先生の話を聞いたり、ノートに写すために学校に来ているのだから。
 そうでないと「聞こえの権利保障」、は成り立つとはとても思えない。


  手話通訳、をつけたらいいのだ式の考え方だけでは
      絶対解決出来ない

 「聞こえの権利保障」、を満たすためにも手っ取り早いのが、手話通訳、である。
 その手話通訳、でも、色々と問題は残っている。
 例えば、日本語に方言があるのと同じ様に手話も地方によって少々異なってくるのである。

 残念な事に、共通手話というものはあまり知れ渡っていない。
 それに、手話通訳者を付けたからといって話が全部、通訳出来るとは限らない。


 手話を知らない聴障生が沢山いる事等、問題点はごまんと残っているのである。
 この様に、聴障問題は、手話通訳、を付けたらいいのだ式の考え方だけでは、絶対解決出来ないのである。

 大切な聴障生たちが自分の障害に自覚を持つ

 我が山城高校では少しでも「聞こえの権利保障」、を満たす事が出来る様、色々な対策をたてて来た。

 1週間に1回、聴障生間でミーティングを開いたり、集団補聴器を使用させたり、要約筆記(OHP)したり、先生たちの間でも、定期的に聴障研修会を開いたり、新入生の聴障アッセンブリーを実行したり、あらゆる手を打って来ている。

 後、残るのはやはり「聞こえの権利保障」の中でも最も重要な、手話通訳、である。
 特別行事の時だけ、手話通訳を付けてもらって来たけれど、本来、どんな時にも付けてもらうのが普通である。

 それに加えて聴障生たちが自分の障害に自覚を持つのも、手話通訳に劣らず大切なものだと私は思う。
 私たちもそうであった様に、現在の聴障生たちは、障害者としての自覚をなくしがちである。
 もちろんこのままではいけない。我が校には手話部という物までがあって、現在5人の健聴生たちが活動中である。

 せっかく手話部まであったというのに、私はあまり必要としていなかった。

 本当ならば、その人たちを最も必要とし、又感謝する立場にあるというのにその気配は一向に見られなかった様な気がする。        ( つづく )

                                                                        Esperanza
 

2012年9月24日月曜日

反省すべき わかっていながら今いちやる気になれない私

  
  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 T子さんの「 グループの中に1人でもいれば話はスムーズに進む」と言うことは、健聴生徒とのクループ会話だけでなく、聞こえる人々との会話の成立の上でも大切なことを教えてくれている。
 さらに、ともするば「孤独」に陥るという聴覚障害生徒に対して自ら、ひとり、そしてふたり。
 自分も含めて3人の友人が出来ることで、さらに大きなグループの輪が広まることを提起している。

 
 聴覚障害生徒同士や健聴生徒の中で聴覚障害生徒が学ぶことのメリット、デメリットについて

「どっちもどっちで、それなりに価値のあるものだと私は思っています。」

と言い切っている。
 このことは、当時のインテグレーションや現在のインクルージョンを唱える教師・研究者に対する教訓として受けとめていく必要があるのではないだろうか。


 「それなりの価値」

とT子さんが言い切った意味は深い。

              聞こえの権利保障に消極的であったが (3)

授業の意味をなんとか把握しようと一生懸命先生の口の動きを

 勉強について
 授業中の事

 山城に入りたての頃は、健聴生の中に交って勉強する、そういったものにも、全然慣れておらず、友人作り同様にものすごく困っていた。

 初めの頃は一番前の席でずうっと目を開けては、先生の口の動きだけを頼りに、授業の意味をなんとか把握しようと自分なりに一生懸命だった。
 それでもわからないものはわからないのである。
 そんなふうに、わからない所は、自分のあせりと共に、だんだんと増して行った。
 色々な手段の中の1つとして、カセットテープを使っては、家に持って帰っ
て、家の人に聞いてもらったりしていた。
 しかし、そんなものがあるとかえってなまけてしまうのだった。


 例えば、カセットがあっても、ノートぐらいはとるべきなのに、つい、カセットがあるから、というふうに思ってしまい、なまけてしまうのであった。
 他に、家の人もあまり時間がとれないという理由からして、カセット対策はまず成功したとは言えなかった。

   難聴学級の中で育って来たからも 
     健聴生との勉強になかなかなじまなかった

 そんな私にとっては、家での勉強が第1となった。
 そんなある時、バドミントン部の練習が本格的になり、家に帰っても眠くて勉強がはかどらず、ますます勉強は遅れてしまい、困るばかりだった。

 それで思い切ってバドミントン部をやめてしまったのである。
 健聴生との勉強になかなかなじまなかったのも、今まで難聴学級の中で育って来たからもある。
 健聴生との勉強の仕方も覚えて行き、少し余裕を持ち始めた所で現在のボート
部に私は誘われたのである。


 中には、教科書等全然使わず、自分の覚えている事言い放題風の先生もいた。
 私たち難聴生たちが最もあてにする黒板には、落書き程度しか書かないひどい(私たちにとって)先生もいた。
 そういう先生がまず悩みの種となり、いつまでたっても解決する事が出来なかった。
 カセット作戦を使っても、そういう先生に限って声も小さくはっきりしない。

 そういう災難にあったのは、幸い1年の時だけで、後の2・3年はほぼ皆いい先生ばかりだったので、これらの授業はまず安泰していたと思う。

   めんどうくさい、という気持ちに打ち勝とうとする姿勢

 家での勉強
 
 予習・復習はとても大切、と一般の人は皆簡単に口にする。
 確かに大切ではあると私も思う。

 それに、予習・復習の大切さはもう中学の時から知りつくしていた。
 でも実行し始めて3日間と続いたためしがない。
 しかし自分は難聴であるという自覚も少しあったせいか、この科目なら予習だけ、あの科目なら復習だけというふうに区別し、継続的にやっていた。
 とにかく、予習・復習の両方ともやった覚えはないというのである。
 テスト前となると復習が中心的になる。
 テスト前の復習だと何故か早く片づくものである。

 もちろん、急ぐからと言って、手抜きしたり、簡単にまとめようとはしていない。
 つまり、普段3時間かかる復習を、テスト前ではたったの1時間で片づけてしまうと言った具合なのである。

 集中、やる気の問題だけでなく、緊張感の問題でもある様だ。
 1年中、テスト前という気分にひたっている訳でもない。
 そこが難しいのである。

 それでもやるべきことはやるべきである。
 めんどうくさい、という気持ちに打ち勝とうとする姿勢が一番大切ではないだろうか。

 私たち難聴生たちは、復習も大切であるが、それ以上に予習はもっと大切なのである。

 それをわかっていながら今いちやる気になれないのが現在の私である。

 反省すべきである。
                                                                                                              ( つづく )
                                                    
                                                                                                                            Esperanza

 

2012年9月21日金曜日

健聴生徒との会話でゆううっな気分に覆われたことを吹き飛ばしてくれた


  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 T子さんは、引っ越しのため東京のろう学校からD小学校に転学、難聴学級に入級。そしてN中学校の難聴学級から山城高校に入学してくる。
 D小学校もN中学校も京都市内の固定式難聴学級で、学校生徒も少なかった。
 そのT子さんが、いきなり1000名を超す生徒数の山城高校に入学したのだから、とまどうのは当然のことだったが……。


                聞こえの権利保障に消極的であったが (2)

友だち関係について
健聴の友人

 私が健聴の友人を本格的に持つ様になったのもこの山城高校に入ってからのことであり、それまではその機会が余り無かった。
 やっぱりその手には慣れておらず、初めのうちは、ものすごく迷った。


  まず自分の発音に慣れてもらうこと
               相手の口の特徴を覚えることなど


 積極的に出ればいい、という事は頭でちゃんとわかっているつもりでいたけれども、いざとなるとなかなか行動に移す事が出来なかった様な気もする。

 やっと積極的に出来たかと思えば又、別の新たなる問題が待ちかまえていたという感じだった。

 例えば、まず自分の発音に慣れてもらう事、相手の口の特徴を覚える事等、いつだってその問題は消えずに残っていた。
 いつまでも、同じ人を相手にしゃべっているわけにも行かないし、その点についても同様に困っていた。

 今から思うと、当り前ではあるが、クラブでの同級生が一番慣れていたなあとっくつく思う。
 人数も少ない上に毎日3時間以上は一緒に活動していたのだから。

 まして日曜日とか土曜日でも半日以上は一緒にいたのだし。
 
 グループでの会話を本当に楽しむということは
    私にとってはとても考えられぬことであったが……

 私はボート部に入っていた。
 部活動がおもしろいと思う頃にはもう学校生活を本当に心から楽しめる様にまでなっていた。
 健聴生とグループで話すのに自信を持てる様になったのも、このボート部に入ってからのことだった。
 普通、難聴の多くは向こうが慣れてくれない限り、グループで話すのを大の苦手とする。
 私もその中の1人で、健聴生となら2人でゆっくりと話すに限ると思い込んでいたのである。

 グループでの会話を難聴である私が心に本当に楽しむということは当時の私にとってはとても考えられぬ事であった。
 しかし、ボート部ではそれを可能にした。

 幸い女の先輩はおらず、男の先輩ばかりで、その分だけ気も楽でよくしゃべっていた。

  
      惨めでつらい 作り笑い

 ボート部に入るまでの私は、クラスメートとグループで話す時はいつも作り笑い、というものをしていた。
 それはとても惨めで又つらいものであった。


 何を話しているのか聞こうにも、グループの人が3人以上だと、話が変わるのも早く、もうついて行けない。

 かつては、何話してんの?、と聞いてはその話に食らいつこうとしていた。

 ある人に通訳などしてもらうのだが、通訳してもらってる間にグループの人は興ざめしたかの様にしらけ半分になっている。

 ついさっきまで盛り上がっていた雰囲気がまるでウソの様に見えてくるから、よけいに私は気にするのである。

 これは差別の問題ではなく、タイミングの問題だと私にはそう思えてたまらなかった。
 グループの人も別に差別している様子にも全然見えず、ますます困ったものである。

 
  タイミングをつかんだ人が一人でもいると
   グループでの会話はスムーズ

 ボート部に入ってからはっきりとわかった事なのだが、グループで会話する時は、聞く方のタイミングも大切なのだが、通訳してくれる方のタイミングも聞く方のタイミングに劣らず、それどころか、それ以上に重要なものなのである。
 それらをつかむのにも沢山のコミュニケーション等を(2人の会話等)必要とし、又、時間的にも沢山必要とする。
 それらをつかんだ人がグループの中に1人でもいれば話はスムーズに進むのである。
 1年かかって、やっとわかりかけて来たという人ばかりであった。
 クラスメートは部員とちがって、話すのは少しの休み時間しかない。
 だから、やっと慣れたかと思えばもうクラス替え。
 またはもう卒業という感じだった。

 その度に私はゆううっな気分に覆われるのである。
 私の力は、せいぜい1年でやっと慣れるようにしか出来ていないのかというふうに思いっっ、落ち込むのが常となった。

 それに比べてボート部の同級生は半年後にはもうつかんでいたし、良かったなあと思っている。

     どっちもどっちで、それなりに価値のあるものだ

 健聴生の友人で、難聴生の友人よりもいいと思える点と言えば、やはり、学ぶべき事が多い事にある。
 他に言葉使いとかも結構ためになる。

 それに難聴生同士だと世間に対する視野というものがどうしても狭くなりがちである。


 しかし、つき合っているのが健聴生だと、視野は必ず広くなり、色々と世間の厳し等そういったものを教えてくれるのである。
 だから、どちらかの方が良くて、どちらかの方が悪いという事はない。
どっちもどっちで、それなりに価値のあるものだと私は思っています。
                                                                                     ( つづく )


                                                                                                                       Esperanza
 

生徒からの要求と提起  「聞こえの保障と教育」



  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  多くの方からご意見をいただいたので、今まで掲載した山城高校定時制の生徒と同時期卒業した全日制の聴覚障害生徒T子さんの「卒業論文」を分割して掲載します。
 彼女はかなり熟考して書いてくれています。
 定時制と全日制の授業や取り組みについては違いがあるけれど、聴覚障害生徒や担当教師は全日制と定時制をわけへだてなく接してきました。
 T子さんの文章を読んで、聴覚障害教育は、成人や青年期からもう一度幼児期、学童期の教育のあり方について考え増した。

  聞こえの権利保障に消極的であったが (1)

 友人関係について 
 難聴の友人

 難聴生同士の友情ならまず80以上は成功すると言っていいほど良好である。
 後残る20%は性格などの不一致によるもので、健聴生同士の世界でもよく見かけるものである。
 健聴生たちの中で育って来た難聴生同士ほどうまく行くものである。
 聾学校の聾唖者同士でも卒業後、社会に出てしまえば同じ様なものである。


 ただ、健聴生の中で育って来た難聴生に比べて、難聴、又は聾唖者同士で話し合える有りがたさを知る機会が非常に少ない。

  ただそれだけのことである。

  健聴生たちと過ごすなかで  健聴生とのよりも難聴生同士の方がうまくいくことのありがたさをしみじみ知った

 それらがわかったのもこの山城高校に入ってからの事であり、それまでの私は、難聴生同士の友情をまるで当り前の様に思っていたのである。

 小4まで東京にある聾学校に通っていて、中3まで、難聴学級という特殊学級が設けられていたD小学校、N条中学校へと私は通っていた。

 健聴生たちと共にする時があるとはいえ、私たちにとっては「無」に等しいぐらいに時間的に足りなかった。
 それ以外はずうっと難聴生同士で暮していたのでありがたさ、等少しも知るすべもなかった。

 ただわかっていたのは、健聴生とのよりも難聴生同士の方がうまく行きやすいという事だけであった。

 山城に入って、健聴生たちと過ごすなかで、ありがたさ、をしみじみと感じる様になった。

 最も特にそれを感じた時期が、山城高校に入ったばかりの頃、健聴生たちの中で過ごすのにまだ慣れていなく、どうしていいかわからず、少々とまどっていた時であった。

 話がなかなか通じないのを痛切に感じ、知らぬ間に臆病になっていったのが自分でも後でよくわかった。

        唯一の楽しみが日曜日だった

 そんな時の私にとっての唯一の楽しみが日曜日だった。

 日曜日となると私はすぐ、中学の時とても仲の良かった人の家へ行ったりしてその寂しさをまぎらわせていた。
 やがて1日が終わると又、明日から学校が始まり、ああイヤだな、早く日曜日になるといいのに、と願っていたほどである。

 もうひとつ楽しみだったのが、部活動一バドミントン部だった。
 私自身、バドミントンが大好きで、部の同級生や先輩たちもこの上なくいい人ばかりで、これ以上言うこと等なかったはずなのにやめてしまった。

 何度も繰り返すが、難聴生同士の友情とはかけがえのない物であってとても非常にいいものである。
 同じ悩みを持ち、同じ苦しみをわかち合えるからと、世間の人々は口をそろえがちである。
 しかし、私はそれだけの事ではないような気がしてたまらない。

 私は、かつて東京の聾学校に通っていた。

 その頃の友達を9年たった今もずっと忘れられずにいる。
 その中には9年間ずっと文通だけで仲を保って来た人もいる。
 9年ものブランクがあろうと話し合おうと思えば今にでも話せる。
 手紙だって書こうと思えば今にでも出せる。

 その様な友達ばかりなのである。

 それが難聴と健聴だとこうもうまく行かない。
 それも、難聴生同士における友情の長所の1っではないかと私は思う。

          少しの交流で 友情を育てられない

 D小とかN条中と山城高校と9年間(小4~高3)、私は難聴学級に所属していた。
 その中でも最も良かったと思うのが山城高校である。
 友人関係は又別に、まず制度がいいと思った。
 制度については他のD小もN中も見習うべきだと思った。

 今のままでは聾学校の再現に過ぎないと思う。
 どっちも勉強まで見る必要はないと思う。

  難聴生が授業を理解する。
  それはそれなりにすばらしいと思う。
  しかし、そ
のままでは聾学校と同じである。

 少しの交流があると言っても、友情を育てられるほどの時間がある訳でもない。

 何もならない。
 考えなおす、又は山城を見習うべきではないかとふと思ってしまう。

  勉強の面では、補充する程度にして、何も始めから終わりまで見る必要はないと思う。
 今から思うと山城高校でのやり方は本当に良かったと思う。
 
 ミーティング以外は健聴生と過ごす。
  ミーティングとは週に1回、難聴生が皆集まりいろいろな事について話し合う。 それはとてもいい対策ではあるが時間的に足りないと思った。
 困った事など1週間分を、たったの1日、しかも約20分前後で、奥深く話し合い、解決するものなのかと思ってしまう。

 話す時間がないとはいえ、もっと別の対策を立てるべきだったなあと思う。
 例えばH.Rの時間をミーティングの時間にするとか。(無理な話だとはわかっているけど。)


 卒業した今頃、あれこれ考えているうちにそう思う様になった。
 他にもっと真面目にするべきだったとか、もっと参加意欲を増やすんだったとか、少し後悔気味である。

 他に健聴生と比べていいと思う事と言えば難聴同士の友人は、年下も年上も又、男も女も関係ないといったところである。
 気さえあえばもう友達って感じなのである。
 それだけにやっかいな問題も普通に比べて多く起きるけど。                              ( つづく )


                                        Esperanza
 

2012年9月19日水曜日

つられた 「9歳の壁」と人格形成への影響


 
  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  G君の「未完の提起」の文章を見てつくづく考えさせられた。
 彼の文章は、途中で終わっているが、かれも、お母さんも祖母も、ストレプトマイシンによる失聴である。

     ㏈値だけですべてを判断することは、諫めてきた

 このことは、彼にも少しずつ在学中に知らせてきた。

 また、他の聴覚障害生徒で失聴の原因が明らかで、そのことをみんなに知らせてほしいと言う聴覚障害生徒のことも話してきた。


 聴覚障害生徒の聴力状況はさまざまで、またその聞こえの状況も違う。
 だから、さまざまな聴力検査をしてもその結果について聴覚障害生徒に知らせても、必要な場合は、他の聴覚障害生徒には、㏈の数値で知らせるなどのことはしなかった。


 聴覚障害教育研究会でもたえず㏈だけですべてを判断することは、諫めてきた。
 何故なら、㏈はいくら検討しても一つの手がかりになっても㏈値が聴覚障害生徒の聞こえの状況をほとんど決定づけることにはならなかったからである。

    残酷な「ことばの宿題」が 思春期 青年期になると
 

  E君の
「 残念なことには、私のお母さんは、口話訓練についても、ほかの普通の人と同じように出来なかった……。」

というのは、お母さんが中途難聴のため、自分の息子のことばの声が聞きとれないためでもあったと思うし、その時、

「お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。」

のこの提起を充分知る必要があるだろう。

 先のブログ
2011年11月19日土曜日  残酷な「ことばの宿題」
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http://kyoikkagaku.blogspot.jp/2011/11/blog-post_3742.html
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を読んでいただきたい。

 頭の中に「言葉の箱」を多く作れば作るほど
  インテグレーション出来るとは

 当時の幼稚部の先生は異口同音にして、概略的に言えば

「普通校に行くためには、ことばの箱を頭の中にたくさんつくり、先生や健聴児の話したことをそのことばの箱から取り出して話が分かるにする。」

「そのためには、どれだけことばの箱を多くつくり、ひとつひとつの箱にどれだけおおくのことばをいれるのかですべてが決まる。」

と言っていた。
 すなわち、G君はその課題が出来なかったため(失敗したため)ろう学校に残って小学部・中学部と進んできたのである。

  「その時、お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。」



「今になって私はそう思えるようになった。」

と書いていることは、幼稚部・小学部の宿題がすべて聞こえる親を前提にしたものであったことが理解出来たとともにそれは矛盾に充ち満ちたものであるということである。

 さらに、普通校に行けなかった自分が、問題を起こしたら「普通中学校の難聴学級」に転校させられる。

 多感な思春期の時期、自己形成期にG君は、その矛盾を考え解決の方向を見いだせないまま「荒れ」て行くのである。

   呑み込まされた続けた言葉の教育(口話法)

 (あらゆる先生あらゆる友達に感謝をこめて)でI子さんが初めて知ったことば、
 
 ぬくい、(あたたかい)。かいらし、(かわいい)。は、京都で広く使われている言葉であるが、標準語だけ教えられてきた彼女は、普通高校に入って初めてとまどいながら、その言葉を自分の中で消化していく。

 (いろいろあったけど やっぱり好き努力すればよくわかるようになって)で、I君が悩み続けた、

 私は、自分の言っていることが相手には聞きとれずにいることを考えない、自分の意志を通じ合うため、手をだして(暴力)しまったのです。

は、幼稚部の言葉の宿題が出来なかった時、お母さんが手を振りあげて叩いたことが「身についてしまった哀しさ」であることが後で解ってくる。

 人間の言語は、発達(成長)にともない、その状況に応じて多くの言語を獲得して行くものである。
 従って、「多くの言語」を「想定」して教え込むことによって何の意味も分からずに「言葉を発し」た生徒たちのその後は、あまり考えられていなかったように思える。

 
 無理矢理「言葉」を教えられた生徒たちは
  9、10歳のころに疑問を抱く

 率直に言って無理矢理「言葉」を教えられた生徒たちは、9、10歳のころに疑問を抱き始める。
 

 ものごとに批判的になる。

 この時、言葉の箱とともに生徒たちの人格形成に「影」を落とす結果を招いたのではないか。

 G君はそのことを「未完の提起」で言いたかったのではないかと思えたし、本人に話をしたら、「先生、なんで分かるの」と言われた。

  ろう学校に
手話を導入する場合に口話法と同じ問題を引き起こすのでは

 近年、口話法に全面的に対立してろう学校で手話を導入して手話教育を推進すべきだと主張され、各種研修会が開かれている。

 その内容を見て驚くのは、成人したろうあ者が使っている手話表現をそのままろう学校に導入しようとしている。

 身体的にも肉体的に未成熟な生徒に、成人のろうあ者が使う手話を教え、「強要」するならば、口話法と同じ問題が生じるだろうと考える。

 では、山城高校の聴覚障害生徒に手話を学ぶ機会を否定してきたのか、と問われれば決してそうではない。

 もっとあとで、そのことに触れて行きたい。

                                         Esperanza

 

2012年9月17日月曜日

未完の提起 この文章を俺の子どもたちに見せたいんや


  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  自殺は弱い人間がするものだ  これからは強い人になって

 しかし自殺は弱い人間がするものだし、これからは強い人になって、いつか皆に見返してやるという気持ちが支配するようになった。

 努力する、それは第一だった。

 口をよく見て一人ひとりのくせを知る。

 私が話しをすると相手が聞きとれない時は、声を変えたりいろいろ研究したりする。

 1年もたつと自然に普通の人と交じわって話せるようになってきた。

 それでも満足に行かなかった。

 本当に心の通じ合える友人がいなかったから。

 毎週土曜日になると授業が終わったらすぐにろう学校へ行った。

 ろう学校で一緒に生活した悪友と交じっていろいろと楽しんでいた。

 これが私にとって当時の楽しみの日課であった。

 中学校へ入って1年ぐらいは悩みながらおとなしくしていた。
 
 許せなかった
  親も先生も私の気持ちを無視し「勝手にしている」こと

でも心の中には親も先生も私の気持ちを無視し「勝手にしている」ことが許せなかった。

 世の中を この私が支配して何かをやろう。

 そして誰にもまけないほどの「英雄」になること。

 そのためには、いろんな経験をつまなければ人間は伸びない、と考え、野心をもつことにした。

 そのため中学校を卒業するまでにいろいろの問題をおこしおとなの世界に入っていった。

 難聴学級が出来て以来この私が一番問題生であったことは、先生がた、親のかたがたの記憶に強く残っていることだろう。

   たえられなかった
       「さびしさ」と「孤独」

たしかに私は

  「さびしさ」と「孤独」

 「こんなことをしてはいけない!!」

と解かっていながら

「こうする」

ことが自分でも不思議でした。

「さびしさ」と「孤独」のため、たえられなかったかも知れません。

でも、でも当時の私には私の存在を理解してくれる人は、まじめに勉強する生徒より、非行に走っている生徒の方が親しみやすかったのです。

     今度は親の反対を押し切って山城高校定時制へ

 さて卒業が近づいて、いつまでもこんな悪友と一緒にいては私にとってマイナスになるだろうと進路のことでいろいろ考えた末、昼間働いて、夜は夜間学校へと思い、今度は親の反対を押し切って山城高校定時制へ入学することにした。


 G君の文章はここで終わっている。

終わっていると言うよりも相談して「書くのをやめた」というのが、本当のところだろう。

  この一つ前の(ろう学校から転校させられた ますます親や世の中をうらんだ)を注意深く読んでいただくと、何度も書き直した初期の文章と異なっていることに気がつかれるかもしてない。

 前号の文章は、彼が卒業式が終わって残業して学校に持ってきた原稿用紙からはじまり、残業がさらに遅くなり、彼の家に原稿を取りに行ったものである。

 一行書いて寝込んでしまったE君は、仕事でくたくたに疲れていた。でも、なんとか書こうと必死だった。

「先生。この文章を俺の子どもたちに見せたいんや」

「おとうもいろいろあったけれど、ここまでやってきたんやと見せたいんや」

E君は最後まで書き切ることを言い続けた。
 だが、山城高校定時制に入ってから波瀾万丈の人生がはじまり、もう一度学びなおして子どもたちが産まれた、となると膨大な文章になる。

 それはそれで、「山城高校聴覚障害教育のまとめ・資料」に載せてもいいように事務室の了解も得ていた。

 だが、一番心配だったのは、睡魔に勝てないほどの状況にE君が追い込まれていること。
 それを削って書き続けて死んでしまったら子どもたちに、

「おとうもいろいろあったけれど、ここまでやってきたんやと見せたいんや」
               
と言えないではないか。
 これ以上の無理は子どもたちのために止めようではないか、と提案した。

「そうやなぁ」

とE君は哀しそうに頷いた。

   山城高校定時制入学以降のすべてを語っている笑顔

「未完の提起」という題をつけて、元気と余裕がある時、子どもたちやみんなに「つづき」を話したらと提案してみた。

 身体の限界を感じていたE君は、「そうやなあぁ」と言った。

 2ヶ月後。印刷された「山城高校聴覚障害教育 まとめ・資料」を数冊持ってE君の家を訪れた。

 彼は、「余分にもらっていいの」と満面の笑顔を浮かべた。

 その笑顔が、山城高校定時制入学以降のすべてを語っているようで、何度も通い続けたE君家族の住む家から帰宅する深夜の夜道は、心なしか輝いているように思えてならなかった。

                                                     Esperanza


 

2012年9月13日木曜日

ろう学校から転校させられた ますます親や世の中をうらんだ


  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 親も学校に呼び出されて、親から私はおこられた。

 その中で次第に親をうらむようになった。

  なぜ私のような耳の不自由な子を生んで生かしておいたのか

 なぜ私のような耳の不自由な子を生んで生かしておいたのか又、同級生もこんなに「不幸な姿」がある、と、世の中がいやになった、と開き直り、あやまったレールの方向に走り出した。

 このことは、ますますエスカレートし、両親・先生はこのままで、ろう学校の生活をすごすと、「赤信号」になるということで、普通の中学校に難聴生のための教室が新しくできたため、私をろう学校からN中学校へ移るようにした。

    両親・先生は、ろう学校から
 N中学校難聴学級に転校させたが

 それは京都で初めて難聴生のために作られた特別の学級であった。

 聴覚の能力のある人に限られていた。


 しかし、私は聴覚能力を持っていなかった。

 でも、ろう学校にそのままいるとますます悪くなる一方であると親と先生が勝手に決めたらしく、聴覚能力より学力がすぐれていたから、向こう(N中)でおとなしくしてさえいれば、性格もかわるだろうと思っていたようである。

   現実 一緒になると普通の人との話が通じなかった

 結局、N中学校へ入り、普通の人と一緒に生活をするようになった。

 先に述べたように、私が小学生の時家のむかいに普通の小学校があったこと。

 普通の人と一緒に勉強をすることにあこがれていた。

 しかし、現実、一緒になると普通の人との話が通じなかったし、勉強も先生の話も通じなかった。

 そのため、ろう学校にいた時友人も多かったことを思い出し




 「ろう学校へ帰りたい」

と思う一方、こんな所へ入れた親をますますうらむようになった。

 そのため、ろう学校にいた時より「反抗」がますますエスカレートしていきました。

 しかも同じクラスの難聴生や1つ先輩め難聴生は補聴器をかけていて普通の人と楽しそうに話をしたりして、私はますます人をうらやましく見るようになった。

 そして誓った。

 楽しかったろう学校生活からここへ変わったし、再びろう学校へ帰ることは出来ないだろう。
 自殺しかない……と。                      (  つづく )

                                                            

                                                               Esperanza

  

2012年9月12日水曜日

どうしてもさびしさにたえられず 自然と非行に走った


 

 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
  ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
             始めからわかっていた  今日の勉強

 私は京都ろう学校の幼稚部へ入学するまでは何一つおぼえていませんが、幼稚部へ入学してから中学1年まで、ろう学校の生活を送った。
 その生活の中でもいろいろと感動を味わった。

 私は同級生の中でも勉強の方は誰にも負けませんでした。
 授業に入るたびに先生が説明する前にも今日の勉強は何をするかは始めからわかっていたから。


 それは不思議と思っていたが、あとでわかったのは、私のお母さんが、私が耳がわるいとわかっていてその上に、お母さんまで中途難聴になったショックから、出来れば自分の息子だけでも不幸な世の中に送ってほしくないと思いながら、幼稚部に入ってから私への口話訓練をほかの人よりも倍にしこんでいたからだった。

  ほかの普通の人と同じように出来なかった
                私のお母さんの口話訓練

 小学部からは、復習に予習に毎晩のように厳しくしごんでいたおかげであった。

 残念なことには、私のお母さんは、口話訓練についても、ほかの普通の人と同じように出来なかった……。

 というのは、お母さんが中途難聴のため、自分の息子のことばの声が聞きとれないためでもあったと思うし、その時、お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。
 でも当時の私は、勉強がよく出来るといってじまんしていたわけでもなかった。

 それは、同級生の中にも、不幸な生徒ばかりが集まっていたから。

 一番ショックをうけた小学3年の時

 母子家庭、父子家庭、同和出身、在日朝鮮人、二重障害者、孤児、子どもと一緒では生活出来ないために一時的に施設に入る生徒たちも一緒に学校生活を送っていた。

 生活の貧しさから小学1年から盗みをおぼえ、せっ盗とかいろいろと悪いことをしている同級生が多かった。

 私が時にはそのことで注意したら、ほかの人は

「おまえはお父さん、お母さんいるから、おこづかいがもらえるし、ぼくら一つももらえないし、おまえはまじめや、仲間はずれしてやる」

と言われて一番ショックをうけたのは、たぶん小学3年の時だった。

 仲間はずれになり一人ぽっちになりたくないから自然に交流している間に盗みもいろいろとわるいことをおぼえるようになった。

 仲間はずれにしてほしくないと思いながら、自然にその友達のなかに入ったのは私の環境もあったと思う。

  家の前は小学校 毎朝通学している生徒をみていると「ベラベラ」とおしゃべりしたり楽しそう

 私の家の前は小学校であった。
 毎朝通学している生徒をみていると「ベラベラ」とおしゃべりしたり楽しそうに見えて、私もこの人と一緒になれたらいいなあと思っても、なかなか一緒になれなかった。
 耳がわるかったからです。
 家へ帰ってもあまり友達がいません。

 ただとなり同士の子どもだけと遊んでいても、その子どもは自分の同じ小学校の友達があそびに来ると、私は自然に仲間はずれになってしまう。

 又、その友達が帰ればとなりの子どもは一緒に遊んでくれるといった具合から、どうしてもさびしさにたえられなかった。

  自然と非行に走った

 だから自然に悪友と交じわるようになり非行に走ってしまった。

 そのため、悪さをして、学校の先生にばれて、怒られたり、廊下に立たされたりする日々がつづくようになった。
                                                  ( つづく )

                                                                    Esperanza
 

2012年9月11日火曜日

掲載させてほしい卒業論文を

 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 G君は再入学が認められたが、4年間。30過ぎで結婚し、子供も生まれる状況だった。
 15歳の頃とまったく違った通学。彼の仕事にかかる家族の生活への責任。
 やれるだろうか、と言う心配をよそに彼は日々、いそいそと学校にやってきた。


  ホントウにいろいろ問題があった生徒なの

「学校がこんなにも楽しいとは、思わなかった。」

と言う彼の姿に彼をよく知る先生は、

「前のG君はどこに行ったんだろう?」

と首をかしげ、前のG君を知らない先生たちは、

「いろいろ話を聞いて、授業に向かったけれど、礼儀正しくて授業もきちんと受けて課題もやり遂げる。他の生徒が騒いでも、授業に集中。ホントウにいろいろ問題があった生徒なの?」
と言われるほどだった。
 仕事におくれても教室に入る時は、頭を下げて静かに後ろの席に座る。
 休まざるを得ない時は、前もって先生に言うか、プリントに、次は~だから休みます。と書いていた。
 
       G君がもっと暴れれば暴れるほど全日制に入れる

 しばらくして、G君がやってきて話があるという。聞けば、

 「最初入学した時は、何もかもいやでこの学校や先生に反発ばかりしていた。そのことは、難聴児親の会の人々はとっくに知っていた。」N中学校難聴学級にいた時からそうだったから。
  だからある親から、
 「G君もっとがんばって。G君がもっとがんばれれば(注:暴れれば暴れるほど)定時制に難聴児を入れることが出来ないとなって、うちの子が全日制に入れるようになるから」

って励まされた。

 「こんな俺でも役にたっのだと思ってますひどいことをした。アホなことしか考えられへんかったんやなあの頃は。」

             先生たちは 心から俺を叱ってくれた

 「それにろう学校の連中話していたら、高等部やのに山城高校定時制のレベルどころか、小学校レベルの勉強をやらされとる。
 こんなことをしててもムダや。やめとけ、やめとけ、言って遊びに誘ったらぞろぞろついてきよった。」

 「あとで、ろう学校から定時制の先生に文句言いに来たらしいけど、ろう学校の生徒は叱られてヘンのや」

 「先生たちは、心から俺を叱ってくれた。でも、あの時は理解しようとしなかった。ゴメンな。」

 「結婚式びっくりしたやろ。あれが、今までの仲間や。ハワイからわざわざたくさん来てくれよった。
 けど、あれでお終い。もうサーフィンの世界にはもどらへん」


  親の会の対立・亀裂
と聴覚障害教育の幅

 G君の話を聞いて、想像以上に成長していることがよく分かった。

 山城高校に聴覚障害生徒を受け入れるよう「陳情」した親の会の一部の親は、京都府教育委員会が受け入れを決めたにもかかわらず他の府立高校を受験したり、私学に行ったりしていたからである。

 そのため親の会の中で対立や亀裂が生じていた。
 また京都府教育委員会の一部には、「親の会の言うとおり受け入れたにもかかわらず、親の会は、バラバラなことをしているではないか。」と言う批判があった。

 これに対して、私たちは聴覚障害生徒の進学の選択の幅を広げたものとしてとらえるべきであって、聴覚障害生徒はこの学校でなければならないとする考え方は、時代に逆行するものであると主張していた。

                            もう15歳でないG君は

 もう15歳でないG君は、あらゆる授業、学校行事に参加し学び続ける一方、水面下で授業をサボる生徒やろう学校、難聴学級の生徒に学ぶことの大切さをねばり強く話していたらしかったが、そんなことは一切言うことはなかった。
 そして、卒業を迎えた時、G君から

「先生。俺も卒業論文書いてもいいか。」

と聞いてきた。
 もちろん賛成した。


「学校のまとめ・資料に載せてくれるのやなぁ」
「活字、になって残るんやろ」

と言ってきた。
 その頃のG君は、子どももかなり話すようになって可愛くてたまらない、この子のためにと必死になって残業をしてふらふらの状況だった。

「無理はアカンで」

と言ったら、たしかに無理しないで原稿用紙を少しずつ持ってきた。

 以下、順序どおり掲載する。

  ストマイ注射をうってから耳がわるくなり
 1歳半から耳の聞こえない世界に

 私は、京都市のどんま中の町で生まれ、1歳半の時、カゼで高熱のため、はしかにかかり、ストマイ注射をうってから耳がわるくなり、1歳半から耳の聞こえない世界に入り、ここから生活を始めた。

 その時、お母さんとお祖母さんも何かの病気で、中途難聴になり、複雑な家庭の生活であった。                     
                                                                                                                    ( つづく )

                                                                                                                Esperanza
 

2012年9月10日月曜日

再び学びなおすことを 再学習権のはじまり

 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


     学びなおすことを権利ととらえてくださいよ

 京都大学助教授(当時)の田中昌人先生は、何度も「学びなおすことを権利ととらえてくださいよ。」と何度も私たちに言われた。

 
 「学びなおすこと?」


 「そうです。就学免除がなくなってもただ義務教育を終えた卒業証書を渡すだけではダメなんです。きちんと学習が保障されないと、それが出来なかった場合は、学習出来なかったことをもう一度学びなおす。このことは権利なんです。」

「それは、小学校や中学校ではありません。人間の生涯にわたる権利として捉えてください。」
「ぜひ、あなたたちの山城高校でもそのことを実らせてください。」

  この話を聞いた時は、十分理解出来なかった。
 でも、G君は、強烈にそのことを私たちに教えてくれたと言える。

 まず、先に田中昌人先生が「人間発達の科学」で書かれていることを紹介しておく。
 山城高校の聴覚障害教育がはじまった頃でも今でも「ろう教育における9歳の壁」が論じられているが、青年期の聴覚障害生徒が自ら書いてくれた卒業論文は、以下の田中昌人先生の考えがすべてあてはまった。


  「4年生の壁」と教育課程研究の必要(人間発達の科学より)

 聾学校においては早くから「4年生の壁」ということが指摘され、論理操作の指導における困難が指摘されてきた。
 発達障害においてはこの時期を越えられることが精神薄弱か否かの指標とされ、通常のばあいでも低学年の学力と高学年の学力の質の違いなどが経験的に指摘されてきた。


 ピアジェ(Piaget.J.)は、この時期を具体的操作から形式的操作への移行期としてとらえ、対象世界を処理するための概念的枠組が安定してくる時期とした.分類、系列化、同等性、対応などの操作をし、群性体が形成され、いわゆる保存概念ができ、可逆性が成立しはじめる。
  このような新形成物ができる時期である。「可逆操作の高次化における階層一段階理論」では、5、6歳ごろにあたる3次元形成期に発生した新しい発達の原動力がその後弁証法的な充実を経て、9、10歳ごろ弁証法的な否定をおこない、1次変換可逆操作をなしとげるとみる。

 したがってそれまでの階層間の移行でいうと6、7ヵ月ごろの回転可逆操作から連結可逆操作への移行、1歳半ごろの連結可逆操作から次元可逆操作への移行につづく、出生をふくめると生後4度めの階層間の移行にあたるときである、次元可逆操作から変換可逆操作への移行という大きな発達の質的転換をなしとげて発達的不可逆性を成立させる。

 これが十分な弁証法的充実を前提に弁証法的否定がなされていないために、新しい教育課程についていけないことがおきているとみられる。

     9、10歳の壁としてこの時期だけを問題にするのでなく

 したがって、いわゆる9、10歳の壁としてこの時期だけを問題にするのでなく、過去4回の発達の原動力の生成過程をみ、とくに5、6歳ごろに発生した原動力が十分弁証法的に充実したうえでこの時期の弁証法的否定がおこなわれているかどうか、その発達過程との関連で教育課程の形成的評価等がおこなわれていく必要がある。

 それによって低学年の教科が高学年へのたんなる導入でなく、就学前もふくめた教育の総括としての性格を十分もたせる必要があるかもしれない。
 それはさらに学校教育だけでなく社会教育の総括の時期としても重要なのではないだろうか。
 こうした点からの検討をかさねて、家庭教育、学校教育、社会教育の3つを総合した教育の全体過程に1つの区分をつける必要がある時期ではないかと考える。

 したがってこの時期は再教育の保障もふくめて進路がひらかれていなければならず、教育課程編成における真の意味でのゆとりが保障されなければならないときであると考える。

  反芻しつつG君の再入学を考えた
  家庭教育、学校教育、社会教育の3つを総合した教育の全体過程に1つの区分をつける必要がある時期。

 5、6歳ごろに発生した原動力が十分弁証法的に充実したうえでこの時期の弁証法的否定がおこなわれているかどうか。
 その発達過程との関連で教育課程の形成的評価等がおこなわれていく必要がある、とも反芻しつつG君の再入学を考えた。

       「群衆」が一瞬にして居なくなった寂しさと不安

「先生。先生。もう一度山城高校定時制に戻れないか。」「戻らして、頼む。」「結婚することになった。先生、ぜひ来てくれ。」と必死で言ってくるG君。
 G君を猛獣扱いした教師たちは、退職して学校には居なかった。


 でも、彼がスノボウで駆け巡った廊下、階段、手すり、強烈な騒音の話だけは山城高校定時制でもろう学校でも語り継がれていた。
 再び学びなおそうとするG君の気持ちを受けとめようと2月の再入学期まで時間があるので招待された結婚式に参加した。

 数え切れない結婚式に参加したけれど今だ彼のような結婚式は、出たことがないというか見たことはない。

 いきなりグビグビビールを飲んだ連中が、めいめい叫んだり、話したり、誰がなにを言っているのか、日本人なのかアメリカ人なのか、ともかくわからない人々が狭い会場にわんさか集まり、誰ひとり知った人はいず、教師は私ひとりだけだった。
 いつはじまったのか、いつ終わったのかわからないまま「群衆」は居なくなり、がらんとした会場にひとり取り残されてしまった。

 花嫁はどの人か、も分からないまま帰路についたが、「バドワイザー」「サーフ」などの英語や日本語だけが、頭にこびりついた。

 G君は、なんと多くの友人が居たことか、なんとかわった服装をした多くの人々居るのか、という気持ちとともに「はたしてG君は、再びやって行けるのか。」「学習する気持ちがホントウにあるのだろうか」と思い悩んでしまった。

                                                              Esperanza
 

2012年9月7日金曜日

捺染工場で働いていたG君の姿とビックウエーブ


 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 G君が居なくなってから、山城高校定時制の聴覚障害教育への一部からの批判は、エスカレートする一方だった。

    「人の噂も75日」で消させようとしない中傷と誹謗

 だが、なぜか、捺染工場で働いていたG君の姿が瞼から消えることはなかった。
 刷毛を真っ直ぐ下げたり、染め具合を確かめながら次の工程に移る彼の姿が、あらゆる誹謗・中傷を耐えさせてくれた。

 人の噂も75日。
 と言われるが、どっこいそうはいかなかった。

 彼が、居なくなって、1年経っても、2年経っても「聴覚障害生徒はなあ……」とG君だけのことなのに聴覚障害生徒全般のこととして話が影で広められた。
 その都度、聞き合わせがあったが、その都度、事実でないことは訂正し説明し続けた。
 G君は、どこに行ってしまったんだろう。

 ハワイで波乗りをしている。

  マリファナを吸っている。

 ハワイの悪い連中とつきあっている、
という話しか彼の遊び友だちから伝わってくるだけだった。

      日本で初めて見つかった
         寝殿造りの遺跡

 それから長い月日が経った。

 G君が、突然学校にやってきた。
 彼が居た頃と山城高校の建物は一変していた。
 建物の建て替えによって聴覚指導室もつくられていたが、当時のE形の校舎ではなく、ロ形の建物になっていたからよけいに戸惑ったらしかった。

 校舎建て替え時に、山城高校から寝殿造りの遺跡が日本で初めて見つかり建物構造が大幅に変更されていた。

 寝殿造りは、絵として残っているが、その全容はまったく解っていなかったが、その遺跡がほぼ見つかったのである。
 保存か、記録保存か、学校や教職員としては保存しか言いようがなかった。


 そのため、当初計画されていた聴覚障害指導室は、当初計画と違って職員室から一番離れたところにつくられていた。

  学校に戻らして
        頼む
 結婚することになった

 校舎を駆け巡ってのであろう、必死の形相でG君がやってきて一番真っ先に思い続けていたことが、口と手話から真っ直ぐに飛び出してきた。

「先生。先生。もう一度山城高校定時制に戻れないか。」
「戻らして、頼む。」
「結婚することになった。先生、ぜひ来てくれ。」

 そこには前のG君の姿はなかった。
 何度も、ひたすら頼み込むG君をなだめて事情を聞くのに少なくない時間を費やした。

 10代だったG君は30代になっていた。


                                                  Esperanza
 

2012年9月5日水曜日

猛獣のような生徒と言われた聴覚障害生徒の大波の向こう

 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  
        教室が猛獣の部屋になって勉強どころではない

 「定時制には猛獣のような生徒が入ったんだってな。」
 「ウオー、ガーガー叫んで、教室をうろついたり飛び出したり。」
 「まるで、教室が猛獣の部屋になって勉強どころではないらしいなぁ」


 話したこともない全日制の先生が、すれ違いざまに突然話しかけてきた。 

  「いや、そんなことはないですよ。彼は……」

と説明しようとしても聞こうともしない。

 「高校や。山城高校は。動物園じゃない。」

  もう話どころではない。
 定時制の聴覚障害生徒受け入れに大反対しているひとりの先生とのみ友だちだったことは話からすぐ分かった。
 ここで、この不当な言い方に反論すればするほどますます強硬に反対意見を他の先生に風潮することだけなのでその場は納めた。

  聴覚障害教育を潰す
  ターゲットにされたG君はその波にのったも

 山城高校の聴覚障害教育を潰す最もいいターゲットにされたのが、聴覚障害生徒のG君だった。 
 彼は入学そうそう自分たちをよく思わない先生に対して徹底的に反抗した。

 そして、一番反抗したのが定時制で聴覚障害生徒の受け入れを絶対反対している先生だった。
 その先生は、他の先生が授業の工夫に努力していることに対しても反対の急先鋒にたっていた。
 それが、G君には解ったんだろう。

 わざと大声を出すが、澄んだ声ではない。
 その教師には、吠えているとしか映らなかったようである。


 さらに、G君はエスカレートして黒板にチョークで字を書いているすきに教室を飛び出し、学校を出るということをくり返した。

 そのくり返しは、すべての授業にまで拡大し、当時、学校六日制だったので、土曜日になると必ず休んでW県方面に聴覚障害の仲間を誘ってサーフィンに行ききだした。

  多数のろう学校の生徒を連れ出しているG君を指導すべき

 その頃、ろう学校からG君をなんとかするように、との生徒指導の申し入れがあった。

 聞けば、サーフィンに多数のろう学校の生徒を連れ出しているG君は問題がある、と言う中味だった。
 山城高校定時制では、G君はひとり、ろう学校の生徒のほうが多数だったけれど、ろう学校からは、まじめな生徒を引きずり込むG君が悪いので対処すべきという強い意見だった。

 非常な矛盾を感じた出来事だった。

 集中力と技術のいる捺染の仕事を
15歳のG君が

 でも、G君の状況はますます荒れてひどくなるので、G君だけのこととして何度も話をした。
 G君は、自分のやっていることに対して、

「自分の自由だから、退学させるなり、処分するなりしたらいい。」

と言って話を受けつけなくなった。

 学校だけでなく、彼の働く捺染工場にまで行った。

 京都には、今は捺染工場はほとんど見受けられないが、白い反物が横に長く伸ばされ、G君は、木枠に張られたさまざまな文様を順に刷毛のようなもので色づけする仕事をしていた。

 1㎜でもずれると、白い反物にタテに白い線がのこる。
  でも、寸分のすき間もなく順に色づけして工場の端から端まで染められていく。
 乾けば、そこにまた違った文様の色づけをする。


 観ていて驚いてしまった。
 15歳の彼が、それだけの技術を習得していたのである。

 工場長は、彼の腕を高く評価したが、G君は「金、金」の手話で私に合図を送ってきた。

  そうこうするうちに彼は学校に来なくなり、本格的にサーフィンばかりをし出した。
 ハワイに行ってしまった。
 

という状況を知るのみになってしまった
  
                                    








                                    Esperanza
 

聴覚障害生徒の教育と発達過程とインテグレーション

 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

   劇的に広まったわけではなかった   インテグレーション

 1965年頃、京都ろう学校幼稚部が、幼稚部をでた子どもを普通学校に入れるという取り組み - いわゆるインテグレーションがはじまって、1969年に文部省の協力者会議が「インテグレーション」と言う単語が使われた。

 だからと言って、インテグレーションがろう教育に劇的に広まったわけではなかった。

 その後、20年後に京都聴覚障害教育研究会が、普通校に在籍している聴覚障害児数とろう学校に在籍している聴覚障害児数を調査した記録が残っているのでまず、そのことをあきらかにしておきたい。

 研究会は、教師と児童福祉施設職員、民間クリニック、耳鼻科医などと一緒に調査したものであるが、普通校に在籍している聴覚障害児数を完全に網羅できていないのでその実数は、もっと多いと考えていた。

   京都府下の教育機関に在籍する聴覚障害児数の比率

(1983年2月27日調査発表 1982年12月1日から12月24日の調査期間から)
 

  ろう学校在籍                                  40%
 普通校(難聴学級・通級制の聞こえの教室含む)            60%

 小学校の場合

 ろう学校在籍                                   32%
 普通校(難聴学級・通級制の聞こえの教室含む)            68%  ※
   
               ※  68%中   京都市内難聴学級              32%
                                           京都府下聞こえの教室             23%
                その他普通学級                13%


中学校の場合 

 ろう学校在籍                                  16%
 普通校(難聴学級・通級制の聞こえの教室含む)            84%  ※

               ※  84%中   京都市内難聴学級               48%
                                          京都府下聞こえの教室               23%
                その他普通学級                  13%


高等学校の場合

 ろう学校在籍                                   41%
 高校在籍                                      59% ※


     ※ 山城高校                                             36%
                   その他公・私立高校                                         23%


 以上のことを見てもわかるように、ろう学校を中心とした聴覚障害教育は考えられない教育状況が京都の聴覚障害教育であった。

 すなわち、京都全体の教育の中で聴覚障害教育を考えないと聴覚障害生徒たちの教育は、放置された状況になっていたのである。
 そのため京都の聴覚障害教育を考える教師たちは。聴覚障害教育を包括的に捉え、普通教育と聴覚障害教育を分離して考えていなかったのである。
 ようは、ろう学校や普通校に在籍していようといまいが、京都全体の学校教育を前提に聴覚障害という教育問題に取り組んでいたのである。
 その点では、ろう学校以外は学部によるが京都における聴覚障害教育の概要はつかんでいたと共に、それぞれの分野で教師間の交流がすすんでいた。

    聴覚障害生徒の教育と発達過程が知り得た

 そのため、どこの学校に在籍していようが、例えば、聴覚障害生徒のAさんの幼児から青年期、成人期にかけての教育を知り得たと同時にそれぞれの教師が、本人や保護者の意見と共にどのような教育形態が、Aさんにとって必要であるかということが考えられた。

 だからといって、教師の意見や考えとちがうからと決して強要はしなかった。

             「ろう学校にUターン」の原因

  高等学校段階になると、ろう学校在籍率は小学校、中学校と比べて高くなったためろう学校の一部では、

「ろう学校にUターン」(戻ってくる)

生徒が増え、ろう学校の存在意義を生徒、保護者が再認識したからだとする意見が出されていた。
 しかし、高等学校は義務教育ではない入学選抜(入試)という制度があった。そのため、表面上は聴覚障害だからと言うことを出すことなく高校入学を「拒否」できたのである。
 

 全国的に高等学校の障害生徒の受け入れが
       広がるだろうという見通しが

 山城高校で聴覚障害生徒の受け入れ制度が打ち出された時、全国的に高等学校の障害生徒を受け入れ、高校における教育制度が変わり、国庫補助が支給されるだろうという見通しがあった。
 しかし、大学における障害者の受け入れ制度が急速に進む中で、高等学校の障害生徒受け入れ制度は放置された状況に置かれたままだった。

 そのため、山城高校では府政の変化にともない、聴覚障害生徒を受け入れる教育制度は、一層困難に直面することになる。

 ここで承知ねがいたいのは、聴覚障害と言っても聴覚障害になった原因やそのたさまざまな要因があり、たんなる聴覚障害だけでない、ということである。

            千差万別があるってこと

  前述の「今の私はありえなかっただろう山城定時制の4年間がなかったら」で聴覚障害が書いている

「でも、どういう風に聞こえない。難聴でも千差万別があるってことわかってくれなかった。」

は、聴覚障害教育担当教師自身のジレンマでもあった。

                            Esperanza