教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
独自予算が持てない日本の教育行政
インクルージョンinclusion は、障害児やそうでない子ども、すべての子どもが「平等」に学べること、共に学べることと解釈している人々が多い。
だが、本当に日本ではそうなって来ているのだろうか。
教育予算が、国家・地方行政では一定の比率で決められ独立して執行される国と日本のようにその時々によって執行される場合とでは大きな違いがある。
とくに、日本では教育行政は独自予算が持てなかった。
それが、ますます強まり、国や首長の権限が一層強化されてきている今日の状況下で日本のインクルージョンinclusionを考えなければならないだろう。
インクルージョンを適切な日本語訳をしないのには訳があるように思える。
「不純物」とも解釈される意味合いがある
インクルージョン
inclusionは、もともと含有, 包含, 包括;算入;加入. 含有物などの日本語訳がされてきた。
現在広く使われている「包含」「包括」などのことばを考えれば、異なったものを「つつみこみ」「中にふくんでいる」ということになる。
包まれるのは?
包むのは?
と考えるとおのずから障害児とそうでない子どもを分離している考えに行き着くだろう。
さらに、英語のinclusionは、純粋に対する混ざり物という意味があり、インクルージョンinclusionは、教育における「不純物」とも解釈される意味合いがある。
ところが一方、スペイン語では包含的という意味合いがあり、両方のうちのどちらも認めるという意味合いもある。
英語圏だけが「国際」ではない
これらのことを述べると切りがないが、英語圏の訳や意味のみを日本に持ち込んでくるのは大きな疑問が残る。
そればかりか、国際的動向と言いながら英語圏だけの理解や取り組みを広げるのは、英語圏以外の国々を無視したことになり、あたかも英語圏の国々が先進的だと言わんばかりの様子が醸し出されるからである。
なおざりにされてはいないだろうか
日本の教育実践を他国に知らせること
インクルージョンinclusion は、障害児やそうでない子ども、すべての子どもが「平等」に学べること、共に学べることと解釈している人がいるならむしろ統合教育ということばのほうが適切ではないだろうか。
かって文部省が使っていた用語であるが。
聴覚障害教育の歴史と実践を見れば、インクルージョンinclusion を解釈するまでもなく、日本での教育発展における学ぶべき教訓が見えてくる。
日本の教育は他国から学ぶことは強調されても、日本の教育実践を他国に知らせることはなおざりにされてはいないだろうか。
教育にたずさわる人々と生徒たちの貴重な教訓が山積みにされていることを忘れてはならないだろう。
そのことを踏まえて京都ろう学校の「授業拒否事件」や幼稚部の教育・インテグレーションをもう一度考えて見る。
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