教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
本校聴覚障害教育の十数年間の実践は、よきコミュニケーションをどうつくりあげてきたか、どうつくりあげるべきか、という一側面をもっているということです。
仲間疎外とコミニケーション
人間が生存するため、空気・水・食物は不可欠なものでありますが、もう一っコミュニケーションが必要だといわれます。
人間はコミュニケーションが、はかれなくなると、仲間から疎外された感じを抱きますし、また周囲の人も離れてゆきます。
そのため激しい孤独感に襲われたりします。
よきコミュニケーションはキャッチボールのようなもの、投げ手と受け手が互いに交代する、相手の気持ちをおしはかりつつ投げあう、そこから啓発され、自己の存在が確認され、向上してまいります。
十数年の高校生活では、言語活動面での衰弱が顕著
このコミュニケーションの大半はことばによって行われます。
そして、そのことばの発達は周囲の人たちとコミュニケーションするこどができるかどうかによって、かなり左右されます。
このことは、人の出入りの少ない高層住宅で、昼間ひとりひとりの生活をするとか、過保護の家庭で、子ども自身がことばを使わなくて間に合う生活では、ことばの獲得がさまたげられてしまう、ということでよくわかります。
たえず外界と遮断されがちで、もっている能力を触発する刺戟を十分うけ入れられない聴障生にとって、最大の問題はコミュニケーションであります。
しかし、コミュニケーションの大切さは健聴生にとっても同様であります。
この十数年の高校生活では、言語活動面での衰弱が顕著でありました。
文芸・新聞、弁論・放送劇・演劇・社研・読書・詩歌・部落研・地理歴史など、ことばを駆使するクラブ活動は見る影もありません。
この衰えはクラブ活動だけでなく、高校生活全般を不健全にしているといってよいと思います。
受動的姿勢と積極的姿勢とコミニケーション
聴覚障害教育をさらにすすめるため、コミュニケーションを活性化するポイントを研究しなければなりません。
聴覚保障・学習保障・集団保障の三目標で始まった本校の聴障教育は、その後、進路保障を新しくかかげ四目標となりました。
聴障生は、ともすれば性格自己中心的、自分の世界にとじこもる傾向があり、集団行動が苦手、他の聴障生とも交際しない、健聴生の友人もっくれません。
一方、健聴生も同じ傾向があって受動的姿勢であります。
そのため、聴障生が健聴生の中へ埋没しないよう、積極的姿勢をもつよう指導をしています。
全・定(注 全日制・定時制)聴障生交流集会(合宿)、手話弁論大会・手話劇・ろう学校生や二条中難聴生との交流、とくに全・定障聴生交流学習は、本校全・定聴障生・健聴生・聴障卒業生・公・私立他高校聴障生・保護者・教職員などが参加、年々質量ともに実践がすすんでいます。
聴障生は今後、周囲の健聴生だけでなく
他の障害生徒と健聴生との交流に橋をかける役割を
本校聴障生は、健聴生と生活をともにする場が多く、自分の障害をみっめつつ、聞こえる人にも平気で話しかけてゆく力をつけており、真剣に生きようとする態度があります。
健聴生は聴障生に対し、彼らは障害はあっても、なんであんなに聞こえるんだろう、話ができるんだろう、冗談もいえるし、相談相手にもなる、同じ高校生なんだなあ、と見る部分が多くなってきています。
聴障生は今後、周囲の健聴生だけでなく、ろう学校生徒や他の障害生徒と健聴生との交流に橋をかける役割をはたす必要があります。
( つづく )
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23943792.html
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
躍起になった母の顔が ときどき怖くなって
子どものことばの発達・獲得は、生後すぐから始まり、母とのことばのやりとりで伸び てゆきます。
また、そのことが知能を伸ばす原動力となります。
しかし、聴覚に障害があれば、この世の中にさまざまな音が存在し、人間はことばをもって自ら考え、また他者にかかわっているのだということが理解できません。
「ことばの存在に気づく」
ということは、Nさんにとっても大きな山でありました。
「私に一語でも多く覚えさそうと躍起になった母の顔が、ときどき怖くなって泣き出した」
とNさんは語っています。
受動的な姿勢をかえることができず
Nさんは難聴学級があるD小学校へ入学します。
発音のまずさから健聴児に相手にされなかったり、いじめっ子がおったりして、健聴児に対し不信感を抱き、消極的な生活におち入ったりします。
人はみな自分の発音のよし悪しを自分の耳で聞きわけ、声の高さ・抑揚・音色・息っぎなどを調節します。
ところがNさんは、自分の声を自分の耳で確めるすべをもちません。
NさんはN中学校へ入学します。
そこで生き方のしっかりした先輩に出会い、耳が聞こえないということにっいて話し合う機会をもちます。
しかし、
「自分では何もしないで、健聴者よ、私らをもっと理解してほしい」
という、受動的な姿勢をかえることができず、障害者だけが集まってしまいます。
ろう学校はとても良い点はあるが……
高校受験期を迎えます。
ろう学校はとても良い点はあるが、健聴者にコンプレックスをもっ、自分の消極的な性格を克服するのには不向きでなかろうか。
だからといって健聴者だけの集団の中では、障害認識が希薄となって、自分の障害をかくそうということになるのでないだろうか。
聴能検査室・訓練室などの施設設備や、集団補聴器などの備品が充実しており、健聴者たちと授業が受けられ、他方、聴障者たちとも交流しあえる、山城高校へ入学するのが一番適切だと考えます。
そして毎日2時間余りかけての通学が始まります。
つくり笑い そのつど底知れないさびしさ
不安だったのは友人のことでした。
健聴生は、Nさんと話そうと心で考えても、話題が 浮かばないので控え目になり、Nさんは、
「私のことおもしろくないと思ってるんだろうなあ」
と考えこむ。
やっと友人ができても一対一で話すとき十分意志が通じるが、何人か集まって話がはずむと、しだいに内容が掌握できなくなる、隣の人にきくと、話の流れが中断してしらけてしまう、そのためだんだん遠慮して寡黙、冗談でみなが笑うと、それにあわせてつくり笑い、そのつど底知れないさびしさに襲われたそうです。
私たちが悩んでいる複雑な問題の解決方法を、高速度写真を見ているように明確にしてくれることがある
しかし、友人や先生、両親に励まされ、手話部部長として活躍、大学に進学します。
現在、地域のボランティア活動に多忙だとのことです。
これはNさん個人の生育歴でありますが、Nさん親子の葛藤の記録でもあります。
しかし、Nさんだけのことでなく、聴覚障害者とその家族すべてに共通するさまざまな問題点を明らかにしています。
そして聴覚障害者に限定された問題でなくて、健聴生にも深くかかわり合っていることがわかります。
耳が普通に聞こえるとき、その子どもたちがもっ多様なつまずきが、表面化しないで深くひそんでいることがあります。
そのため、時として私たちはそれに気づかないことがおこります。
中途退学・登校拒否・家庭内暴力・劣等感・いじめ・学力不振・教師不振・孤独・粗暴行為・無気力など多くの課題があります。
しかもその解決は困難であり混迷しているのが現状です。
聴覚障害教育は、私たちが悩んでいる複雑な問題の解決方法を、高速度写真を見ているように明確にしてくれることがあります。
聴覚障害教育をしつかりみっめることで、打解の緒を手繰りよせることができるのでないでしょうか。
( つづく )
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23749504.html
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
弁論、手話弁論大会にしたら、と言った校長は、その後以下のようなことを書きあきらかにしている。
長文になるので分割して掲載したい。
地域の人たちの願いと、教職員の努力
それらを支えた行政の力によって
京都の障害児教育は はじまった
京都は聴覚障害教育の実践で全国に先がけています。
すぐれた教育者古川太四郎先生をはじめとする、多くの先覚者の情熱と実践によって、植村京都府知事は明治11年「京都府立盲唖院」を開設します。日本ではじめての盲ろう学校でした。中京区御池通東洞院上ル船屋町で盲生17名、聾唖生31名によって出発します。
障害児や地域の人たちの願いと、教職員の努力、それらを支えた行政の力によって開かれました。
教育理論の発展や実践の充実・電気工学
の進歩による普通校での教育
昭和41年京都市ならびに市教育委員会は、出水小学校に難聴学級を設立しました。昭和43年には、この学校の卒業生やろう学校からの生徒を含めて、二条中学校に難聴学級のクラスができ、聴覚障害児は一般小・中学校でも、教育を受けることができるようになりました。
これは教育理論の発展や実践の充実・電気工学の進歩によるところ、大きいものがあり、画期的なことであります。
当時中学校の難聴学級は東京・大阪・岡山など各1校くらいしかない状態でした。
二条中学校からの卒業生8名は、全員高校進学を希望し、「難聴学級親の会」を中心とする多くの人から、高校にも難聴学級をという要望が、府議会・府教育委員会に出されました。
府・教育委員会は、教育の機会均等、発達を保障する施策として、昭和46年から山城高校に聴覚障害生徒を受け入れることを決めました。
46年度には全日制2名・定時制6名が入学し、全日制に専任講師、定時制に専任教諭各1名ずっ配置されました。
このことは、全国の人たちに大きな希望をもたらしたといえましょう。
活発な論議と熱心な学習による第一歩
それから14年の歳月が経過しました。
普通高校で制度的に聴覚障害生徒の教育を保障することが認められ、教育条件が整備されているのは、全国で本校のみであります。
10数年前、本校教職員の大部分は、聴覚障害に関する知識が十分でなく、また聴覚障害者と日常ふれあうことも少なかったことでしょう。
そのなかで、同生徒をうけ入れ教育をしてゆくことは、大変なことであったと推測されます。
活発な論議と熱心な学習を通して、はじめての教育に第一歩を踏み出しました。
当時の教職員の高驀な精神とエネルギーに深い敬意を払いたいと思います。
今日まで多くの卒業生を出しました。
この間、教職員は未知の領域で多くの実践をつみ重ね、行政当局の援助により、全・定とも各2名加配教員が配置され、施設設備・備品も年々充実・大きな成果を結実させてまいりました。
教育にすべてをかけた親子の苦闘
卒業生のなかにNさんがおります。
Nさんは、1歳半ばごろ足に大火傷で危篤、治療のため抗生物質を大量注射して生命をっなぐが、その副作用で耳が聞こえなくなりました。
音やことばに反応を示さないことに気付いた両親は、傑然として病院回りを始めます。
「耳を治すのは毒きらめなさい、言語取得の早期訓練が必要」
という医師の宣告をうけます。
そのときの両親の深い悲しみは、当事者にしか解るものではありません。
自宅が遠隔地のため、母は2歳半のNさんとろう学校の近くに下宿をし、同校幼稚部の門をくぐります。
子どもがろう学校で先生の指導をうけるのを母親が覚えて、帰宅後復習を続けます。
教育にすべてをかけた親子の苦闘が始まったといえましょう。
( つづく )
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23685537.html
山城高校 手話弁論大会の与えた影響
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
すべての生徒も顔を見合って話が出来る教室
山城高校の手話弁論大会は、100人は入れる特別教室になっていた。
緩やかなスロープの階段教室で後ろからでも下方を見えるようになっていた。
このような、教室は山城高校の聴覚障害教育がはじまって以来の念願だったが、別の意味で作られていた。
ギリシア、ローマの遺跡に見られる馬蹄形の階段状の建物は、各々の顔が見られるとともに音響も考えてあり、ひとりの人が話しても遠くの人まで聞こえるようになっていた。
聴覚障害生徒だけでなく、すべての生徒も顔を見合って話が出来る教室。これをもとめていたが、通常の教室以上の莫大な費用と面積ががかかると言うことで却下されていた。
「うんうん」「なるほど」「そうそう」
参加者や教師たちは、弁論の生徒の顔が見える、話がよく聞こえる、小さな舞台にもなる、スクリーンやボードのあるこの教室を日曜日に借りて弁論大会を開いた。
そして、各方面に生徒たちが手づくりで案内を出した。
今日ほど、手話が広がっていない時代の取り組みで参加者は教室の半分にも満たなかったが、聴覚障害生徒も、健聴生徒も必死になって弁論した。
生徒たちは、弁論に必死で参加者のようすを見ているようすはなかったけれど、みんながうなずいてくれていることだけは、解ったと喜んでいた。
参加者のようすを見ていると特に、ろうあ者の反応が強かった。
「うんうん」「なるほど」「そうそう」と「相づち」うっていた。
休憩に入って、弁論の文章を印刷されたものが配られたが、みんなは読むと言うより、「なるほどなあ、こういう風に手話で表現出来るのか」という関心がつよかった。
高校には入れるから悩みはないと思っていたけれど
休憩後、参加者からの意見が次々出された。
「手話で、ここまで表現出来るとは思わなかった。本当にみんなよくやった」
と聴覚障害生徒のお父さん。
「高校には入れるから悩みはないと思っていたけれど、やっぱり私たちと同じ悩みがあるのね。よかった。よかった。」
「手話が私たちより上手なので驚いた。すごい。すごい。」
「高校で手話を勉強してくれるなんてうれしい」。
ろうあ者から次々と意見が出て、それまで難聴教育などという名称だけにこだわっていた父母の気持ちを溶かしはじめたようだった。
心が通じあうということはこんなに大きな喜びとなるのか
何よりも喜んだのは、参加した健聴生徒や聴覚障害生徒で、心が通じあうということはこんなに大きな喜びとなるのか。
伝わらないという気持ちだったけれど、伝わったんだ、と大喜びした。
ある聴覚障害生徒は、卒業前に次のような文章を後輩たちに残していった。
手話を初めて知ったのは、小学六年の僕が絵画の勉強をしに聴覚障害者のT先生と出会った時でした。
T先生が、「君、手話を知っているか。」と手話で、僕にたずねました。
T先生やその他の難聴の人のために、僕は手話で話さなければならないので、手話を学ぼうと決心しました。
そのために山城高にある手話部で僕は少し体験してみました。
この部員達は全部女の健聴生で、手話の単語を覚えたり、歌を手話で歌ったりするなど熱心な人々でした。
僕は簡単な手話から学んでいくにつれておもしろさや楽しさを味わうようになりました。
そして、山城高校の第一回手話弁論大会に参加し、努力賞をもらい、続いて翌年見事に優秀賞を獲得してしまいました。
僕は手話は、体や顔の動きによって伝達する事でなく、気持ちで伝達する事だと考えました。
または、"真の手話"で伝達することも大事だと思います。
僕は"気持ちで伝達する""真の手話"を学んで、将来は,コミュニケーションの役に立てたいと思っています。
このような反響を与えて行ったが、手話弁論大会には、第1回からろう学校・ろう学校高等部生徒会宛に案内を出しているにもかかわらず参加はなかった。
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23646984.html
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
もうあかん、出来ヘン 勘弁して
もうあかん、出来ヘン。
勘弁して。
弁論大会直前に今にも泣きそうにしてやってきた聴覚障害生徒がいた。
「 虐げられてきたことの連帯と共感が笑いに変化の笑い」
の中で文章を書き上げた生徒だった。
参照
Google
http://kyoikkagaku.blogspot.jp/2012/12/blog-post_24.html
何度も何度も練習したが、どうしても手指がうまく動かせない。
自分には表情がない。いつもと同じ顔。
これでは、参加したみなさんに申し訳ない、とただただうな垂れた。
異なった表情が出来ない
その時の気持ちが表情に表せない
僕は、N中学、山城高校での経験を通して、思った事を話したいと思います。
N中学校に入学した当時、僕は友達作りを頑張ろうと思いました。
しかし、2学期、3学期と月日が流れていくにつれて、その意欲を失っていきました。
の「意欲を失って」が出来ない。
例えば、机をゆさぶられて中の物を出されたり殴られたり、僕はとても苦しい思いをしました。
の「僕はとても苦しい思い」が出来ない。
相手はちょっとしたからかいのつもりでも、いじめられた方は傷ついてしまうのです。
の「いじめられた方は傷ついてしまう」
たとえば、僕は『7』の発音が苦手です。
『7』」を発音するのに苦しむ僕をからかって楽しむ生徒もいました。
そのたあ、この交流が終わっても何も学べないまま暗い気持ちで難聴学級に戻りました。
の「何も学べないまま暗い気持ち」が出来ない。
微妙なこころの変化を幾度も練習したが
僕が山城高校に入学した理由は、聴障生に対する配慮があったからで、また聴障生の先輩がいたからです。
そして、今度こそ僕は、本当の友人を作りたかったからでもあるのです。
の「今度こそ僕は、本当の友人を作りたかった」が出来ない。
そんな時でも僕を理解してくれる人が現われた時は本当に嬉しかったです。
の「本当に嬉しかった」が出来ない。
しかし、山城高校に入学して、聴障生の先輩の影響を受けたり、健聴生の友人作りに努める中で僕は、そのことに気づくことが出来たのです。
の「気づくことが出来た」が出来ない。
ということだった。
自分には表情は、現すことは出来ないと思い込んでいた
そこで、もう一度その部分の手話と表情をやってみてもらうと、最初の頃から天と地の違いがある表情は豊かになっていた。
「よく出来ている、その手話表現ならみんなに伝わると思う」
と言うと、
「本当。無表情だ、とばかり言われてきたので自分には表情は、現すことは出来ないと思い込んでいたけれど。」
「その時の気持ちを思いだして表現すれば必ず参加者に伝わるよ」
「いいの、いいの、もっとちゃんとしなければ……」
手話には、表現が大切と聞いて、鏡に向かって自分の表情を見たけれど少しも変わっていない。
顔を引っ張ったり、つねったりしたけれど「同じ顔」に見える。
落ち込み、落ち込み、考えた末の相談だった。
コミニケーションの本質をとらえていく生徒たち
手話は、手指の動きだけでコミニケーションするのではない。
それは、手話だけではないあらゆるコミニケーションがそうだ、と知って、自分の「不得意」を乗り越えなければ、苦労に苦労を重ねて参加するみなさんに失礼になる。
そういう実直な思いから、練習を重ねたけれど、どうもうまくいかない。
他の生徒を見ていると、どんどん表情が豊かになる、それ比べて……と沈んだ気持ちを吐露すること事態大きな変化だった。
このようなエピソードが数え切れないほど産まれ、手話弁論大会をむかえた。
彼の手話弁論は、真に迫るものがあり、ろうあ者はウンウンとうなずき、健聴者の中には涙を流す人もいるほどだった。
弁論が終わると大きな拍手が送られ、彼はうるうるした。
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23549300.html
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
先生どうやった 何言われたん 大丈夫か
校長と話が終わって、聴覚障害指導室に戻るとなぜ知ったのか解らないが、生徒たちが全員集まって、
「先生どうやった」「何言われたん」「大丈夫か」
などと聞いてきた。
そこで、校長と話し合った結論だけを生徒たちに伝えた。
手話弁論大会で、生徒の弁論が終わって休憩をとる。
その時、生徒の弁論のすべてを前もって印刷しておいて、休憩の時に配る。
そのあと、参加者の人から意見を聞くというのはどうだろうか、という提案だった。
ちょっとしたしぐさで
「意味合いが違うこと」をもっと具体的に
「うんいい」「いいわ。でも、聞こえる人にも聞こえない人にも、弁論の時、きちんと話が伝わるようにもっと練習するわ。」
「先生の話を聞いていたら手話には、いろいろな表現や少しした手指の動きで意味合いが違うし、ろうあ者の人もいろいろな手話表現をするって聞いた。その表現を出来るだけ取り入れたい。」
「僕は、なにぬねのがうまく発言できなくて、いじめられてきた。聞こえる人にもなにぬねのなどの言葉が、例え十分でなくても聞き取れるように練習するわ。」
などの意見が次々飛び出した。特に、ちょっとしたしぐさで「意味合いが違うこと」をもっと具体的に教えて欲しい、と言う意見がぞくぞく飛び出した。
僕と交際してください と言った時の答え
そこで、一番恥ずかしがり屋のK君に「僕と交際してください」と女の子に言ってそれに対するさまざまな答え方を連取することになった。
K君は、頭をかいて「こんなことよういわんわ」「恥ずかしい」と言っていたが、ボソボソっと「僕と交際してください」と手話で話しかけてきた。
「え、なに?K君なにを言っているの」
「あのー、あのー、僕はあなたのことが好きです、つきあってもらえませんか。」
K君がそこまで言い出したのでみんなびっくり。
「いいわよ」(京都では、小指をあごの下にあてる。)
「いいわよ~」(身体を少しひねって小指を少し斜めにしてあごにあて笑顔)
「いいわ」(無表情)
「考えるわ」(にこやかに)
(無表情)
(いやそうな顔)
「つき合っている人がいるの。ごめんね」
などなど、を表現してみると恥ずかしがり屋のK君は、最後の「つき合っている人がいるの。ごめんね」のところでは、ひっくり返るしぐさをしたのでみんな大爆笑。
逆に子どもから何度も聞かれることはなかった
それから、弁論大会に向けてさらに必死の練習がはじまり、これがいいかな、この表情がいいかな、ボードを置いて字を書いて説明しようかなあ、などの意見が、さまざま飛び出し生徒同士の相談はますますエスカレートしていった。
この間、あるお母さんから連絡があった。
「山城高校に入学して、手話を学ぶと聞いたときはびっくりしました。他の普通高校に通っている聴覚障害のお母さんから、手話をするならろう学校と同じではないの、と嫌みを言われて悩んでいたんですけれど。
子どもが帰ってきて、原稿を読んで、お母さんこの言葉で聞き取れるか正直に言って欲しい、と何度も言うのにはびっくりしました。
お父さんにも、兄弟にも何度も何度も聞くんです。そして、こう言うの、と言うと必死にくり返して連取していました。
いままで、これはこのように言いなさい、そんな発音はだめです、と子どもに何度も行ったことはあっても、逆に子どもから何度も聞かれることはなかったので驚きました。
手話をすると発声しなくなるって言われていたけれど、それは子どもが言いたいこと、伝えたいことを受けとめてないからそう信じてしまっていたのですね。
今度の手話弁論大会には、家族中みんなで行きます。」
反対のための反対を乗り越えて
聴覚障害生徒を受け入れるのを未だ快く思っていない一部の先生が、少し話したことでも、多く話したことでも、すて理解されるという考え方を強く言い出し、何とか問題を出そうとする動きであったことは校長との話で承知していたが、生徒たちにそのことを言わなかった。
でも、生徒たちは、うすうす知っていたようであった。
人の話というのは、後で考えてみると様々に理解されてる場合がある。
みんなが同じように理解していると思っていると、バラバラに理解していることが多い。
また、聞いた話をもう一度みんなで文章に書いてみると、自分の範囲の中でしか聞いて、理解していなかったことが解る。
話し言葉というのは、そのような側面も持っているのである。
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ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
偏見を逆に参加した人に与える
オーバーヘッドプロジェクターを付けると言いだした教師の言い分は、
「手話も知らない聞こえる人が参加して聴覚障害生徒の言葉が充分聞きとれなかったら、誤解される心配がある。偏見を逆に参加した人に与えるのではないか。」
という考えだった。
さらに同様な理由から
「手話で話す聴覚障害の人が来たら、生徒の手話がわからないため、偏見や誤解を与える。」そのため手話通訳をつけるべきである」
という話まで出てきた。
一度聞いたからすてわかるわけでは無い
人は間違ったり誤解したりする
だからコミュニケーションが必要
参加する生徒に、オーバーヘッドプロジェクターと手話通訳のことを提起したら、ぞくぞくと意見が飛び出した。
「参加者する人たちに誤解がないように、間違って理解しないように、正しく理解するようにしておかなければならないなどの考え方が先生にあるのやろう。」
「だから、そういうことがおこらないようにあらかじめ準備をしておく必要がある、ということが先生の意見の底にあるのではないか。」
「よくアッセンブリーで人権のこととりあげ学習がある。
自分も聴覚障害生徒として全校生徒の前で話したことがあるが、よく解った、大変だっただろうという意見ばかり。僕達だって悪いことしているのはしょっちゅうあるのにそのことへの意見や批判がない。
僕も他の人権学習会に参加して、疑問に思ったり、解らないこともあった。
その時、疑問に思うことや意見は書きにくい雰囲気で、なにかわかった、理解したことを書かなくてはいけない、ようになってしまう。」
「授業で先生たちが言ってることが、その場ですぐ理解できる訳では無い。全く理解できないのに、先生は授業をどんどんすすめていくことが多い。」
「一度聞いたから、すてわかるわけでは無い。人は、間違ったり誤解したりする。だから、コミュニケーションが必要なのではないの」
と言うが生徒たちの意見であった。
誤解や理解の不十分さがあったとしても
それはコミュニケーションによって補うことができる
「手話弁論大会では弁論の後に、参加者からの感想や意見を求める時間がつくってある。
自分たちの弁論が不十分であると思うけれど。それは参加したひとから指摘していただいて受け止めていくべきではないだろうか。
言ったことが、全て理解できる。そういう事は本当にあるのだろうか。自分たちをいつもそういうことを求められてきた。」
「誤解や理解の不十分さがあったとしても、それはコミュニケーションによって補うことができるはずだ。そのために、一方的に話をするんではなくて参加者からの意見を聞いて応答する、話合う。その中で、不十分さがあったこともわかってくると思う。」
「今まで自分だけが育ってきた中で、思い込んでいたことや、誤解していたことがたくさんある。それらの事を何年もかかって理解できてきたことがある。
人間は、いちど聞いただけですてを理解できる人は少ないのではないのではないだろうか。だから、コミュニケーションが必要なのだ。」
「人の話聞いて、どのように受け止めるかは、人は、それぞれ受けとめる場合が多い。いちど聞いた話を、全員が同じように理解すること自身がおかしいのではないだろうか。」
一生懸命話をしているのに
自分たちの手話が見られないということになって
「オーバーヘッドプロジェクタをつけると、参加者の目は字幕のほうに目がいって、弁論をしている生徒たちのほうに目がいかない。
日頃、向かい合って話すとか、目を合わせて話をするとか、言っているにもかかわらず一生懸命話をしている自分たちに目が行かないで、オーバーヘッドプロジェクタに目が行くのは納得がいかない。」
「さらに、手話通訳をつけるなら、参加した手話の分かる人達の目が、手話通訳の方ばかりに目がいく。
そうなると、せっかく自分たちが手話で一生懸命話をしているのに自分たちの手話が見られないということになってしまう。
それは、一生懸命手話で話をしている自分たちに対する無理解につながっていくのではないだろうか。」
「誤解がないように、理解が深まるように、と言いながら結局、手話弁論大会に参加している生徒たちが、理解するようなことをしていない、という考えがあるのではないの」
「いろいろ考えても、先生の言っていることは矛盾する。だからどうしても、納得できない。」
聴覚障害生徒同士の中でも
誤解や行き違いや対立があった
特に聴覚障害生徒から「目線の方向」について強い意見が出された。
「授業の中でも、先生たちに時々でもいいから、私たちの方を向いて、話をしてほしいといっているにもかかわらず、私たちが話をするときは、他の人たちに目線が行くのにするというのは矛盾する。」
「お互いの理解というのは、そう簡単に理解できるものでは無い。
聴覚障害生徒同士の中でも、誤解や行き違いや対立があった。そういう中で、話し合いすることを覚えて、努力した。その中で誤解や理解や連帯が生まれてきている。
自分たちの手話弁論大会の話は不十分かもしれないが、その不十分なことも見てほしい。そして、不十分である事を指摘してもらってお互いに学びやっていくことが1番大切なのではないだろうか。」
心配した校長は 聴覚障害教育担当の教師を呼んだ
このような生徒の意見に対して、一部の先生は、予断や偏見や差別意識が広がるから、生徒の言い分にたいしてどうしても譲ことができないと言い続けた。
手話弁論大会が最終段階にはいりかけた時、大会が開けるかどうかというところまで話は進展して行った。
心配した校長は、聴覚障害教育担当の教師を呼び、相談した。
なんとか解決策は無いだろうか。
校長としては、手話弁論大会をなんとか成功させたいと思っていたようであった。
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23166372.html
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
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その子が置かれてきた環境、コミニケーションの獲得状況などとともにその子の特性を把握し
それをともに引き出しつつ学ぶ
文章と手話、音声言語と手話は異質のものであるとか、対立するものであるとか、日本語と違うが言語であるとかの意見が横行しているが、それは拙速ではないかと思う、と書いた。
でもそれぞれの特性もある。
そのことをどのように教えるのかと言うことは、非常に大事なことで困難なことであった。
手話通訳資格を持ったら手話を教えられるという問題ではない。
教育を一方的に教える場合は、そのことをするのは可能だろう。
だが、その子が置かれてきた環境、コミニケーションの獲得状況などとともにその子の特性を把握し、それをともに引き出しつつ学んでいく。
とくに、生徒同士の教え合い、学び合いは急速に学習する広さと次の次元への移行を促進する。
ろうあ者の手話表現は多彩でその手話の配列は
音声言語や文字とは異なった部分があるけれど
急激に教えるのではなく
そのため手話弁論大会に向けて、
① いろいろなコミニケーション手段があるが、手話のそのひとつであること。
手話だけですべてのコミニケーションが成立するものでもないし、口話も聴能もそうである。
自分の表現しやすいもの、相手とコミニケーションとれる方法を身につけること。
② 自分が学んだことや「知った」ことを「秘密にしない」でお互い交流し合いながらともに学び、ともにすすんでいくようにすること。
③ 京都のろうあ者の手話表現は多彩でその手話の配列は、音声言語や文字とは異なった部分があるけれど、それは急激に教えるのではなく徐々に教えて行くがそれをすべての生徒の到達点としないで今後社会がより多く手話を獲得していけるような基礎条件をつくること。
を目安にした。
「弁論通信」の作成とその影響
そのため、参加者全員で集まって相談することもあるが、個別指導をして手話弁論大会に参加した。
個別指導は、生徒に無理強いしなかったが、次々と申し出があり、生徒たちも次第に熱を帯びて来た。
ひとりの生徒の個別指導に1時間を費やすことはざらだった。
そこで、本人の復習のためや他の生徒の学習のために「弁論通信」を発行し、生徒ひとりひとりのいいたい内容を本人はどのように思っているのか、その場合どのように手話表現すればいいのか、と生徒と一致した範囲で記録し、全員に配布した。
後にあるお母さんから
「家に帰って、弁論通信を見て必死になってん食事を忘れるぐらい練習していました。
自分の言いたいことや要求を言えることに子どもは水を得た魚のようにすすんでいくのを見て、自分が子どもにしてきたことで複雑な気持ちになりましたが、お母さん楽しいねん、と言われて目が覚めた気持ちになりました。」
と言われた。
字幕をつけた手話弁論大会は
必要か用か否かの激論の始まり
弁論大会がちかずいてきた頃、教師の中で生徒が発表する中味がろうあ者や手話の知らない人にわからないから、前もってオーバーヘッドを準備して、生徒の話に追うして文字を台の裏のスクリーンに写すべきだ、という意見が出てきた。
これに対して、聴覚障害生徒と健聴生徒も猛反対しだした。
そして、一歩も妥協することはなかった。
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23064637.html