Once upon a time 1969
Oさんが訴えた記録( まとめの話 )
障害児・者をしめ出し
弱いものいじめ、弱いものを排除する地域にしてはいけない
障害児と聞こえる子供たちがたがいに学び合い共に高まり生きてゆく。
その基礎は教育にあり、学校にあります。
機械的に一つの学校に障害児を入学させるだけでなく、障害児教育機関としての学校が、地域の一般学校とつないで機能してこそ、こうしたすばらしい子供たちに育つのです。
人数が少ないからとかいって、舞鶴盲聾分校中学部を廃止すること。
それこそ地域から障害児・者をしめ出し、そして、弱いものいじめ、弱いものを排除する地域にすることであり、人間性の破壊と同時に、まさに地域つぶし、地域の破壊につらなってゆくでしょう。
人間が本来人間として豊かに発達し合ってゆく
地域づくりをめざしてゆきたいとの大切な意味
従って、舞鶴盲聾分校のお母さん・お父さん方の「義務教育は地元で、さらに分校に高等部を」との願いは、一方では人間が本来人間として豊かに発達し合ってゆく地域づくりをめざしてゆきたいとの大切な意味を持っているのです。
舞鶴盲聾分校中学部の統廃合は、教育・福祉切り捨て、軍拡の臨調路線のろう教育版に他ならないといわれています。
この本質をつかみ、これまでつちかってきた民主主義の地力を一層中学部存続の闘いに結集してゆかねばなりません。
そのことは、ろう学校の本校が、単にインテグレーションへの現象的矛盾という一面を大きくのりこえ、聴覚障害児の発達保障をめざす教育機関への発展と、私たちの願いを実現することにつながるものです。
舞鶴盲聾分校の父母の要望についてどう対処してするのかは
地元議員の血の叫び
( 資料 舞鶴聾学校の中学部廃止が京都府議会本会議でどのように問題にされたか
1981(昭和56)年 12月 舞鶴地方府会議員の盲聾分校について京都府議会本会議質問より一部のみ抜粋 )
府会議員 きょうは舞鶴盲聾分校、特にろう学校中学部廃止の措置並びに教育委員会のとってきた経過等含めて疑問点についてただしておきたいとおもいます。
宮津、舞鶴、福知山等、北部の市町村がそれぞれろう学校の必要を求められて、昭和24年に舞鶴市身体障害者福祉連合会が発足すると同時にその会の重点項目としてろう学校の設置が取り上げられ、自来その強力な運動にこたえられて昭和27年3月に臨時教育委委員会の決議として舞鶴盲聾学校の分校の設置が決められ、日赤の移転後の仮庁舎からスタートして盲聾分校が発生いたしました。
自来、今日まで北部の盲聾関係児童の唯一の教育施設として府民の愛顧を受け、育ってきたわけでありますが、校舎が老朽してまいりまして、56年前後から全面改築という要望が出てまいりました。
聾学校の父兄の方々と中学部統合についての要望を聞き、あるいは懇談会に参加してまいりました。
これらの中で一番強調されたことは、教育効果もさることながら、盲学校の児童の場合には電話ですべてコミニケーションがとれるが、聾学校の児童の場合には口の動きを見る、目と目で合うという話し合いの中でないとコミニケーションがとりにくい。
したがって本校統廃合の場合にはどうしてもそのことができにくくなって、教育よりは児童の発達に影響するのではないかという父兄の心配が強く、できたら義務教育中学部までは家庭の近くに置いてほしいとか、あるいはぜひそういった意味で中学部を存続したまま学校改築をしてもらいたいとかいう要望がきつく出てまいりました。
これに対して京都府教育委委員会は「それは親離れが出来ていないのだ」と、「障害児であっても適当なときには親から離れさす、そして学校集団の中で教育をせしめていくことがより効果的だ」という自信と確信にあふれた発言でありました。
私は教壇に立ったこともなければ、教育に携わったこともありません。
人を教えるような資格は生まれつき持ち合わせっていませんので、これだけの確信と自信を持って言われれば、そのことが多分正しいのであろうと。
だから逆に、母親の方々が言われていることの方があるいは子供を愛溺している行為ではなかろうかという疑問を持ちながら、教育委員会の行為、処置、それから父兄の心配等を理事者に伝えながら経過を見てまいりました。
教育担当の荒巻副知事は「そういうことは事実でありましょう」と、「聾学校の寄宿舎に母親が子供と面接される場所をつくり、そして北部から金曜日の夜ぐらいに寄宿舎に入ってもらう。そして子供と接しながら土曜日の授業を参観して土曜日に北部へ帰ってもらって、日曜日という親子の接触を通ずる中で両立ができるのではないでしょうか」、というような意見の開陳も聞かしてもらいました。
ところが、いよいよ59年の11月23日付で京都府広報によって教育委員会はこの聾学校の廃止の布告をいたしました。設置規則の一部改正がされました。
恐らく、私はそういうことのできた、そういう討議、親や周辺の方々の要望等を
聞いてこういう布告をした教育委員会は、12月定例府議会に少なくとも聾学校宿舎の調査費か改築費ぐらいは補正予算で提案されてぐるのだろう、あるいは知事に対して予算要求されるのであろう。
それを、あんなこと言っておった教育担当の荒巻副知事が削ったのかなという疑問を持ちながら12月定例府議会に参加させてもらいました。
全然教育委員会から予算の要求もありません。
そうするとこの布告は、理論、理屈だけの自信に基づいておるのであって、本件についての教育委員会の実践というのは、だれやらがきのう申し上げましたように、全然ゼロなのかという疑問を抱きながら聾学校の寄宿舎を見せてもらいに行ってまいりました。
当時の身体障害者連合会の顧問の江守芳太郎さんの息子さんの光起さんが、代表質問でど最初に盲聾分校の寄宿舎についてはどうなっておるのかということを質問いたしましたのも、こういう父母の要望についてどう対処してくれるのかという、こういうことに隣地してきた地元議員の血の叫びであります。
行ってまいりました。
何と、半分、丁委員の10人の部分については新しい寄宿舎が建つています。それと管理棟はできています。
ところが定員15人とおっしゃっている寄宿舎は木造の2階建て、古いものであります。
そして15人の定員を、入舎定員をつくるために一番奥の8畳の間の廊下に畳を敷いて、入口を廊下の端に切りかえることによって10畳5人という定員をつくり、そして養護室を2つに仕切って2人の定員の部屋をつくったということで15人の定員がつくってあります。
これは維持修繕費でつくった間仕切りであります。
そして教育長は、「卒業生が4人ありまして新しく入ってくる生徒が3人ですから江守先生心配しないでください」と、「明るく豊かな寮生活ができるでしょう」という答弁がされた。
こんなことで教育長は本当に、聾生徒の寄宿舎だという、定員が25名だといったようなことが、本会議場を通じて議員のまじめな質問に対する姿勢なのでしょうか。
私は疑問を抱いてなりません。
Once upon a time 1969
みじめでくさったような私の目をさましてくた
「耳の聞こえないものが(聞こえる高校生の集いに)行ったところで何になるか」と、先生方に反対されながらも京都の「平和憲法記念高校生春季討論集会」や「高校生部落問題研究集会」などに参加し、聞こえる高校生の方とも交流しはじめたのは、その頃でした。
ろう学校生徒会主催の「学習について」の校内討論会や高校生との交流は、かつてのみじめでくさったような私の目をさましてくれました。
先生方がろう学校の教師であることに
誇りを持てるろう学校にしなければ
洋服屋になろうとろう学校に入った私の目を、広く、ろうあ者の暮らしの現実と社会に向けさせてくれたのです。
新聞も本もろくに読めず、高等部を卒業しても、大学進学などとても考えられない。
社会の片すみで、ひっそり辛抱してくらしていかねばならない現実、をどうかえてゆくか。
そのために先生方がろう学校の教師であることに誇りを持てる。
そんなろう学校にしてゆかなければ、私たちの力はつかない、と考えるようになって行きました。
学ぶことが出来た「 学ぶ目的、生きる目的、その道すじ」
学ぶ目的、生きる目的、その道すじ
これを小学校・中学校と9年間を通してできなかったこの大切なことを、私はろう学校高等部の3年間で学ぶことができたのです。
今日、インテグレーションの波におされ、ろう学校から普通学校にすすむ「ろう学校ばなれ」がすすんでいるとはいえ、私は京都ろう学校に学んだことを誇りとしています。
これは、分校で学んだ仲間にとってもおそらく共通の想いでしょう。
そして、私の苦しかった昔の思いも、今大きな変化を示してきています。
( 注:京都ろう学校幼稚部では、1965年頃からさかんにインテグレーションが叫ばれ、Oさんが話をしている頃には、幼稚部の生徒は、ろう学校小学部に行くことはなく普通校に入学した。ブログ「インテグレーションと魔法のメソッド・スキル」「残酷な『「ことばの宿題』」参照 )
2000もの瞳の輝きの中に見いだした教育の方向
とりわけ、舞鶴盲ろう分校は10数年も地域の小学校・中学校との共同教育のとりくみによって障害児・者が主人公の一人として生きてゆける地域づくり、を理念のもとに、一人ひとりの民主的人格の形成にとりくんできた長い伝統を今日も蓄積し続げているのです。
私は3年前、舞鶴盲ろう分校の隣にある城北中学校に招かれ、全校の生徒さんの前で、私の歩んだ道をお話しさせていただきました。
1時間をこえる長い話しではありましたが、1000人の2000もの瞳は、最後まで私にそそがれ、その上、分校と交流しておられる2年生の教室まで引っ張り込まれて、もっと話してほしいと言うのです。
人間に対する深く、限りない愛情が育った共同教育
舞鶴盲聾分校が高野小学校との共同教育をはじめた当時、分校の子供たちと手をにぎると「つんぼがうつる」どさわいでいた子供たち。
しかし、共に学び合うなかで「つんぼはうつらない」ことを自ら確かめ、
「同じ人間であること、耳がきこえず、しゃべることもうまく出来ず、勉強することも大変なんだ」
という、すばらしいとらえ方ができるように成長しているのです。
さらに、人間に対する深く限りない愛情も育ち、そうした子供たちは大きくなり、今日では、地域の手話サークルに参加しているのです。
舞鶴盲聾分校が高野小学校との
竹馬の交換からはじまった「共同教育」について
{注}
1973年1月。
京都大学の故田中昌人氏は、京都舞鶴盲校の報告に対して、共同教育として高めていく課題として以下のように指摘された。
「すべての子どもたちがひとしく教育」をうける点で重要な指摘だったので参考として掲載する。(なお、この頃には、就学猶予・免除制度により学校に行けない障害児がまだまだ多くいた。)
「共同教育は、学習する権利の平等性をふまえ学習する内容における普通教育としての普遍性を前提として、障害児が学習上の基礎集団をもちつつ、必要な新しい仲間と共同に学び合つ教育機会を保障する教育活動である。
そこに必要な複数の集団の保障と、民主的な見とおし路線の形成と必要な諸科学の総合的発展を現実のものにしてゆく活動の芽がある。
従って、ここに言う共同育教は、集団の単なる分解合成であってはならないーとして、
中教審路線にある適応教育・統合教育を実践的に克服してゆくこと、
教職員が地域や学校の民主化をすすめつつ、子ども集団の民主的発展にとっ て必要なときに、注意ぶかく準備された共同活動が必要なのだということ、 共同活動は、子どもたちが自覚的に、文化継承の基礎になる活動を追求しは じめるとき成果をあげてゆくということ、
従って、教職員がこれを共同の事業として、年次計画をたてて取り組み、そ れをはばむものには、共同の反撃を加えてゆく規律が必要であること」
故田中昌人氏が、「学習する権利の平等性をふまえ学習する内容における普通教育としての普遍性を前提」を強調したのは、
高野小学校と舞鶴盲分校・聾分校の「共同学習」として出されたレポートと討論の中で、高野小学校の生徒が舞鶴盲分校・聾分校を訪れたときに高野小学校の生徒が自分と同じ学年の舞鶴盲分校・聾分校の生徒が同じ教科書ではなかったことへの素直な疑問に対する当時受けとめていた。
しかし、現在では、障害児教育は普通教育ではなく、障害児は、技術を持って卒業していかないと卒業してから働く場がないから、義務教育段階で職業教育をすべきであるとする意見に対して、日本国憲法の第26条〔教育を受ける権利、教育を受けさせる義務、義務教育の無償〕の「ひとしく教育を受ける権利を有する。」「普通教育を受けさせる義務を負ふ。」をもとに学習することの平等と共通性がなければ、本当の意味の共同教育にならないことをまず明らかにしていることとして考えられる。
「障害児が学習上の基礎集団を持ちつつ」と、学習集団を基礎集団として、それを解体、分割することなく、基本にして、ただどこでもいいとか、安易な「交流」ではなく、基礎集団に「必要な新しい仲間」としていることは実に意味深いものがある。
そのうえで「共同に学び合つ教育機会を保障する教育活動」が「共同教育」であるとしているのである。
そして、「必要な」「複数の集団の保障」が必要であるとしている。
基礎集団と関わる複数の集団は、どんな集団でもいいということだけではない。吟味された「復習の集団」との関わりが大切であると故田中昌人氏は、指摘している。
たんなる「基礎集団」と他の集団の関わりだけではだめなのだと言っているのである。
そして、「民主的な見とおし」をもち、「基礎集団」と「複数の集団」の保障を形成をすすめる。
が、そこには「必要な諸科学の総合的発展」を現実のものにしてゆく活動の芽がある、の部分になるとその意味の深さに考え込んでしまう。
故田中昌人氏は、障害児教育は障害児教育だけで成立するのではなく、他の領域の科学的な到達点と成果を取り込むことによって、障害児教育が科学的に裏打ちされたものとなりその発展は無限に広がるということを意図して述べたのだと思われる。。
そして、教職員の役割としては、「教職員が地域や学校の民主化をすすめつつ」「子ども集団の民主的発展にとって必要なとき」「注意ぶかく準備された共同活動が必要」であり、その成果は、「子どもたちが自覚的に、文化継承の基礎になる活動を追求しはじめるとき」に現れるとしている。
ここでも、教育の主体に対する慎重でかつ綿密な考えがうちだされている。 そして、教職員は、「共同の事業として、年次計画をたてて取り組み」という先に述べ、「民主的な見とおし路線の形成」の具体例を挙げている。
ここで注視しなければならないのは、「それをはばむものには、共同の反撃を加えてゆく規律が必要である」と述べられていることである。
この点が弱かったため、共同教育の取り組みは、舞鶴盲聾分校の教訓が引き継がれることが少なく、文部省(当時)は、舞鶴盲聾分校の共同教育の広がりと影響を憂う。
そして、官製化した「交流教育」などを打ち出す。このため一部の教職員の中で「交流教育」と「共同教育」と混同してとらえ評価していく傾向が生まれ、今日の特別支援教育へと連動していく。
Oさんは、失聴してろう学校に入学した鋭敏な感覚で、学び、これらの教育問題を簡素に述べている。
Once upon a time 1969
かつて私の耳を診て下さった医者と、中学3年間を担任して下さった先生が、ろう学校というのがあるから、一度見に行ったらどうかと父にもちかけたのです。
「ろう学校で背広を作る勉強をしたらどうか、百姓ではかわいそう」
と考えて下さったのでしょうか。
眼に飛び込んできた ひろびろとしたろう学校
中学卒業も間近い2月、母と担任に連れられ御室にあるろう学校を見学に行きました。
市バスや電車を乗り迷いながらやっと見つけたろう学校。
小さな小さな学校でした。
しかし、よく見ると、それは寄宿舎。
坂を登ると広々とした京都府立ろう学校が私の目に飛びこんできたのです。
ろう学校では、たくさんの生徒さんが背広を作り、着物を縫い、絵を描いていました。
はじめて見る手話と口話でのスローテンポな授業風景に目をみはりました。
なんと たくさんの聞こえない生徒がいることか
という驚き
世界で自分だけが聞こえないのではないと知った驚き
しかしもっと驚いたことは、「何と大勢な聞こえない人がいるのだろう」ということでした。
聞こえないのは、この日本で、いや世界で自分一人と思いこんでいたのです。
まだあります。
その大勢の生徒さんは、手を猛烈に動かして話をしているのです。
手と手がしゃべりあうのです。
何というすばらしい、ことば、でしょう。
手話との出合いは一生、人と自由に語り合えないと思いこんでいた私にとって、まるで夢のようでした。
「うん」と答えるとだまってしまった母
当時、父は寝たきりの病人。
母一人朝から夜中までコンクリート・ブロック工場で働き、生活保護を受けながら、私たち兄弟3人を育ててくれていました。
兄は中卒で就職しました。
私だけ進学できるはずがありません。
しかし、私は何とかこの新しい世界を私の中にとりこみたいと思いました。
母が「ここ、行く?」と聞きます。
「うん」と答えると母はだまっていました。
何かふっきれないものが
私の胸の中に少しずつくすぶりつづけるようになった
ろう学校からの入学通知が来て、中学卒業の私にも、まっさらな「中学一年」とある教科書をもらって高等部に通いはじめました。
国語、数学、理科、社会、そして英語もあり、それに職業科の勉強も週の半分ぐらいありました。毎日ミシンの踏み方を習いました。
母や叔母が、近所からボタン穴のくずれた背広やほころびたズボンの注文をとってきては、もう一人前の洋服屋だといわんばかりに私におしつけ、全く閉口してしまいました。
充実した毎日でしたが、何かふっきれないものが私の胸の中に少しずつくすぶりつづけるようになったのは、高等部3年の終わり頃でしょうか。
中学校卒業したOさんに
まっさらな中学1年の教科書が渡された背景
{注} 中学校卒業したOさんに中学1年の教科書を渡す当時のろう学校のことが、たった1行で書かれています。
ろう学校の生徒は、教師の中で3年、4年以上おくれているのが当たり前とされ、それが平然と行われていました。以降の文中に書かれていませんが最終的にOさんを中心として生徒たちが「授業拒否」(生徒のストライキ)を起こします。
このことも切っ掛けにろうあ者のろう学校改革を求める強力な運動が進められます。
またそのひとつとして、京都府・京都府教育委員会・京都府議会で問題が採り上げられていきます。
京都府議会編の質問等は、ブログ「歴史に残る1966(昭和41)年12月21日京都府議会本会議」の項参照。
京都ろう学校の教師の中には、以降の文章でOさんが述べる職業感が根深くあり、大阪や兵庫のろう学校のように高等部に普通科が設置されてきませんでした。
そのためO君らには高校の教科書すら渡されなかったのです。
渡すのが、教育制度上通常でしたが。
1969(昭和44)年になると京都府立高校に聴覚障害の生徒を受け入れ、教育保障をすすめてほしい、という新しい運動が起こり、1970(昭和45年)京都府議会で請願が採択。
翌年の1971(昭和46)年4月から京都府立山城高校全日制(普通科・商業科)・定時制(普通科)で聴覚障害生徒を受け入れた全国で例のない教育保障システムがすすめられる。(詳しくは京都府立山城高校ホームページ参照)
この段階でも、ろう学校高等部に普通科を設置して、普通高校とろう学校が対立関係になるのではなく共存・競合関係・選択肢の枠組みを広げる、ことで聴覚障害生徒の教育を保障していくべきだという意見が、府教委・行政・普通高校関係者やその他の学識経験者などなどから出された。
しかし、特にろう学校高等部教職員のろう学校生徒の進路と関わる職業感の固持が強く、多くの意見に対して反対し、高等部には、職業学科しか設置されてこなかった。
しかし、2010年頃からこの考えが改めはじめられ、ろう学校高等部には新しい動きと新学科編成が実現してきている。
機械の一部になって
ロボットのように不平不満を言わず黙々と働かねば
遅々として進まない授業。
加えて一般教科時間の少なさ。
中間テスト、期末テストになると試験問題を黒板に書いて「予習」がされる異様な風景。
勉強よりも手に職。手に技術を。
という教育が優先し、英語は高1年で打ち切り。
宿直あけの先生が酒くさい息をはきながら、朝礼に出てくる……まだまだあります。
仕事をやめたい、とかでひんぱんに学校にやってくる先輩の姿。そして次のような先生の話。
「君たちの先輩は、小さな洋服屋や織屋で、朝は早くから深夜まで、5年間は辛抱して腕をみがかねば、給料なんてろくにもらえない」
「人のいやがる仕事でも何でも、はいはいとやらねば、かわいがってもらえない」
「ミシンや機械の一部になってロボットのように不平不満を言わず黙々と働かねば、やめてくれ、と追い出されてしまう……。」
「君たちも辛抱強い人間になって、人からかわいがられるようにならねば……。」
「せめて学校にいる間、みっちり腕をみがきなさい。そのためには、今から夜なべもして着物を縫いあげられるように……」
これまで考えることもなかった
「何のために学ぶのか」
を生徒会でとりあげ、みんなで考えはじめた
私は、そんな話を聞くたびに暗澹たる気持ちにならざるを得ません。
今のままでは、私も先輩たちと同じように、ロボットにならなければなりません。
しかし、先輩はこうも話してくれました。
「今の社会で、聞こえないという十字架を背負って生きていくことがどんなに辛いことか、レコードやテレビが聞こえないことは、仕方がない、その辛さには耐える人間にならねばならない。
しかし、ただ聞こえないことや、ろうあ者だからということだけを理由にして、ロボットあつかいをしたり、辛抱が足りないと首をきったり、ろくに給料を払わないという、こういう人が人を差別することからくる辛さは耐えるためのものではない。
それは君たちが、なくしていかねばならないものなのだ。」
「君たちは、そのためにこそ勉強しているのではないか……。」
このことから私たちは、これまで考えることもなかった「何のために学ぶのか」を生徒会でとりあげ、みんなで考えはじめたのです。
Once upon a time 1969
Oさんが訴えた記録 その2
かけずりまわった舞鶴宮津、与謝、丹後、若狭
私たちの先輩は、毎日毎日自転車のペダルをこいで、今日は舞鶴、明日は宮津、与謝、丹後遠くは福井県の若狭までかけずりまわり、一軒一軒分校設立の署名を集めまわったのです。
(注:舞鶴から若狭方面は距離的に近く、ろうあ者との交流も深かった。分校が出来てから、福井県から旧国鉄で通学する生徒もいた。当時のろうあ者は、直線距離にして、20㎞から50㎞、道路事情の悪い中での道のりを計算してみても、遠いところで100㎞を越えている。それらを手分けして、署名を集めるのだから想像を絶する努力だったと言える。)
ろうあ者自身の手による「私塾鶴ろうあ塾」を開設
門口に立って、聞こえないとわかっただけで署名用紙を見せる間もなく、塩をふりかけられ、追っぱらわれるということも再三。
それにもくじけず、ついに地域の民主主義の結晶としての500人もの署名をあつめ、さらに、当時の京都府議会、舞鶴市議会にも働きかけるなど、精力的に活動を展開したのです。
あわせて、自ら私塾「舞鶴ろうあ塾」を開設するなど、足かけ4年の寝食を忘れた闘いは、ついに1952(昭和27)年6月、自らの力で自らの学び舎を生み出したのでした。
ううあ協会を作ろうと活動をはじめたら
150人もの聞こえない子供や
私と同じくらいの聞こえない人々が
勉強もできないまま放ったらかしにされていた
分校の誕生。
それは直接的には、北部における障害児の教育権、学校権の保障を意味します。
しかし、この運動にかけずりまわった先輩は、しみじみと語っています。
「私は、勉強するために、生まれ育ったふるさとから出なければならなかった。30歳になって、舞鶴に帰ってきた。
舞丹ろうあ協会を作ろうと活動をはじめた。
そしたら150人もの聞こえない子供や、私と同じくらいの聞こえない人々が勉強もできないまま放ったらかしにされている。
この町に学校を作らなければ、ろうあ者は、この舞鶴で、丹後で人間として暮らして
いくことは出来ない」
聞こえる人と共に暮らしてゆける地域にしなければ
4年もの歳月を分校作りにかけずりまわった先輩の心の底には、
「ろうあ者も人間だ。勉強しなければならないのだ。そして、このふるさとで暮らしてゆけるようにしなければならないのだ。聞こえる人と共に暮らしてゆける地域にしなければならないのだ」
との、すばらしい地域論が脈々と流れていたに違いありません。
分校づくりは、もう一つ、民主的な地域づくりという意味を持っていたのです。
500名もの署名。
それはとりもなおさず障害児者と共に生きる。
共に育ち合う地域づくりとの崇高な願いへの共鳴に他ならないと思うのです。
この精神は、同時に1949(昭和24)年以来の与謝の海養護学校づくりの10年にわたる運動にも生かされ、さらに今、分校中学部を守り発展させようという運動に引きつがれているのです。
Oさんの失聴で失ったものは
さて、私が生まれ育ったのは、牛がのろのろとうんこをしながら、その後に追いついたオンボロバスが、これも道の狭さに追いこせず、とうとうエンコしてしまう。そんなのどかな田舎でした。
よく遊びました。
鬼ごっこ、かくれんぼ、メンコにビー玉、石けりにカンけり、チャンバラごっこに探検ごっこ……。近所の子供たちにかこまれて楽しかったあの遠い日々が、今でもかすかに思い出されます。
ところが小学3年生の終わり頃、先生が言ったのと違うページを読んでは皆に笑われる。あてられもしないのに立ちあがる。
またドッーと友達が笑う。
先生も友だちも、そして私自身耳がおかしいと思い、母に連れられて病院へ行くことになります。
医者は「扁桃腺のところを切れば、もとのようによく聞こえますよ」と言ったそうです。
近代的な手術室もない普通の外来診察室の椅子に手足をしばられ目かくしされた格好は、電気椅子にすわらされた心地でした。
それから、のどに赤チンを一杯つけてのどをしびれさせての手術。
1時間程も続いたでしょうか、ひたすら耐えて、1日入院して帰宅。
耳が聞こえなくなって一番の「地獄」は
けれど、やはり先生の話も友達の話も、はっきりききわけられず、それどころか日に日に聞きにくくなる一方でした。
それは、かつて悪ガキどもにかこまれて得意の絶頂になって遊びまわっていた私が一歩一歩地獄の奈落につき落とされてゆく日々でもありました。
何が地獄だったでしょうか。
テストの答案が10点、20点でつき返されてくる事。
そんな事は先生の授業が聞こえないからとひらき直ることで気持をごまかすことができます。
かつて遊びまわった友達と話し一つ出来なくなった事。
これも一人本を読むことで、どうにか心なぐさめられます。
しかし、登校途中の私の役目。
それはカバン持ち。学校につけばカバンの中の点検。検便の日、マッチ箱をぶらさげて行くのが私の役目。
こういう自分の姿ほど、つらかったことはありません。
先生からも
「キョロキョロガサガサやめなさい、君は聞こえないから先生の話がわからないのは、わかっている。しかし学校は君一人のためにあるのではありません、少しは静かにしていなさい」
と言われるにおよんで、私は生きていることすら苦痛でなりませんでした。
今から25年も前です。
障害児教育とか、障害者問題とか、そんな言語も私の住んでいるところでは交されることがありません。
奴隷みたいな姿に何一つ抗議できず
逃げるしかなかった自分の姿
私にとって、何よりもやりきれなかったのは、そんな奴隷みたいな姿に何一つ抗議できず、逃げるしかなかった自分の姿そのものでした。
石を雨アラレのように投げつけられても、それでも何一つ人間的な叫びをあげられない自分の姿でした。
中学卒業後は、人から笑われもせず、石も投げられない一人で働ける百姓が向いているとだけしか考えられない自分に対してでした。
何という、いじけた、つまらない人間だったでしょうか。
この私の姿こそ、小学3年から中学生にかけての私への教育の到達点ではなかったかと思うのです。
しかし地獄にも仏と言います。
Once upon a time 1969
これまで、戦前、戦中のろうあ者の事を掲載してきた。だが、戦後の京都ろうあ者には新しい運動が芽生えた。
われわれは勉強しなければならない、と肝に銘じている
京都北部のろうあ協会の役員は、
「戦時中、隣接地が警察本部長官舎であるという理由で、府立ろうあ学校の校舎の一部と寄宿舎がとりこわされた。そのため、やむなく中途退学をせざるを得なくなったが、戦後も寄宿舎が、設けられていないため復学することもできない。」
だから、
「教育こそが障害者の社会参加への道をひらくための第一の条件であると考えている。私たちは、『われわれは勉強しなければならない』と肝に銘じている」
と主張して運動するようになって行く。
「われわれは勉強しなければならない」と言う主張には、戦争を体験していた、ろうあ者の切実な凝縮されたねがいがあり、学ぶ、というとは、単に、学校教育を受けたい、ということだけではなかった。
学ぶという意味は、あの大戦下で聞える人以上に情報が制限されていたろうあ者がろう学校の中で軍国主義教育を受け「必ず勝つ、負けるはずはない」と思いつづけていた……「戦争に負けたのだ」と聞える人に知らされても、ろうあ者にはそのことすら知らされなかった。
事実を知りたい、真実を知りたい、人間として
「事実を知りたい、真実を知りたい、人間として。ろうあ、という障害があっても、みんなの力の中で育ち合ってゆくためには、学ばなければ、ということを知り「われわれは学ばなければならない」
というろうあ者の必死の運動と請願運動が行れる。
京都北部では、ろう学校をつくる運動が。
京都市内周辺においては、ろうあ者の生活と権利を守るろうあセンターをたてる運動が展開されて行く。
その運動が実って1952(昭和27)年京都府立盲学校舞鶴分校と京都府立聾学校舞鶴分校が同一敷地内につくられるようになる。そのため通称、京都府立舞鶴盲聾分校と呼ばれるようになった。
この時のろうあ者の喜びは計り知れないものがあった。もちろん、盲人の人々も同様であった。
戦争の苦しみの中から産み出された
学校をつぶしてはならないと、必死の取り組みが
ところが、1981(昭和56)年を前後して、この京都府立舞鶴盲聾分校の廃止の動きが強まり、その第一波として京都府立聾学校舞鶴分校の中学部の廃止が打ち出される。
この時、分校の保護者や教職員はもちろん、ろうあ協会も大反対の運動を展開した。
新校舎改築とひきかえに聾分校中学部の廃止
200㎞離れた本校に行けとは
京都府立舞鶴盲聾分校は「風がふけば窓が落ち、雨漏りのする危険極まりのない老朽校舎」になっていた。
そのため、父母をはじめ多くの先生方で「分校校舎改築推進委員会」が結成され、新校舎の建設にむけ陳情や請願などさまざまな運動が15年以上もねばり強くすすめられ、その間校舎の全面改築の請願が京都府議会で承認されてきた。
推進委員会の結成、その運動は障害児教育の一層の充実をねがう、京都北部をはじめ、広範な京都府民の共感を読んだ結果だった。
ところが、京都府教育委員会は、校舎改築とひきかえに聾分校中学部の廃止(100km~200㎞離れた本校への統合)を打ちだし、父母・先生たち、地域の多くの人々たちや地元府会議員の強い反対を押しぎって中学部廃止決定を強行した。
しかし、「せめて義務教育までは地元で」「障害児を地域の主人公として、中学部存続をの運動は長く続けられてきた。
その頃、京都府ろうあ協会のOさんが集会に集まった多くの人々に訴えた記録が残っている。
長くなるのがその一部を分割して掲載する。
Oさんが訴えた記録 その1
ろう学校に通っていたろうあ協会の役員が
ふるさとにもどりそこで見たものは
京都府立舞鶴盲聾分校は、戦後の平和憲法を生み出むた民主主義の高まりのなかで、1952(昭和27)年6月開校しました。
当時、ふるさとを遠くはなれ、京都市内で学ばねばならなかった何人かのろうあ協会の先輩は、卒業後、ふるさとにもどり、そこで義務教育からも見離され悲惨な状態におかれている聞こえない子供たちや同年齢の仲間たちの暮らしをつぶさに見、この京都北部の地に学ぶ場を作ろうと立ち上がりました。
「耳の聞こえないものは勉強しなければならない」そして「社会に貢献しなければならない」と。
Once upon a time 1969
MKさんは、ろう学校の疎開で学校に行けなくなり、ろう学校を中途で終らざるを得なかった。
そしてその後すぐ、「昭和20年3月13日、わすれもしない、大阪にB29がたくさんやってきて、爆撃をうけました。」と証言してくれた。
が、その時、MHさんが大阪空襲後の自分が歩いた光景を絵に書いたものを持参し、O君は、お父さんから聞いたB29(透明のビニール板の上に)と高射砲の炸裂する大阪の空を書いて一緒に参加してくれた。
紅蓮の炎が巻き上がる大阪の空にゆっくり飛ぶB52の編隊
MHさんの家は、大阪の東住吉区(模擬原子爆弾が投下されたすぐ近く)にあった。
空襲があるので、防空壕に避難していたが、外のことが気になって仕方がなかった。
そのため、防空壕にいる人の引き留めも聞かず、防空壕のすき間から、大阪の街を見た。
その時、大阪は夜。にもかかわらず街が、赤く赤く、燃え上がるのを見た。
そこをB299がゆっくりと編隊をくんで飛んでゆく。
5分か、3分ぐらいしてまた、そしてまた……とつぎからつぎへと編隊をくんで飛んでゆく。
として、O君が書いた紅蓮の炎が巻き上がる大阪の空の絵を示して、透明のナイロン板に描かれたB29の編隊の様子をビニール板を少しずつずらしながら、B29の編隊がゆっくり、ゆっくり飛ぶ様子を知らせてくれた。
B29からは数え切れない爆弾が落とされ、赤く赤く、真っ赤に燃え上がった大阪の空には火の粉がまいあがり、次第にそれがどんどんと広がり、ふくれ上がっていった。
翌朝、家のだれよりもまず早くおきて、防空壕から出て大阪の街をみると、大阪城が『ぐーん』と近づいてくる……。
『おかしいな……』と思って回りをみると、なんと今まで回りにあった家や建物がすべてなくなり、大阪城しか見えず、大阪城だけが残って、すぐそこ、に見えた。
手を合せておがむ顔には
とめどもない涙が
そこで大阪の阿倍野へ歩いて行った。
今まであった家々は燃えて平らになり、阿倍野から動物園、難波まで歩き回った。
たくさんの人が死んでたおれていた。
この情景は今もわすれることが出来ない。
多くの人が……横たわっている……赤ちゃん、妊娠している人、子供……黒こげになった死体。
それをみて、涙がとめどもなく流れた……。
一歩あるき、見た人が死んでいると手を合せておがみ、また一歩、と手を合せ、手を合せ、手を合せ、手を合せ続けて歩いた。
そして、必死に親類の家をさがしました。だが、全くわからない。
やむなく家へ帰ったのが、14歳のとき。
極貧生活 でも、ろう学校を卒業したい
そしてついに……8月15日。
ごはんを食べているとき、みんなは、食事の手をとめて、うつむき、ボロボロと涙をながしました。
お母さんが「戦争は終った」と言ったけれど戦争が終るなどとは全く知らなかった。
「まだまだ、戦争は終っていない」と言いつづけた。
その後、MHさんも向学心に燃え、なんどとなくろう学校へと思うが、極貧生活がそれを許さなかった。
そのため、働いて、働いて、お金を貯めて、再び、大阪のろう学校に入り、小学部5、6年まで、勉強し、卒業出来た。
その時、19歳だった。
戦争などは、二度とあってはならないと不屈の意志で
MHさんは、戦争で学習できなかった苦しみを、父親に字を教えてもらったりしながら自分で必死になって勉強したそうである。
「大阪空襲そればかりか戦争などは、二度とあってはならない」
と、その決意のもと戦後、労働運動に参加。
きびしい分裂攻撃、障害者を利用した悪らつな差別の中で、不屈の意志でつらぬきながら聞える人と連帯して統一と団結を勝ちとって来たことを笑顔で証言。
そして、大阪空襲の時の様子を戦争を全く知らず、ともすれば「これがほしい」「あれがほしい」「友だちが持っているから」と物質主義におち入りがちになるにではなく、平和運動の中に身を入れるべきだとO君に今までの人生を語り、O君はそれを聞いて、お父さんを心底信頼するようになり、お父さんの戦争体験を記録すると聞いて、お父さんから聞いた話をもとに絵を書いた。
戦争体験が、親から子供へ戦争体験が語り継がれることが出来ることを知ってなによりも喜んだのは、MHさんだった。
それから数年後、MHさんからO君の結婚招待状が届いた。
結婚相手は、K子さんだった。
結婚式当日、K子さんのお母さんにお祝いの言葉を述べたが、返事も、目を合わすこともされなかった。
Once upon a time 1969
MHさんは昭和11年大阪府立ろう学校に入って、小学部1、2、3年までは平和な生活でたのしく学校に通っていた。
しかし、第二次世界大戦がはじまり、ろう学校の疎開で学校に行けなくなり、ろう学校を中途で終らざるを得なかった。
まさにその時、大阪で空襲に遭う。
幼稚部、難聴学級で同級生だったK子さんと相思相愛の仲
MHさんは、空襲を語ってくれたとき、特にうれしそうな顔で私にあいさつをしてくれた。
このことには、わけがあったので先に説明しておきたい。
Aさんの息子さんのO君は、ろう学校幼稚部卒業後、難聴学級に通い、普通高校そして卒業就職という時期を迎えていた。
O君は幼稚部、難聴学級で同級生だったK子さんと相思相愛の仲になっていた。
その期間は、長く続いてきたとのこと。
ある日。
MHさんとO君が訪ねてきた。
K子さんと結婚しようという約束がK子さんの親に知られてしまって、親は怒り続けてK子さんの親はK子さんとO君とまったく会えないようにした。
MHさんとしては、相手の親と話をしようと何度も家を訪れたが、「聞こえない人と話をしません!」と言ったきり、戸を締めたきっり。何度言っても同じだった。
そこで、「聞こえるあなた」なら話を聞いてくれるのではないか、ぜひ、話をしてほしい、ということがMHさんとO君からの依頼だった。
O君に「本当に結婚するつもり。まだ10代だし、早くはないか。」とあえて聞いてみた。
するとO君は「この気持ちはいつまで経っても変わらない。」と言いきり、お父さんが聞こえていたら、こんなことには……、と言い出したので。
「あなたも聞こえにくいんじゃないか」
と言うとお父さんよりはるかに聞こえるし、しゃべれる、と自慢げにいう。
ろう学校に充分行けなかったから
必死に仕事もし、読み書きも覚えはった
そこで、
「お父さんに、なんてこと言うのや」
「お父さんはろう学校に充分行けなかったから、必死に仕事もし、読み書きも覚えはった。」
「君は、お父さんがいつもガリ版印刷しているろうあ協会N支部の機関紙を見たことあるか。」
「ものすごくきれいで、ていねいで、仕事で疲れ身体をむち打って、深夜までかかってつくっはる。」
「相談に来たろうあ者には、いつもていねいに相談にのってはる。」
「私は、君のお父さんを尊敬してきた。君は、そんなお父さんのことを知っているのか。」
「お父さんは、君の気持ちを信じ、聞こえない人とは話をせんとまで同じ障害の子どもをもつ親から言われても、ぐっと耐えてはるんや。」
「君も結婚して、子どもが生まれて、お父さんは耳が悪いからこんなことになったんや、と言われたら、どう応えるのや。」
とまで話をした。
O君は黙ってしまったが、「おねがい頼む」だけは繰り返し言った。
子どもを産みもしないで母親の気持ちが分かりますか
いろいろ話したが、結果的にK子さんの母親と喫茶店で会うところまでこぎ着けた。
お母さんは会うなり、いきなり、
「あなたは子どもを産んだことがあるんですか。」
「産んだことがないでしょ。産みもしないで母親の気持ちが分かりますか。」
「でも……お母さん。二人は交際していますし、結婚したい、という希望も持っているんですが。」
「結婚」「聞こえない子どもが生まれたらどうするの。」
「あなたは、子どもを産んだこともないし、聞こえない子どもを育ってたこともないでしょ。」
ものすごい剣幕で、叱り続けられる。
回りをはばからない激怒
「でも聴覚障害者が結婚し、子どもさんも立派に育てておられる方も多いですし、」
と言ったとたん逆鱗に触れたのか、お母さんは、
「あなたはK子を産んだんですか。」「K子を産みもしないで」
と大声を出されて、激しく私を責め立てた。
その激怒は、回りをはばからなかった。
MHさんとO君に結果報告。
その後、K子さんのお母さんは、「K子がO君と会うようなことがあれば、死ぬ」っと言っていたらしかった。
察しがよいMHさんは、私がK子さんのお母さんが言われたことによる沈痛感、O君を叱ったことへの感謝から、会う度に礼を言われた。
K子さんのお母さんは、O君の両親がろうあ者であることを知っていたことから来る激怒を隠して言う、ことば、には丸みはひとつもなかった。
Once upon a time 1969
空襲と生死と涙とろうあ者の生活
空襲の恐ろしさについては、多くのかたからだされた。
京都のは、空襲がなかった、と言われていますが空襲はあった。
それを目撃したろうあ者も多くいる。
今日から109年前に生まれた
ろうあ者の女性(証言時は80歳・その後死亡)
の大阪空襲の証言
でも、京都に住むZさん(女性)ともう一人のMHさん(男性)は、大阪で空襲をうけたことを証言してくれた。
女性のZさんは、現在80歳に近い人だった。(記録した1982年当時)
だから、明治、大正期にかけてろう学校を、と言われなかったので、充分な教育を受ける機会がなかったと推定された。
Zさんの話しは、手話というより「映写」・「一人芝居」で表現すると言ったほうが解りやすいかもしてない。
立体画面が飛び込んでくるような
手話表現で家が燃えつきる状況を
前後、左右の情景を織り込みながら、証言してくれた。
「赤いけむりが空にむかって走ってゆくと、次第に私のところまで近づいてきて、火の粉のけむる中、防空ずきんをかぶって、家に飛び込んで、服、ふとん、お金をだそうとしたら、聞える人が
『ダメだ、ダメだ』
と身ぶりをしたが、それをふりきって、とりに行った。」
お金はとりもどせて、よかった……
と思った時には右腕がやけど。
家はすでに燃えつきてしまい何もかもなくなった。
ただたた、呆然。
女の人が炊出しをしてくれたがおにぎりとお茶一パイだけ。
「ともかく、のどがかわいて……、かわいて……。」
と当時の恐ろしさを語ってくれた。
「屋根が燃えて」と手話通訳出来ない表現
Zさんの手話は、「苦しげな顔」とともに「屋根裏」から「メラメラと火が這い上がり」「屋根に燃え移ってゆく」。
その手話を克明に、手話表現して、手話を見るものを同じ場所、同じ時間、Zさんと一緒にいるように気持ちをぐんぐん「引き込んで」いく。
まさに、手話で話されているよりは、映像の世界に飛び込んでいく、そのように表現するよりいいようがない。
たんに「屋根が燃えて」と手話通訳出来ない表現だった。
ろうあ者の女性という「言うに言えない」悲劇の連続
家もなくなり、知り合いもなくなったZさん。その後には信じられない苦難が待ち構えていた。
ろうあ者の女性ということで身売りされそうになったり。
そのうえ、戦後は戦後で米兵たちが……。
「そんな苦しい毎日の中で死ぬことを考えたんです。私の友人(注;ろうあ者)は、つ いに川に身をなげて死んでしまったんです。」
と女性としてさらに加わった苦しみを語って、沈黙が続き、証言は留まったままになった。
Once upon a time 1969
笑えぬ時代
「京都聴言ニュース」に「笑えぬ時代」という題で吃音だったMさんが徴兵検査を受けたときに書かれた記事がある。
身長体重の測定が終った者は、視力検査だ。
いよいよ声を出さねばならない。
検査室の声がする。
「右の目を押えて左の目で……これはッ」
「……」
全然声がでない。
「よおし、これはッ」
と一段上の大きな輪を細い棒が示す。
「……」
まだ声が出ない。
目はよく見える。
でも吃って声がでない。難発である。
あせれば、あせるほど顔は赤くなり、体は前後にゆれる。
「よおし、ちょっと待っておれ」
「次の者ッ」
次の人が検査を受ける。
そして
「よおしMもう一度ッ」
「ハイッ」
しかし同じことである。
「見えないのかッ」「……」その返事ができない。
検査官は、私が吃りであることを知らないらしい。
ああ困った。どうすることも出来ない。
貴様はオシカッそれとも見えないのかッ
昭和15年、満20歳の男子なれば必ず徴兵検査を受けた。ドモリもしかりである。
「甲種合格」これが日本男児とされていた。
でも吃りは昔も今も変わない。
その人のみが知る苦しみであり悩みである。
検査官は
「貴様はオシカッそれとも見えないのかッ」
「ハハハイッ」
吃りながらやっとの一言である。それを見ていた軍医さんが声をかけてくれた。
「よおし、君はドモリか」やっと助け船が来たのだ。
思わず「ハハハイッ、そうです。」と言った。
吃音のためか乙種の補充兵
軍医さんより検査官に助言をしてくださった。手で合図してよいことになりやっと目の検査もすんだ。
その後は内科の診察などがある。
結果は吃音のためか乙種となる。補充兵である。
その後がまたたいへんで、結果を全員の前で演壇に上り、大声で報告しなければならない。
「ダダダダイニ乙種、モモモリ……」
やっと言えた。
しかしだれ一人として笑う者はなかった。
待ち受けていた軍事工場での過酷な労働
言語障害者であるMさんの記事を読んで、ろうあ者が受けた徴兵検査の具体的様子を推し量るしかなかったが、やはり障害者も病気の人々も屈辱的な思いと「甲種合格。
これが日本男児」とされず、甲種合格した人々も、そうでない人々も非人道的な道に進まされたのである。
非戦闘員とされた京都のろうあ者の多くは現在の右京区にあった軍需工場か、兵庫県尼崎にあった鉄砲を製造する軍需工場で働かされることとなった。
とくに、尼崎へは、関西一円からろうあ者者が数百人集められ、その労働は過酷を極めた。
(注:近畿は、関西としても表された。)
(
Once upon a time 1969
徴兵検査後のONさんに原爆が襲いかかる
8月9日長崎。
ONさん26歳。
いつもと同じ時間、いつもと同じ仕事。
だがその日は、長崎のすべての人々の運命を根底からひっくり返した日であった。
仕事をしているONさんに青・黄・緑、さまざまな色が飛び込んできた。
驚いたONさんは、仲間の手まねきで仕事場から外に出る。
その瞬間。
空前の爆発。
爆風で飛び散った家々のガラス。
身につけたものが強奪された爆風。
山中での一夜。
翌10日。
ONさんは県庁の倉庫に豆があると聞き拾いに行く。豆はまだ熱く、食べられそうだったと証言する。が、ONさんたちには、それがどれだけの放射能を浴びていたのか知る由もなかった。
翌11日。
母とともに知り合いの熊本に避難。その時の長崎駅の光景。
長崎市内から脱出しようとする人々の群れ。
焼けただれた子供の顔。
ともかく長崎を後にしてONさんは熊本で過ごし、食料を詰め込んで再び長崎に戻ってくる。
8月14日。
ONさんの胸に消えない、長崎市内で何が生じたのか、をという疑問を解こうとする。
自分の目で確かめたい。と爆心地に向かう。また、ろう学校の様子を心配する。
自分の目で確かめたい NGASAKIで何があったのか
長崎駅から、がれきの山々を通りながら、友達やろう学校の先生の家を探す。
だがあるべきところに何もない。
大学病院、浦上天主堂、ろう学校、屋根は吹き飛び去っていた。
死んだ人、動物の死骸。
焼けただれた人。
髪の毛が抜け落ちた人。
友人から聞いた首のない子供。
それまで生きていた街の様子を全くを残さない情景の中で、ONさんの心の底から生まれてきたのは、鼈甲細工の仕事をしていたから生き残れたのだという兄への感謝であったと証言する。
異臭が漂う中、ONさんは、ひたすら兄への感謝を心に込めたと言う。
聞こえない子供が生まれるという反対を押し切っての結婚
長崎に原爆が投下された翌年、ONさん27歳。
21歳のヤエさんと結婚する。
聞こえない者同士の結婚は、聞こえない子供が生まれるという反対を押し切っての結婚だった。
結婚の翌年に長男、結婚4年の後に長女、結婚7年後に次男誕生。
3人の子供を育てていくことは大変だったが、結婚に反対したお母さんの援助で子供たちを育てられたという。
お母さんは、ONさんは36歳のときに亡くなり、それから次第に生活が苦しくなっていったと証言してている。
鼈甲細工の仕事をやめ、日雇いの労働につく。長崎市内の公園の樹木の整備が主な仕事だった。
ONさんの手の器用さは、この時大いに役立ったとのこと。
この仕事を32年間続け、現在は、長女の家族と同居して可愛い2人の孫に囲まれた幸せな日々だ、という。
終戦。
それはとてもうれしかった
60歳のとき、胃の手術をしたが、それは原爆を投下直後に手に入れた豆が原因しているのではないかと考えたりすると証言している。
終戦。
それはとてもうれしかった、と手話で表現するONさんの写真が本に掲載されている。
「原爆を見た聞こえない人々」の本のONさんの写真は、最後の部分で、笑みが一体こぼれている。
が、逆に写真を遡ってみるとONさんのすべての人生が見えてくるように思えてならない。
扉表紙の写真、原爆を直後に仕事場から外に出た時の証言の写真、熊本に疎開するときの敵の様子の証言の写真、焼けただれた子供のことを証言する写真。ともう1度見直してみるとONさんが地獄の苦しみの中から生き抜き、手話通訳者と心から打ち解けて証言するすべてが読み取れるように思える。
またそれは、ONさんの人生のすべてでもあった。
何十年もして、手話通訳でろうあ者が「事実」を知る
5枚の写真とONさんの証言を組み合わせてもう1度深く考えてみると、ONさんの優しさとともに優しさを切り裂いてきた時代が見えてくる。
長崎でのろうあ者の被爆を中心とする記録の取り組みは、ろうあ協会と全通研長崎支部の取り組みで30年以上もつづけられている。
その特徴は、ろうあ者の証言をもとに真実を追究する取り組みでもあり、当時の面影や逃げ惑ったところを同じようにして共に歩き、考えた記録である。
そのため、なんの脚色もされていないが、それだけ私たちはあらゆる角度から、いろいろなことを知ることが出来る。
「数十年して、あの爆弾が、原子爆弾であったこと」
「被爆者手帳が交付されることを知ったこと」
「自分を投げ捨てて逃げたと思っていたがそうではなかったこと。」
「数十年もして、ろうあ者をいじめたことを詫びた人」などなど「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣)をぜひ読んでいただきたいと思う。
長崎に呼びかけた同時期、広島にも呼びかけたが、ろうあ協会の役員の反対などなど複雑な経過で個人が記録しているが、長崎の記録と根本的に違うものがある。
手話通訳は、その瞬間だけの手の動かし方と思われている昨今。
何十年もして、手話通訳でろうあ者が「事実」を知る、という長い長い時間がかかる手話通訳もあることも知ってほしい。
2003年8月9日。58回目の「原爆の日」を迎えた長崎の平和公園で開催された「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で、ろうあ者で長崎市在住の山崎栄子さん(当時76歳)が演壇から全国の人々に訴えることが出来たのも、長崎の長く苦しい地道な取り組みの結果でもあったということも知ってほしいと思う。
被爆したろうあ者は、長崎や広島だけに住んでいたわけではなく、全国で生活していた。
私も、その話を聞いたし、大阪では、広島で被爆し、逃げた長崎で再び被爆したろうあ者の話も報告されている。
Once upon a time 1969
2003年8月9日。58回目の「原爆の日」を迎えた長崎の平和公園で開催された「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で、ろうあ者で長崎市在住の山崎栄子さん(当時76歳)が、初めて自分の生い立ちや被爆体験を語ってくれたときの長崎から送られてきた写真を前回「長崎ではじまった被爆したろうあ者の勇気ある証言」で掲載したが、とても同一人物であるとは思えない写真である。このように、手話表現は全身全霊を籠めて表現されることが多い。
特に、被爆した時のろうあ者の手話表現と、平和になったときの手話表現には、全身に恐怖を超越したものと、全身に安堵感と喜び、が「対照」として現される。
30年以上も引き続き長崎では、非常に困難な中でろうあ者の被爆体験が平和のねがいを織り込んで記録されている。
このうえもない励まし コミュニケーションに深い理解
さて、ろう学校に11歳で入学したONさんは、中学部1年に木工科を専攻する。
戦時色が強くなったろう学校の授業、午前は教科、午後は職業科で学びつつ、次第に畑仕事が増えていく。
ろう学校時代、ONさんにはあることが強い印象として残っていると証言している。
I先生の手話教育。
手話教育から、口話教育への転換に対してきわめて批判的であり、ONさんたちのコミュニケーションに深い理解を示したこと。
それはONさんたちにとってこのうえもない励ましだったのである。
戦争前は、教師は自由に教育のことを語り合い、自由に教育を行えなかった面もある。
しかし、その中でも子どもたちに合った教育方法、教育内容が真剣に教師の中で考えられていたことがONさんの証言からも推察できる。
ONさん22歳でろう学校を卒業。
12年間学んだろう学校での生活は、何度も繰り返すことになるが聞こえない人々にとっては極めて重要な影響と生きる力を形成していくことになっていた。
24歳 徴兵検査の通知 兄の付き添い 兵役免除
木工の仕事ではなく、鼈甲の仕事をつかざるを得なかったONさん。
家族と一緒に、鼈甲細工の仕事を10年間続ける。
ONさん24歳のころから戦争が激化。食物確保のために奔走。
徴兵検査の通知。
兄の付き添い。兵役免除。
この日のことはあまり詳しく述べられていないが、すでに述べてきたように付き添いのお兄さんにとってもONさんにとっても屈辱的な日であったことは間違いがない。
鼈甲細工は、平和時の産業。
戦争はその仕事を奪い、ONさんは三菱造船に働きに行くことになる。
危険な造船作業。ONさんは恐怖に震えてその仕事を引き上げる。
と、ここまでは、初期原稿から本を編集、校正、発行、発行後、何度も読み続けてきた。
だが、ある日、住井すゑの書いた文章の「おらもこれで大役(大厄)がすんだよ そしてぽたり、ぽたりと涙をこぼした。」のことを思いだして、もう一度、ONさんの証言を読み返してみた。
すると、兄さんの付き添いで徴兵検査に行ったONさんは、徴兵検査の帰路や家で兄さんから徴兵検査の結果に対する言葉を知ったのではない、ことに気がついた。
大声を出して叱る言葉の奥底に秘められた想い
ONさんを一番支えて、援助してくれた兄さんは、徴兵検査が終わって一緒に行った、みんながいる銭湯で、ONさんを怒鳴りつけたと証言していることをもう一度読んでハッとした。
このときのONさんの気持ち、お兄さんの気持ち想像することは極めて大切である。
なぜ、町内の人々が集まってくる銭湯でお兄さんは聞こえないにONさんに対して大声で叱ったのか。
その大声は、ONさんに向けられていたのであろうか。
聞こえないが故に戦地に行けないONさん。
そのようなことがだれでも分かるのに、それを肯定できない軍国主義の重圧。回りの人々は理解をしていても口に出して言うことはできなかったのかもしれない。
いや、そうに違いない。
兄さんも回りの人々もONさんのことを分かりながらも、大声を出してONさんを叱る、叱らざるを得ない、社会状況。
兄さんが銭湯で大声を出したのは、悲しみと怒りと不平等さと平和の願いが硬くなに包まれた心の中にあったと思えてならない。
初めて知った お兄さんがONさんを守る愛情
私の意見に対して、少なくない人々はお兄さんが聞こえないようONさんに対して理解がなかった、人間扱いしていなかったと言い切る人がいた。
だが、お兄さんは、なぜ家で、ONさんを激しく叱らないで、あえて、身近な人々が多くいる銭湯で叱ったのか。
お兄さんがONさんを守る愛情であったと、初めて気がついた。
悲しみながら、あえて言わざるを得ない、言うことがONさんが生きていくすべになる、ONさんがぎりぎりの生活の中でも、人からそれなりに理解されるようにと。
今の私たちには考えられないような深い複雑な愛情を含む気持ちの中でお兄さんはONさんを叱ったのではないだろう。
銭湯で大声で叱る兄さんの声が消えるとき
私は、長崎のろうあ者被爆体験の証言や家族の人々の動きまわりの人々の動き、何度も総合的に考え見つめ直してみた。
もの言えない時代を考慮して、言った、言わなかった、言っていたことの真の意味。
行動したことの意味などなどを単純に断定しないで、深く深く考えなければと思う気持ちが日に日に強まってきたのである。
銭湯での声は、風呂屋全体に広がる。
男風呂であろうと女風呂であろうとすべての人々にONさんへの怒鳴り声は聞こえたことだろう。
銭湯の中で大声を出すと独特の響きを持つ。
その中にお兄さんの声は消えていく。
そして、地域の人々の中で、お兄さんが聞こえない弟をしかったことが、噂が噂を呼び話題になったことだろう。あそこまで言わなくても、とか。
徴兵検査。兵役免除。
この言葉は、なん残酷でと重々しいものだろうか。
男にとって生命の分岐点でさえあったとも言うべき、徴兵検査。
聞こえないが故に戦地に行けないONさん。
そのようなことがだれでも分かるのに、それを肯定できない軍国主義の暗黒の重圧。
回りの人々はそのことを理解をしていても口に出して言うことはできなかったのかもしれない。
いや、そうに違いない。
Once upon a time 1969
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で
ろうあ者が初めて被爆体験と平和を訴えた
2003年8月9日。
8回目の「原爆の日」を迎えた長崎の平和公園で開催された「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で、ろうあ者で長崎市在住の山崎栄子さん(当時76歳)が、「平和への誓い」を手話で話し、多くの人々に聞こえない人々が被爆した事実をやっと全国に知らせることが出来た。
手話通訳者から
このような話が出てくるのを待っていたと
ろうあ協会会長
このことが出来た背景には、山崎さんのご主人(当時長崎県ろうあ福祉協会会長)と長崎の手話通訳者が集まった時に私は、次のようなことを提起したことが関係している。
「ろうあ者の生きてきた記録、特に長崎では障害者が被爆した事実が知らされていない。
さらに、ろうあ者の場合、原爆投下という事実すら知らないのではないか。
手話を学ぶものとして、それらの事実をろうあ者と手を携えて取り組まなければ、本当に手話を学んだということにもならないし、手話通訳者が手話通訳するという真の意味が把握出来なくなるのではないかと思う。」
すると山崎さんは、諸手を挙げて賛成してくれた。
「いろいろ困難はあるが、ぜひやろうじゃないか。ろうあ協会のみんなにも話をするし、ろうあ協会に入っていない人にもぜひ、協力をおねがいしよう。手話通訳者から、このような話が出てくるのを待っていた。」
との話であった。1980年初めの頃である。
それから、長崎県ろうあ福祉協会と全国手話通訳問題研究会長崎支部の協同の取り組みが開始され、手元にその記録が次々と送られてきた。
私はそれを編集し、機関紙に連載し、一定の記録が集まった段階で、「原爆を見た聞こえない人ー長崎からの手話証言ー 長崎県ろうあ福祉協会・全国手話通訳問題研究会長崎支部編」(文理閣発行・1995年3月刊)として出版することが出来た。
被爆体験を語る手話表現と日常の表情の「落差」に見えるもの
ろうあ者の人々は、親類関係者の反対を押し切りみんな実名で証言してくれた。もちろん山崎栄子さんもその一人だった。
しかし、長崎から送られてくる原稿と写真を元に編集するだけでは、真意がつかめなかったので幾度か長崎に行くことになった。
駅に着くと被爆ろうあ者の人々がわざわざ出迎えてくれたが、送られてきた写真と本人の表情のあまりにも大きな違いに驚かされた。
山崎栄子さんの場合もそうであった。
彼女は多くの人々に知られるようになったので、当時研究誌に掲載させていただいた写真を再録させていただく。
なお、写真や証言についてはすべて本人、関係者の了解を得ていて、もっと多くの人々に被爆したことを知らせてほしい。
いくらでも、と言う約束があったことをあらかじめお知らせしたい。
ただ、徴兵検査と関わって、次に説明するONさんの場合は、ブログという関係上イニシャルにさせていただく。
詳しくは、ぜひ、「原爆を見た聞こえない人ー長崎からの手話証言ー 長崎県ろうあ福祉協会・全国手話通訳問題研究会長崎支部編」(文理閣発行)を読んでいただきたい。
65歳の時に被爆体験を証言
ONさんは、65歳の時に被爆体験を証言してくれている。
6人兄姉の4男として大浦東町の、鼈甲細工を家業とする家に生まれた。
ONさんのお父さんは、49歳の若さでなくなり、長男が大黒柱となって家をささえたとのこと。
お父さんの死後、ONさんは脳膜炎を患い高熱のため耳が聞こえなくなった。
5歳までラジオの音楽をなんとなく聞こえていた感じとともに次第に聴力が失われ8歳のとき聞こえなくなる。
母は、ONさんを連れて、六地蔵へお参り。
竹で耳の穴に吹き込むを治療をしたとのこと。
民間治療・民間信仰。
それに頼る傾向は過去も現在も同じように広がっている。
戦前のろう学校でも軍隊さながらの体罰が
ONさん11歳。
ろう学校に入学。
小学部から仮校舎で学び、その後上野町の新校舎に移り中学部時代を過ごす。
8名の同級生が、卒業2人だったという。
ろう学校での勉強は発語訓練が厳しく行われていた。
母と子の話の中で口話を覚えていく。
ろう学校では手話が禁止。
手話を使うと竹のムチがふりを落とされたという。
手話を使うことは体罰を受けることだった。
イスを持ち上げて手を水平にしたままイスを持ち続ける。
軍隊さながらの体罰が、ろう学校でも行われていたのである。