2013年3月28日木曜日

病気に負けない、強く生きよう、明るく歌っていこう、豊かに伸びよう


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
  障害児教育は、民主教育の中でドリルの役割

・B
 障害児教育は、民主教育の中でドリルの役割を果たした。


 例えば、バスの電光掲示板。ろうあ者運動の中でつくられていった。
 音の出る交差点、信号。
 京都では千本北大路に初めてつくられたけれど、盲学校があり、ライトハウスがあると言うことで盲協会が運動した。

 今では、どこでも当たり前のように設置されているけれど。
 
 

 時代を先取りする課題と問題を
                       持っているのが障害者問題

 時代、時代を先取りする課題と問題を持っているのが、障害者問題であり、その課題に風穴を開ける役割をしてきている。

 それらのことを頭に入れて、舞鶴養護学校での取り組みをすすめた。
 運動会、生徒会選挙など全部自分たちでやった。
  教師は後ろで見ているだけ。
 文化祭も入学式も企画は、子どもたちの自治会がする。
 


 病気の子どもたちが、生き生きするようになっていった。
 
 衝撃を受けた高校生も

  京都の障害児教育・障害児学校が、京都の普通教育・普通学校に多大な影響を与えたことが、ほとんど知られていないが。  交流だけでなく、授業にも大きな影響を与えたが。

・B
 与謝の海養護学校と加悦谷との取り組みなどなどや春季討論集会(高校生)の障害児学校の生徒が参加して話し合ったりしたことは、大きな影響を与えた。


 障害児学校高等部の生徒が、発言する。
 高校生は、なんのために勉強しているのかを考え込む。
 衝撃を受けた高校生も居た。

 何となく勉強せんとあかん、と思っていた自分の情けなさに。
 また学ぶことの大切さに。


 ろう学校の「授業拒否事件」のきっかけは、ろう学校の中で春季討論集会にどの先生が引率してくれるのかがきっかけだったとOさんたちが書いている。
 手話の出来るB先生を代えた、と。

 そのころから、障害児学校の生徒が春季討論集会に参加しだしたが、コミュニケーションなどとは思われない。
 自分たちの人権問題を春季討論集会で、話したいという強いねがいがあった。
 
   隔離部屋に入れられた中での苦闘と展望

 それから、府教委から桃山養護学校に行って、病弱教育が課題と言うことで舞鶴に行かれるのですね。

・B
 舞鶴養護学校づくりで1年間準備室。


 そして、舞鶴養護学校の教頭を4年して、ろう学校教頭としてろう学校に戻ったんです。
 教頭会の役をしていたが、全国ろうあ者卓球大会が京都であった。

 全国を順番に回る大会で、府立体育館が会場となっていました。

 保健体育課からろう学校に来て、大会で日の丸、君が代をさせるべきだと言ってきた。

 私は、今までの全国ろうあ者卓球大会で、日の丸掲揚、君が代斉唱はしてなかったし、あくまでもろうあ団体などが共催・後援する大会なので行政が大会の運営・内容に干渉することになるので、そういうことは出来ない、と言ったんです。


 すると府教委に呼び出されて、「理由を言え」と言われるので説明をした。
 その明くる年、異動させられた。

 教育研究所に2年間。
 隔離部屋のような状況にされて。


  見せしめと言葉狩り

 A先生も転勤させられたのも。

・B
  見せしめでしたわ。


  一番ひどかったのは言葉狩り。

 
 発達保障を使うな、発達というな、集団という言葉はダメだ、労働教育は、作業に改めよ。

 などなど府教委の指導主事から研究会の度に言われ続けた。
 

 ともかく、全障研や今まで使ってきた言葉を使ってはいけない。

 それらの言葉は今まで使われてきたものなので、変えることをしなかった。
 今どうなっているか、は知らないけれど。


 府教委の文章に発達課題など当時禁止した言葉が、今は、多く使われていてる。
 禁止した言葉を府教委が、今はいくらでも使っている。何だったんだ、あの禁止と指導は、と思う。

 ともかく、憎しと言う考えがあったのでは。

・B
 あった。


 その時、田中昌人先生が、「発達」という言葉を、法律(地方自治法の目的に発達という言葉が使われているなど)から洋学、蘭学までとことん研究される。
  B先生は、ろう教育からはじまって、教育行政、桃山養護学校、舞鶴養護学校、ろう学校、教育研究所、亀岡中学校と経験されるわけですね。
 特に、舞鶴養護学校に行く時は、どのよう
な気持ちと決意を持って行かれたのですか。

教育、病院、地域、親、教職員が
  手をつないで輪になって子どもたちを守ろう

・B
 舞鶴養護学校に行ったのは、私自身の発達だったと思っています。
 それまでは、病弱教育を考えてもいなかった。


 でも府教委にいる間に文部省から幾度も病弱教育が全国で一番遅れているという文章が来る。
 京都では、養護学校は京都市立桃陽養護学校だけ。


 だから府立として病弱児の養護学校をつくらないと、ということになっていた。
 この時、私は病弱児の発達と教育を考えた。
 準備室をつくったときに舞鶴養護学校の運営方針を作った。
 舞鶴養護学校の5年間は、最後の実践だったから一番自信を持ってやることが出来た。
 医療と教育と地域が結びつく学校をつくる。
 校章が出来たときが一番うれしかった。
 子ども手を上げた姿を中心に、花びらが5枚。

 教育、病院、地域、親、教職員、が手をつないで輪になって、真ん中にいる子どもたちを守ろう、という形で桜の花の形になっている。

 強く 明るく 豊かに を方針にした。
 この時の子どもたちと親と教職員は、今でも繋がっている。学校潰されてないけれど。

  小中合同の基礎集団をつくった

 それから組織図をつくって、国立病院といかに連携するか。
 それぞれの中で一番大事にしたのは、舞障連、近病連、舞教研、府同研、京障研、府障研、院内指導部。
 校務分掌なども考えて、子どもたちの基礎集団づくりをやっている。


 与謝の海養護学校のA先生から指摘されて、与謝の海養護学校から舞鶴養護学校に2人来ていた。
 その時に、「集団どうする」って言われて、
「そんなん5,6人の集団しかならない。」

と言うと

「年齢差を超えた集団つくろう」

と言われて。
 小中合同の基礎集団をつくった。

 6歳の子どもと11歳の子どもときょうだいと一緒のようになった。生活も宿題も教え合い、助け合う。

 このことが、非常によかったと卒業生たちは今でも言っている。


  子どもたちがつくった学校の校歌

 学校の校歌。

 作詞作曲全部子どもたちがつくっている。

 「みんなのねがいは」と言う言葉を出している。
 病気に負けない、強く生きよう、明るく歌っていこう、豊かに伸びよう、そして、強く 明るく 豊かにの3つの言葉を子どもたちが入れている。
 

 自分たちがつくった校歌を毎朝子どもたちが歌って。 

  みんなでつくる楽しい学校 苦しいときには勇気を持って 夢を大きく広げつつ 豊かに伸びよう肩くんで

これが集団主義の教育やと思った。
みんなと手をつなごう だるまさんをみんなで作って「転けたら 立て」と。

                                                             ( つづく )

 

2013年3月24日日曜日

学びながら治療する  治療しながら学ぶ

 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  学びながら治療する・治療しながら学ぶための学校

・B
 その後、舞鶴養護学校に5年間行くことになる。


 そこで、全国病弱研究会が作られ、それが今も続いている。

 癌の子どもたち、小児ぜんそく、白血病、糖尿病、あらゆる子どもたちの健康と発達を保障する。

 
 学びながら治療する。
 治療しながら学ぶ。


 それまでは、病気の子どもは勉強せんでもいい、という考えやった。

 そうではなく、学びながら治療する・治療しながら学ぶための学校、舞鶴養護学校を建設したんです。

 丹波養護学校が1978(昭和53)年に出来て、その翌年の1989(昭和54)年に舞鶴養護学校が出来たんですね。

・B
 養護学校の義務化は病弱児も含まれていたけれど京都府立養護学校にはそれがなかった。京都市立の桃陽病院の院内学級が桃陽養護学校(1989(昭和54)年4月1日)となる。


  そこにある力、発想、人間の力の素晴らしさ

 B先生は、舞鶴養護学校が出来た時に……

・B
 舞鶴養護学校は、親たちが病院の子どもに教育を受けさせたい。
 せめて病院内学級をつくって欲しいという運動からはじまる。

 駅前で署名集めたりして、病院内学級を独立した学校にして欲しいなどの運動をされる。
 それが実を結ぶ。


 だから、いまだにその当時の親から礼状が来る。
「先生からのおかげです……」ともう何十年も経つのに。


 そこにある力、発想、人間の力の素晴らしさを感じます。
 
 京都府障害児教育推進協議会報告を活用 具体化した

・B
 1年間は(病弱養護学校)準備室に行き、方針を立てた。


 その時、京都府障害児教育推進協議会報告を活用した。
 するとみんな

「どこから、こんな立派な文章が出てきたんや」

と聞く。

「京都府障害児教育推進協議会報告や」

言って、ではこれを具体化しようと言うことになっていきます。
25名の教職員が、そのことで取り組んだんです。

  いじめたり、盗んだり、もめ事ばかり起きていたが

 強く・明るく・豊かに を目標に据えた。

 
 運営方針は、医療と教育の統一をしていく。
 一番基本にしたのは、子どもたちの集団的自治能力を育てよう。

 矢川徳光さんが与謝の海養護学校で講演された時のことを思い出して子どもたちに提案した。

 病院内の院内学級の時は、いじめたり、盗んだり、もめ事ばかり起きていた。小児科病棟の中は大変だったようです。

 舞鶴養護学校が出来てから子どもたちにきちんと話をして自治会組織をつくらせた。

  輝かそう いのちを、と生徒会のスローガン

 この時子どもたちが

「輝かそう いのちを」

という言葉をつくった。生徒会のスローガンとなって、子どもたちは校歌・作曲をつくる。

 舞鶴養護学校つくる時に、府立学校で初めてエレベーターをつくった。
 風呂をつくった。


 すると

「なんで風呂がいるんや」

と府教委から言われて、

「病弱だから子どもたちと先生と風呂入って取り組むことが……」

と説明したりした。

  病室で授業の様子を見て授業に「でられる」ように

 (今だったらあまり費用はかからないが)感染症の子どもたちのために教室と病室を結ぶ視聴覚設備が作られた。
 すべてソニー製品だったけれど。
 ものすごい費用がかかった。


 「登校停止」になった子どもたちは、病室で授業の様子を見て授業に「でられる」ように。

 双方向方式で、質問も出来る。

 このような形態の授業方法を考えたのも初めてだった。
 視聴覚室は、スタジオもあるものすごい設備だった。
 40人や50人の子どもたちのためにそこまでしたが……今どうなっているのだろうか……。

 子どもたちの教育の宝としてすべて記録は、視聴覚室に残していたが。
 
  ぜひ広島に来ませんか

 舞鶴養護学校の子どもたちは毎年8月に「平和だるま」をつくって、箱に入れて広島の原爆資料館の館長さん宛に毎年送った。

 必ず返事が来て、その時、「ぜひ広島に来ませんか」と書いてあった。
 そこで、広島に修学旅行に行くことになった。
 広島に行って館長さんと会った。

 そのような中で、子どもたちは育っていく。

 その舞鶴養護学校が、特別支援教育と言うことで統廃合されてなくなった。

                                                                                        ( つづく )




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2013年3月22日金曜日

このこがだいじにされへんかったら ぼくもだいじにされへんのやで


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
 京都府障害児教育推進協議会ができる

・B
1070年代には、田中昌人先生の研究室には、よく顔を出して打ち合わせをした。
   府教委の中で、京都府障害児教育推進協議会をつくりたい。
 発案した。


 養護学校義務制を前にして京都府・京都府教育委員会はどうするのか、それを検討するために研究を充分しないといけない。

 すると京都府教育委員会教育長が、「そんな人がいるのか」というので「おられる」と言った。
「どこにいる」「京大に田中先生がおられる」というやり取りがあった。


 与謝の海養護学校も出来ていたし、向ヶ丘養護学校もあるし、いろいろなメンバーがおられる、と言うと教育長が「やれるか」と言うので「やれます」と言った。

 「府教委は誰がする」「私と障害児教育担当で」とのやり取りがあった。そして、すごいメンバーが委員になってくれはった。
 でもこの頃田中先生は病気で、A先生、N先生、M本先生と私が、部会報告をよくした。

 京都府障害児教育推進協議会最終報告が出て、丹波養護学校が出来て、舞鶴養護学校が出来て、それから南山城養護学校学校、中丹養護学校となっていく。
 桃山養護学校の訪問教室が国立城陽病院(白梅病棟)に出来て、南山城養護学校の分校になって城陽養護学校となる。
 この間国立病院の統廃合問題・国有財産処分問題があり、各国立病院が対応して、国立城陽病院の敷地内に養護学校出来るようになる。


・B
 非常に複雑で捉えきれない推移が起きた時期です。


 与謝の海養護学校が出来て、京都市内の子どもも入学出来たのは。

・B
 京都府立ということで京都市内の子どもも入学出来た。

 京都の呉服問屋のMさんとも与謝の海養護学校に子どもさんを入学させるかどうか、で与謝の海養護学校へ一緒に見学に行ったことがある。
 列車の中で

「どないしょ」
「どないしょ」


と迷うつづけてはった。
 その時、

「子どもが学ぶことが大切。」
「親が手をかさんと」


と話をしました。
 結局、与謝の海養護学校に入学して。


その子は寄宿舎に入りますね。寄宿舎の「寮母」(当時)さんからすると京都市内のお母さんは、叱られるので「怖かった」って。風呂に入ってアザがあるとか、言ってこられて。

・B
 与謝の海養護学校の体育館に行く時に階段を降りていかんならん。


 その時、Mさんが自分の子どもには肢体不自由があり、少しづつしか歩けないのに何でよその子の手を引いて階段を降りるのか、と思って。
「ほっときなはれ」

ってついつい子どもに言ってしまったんやって、するとMさんの子どもが、

「おかあちゃん」
「このこがだいじにされへんかったら、ぼくもだいじにされへんのやで」


って言った。

「そのことばに学びましたわ」
って言ってはった。その話は忘れられん。

 B先生は指導主事としてその後、どのような仕事をされたのですか。

・B
 9年間指導主事の仕事をしました。課長も、他の指導主事も替わったが奇跡的と言っても良いほど長くいた。


 指導主事をしていて非常に恵まれていたのは、学校教育課長をしていたのがI先生。嵯峨野高校に居られて、いつも話していた先生だった。

 だから、長々と説明しなくてもはんこを押してくれるなど、スムースに仕事が出来た。上司に恵まれた。

 障害児教育の担当分野が置かれるのではなく、学校教育課でごちゃ混ぜにされていた。学校教育か福祉担当の事務職員と特殊教育担当の指導主事の2人が行うことになっていた。

  特殊教育から障害児教育へ

 府教委の指導主事になった翌年すぐに特殊教育担当の指導主事の名前を、指導主事会議で論議をして、障害児教育指導主事という名称に変えました。

 2人のうち、一人は知恵遅れ教育の担当。
 私は、盲教育、ろう教育、肢体不自由児教育、言語障害教育、病弱児教育などの担当。

 9年間の間にもう一人の指導主事はたえず替わった。落ち着かなかったようで。
 知恵遅れ教育関係は、京都府下の各郡部地域(奥丹・中丹などなどの地域割りがあった。)の研究会に出かけていった。

 教育委員会で一番言い続けたのは、高等学校教育や同和教育や僻地教育や女子教育などの教育がある。

 でも、障害児教育の柱がなかった。

 特殊教育は、盲学校や聾学校に任しておけばいいというような考え。
 他の指導主事は、障害児教育に対してまったく知識や理解がない。


   教育委員会がすべての人間に目を向けて

 指導主事など教育委員会がすべての人間に目を向けて欲しい。

 同和教育が、差別を受けているというならば、障害児教育も差別を受けている。目の見えない人と聞こえない人との間には、「差」がある。

 盲・ろうとまとめて考えること自体問題がある。
 それぞれ違いがある。

 当時、盲学校に入学するよりろう学校に入学する子どもたちのほうが少なかった。
 ろうあ児のほうがはるかに不就学が多かった。
 だから、学校に行けるようにする取り組みが多く行われた。
 「座敷牢」にいるろうの子どもを噂で聞いて、その家に行って話をしたり、地方の教育委員会と一緒になって、親を説得したりしました。

 1960年代は、障害児教育の「夜明け」だった。
 

  それまでなかった
 障害児教育の分野を切り拓く仕事だった

 9年間、それまでなかった障害児教育の分野を切り拓く。

 1、ことばの教室の設置。言語障害児のための通級教室。聞こえの教室設置。   聴覚障害児の通級教室。

 2、聴覚障害児の親たちが普通高校で健聴者と共に学習させたいという要求   を受けて山城高校での聴覚障害教育をはじめる。

 ろう学校に一番近い学校と言うことで山城高校が考えられて、職員会議に府教委として説明に来い、ということで話しに行きました。
 府教委は安易や、ろう学校はなんのためにあるんや、と手厳しく叱られて。なんで、山城高校なんや。
  インテグレーション。
  社会で生きていくこと。社会との交流。
  山城高校は、ろう学校ではないが、聴覚障害者の権利保障の一環として後期  中等教育として、ぜひ、山城高校で受けとめて欲しい。
  設備等は府教委で考えるから。
  学校教育課長も話をした。

  山城高校では、この問題をめぐってさんざんもめたらしい。
 
 


 3、在宅障害児の教育を訪問教育で制度化。
   養護学校義務制実施と同時にはじまるわけです。


  4、与謝の海養護学校設立。

 5、与謝の海養護学校の分校から桃山養護学校設立。

 6、病弱児教育。

 病弱児教育。難病の子どもたちの教育保障と発達権保障。
 そして、舞鶴養護学校の建設。
                                  

                                    ( つづく )




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2013年3月21日木曜日

障害児教育では 明治時代は京都府は先進府県だったが 後進府県になっていた


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
 灯火に火を付けたのは 子どもたちの親だった

 与謝の海養護学校をつくる時は、国の補助は少なく、京都府の巨額な単費持ち出し(養護学校建設補助金外に京都府だけが京都府の予算から費用だすこと。当時は、与謝の海養護学校のように重度障害児を受け入れるための国庫補助はほとんどなかった。)が可能だったのか。また、府議会もそれを承認したのかということがありますが。

・B
 与謝・丹後地方の親の会が、各自治体の長、与謝・丹後地方のすべての市町長を説得していったことが大きな影響だったと思う。


 
「障害児教育のまさに僻地、そこに砦をつくろう」


と取り組まれて、与謝・丹後地方のすべての市町長が知事に要請する。
 それがなければ与謝の海養護学校は出来なかっただろうし、そういう動きの中で京都府議会が動いた。

 与謝・丹後地方はすべての市町長が蜷川知事に反対する長だったし、蜷川知事だけで出来るものではなかった。

 それらを含めて、与謝の海養護学校をつくる灯火に火を付けたのは、子どもたちの親だったと私は考えています。
 京都は後進府県だった
 

 施設設備・教職員確保のための巨額な単費、在宅障害児が何名居て、何名入学するか試算するように言われた。
 まったく見当がつかなかった。
 松山、高知、広島などなどに調べに行き、どれくらい予算が必要か調べました。
 京都が必ずしもすすんでいたわけでもないし、「先進府県」の様子を充分、何度も調べました。


 京都は、病弱などなどは、後進府県だった。
 東京や名古屋もすすんでいた。


 京都府に、在宅障害児の数、必要な教職員数などなど出して、財政当局と話し合いを重ねました。そして蜷川知事の最終決裁。

明治時代は、京都府は先進府県だった。
 しかし、その後すすんでいたかと言えばそうではなかった。
 
でも、障害児教育を取り巻く人々の動きが、それを大きく変えて行く。

 京都では、障害者と親、その人々と手をつなぐ取り巻く人々の運動が、状況を大きく変えて行く。教育や福祉の分野で。

  障害者が動かなければ
  障害者運動も障害児教育も動かなかった

 京都府が行った社会教育課の「ろばた懇談会」という取り組みも大きかった。障害者の人々の学習する機会を広げる。

 例えば、料理の作り方を習って、それを食べながら話あうなど様々な方法が行われた。
 そこに参加するように未就学の人を呼びかけても家の人は受け付けてくれなかった。でも、障害者の人が何度も訪ねると状況が変わってくる。
 未就学の人が、参加する。みんなは拍手で喜ぶ。その輪が広がっていった。
 何時間も歩いて、何度も行って、親から水かけられる。
 そんな中で親も変わる


・B
 やはり、いろいろあっても障害者自身の人が動くと言うこと、だったと思う。


 障害者が動かなければ、障害者運動も障害児教育も動かなかったのではないか。
 京都は、他府県に比べて障害者自身が動いていったと言うことも言えると思う。それが、障害児教育に大きな影響を与えた。

 民主主義とは、障害者と親、その人々と手をつなぐ取り巻く人々の運動から産まれると思います。

 田中昌人先生は、早くから与謝の海養護学校と関わりを持っておられたのでは。

・B
 早くから。全障研が結成される前に出来る前に全障研京都支部が出来た。
 田中昌人先生は、その頃近江学園に居られて、ろう学校の全職員を前に話をしてくれはったことが。


 その時の話が、難しい話で。受けとめる側が知識もないし、受けとめようともしなかった時代。
発達という言葉もなかった。

 その後、全障研京都支部に参加してきた人々が、自分の仕事の中で障害児・者問題を考えはじめていく。
 自分の子どもの問題。
 あの頃は非常に大事な時だった。


 自動車税の減免制度が出来たのも京都府税事務所に勤めて居る障害児のお父さんがみんなと相談する中で、考えて、制度化されていく。

 自治体労働者の中の障害児の親からの話は、それまでの状況と違ってくる。
 視点が違ってくる。


 映画「人」に出てくるお父さんは、盲学校の用務員(当時の呼称)やった。
 その人たちの協力、動き。映画を作った広報課の中にも障害児の親が居られたと思う。


 全障研が、京都からはじまって全国に広がる。
 非常にうれしかった。
 田中昌人先生やN先生たち、新しい若い研究者が路を作り、方針を立ててくれた。


 全障研京都支部の機関誌「夜明け」や「障害者教育科学」などなど出版活動をして広げてくれた。他の県でやれないことを京都はやってきたのでは。
                                            ( つづく )




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2013年3月20日水曜日

子どもを大事にすることはこういうことだという学校をつくりましょう



教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  親が 教師を育て上げた

 向ヶ丘養護学校の時には、障害の重い子どもたちも入るが、まだ全面的に入学出来るということではなかった。

・B
 寝たきりの子どもたちの教育を受けとめるという教師自身の体制も出来ていなかった。


 親は、寝たきりの子どもたちも向ヶ丘養護学校に入学させて欲しいと何度も府教委に来られたが。受け入れる側の体制が、整っていない、不充分でした。

 与謝の海養護学校は、数年後だけれど、親も教師もすすんだ考えを持っていた。
 親のほうが、教師を育て上げたと思います。


 京都府で訪問教育制度がはじまった時に、蜷川知事は教師と保健婦(当時)が一緒になって訪問教育制度をすすめるように言っていたが。

・B
 蜷川知事の人間観があると思う。
 人間の発達観がある。


  与謝の海養護学校建設の時に、府教委にいた私たちにいろいろ言われた。
  蜷川知事は、はじめは

「障害児学級がたくさんある。そこを充実したらいいのでは」

と言われた。

  みんなのねがいを実現しよう

 でも、府教委としてはそうではない。

  障害児学級は、京都市や各市町村が主管することになっている。
  そこには、京都府として充分な対応は出来ない。

 
 京都府として、京都府立として、責任を持って学校をつくる。
 知事の立場で、知事の責任で、すべての子どもの教育を保障するというスローガンを具体化して欲しい、と話をしました。

 それも、この障害は教育できる、この障害は教育できないという「除外」するのではなく、「あらゆる障害児を対象にした学校」をつくって欲しい。
 すべて子どもが、みんなが行ける学校、など話をした。

 すると蜷川知事が、

「みんなのねがいを実現しよう。」

と言った。

  障害種別と言うことで子どもを差別してはいけない
  どんな障害があろうともみんなが行ける学校

 この頃、Tさんたちが蜷川知事に強く言われたのは

「知恵遅れだけじゃない」
「知恵遅れで重度の子どもたちは車椅子にも乗れない。寝たっきりの子どももいるのや」
「その子どもたちも含めて、みんなやで、」


と言われた。

   子どもを大事にすると言うことは
    こういうことだという学校をつくりましょう

 「障害種別と言うことで、子どもを差別してはいけない。」
 「どんな障害があろうとも、みんなが行ける学校」
 「そんな学校をつくって欲しい」


とも言われた。
 そういう経過や話のやりとりの中で、蜷川知事はTさんと握手して

「子どもを大事にすると言うことはこういうことだという見本の学校をつくりましょう。」

っと言われた。
 そこから蜷川知事の視点が変わっていく。

 
  日本三景のひとつをすべて見渡せる学校

 特に、与謝の海養護学校をどこに建てるか、という用地問題があって由良の海岸にと言う話があった。(津波がきたら大変なことになっていたが。)
 結局、山の上に立てるということになるが、みんな反対する。

「なんでこんな身体の不自由な子どもを山の上につれて行くんや」

とものすごい反対があった。
 与謝の海養護学校建設予定地を蜷川知事らと下見に行った。
 敷地やいろいろ見て、やっぱり高いところから天橋立が見える。
 

 絶景の地。
 これがいい。


「日本三景のひとつをすべて見渡せる学校は全国どこにもない。」

と蜷川知事が言い場所が決まった。
 そして、路を作る、学校に通えるように周辺整備する。
 最終決定は蜷川知事がした。


 最初は由良のミカン畑のあるところだった。何回もそこに行って調べもした。
 ここは、丹後・与謝・舞鶴・福知山・京都などに近い、便利やという考えだった。
 ところが、(与謝の海養護学校建設予定地となった。)宮津市よりも先の岩滝町(当時)は、遠くて不便。

 京都市内から親が面会に行くのも大変だ、でも蜷川知事は、この場所は後悔しない場所だ、と。

 府教委と知事部局と絶えずやり取りがあって、最終的に与謝の海養護学校が岩滝町に建てられた。

 出来上がって、学校に行った時、感動。

 朝日、夕日に映える天橋立。綺麗な風景に感動した。
 ミカン畑よりはるかに良かった、と思った。

                               ( つづく )


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2013年3月16日土曜日

「これで終わりではない。」「これからはじまる」 と京都府知事


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


( 解説 )B先生が、1952(昭和27)年新採時には、ろう学校で学習する義務を親に課せられていてもそれを具体的の保障するものがなかった。
 そのため多くの聴覚障害の親は、「就学猶予・免除」申請をしなければならなかったのである。
 そのことをB先生は、前号で「それまでは、法的援助がなかった。親はお金がないからろう学校にやれない。畑作業をする労力としてその子らを、でないと生きていけない。」と述べている。
 それでも、一日、数ヶ月、数年かけて家庭訪問してろう学校に来れるよう教師は大変な努力をした。

「就学困難な児童及び生徒に係る就学奨励についての国の援助に関する法律」
公布:昭和31年3月30日法律第40号 施行:昭和31年4月1日。
 すなわち1956年になって、多くの不充分さはあるが、ろう学校入学のための経済的援助がはじまり少なくない生徒がろう学校に入学できたのである。だが、この段階でもろう学校に入学でいる生徒も多くいた。


   日本のろう教育における革命的出来事だった
 

「ろう学校の授業拒否」という事件があったんですが。

・B
 あれもそういう一連の問題のひとつ。(前号で述べた教師の持っていた問題などの)


 口話教育の学校や。
  手話教えへんとか。


 補聴器付けて、聴能訓練受けた子どもも居たし先生の言っている事が聞こえている生徒も居たのに、言った、言わない、となって……。

 3・3声明を京都府ろうあ協会が出すようになった経過は、日本のろう教育における革命的出来事だったと言えると思う。
 あれから、ろうあ者運動も大きく広がっていった。
 ろう教育も変わってきたが、今、特別支援学校と言われているが、何を支援するのか解らない。

  学校に組合の分会はあったんですか。

・B
 分会はあった。最初は、盲学校とろう学校の二校だったので特殊教育部と言っていたけど、その後、1968(昭和43)年に向ヶ丘養護学校が出来て、京都府高身体障害児学校部(身障部)と言って私が初代の部長になりました。
 その後、京都府高障害児教育部になっていきます。


 その当時、「映画 人 」が作られますね。

・B
 23映画「人」は、知事部局(教育委員会は知事の直轄でないのでこのような言い方を慣習的にしている。)の広報課が作った。


 そのため府教委の学校教育課(当時)指導主事らのもとに相談にきた。
 その時、向ヶ丘養護学校が出来たけど学校に通う、通うことが出来る方法がない、などの話をして、教育の機会均等を柱にした映画を作ろうということになった。

 西陣の子をモデルにして映画が出来上がった時、試写会が府庁の正庁(現在重要文化財の京都府庁の正面玄関の2階)で行われ、蜷川知事も参加した。

 感激しました。
 最後のシーンが。米軍機が飛んでいくが、再軍備より教育だと、いう主張。
 憲法26条の教育権の保障。まさに京都府が目指す方向を画像化したもの。
 

「これで終わりではない。」「これからはじまる」
 映画「人」をつくった時、蜷川知事が
 
「のちの世代の人たちにぜひ伝えたい。」

と言われた。

「これで終わりではない。」「これからはじまる」

と言われた。

 このようなことと、学校に行けない子どもたちのことをどのように結びつけて考えるのか、と。

 憲法に書かれた条文が具体化されていく。与謝の海養護学校の時も憲法25条の教育権のことが問題になった。

 京都府が、民主府政として府民に知らせる大きな精神がある映画。

 子どもを大切にするという具体的な方向を蜷川知事が打ち出して行く。


 与謝の海養護学校設立の時に、親の代表たち、Tさんたちが蜷川知事を囲んで要求した時に、

「子どもが大切にされるという意味で学校を建てます。」

と言われた。
 その中味が映像化されたのが映画「人」だと思う。
 
 学校の卒業証書をひとつも持っていない人々が
        居られることを聞いて「信じられない」

 この映画に出てくる子どもの学籍はどのようになっていたんでしょうか。
     今の若い人たちは、この映画「人」の時代を知らないので。


・B
 綾部にある聴覚障害者施設いこいの村に、70歳、80歳の人の中には学校の卒業証書をひとつも持っていない人々が居られる。


 日本福祉大学の生徒が、信じられないと言う。

 学校に行けないろうあ者もたくさん居た。
 映画「名もなく貧しく美しく」にもそれが出てくる。
 
 

 京都市呉竹養護学校がすでに建設されていたと思うのですが。

・B
私が指導主事になる前に建てられていたので知らないが……。
 1958(昭和33)年4月15日、全国で5番目の肢体不自由養護学校として発足。
 向ヶ丘養護学校とも交流が出来なくて……おなじ肢体不自由養護学校なんだけれど。

  病弱養護学校をつくる、筋ジストロフィーの子どもの養護学校を建てることで市教委と相談した時に、市は「府でやってくれ。」、府は「府としてはやっていくつもりはあるが」となった。
 


 場所は、国立宇多野病院だったので敷地を借りて病棟も筋ジス病棟だったので、京都市が所管するか、京都府が所管するか、で意見のやり取りがされたことがある。
 結局。京都市が所管することになる。

 
  これからは、与謝・丹後地方の北部だと

 桃山養護学校が出来る以前にM先生らは、京都市の学校から桃山学園に派遣されるという教育形態だった。(当時からあった、学校教育法の訪問教育の制度をつかったのではないか。)

・B
 その当時から八瀬学園をはじめ障害児教育に熱心に取り組む先生が居た。それが、母胎になっている。


 向ヶ丘養護学校が出来た時に指導主事になられて、それでどのような仕事をされたんですか。

・B
 これから北部だ、と。

 Tさん、A先生などの人々を中心にした熱心な活動が、与謝・丹後地方で行われていた。
 その頃は、山城地方や京都市内などなどでは、半官半民のような、行政主導の親の会などが多くあったけれど、与謝・丹後地方は違っていた。この点では、A先生は素晴らしい力を発揮されていた。


 集会が何度も開いていた。宮津小学校で開かれたり。

                                                                                                  ( つづく )




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2013年3月14日木曜日

寄宿舎に入れてろう学校で学べた お母ちゃんが喜んで…


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 2年ほど前に京都府立聾学校や教育行政・養護学校づくり・普通校などを経験し、退職したB先生(ご本人は実名でも良いとおっしゃっていたがインターネットに掲載する関係でイニシャルにする。)にインタビューを行った。そして、今では誰も持っていない重要な資料をお借りした。
 そのインタビューで聾教育・聾学校等に関わる部分について掲載したい。

 

  1952年 350人のろう学校の生徒がいたときに新採に

 聾学校の教諭になられたのはどのような理由からですか。 

・B
1952(昭和27)年新採。
 ある校長に呼ばれて、


「子ども好きか」

と聞かれて、

「好きです」

と答えたら

「手話を覚えて欲しい」


「ほな明日からきてくれ」

と言われて行ったらろう学校やった。

 教師二人、寄宿舎寮母一人の三人の採用でした。
 ろう学校には先輩方がおられて学んで行ったという状態です。
 私は、小学部と中学部の重複学級教えていました。
 重複学級は、学校全体から言えば数名でした。

 350人のろう学校の生徒。

 小学部が一番多くて、一学級15,6人。それが各学年3学級あった。
 
 ろうの子どもたちは「隔絶」されていた 在宅 不就学

 重複の子どもはろう学校では、断ると言うことはあったんですか。

 
・B
丹後の網野町(当時)にろうで重複の子どもが「座敷牢にいる」という噂が福祉関係者か、いろいろな話が入ってきて、

「それじゃ、様子を見に行くように」

と言われて、見に行ったことがありました。

  一日がかりで家族と話をして
                      ろう学校に入学できた子ども

 瑞穂町(当時)山奥に女の子が学校に行かないで居るとか。連絡が来る。
 親に会って、学校に入れるようにして来るように、と言われて山奥の家に行くとか。
 それも教師の仕事でした。


 園部から国鉄バス(当時)が一日1回か、二回ぐらいしかでていない。
 朝、に行って夕方までその家に居らんと帰れないと言うほどのと遠いところでした。

 その子は、寄宿舎に入れてろう学校で学べた。
 お母ちゃんが喜んで……そのお母ちゃんと今でも連絡を取り合っています。
 
 ろう学校に通う・寄宿舎に入舎する
                                  経済援助がなかった時代

 昔は、ろうの子どもたちは、「隔絶」されていた。在宅、不就学。

 その頃、就学奨励法という法律が出来て、学校の給食費、学用品などなどの援助がされるようになった。
 それまでは、法的援助がなかった。

 親はお金がないからろう学校にやれない。
 

 畑作業をする労力としてその子らを、でないと生きていけない。
 

 話も、手話も通じない。

   みんなに会えて友達になれたのは
           ろう学校があったからや

 初めて小学部1年生に入ったその子は、初めて教えた言葉は、「パン」。
 「パン」は、給食。
 
 お腹押さえたら「おしっこ」。
 
 これだけは覚える。教える。


 そういう「身振り」を教えてくれたのが、高等部の重複学級で教えていたC先生。その頃、C先生だけが、身振り、手振り、手話が出来た。

 その頃教えた子どもらは60歳こえているけれど今でもつきあいがある。
 昔のことを忘れない人々で、健聴者のほうが水くさいと思う。
 卒業したらさいなら。


 京都府聴覚障害協会(昔ろうあ協会と言っていた)の老人部の集まりが毎年新年会としてある。そこで教え子たち(?)と出会う。
 いつも呼んでくれはる。
 そこで話すことはいつも京都府下の、って言わはる。

  荒れはてていた ろう学校の教師たち
 
 1952(昭和27年)新採で行った頃のろう学校は、府庁前から御室の仁和寺に移転したばかりの学校でしたが、と思う以上に「荒れはてていた。」

 職員室の机の下に一升瓶置いたり、ウイスキーの瓶が転がってたり、宿直で麻雀している先生などたくさんいた。

 学校の周りの畑に先生が、ネギとりにいって、すき焼きする。校長が「ネギ取りに行くな」というそんな時代。

 無政府状態の学校。
 背景にあったのは、障害者差別でしょうね。

 子どもに何言ってもわからへん。

 子どもの言っていることがわからへん。

  ろう学校の教師をしているんやったら 私は離婚します

 ろう学校の先生の中でも

「ろう学校から出してくれ。出るようにしてくれ。」

と先生が言ってきた。

 「なんでや」

って聞いたら、

「うちの嫁はんが責め立てる。私は高校の教師と結婚したんで、ろう学校の教師と結婚したんではない。」

「ろう学校の教師をしているんやったら、私は離婚します。」

と言われる。責められる。普通の高校に出すようにしてくれ。

「なんでそんなこと言うんや」

と言い、

「それはろう学校の生徒に対して差別していることになる。」

と大げんかになった。
 子どもの前で、つんぼが…つんぼが……府教委もそのようなことも言っていたし、そのような考えでした。

 府教委と交渉があったとき、「役にたたん教師が居るから異動させる。」という府教委に「不当転勤や」と言うと、「そんな教師は、めくらか、つんぼの学校でいいいんや」と人事担当が言う。
 それで、怒って「差別発言や」「撤回せ-」言って。
                                                                          ( つづく )






http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/24423321.html

聾教育は「特殊か領域」?

 
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
 聾教育は特殊な領域か

 最近、聾学校の現職の教諭がいくつかの本を出している。
 その中のある本に次のような事が書かれていた。


 私の率直な思いを書かせていただくと、聾教育というのは、かなり特殊な領域であるように思います。学生の頃、ある聾学校の先生から「『あの大学の先生(研究者)は、教育現場のことをわかっていない』と最もよく(陰口)を言うところは、聾学校だよ」と言われたことがあり、「これは研究者と現場の教員の『乖離』を嘆く一つであり、自分も研究・教育実践にあたって注意しなければならない」と私は受けとめました。また、大学のいろいろな先生方と話をしていますと、障害児教育一般のことはよくご存じでも、聾教育や聾学校について良くご存じないと感じることが何回かありました。例えば、「現在の聾学校は、重複障害児が大半を占めている。」とか「聴覚障害だけある子どもと(軽度)知的な障害をあわせもつ子どもは、一般の知能検査によって容易に区別できる」とかいう「誤解」が、その一例です。

  聾教育に携わる現職の教諭として
                    求められる責任ある態度

 聾学校は特殊な領域であるとする根拠としてあげている

1,あの大学の先生(研究者)は、教育現場のことをわかっていないと最もよく(陰口)を言うところは、聾学校だよ。
2,現在の聾学校は、重複障害児が大半を占めている。
3,聴覚障害だけある子どもと(軽度)知的な障害をあわせもつ子どもは、一般の知能検査によって容易に区別できる

のうち、1,聾学校の先生が言っている記述として書かれ、2,3は、研究者の言っていることとして書かれている。
 だが、1,2,3とも聾学校の教師が広く言い続けてきていることである。


 そのため、3つの根拠を持って、「聾学校は特殊な領域である」とはならない。率直に思っているのは筆者であって「聾教育というのは、かなり特殊な領域であるように思います。」と書いている以上は、筆者の根拠でそれを書く必要があるだろう。
 誰々が言っているから、と根拠だけで現職の聾学校の教諭の自分自身の感想、意見を裏付けるのは責任ある態度とは思えない。

 
 聾学校に手話を
 と言うことで聾教育の改革はできるだろうか

 残念ながら、このような「聾教育というのは、かなり特殊な領域」「聾学校は特殊な領域である」という話は、1960年代から少なくない聾学校の教諭から聞かされても来たし、さまざまな分野で発表されてきた。

 この「特殊な領域」なる考えこそが、聾教育を他の領域の教育と切り離したっり、相互関係・相互交流を妨げてきた大きな問題ではないだろうか。

 それを打破するかのように近年、「聾学校で手話を」「聾教育で第一言語としての手話を」と叫ぶ傾向が強まってきているが、このブログですでに述べた

「これ以上ろう学校の先生に 手話を使って 干渉されたらたまらん 」

のろうあ者の本音が理解されていないように思える。

 もっとズバリと書くならば、「聾教育というのは、かなり特殊な領域」「聾学校は特殊な領域である」と言う聾学校の教諭ほど聾教育の改革や聾学校のあり方を提起出来ないばかりか「自己保身」のための口実としか考えられない。

 これらの「理屈」は、古くから聾学校の教師が言い続けたことであり、何ら目新しいことではない。





http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/24394013.html

2013年3月7日木曜日

創造された時代の熱情も苦労も展望も風化して、ただのスローガン、人を動かす力を喪失する と校長は強調したことが


  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
            聴覚障害と言っても千差万別

 卒業生の話を読むと、多くのことに気づかれ、またはっとされることと思います。
 聴障生にとって読唇術がどんなにしんどいものか。
 要領えない冗長な発言がどんなに腹立たしいものか。
 板書のない授業がどれほどわかりにくいか。
 補聴器をかけても、人間の耳のように万能でなく、先生の声も生徒同士の雑談も全く同レベルで入ってきて、すべて雑音、どんなに判別しがたいものか。

 耳が聞こえにくいと、難聴とひとまとめにされてしまうが、 難聴にも千差万別があることなど、数えれば限りがありません。

  年月が経つと創造された時代の熱情も苦労も展望も
   風化して ただのスローガン

「聴覚障害生にとってわかりやすい授業は、健聴生にとってもわかりやすい授業」
といってまいりました。
 これは聴覚障害教育をすすめてゆくときの心がまえであり、目標でありましょう。
 誰かがふと思いっいたものでなく、長い実践のなかから、絞り出たことばでしょう。

 なんとむずかしい目標でありませんか。

 だからこそやり甲斐があるともいえます。
 しかし、こんなすぐれたことばも年月が経過しますと、創造された時代の熱情も苦労も展望も風化して、ただのスローガン、人を動かす力を喪失します。
 月並み、ただの建前としないことが現在の課題であります。

 全教職員の教育実践の記録であります。

 この記録の語るものが、少しでも未来への踏み石となればさいわいであります。
                                                                  (了)


  以上は、ある校長の聴覚障害教育に対する校長なりの考えを全教職員はもちろん府民日本の人々にもあきらかにしたものである。
 
 生徒たちや教職員の具体的取り組みを見た未来志向

 山城高校の聴覚障害教育には、初代の校長から面々とこの精神は受け継がれてきた。

  国際的に著名なサッカー選手を育てた有名な校長も、文章を書くのは苦手だが、と良いながらひと文字、ひと文字、ていねいで素直に山城高校の聴覚障害教育と自分自身の変化を綴ってくれてた。


 そこには生徒たちや教職員の具体的取り組み、賛否両論を認めた上で未来志向の提起がされている。
 この傾向は、のちのち「創造された時代の熱情も苦労も展望も風化して、ただのスローガン、人を動かす力を喪失」させられてしまう。

  過去を切り捨てて インクルージョンなどを
   声高に叫ぶ人々へヒューマンな回答を

 「創造された時代の熱情も苦労も展望」は記録として残っている。

 問題なのは、これらの時代の教訓を見返りもしないでインクルージョンとか、メインストリーミングとか、インテグレーションとかの方法を論じるだけの研究者・教育関係者があまりにも多い。

 そしてあっさり、過去はだめで現在は新しい特別支援教育や「発達障害論」を論じ、過去の誤りをくり返そうと、いやくり返している。
 

 このブログで綿々書かせていただいているのは、教育とはインスタントのものではない。
 マニュアルさえ作っておけばいい、というものではないということである。

 そして、あえて言うならば、

「やさしくていねいなことばの影で、教育にすべてをかけた親子の苦闘を利益対象」

にしていることである。

 これらは決して許してはならない。

 「 教育にすべてをかけた親子の苦闘」

 あるところに通えば文字が書けるようになるとか、特別な指導方法で子どもが良くなるとか、言われてワラをすがる気持ちでタクシー代を数万円使って通う親子の話を聞いて胸が痛むことが多すぎる。

 それも○○大と掲げた看板ならよけいに親は信じるだろう。

  歴史は過去の誤りを許さないが
 それをなくし教育を育てる新しい取り組みが

 でも、戦後すぐからこのようなことはあった。

 それをくり返してはいけない、ということから障害児教育の公的保障をもとめる運動がはじまり、血と涙の中でと創られてきた教育があまりにも簡単に破壊されたり、破壊されようとしている。


 歴史はこのことを許さないだろう。

 だが、そのためには過去の血と汗、生死をかけた教育保障運動を学び、新たなる取り組みを創造していかなければならないのが今日的課題だろう。





http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/24251490.html