Once upon a time 1969
初夏を迎えた京都。
Dさんとろうあ者代表4人、そして手話通訳者が集まり「守る会の結成」についての話し合いがもたれた。
3つの守る会の基本
Dさんのことだけではなく、働く人々すべてのことを考えてみよう。
第1組合のDさんを守ることだけ考えるのではなく、第二組合に行ったろうあ者2人のことを含め て考えよう。
ろうあ者が、働くことでもつ困難な問題を広く働く人々全体に知ってもらおう。
このようなことが、すんなりまとまった。
そして、この3つのことを守る会の基本にすえて取り組みを進めようと言うことになった。
この気持ちと方向を何よりも心を砕いてくれていた第1組合の人に伝えておかなければ、たとえ反対されても、と言うことになった。
少しうろたえながら ろうあ協会代表は
第1組合の全員集会。
ろうあ協会代表は、おそるおそる手話で3つの基本方向を話をした。
第二組合のことを考えるなんて……という反対意見や罵声が飛ぶかもしてないと考えて……
手話通訳者は、ろうあ協会代表の少しうろたえながらの話通り手話通訳した。息遣いもふくめて……
重要な時だった。
と、突然、第1組合の人々が全員拍手をしつづけた。
そして、感激してDさんに飛びついてくる人もいた。
鳴り響く拍手の中での仲間から飛び交う声援
「Dさん。今まで同じ職場で、同じ仕事をして働いていて、どれだけDさんと話したかったことか。」
「話合いたかったんや……」
「あなたの気持ちが、今、初めてわかった。ごめんなぁ」
「苦しくても、苦しくても、がんばろうなぁ」
鳴り響く拍手の中での仲間からの声援。
Dさんも感極まるばかりだった。
第二組合のろうあ者のことも考えてと言う話に反対するする人は誰もいず、みんなうなずき、「そうだ」「そのとうり」「そうしようなぁ」の声援が飛び交った。
ろうあ協会の話を真剣に聞いてくれた
第1組合は新しい方向を打ち出したが
その後、ろうあ協会の話を真剣に聞いてくれた第1組合の人々は、たしかに第二組合に走った人々の気持ちを充分考え切れていなかったとそれまでの方向を大きく変えていくことになったことをあとで知った。
でも、第1組合からの脱退者は次から次へと続き、Dさんと一番親しかった第1組合の役員まで第二組合に入るまでになった。
「あの人たちまでが、第1組合を辞めるならDさんも辞めても仕方がないなぁ」
と言う話がDさんに伝わり、感激に浸っていたDさんをどん底に陥れた。
「働くろうあ者を守る会」の結成
守る会結成準備会は緊急の集まりを開いて、
1,たとえDさんがもう一度第二組合に入ってもみんなの期待を裏切ったと言うことではない。
2,DさんもみんなもA鉄工所で働きたいという気持ちは一緒なのだ。
3,第1組合、第二組合にろうあ者がいたとしても、守る会を結成することは何らかわらない。
ことを確認した。
Dさんは、それでもすまなそうにしながら第二組合に入った。
1969年7月12日。
すでに先駆的経験を持っていた大阪の働くろうあ者の熱烈な連帯のもとに、京都で「働くろうあ者を守る会」が結成された。
Once upon a time 1969
京都市内。
といっても非常に広い。左京区や北区は山林がほとんど、というような時期だった。
そして、春先からじめじめとした梅雨の時期に入った頃、Dさんは第1組合に脱退届けを出して、第二組合に入り、7月1日からA鉄工所で就労することになった。
ろうあ者の中には、Dさんの気持ちはわかるとしながらも、会社の誘惑に負けず第1組合に留まってほしいという気持ちもあった。
労働組合だけの言葉だけではない 団結と統一
ろうあ者も障害者も働く人々と手をつなぎ、働くことを守る運動に参加するという毅然とした気持ちを多くの働く人々に知ってほしい、という気持ち。
団結と統一。
それは、労働組合だけの言葉だけではなく、障害者もそうなんだ、そんな取り組みをしているんだ、という気持ち。
第二組合に入るということは、ろうあ者全員が「負けた」となってしまうという気持ち。
そうは言っても、そうはならない、ジレンマ。
明け方を迎える辛い説得
Dさんの家は、東京日本橋からはじまった東海道が京の三条大橋につく、すぐ近くの旧東海道の街道脇にあった。
だが、大通りの裏側であったため人通りは少なかったが、少なくないろうあ者がDさん宅を訪れ、何とか第1組合に残れないか、と説得した。
Dさんにとってそれは、最も辛いことであったが、気持ちは変わらないと訪れたろうあ者にひっそり言った。
その説得は、明け方まで続いた。
説得するろうあ者もDさんも不眠不休の日々だったとも言える。
もう一度 第1組合に踏みとどまってみよう
ろうあ者の代表が、第1組合の委員長に会いDさんの心情も、ろうあ者の心情も伝えた。
委員長と数度話し合う中で、Dさんの経済状況に対して第1労組から一時金を貸すという条件が出された。
喜んだ、ろうあ者代表はすぐDさんにそのことを伝えた。
Dさんは、考えあぐねた結果、もう一度、第1組合に踏みとどまってみようと言うようになった。
だが、ろうあ協会やDさんたちを支援する人たちからは、揺れ動く状況の変化に振り回されている。
その度、みんなが集まってそう相談を繰り返すだけではダメではないか。
いつも、働くろうあ者を支援する組織、守る会を作らなければ、その度、その度の対策で終わってしまうという考えが固まっていった。
Once upon a time 1969
ろうあ協会とともに手話サークルみみずく会手話通訳団(手話通訳会議)は、会議を開き、A鉄工所のろうあ者の手話通訳保障と手話通訳方法を相談した。
当時、手話通訳者は、非常に少なく、また手話通訳の内容も単純でなかった。
ろうあ者になじみのない労働組合用語。
24時間体制の手話通訳保障。
手話通訳者は、ろうあ者を説得しろという動き。
小競り合いどころか、暴力がふるわれそうになる危険。
手話通訳者の負担と役割はますます重くなっていった。
特に、深夜から明け方にかけての手話通訳は、手話通訳者を疲労困憊の状況に追い込んだ。
ろうあ者の権利を 人間として生きる権利の中で
だが、ろうあ協会も手話通訳者会議も共通して考えで一致していた、
Dさんが、第1組合にのここるのがいいのか。
第二組合に行くのがいいのか。
そのような問題ではない。
Dさんだけでなく、ろうあ者の権利を、人間として生きる権利をどのように守っていくのか。
もう許してはならない 奴隷状態の労働を
それまでの、
働かせてやっているだけでもありがたいと思え。
給料が出ているだけでもありがたいと思え。
住む家がないからということで会社の寮に入れても、仕事が終わって会社の寮の掃除、管理までさせられる。
文句の一つも言えない状況。
いくらでもある。数え切れないほどある。
さらに重複障害のあるろうあ者の労働は、あまりにもひどく奴隷状態と言っていいような状況だった。
北海道、札幌の食堂で働いていた知的障害者
4人の裁判は 40年以上前と同じだった
2008年2月、マスコミは、北海道、札幌の食堂で働いていた知的障害者4人が、長年にわたり給与と障害者年金を食堂経営者らに詐取されたとして、食堂を経営する札幌の会社などを相手取り、約四千五百万円の損害賠償を求める訴えを十三日、札幌地裁に起こしたことなどを報道した。
報道の一部を紹介すると、
被害者は女性3人と男性1人。
食堂に住み込みで16年から最長は30年近く働いていたが、その「実態」を聞くと奴隷さながらだ。
朝7時から12時間以上、遅くは午後10時まで働いていたが、食事は昼夜を問わず厨房で立ったまま。
男性はなぜか、夕食なしだったという。
仕事が遅かったりうまくできなかったりすると、厨房のなかで罵詈雑言。
トイレに行くだけでも、経営者に怒られていたという。
しかも、休日は月に2日だけ。
給料はゼロ。
もらえるのは月2回の銭湯代390円だけ。
女性3人は銭湯でも1人だけは湯に入らず、浮いた390円で3人分のジュースを買って飲んでいたという。
おまけに障害者年金は、それぞれの通帳に振り込まれたものを、経営者が勝手に引き出して食堂経営資金にしていた。
「4人とも手足のあかぎれは最悪の状態で、やせていた」
と弁護士はいうが、みのならずとも
「明治時代じゃあるまいし」
と思うような話だ。
が、経営者は弁護士に
「この子らの面倒を見てやってる。何も悪いことはしてない。ただ、年金は使わせてもらった。給料は払ってない」
といっている。
働くろうあ者を守る会をつくらないと
状況は改善されない、という声が
この報道を知った時、A鉄工所問題時代やそれ以前にタイムスリップしたような哀しい思いをした。
仕事で、殴る、蹴る、縛られる。
残念ながら、「働かせてやっているから」がすべての切り札だった。
その切り札で、人間として許されないことなされていたことがあまりにも多すぎた。
障害者の労働実態をいやと言うほど知っていたろうあ協会や手話通訳者から、
「やっぱり、働くろうあ者を守る会をつくらないと状況は改善されない。」
という意見が出た。
Once upon a time 1969
Dさんの状況。
Dさんの迷い。
Dさんの苦悩。
ろうあ協会はすぐ理事会を開いた。
A鉄工所は、A鉄鉄工所で働くろうあ者だけの問題ではない。
みんなの問題である。
みんなが考えつくあらゆる方法を考えて、あらゆる援助をしよう。
働くろうあ者全体の問題である
Dさんの問題は、働くろうあ者全体の問題である。
このことを放っておいては、働くろうあ者の悲惨な労働から抜け出すことは出来ない。
労働組合なんて、何にもないし、それが働くろうあ者とどのような関係があるかわからなかったけれど、Dさんの話を聞いてよく解った。
ろうあ者の悲惨な労働から一歩も、二歩も抜け出だそう
Dさんを支援すること、Dさんの問題が少しでも解決することは、ろうあ者の悲惨な労働から一歩も、二歩も抜け出ることになるのだ。
黙っていては、なにも解決しない。
それどころか、ますます悪い労働をさせられる。
労働組合が闘う、ってわからないけれど、なにも悪いことしていないろうあ者がなぜ苦しまなければならないのか。
Dさんを支援しよう。
それは、今まで虐げられてきたろうあ者の新しい道を作ることになるのだ。
捨て身の決意 悲惨な決意から次の新しい方向
ろうあ者が置かれていた労働条件、がまんがまんの仕事、おかしいおかしいという仕事、聞こえる人は給料が上がるのに、いつまでたっても同じ給料。
あとから来た人がもらえる給料がろうあ者より高くなる。
おかしいです、と書いて社長に出したら首。
ろうあ者が抱えて矛盾がひっきょに爆破して、次から次へと発言が出て留まることはなかった。
障害があるから、聞こえないから、がまん、がまん
しんぼう、しんぼう、
このことに対する疑問を行動で示し、改善しよう。
捨て身の決意。
悲惨な決意から、次の新しい方向。
新しい改善を、絶対つくろうというろうあ協会の決意は固まるばかりだった。
Once upon a time 1969
私たちはこの頃、Dさんだけが第1組合に残った頃。
誤解なく 事実を 今書けば
会社側からのいわゆる「切り崩し」があったことは知っていたが、まさか、ろう学校の先生たちが会社と連絡を取り、ろうあ者の家族に
「会社とトラブルを起こしたら、会社に首にさせられる。」
「ろう学校が、せっかく職場開拓してきたのに卒業生が就職の道が閉ざされる。」
「他より高い給料をもらえているA鉄工所のようなところはない。」
など、さかんにろうあ者の家族を説得して、会社に楯突いてはいけない、従うように、言うこと聞いて働かしてもらわないと、と言っていたとは夢だに思いもしなかった。
今、手話を学ぶ人々が京都のあるろう学校の先生を高く評価しているが、その先生も親を説得していたひとりだった。
ろう学校の枠に縛られる
それを解き放つ取り組みとは知らないで
ろう学校の教師が、就職できるようににしてやった。
就職できる会社を増やしたのに、A鉄工所のろうあ協会の動きはそれを潰すものだ、という深い怒りがあったのである。
卒業しても、ろう学校の枠に縛られる。
それを解き放つ取り組みがA鉄工所をめぐる問題のもうひとつの面でもあったのだ。
だが、ろう学校の先生たちの動きはろうあ協会や手話通訳者が知り得ないところで動いていた。
たえきれなくなったDさん
A鉄工所のロックアウト。
ひとり第1組合に残ったDさんのアルバイト。
日々刻々とA鉄工所の様子をDさんにわれを忘れて順に伝えに来るろうあ者。
だが、Dさんの月収は1万円の減少。
妻の出産。
年老いた母の日常生活の困難。
Dさんが、たえきれなくなったのは当然のことだった。
第二組合に入れば、今よりもっとましだろう。
抱え込んだ矛盾も解決するのでは。
なにかが おかしい ともかく、ともかく
Dさんは、日ごとに話さなくなり、疲労がありありとだれの眼にも見えた。
Dさんも、ただ黙々と働いて生きてきたのになんで、
ろうあ者のみんなも 日が経っても解決しないA鉄工所問題の原因はどこにあるのか。
何かがおかしい。
ヘンだ。
疑問だ。
ともかく、ともかくおかしい。何かが。
と思うもののそれを充分考えきれないジレンマに次々と陥っていった。
なにかが おかしい
Once upon a time 1969
ろう学校をでたら、まじめに一生懸命働きなさい。聞こえない人を働かせてくれる会社はめったにない。
それも 高い給料がくれるなんて。
A鉄工所みたいなところは、めったにない会社。
よかったね……
感覚だけで考えてはいけない とみんなが集まった集団の知恵
そう教えられ、またそう信じて、人生を生きてきたA鉄工所のろうあ者がぶちあたった困難。
ろうあ者みんなの問題だ、と感覚的に仲間は捉えられてきた。
だが、感覚だけではダメなことが次々出てくる。
解らないことばかり。
でも、ろうあ休会の仲間が集まってくれて、知恵を出してくれる。
お互い学び合える。
あ、そうなんか。へーっそうだったのか、と心配が減っていく喜び。
ろうあ協会の地味だが、力強い取り組みは、今でも感嘆する。
引き裂かれる哀しみは ろうあ者みんなが経験していた
でも、Eさんの第二組合に行く話。Eさんの気持ち。
Eさんの行動。
労働をする仲間が引き裂かれることとろうあや同士が引き裂かれることは、同じだ、とろうあ協会のみんなは言った。
みんなもEさんと同じ思いを何度もしてきた。
「でも、ろうあ者同士は団結しような」と言うろうあ協会の話になると、Eさんは話している顔をしているのに手は動いていなかった。
われを忘れてA鉄工所の情報をDさんに知らせる仲間
結局、Dさんひとりがろうあ者として第1組合に残った。
Dさんは、組合の指示通り、何とかがんばろう、とろうあ者の友人の居る木工所にアルバイトに行くことになった。
その間、ろうあ協会の仲間は、早朝にA鉄工所に行く。
自分の仕事が終わると駆けて行きA鉄工所の様子や工場周辺を歩き回って、Dさん宅に毎日報告に行った。
Dさんは、そんな仲間の親切心に感謝のしようがなかったが、喜んでいられない生活状況が日々膨らみあがるだけだった。
Once upon a time 1969
Nさんが、A鉄工所近くの自分の家で相談しようじゃないか、と言った時はみんなに対する不信がほとんどだったと後で言った。
みんなもNさんの誘いに不安を感じたが、ろうあ者DさんやEさんの二人をこれ以上放っておくことは出来ない、と思い、おそるおそるNさん宅に集まった。もちろん、手話通訳もよばれた。
知恵を出し合って表現出来た手話
ストライキという手話をどう表現するのか。
同盟罷業(どうめいひぎよう)と漢字で書くが、結束・仕事・しない(肘を後ろにやって断る)。
いや、野球のストライク、の動作でいいのではないか。(もともと英語の意味は、正しい、正当という意味であるからそれでもいいが……)
まあ、ストライキは、指文字で ス・ト としたらいいのではないか。
ロックアウトは手話でどう表現するのか。
これにはみんな頭を抱え込んでしまった。
だが、集まれば知恵が出てくるもの。
労働・断る(右手を少し曲げて、左手を開いてはねつける)が、一番意味的にも手話のやりやすさから言ってもピッタリだ。
それまでと違って Nさんは、カンカンになって怒り出した
このような話からはじまる相談に、Nさんは次第に身を乗り出してきた。
しかし、A鉄工所勤続20年を超えるEさんからみんなに申し訳なさそうに
家族から厳しい説得があり、会社の作った第2組合に行くように言われ続けて、フンと言ってしまった。
病院に入院中のMさんの病床に家族がやってきて、説得。
Mさんは、わけが分からないけれど家族が言うので第2組合に行くと約束した。
と言い出した。
すると、Nさんは、カンカンになって怒り出し、
「そんなん 本人ぬきに会社が親や家族に電話とるのに違いない」
「第1組合に居たら、会社首になるいうとおるみ決まってる。」
と言っていたことと逆なことを言い出したので、みんながびっくり。
黙り込んでさびしい顔で、Eさんの手話をみる
Eさんは、ますます泣き出さんばかりの顔になり、
「ロックアウトでは、みんな仕事が出来なくなり、会社が勝つだろう。」
「私は早く仕事がしたくてたまらない」
「第1組合は、若い人ばかり。第二組合は世帯者が多い」
「私も家族を抱えている…… 」
みんな黙り込んでさびしい顔で、Eさんの手話をみた。
でも だれひとりEさんを責める人はいなかった。
Once upon a time 1969
ろうあ者DさんやEさんが
「労働組合の専門的な用語が分からず、退屈で仕方がない。早く働きたい」
といっていた話をどこかで聞きつけてきたのだろう、ある日、突然、威圧的な顔をした豪腕で名の知れたろうあ者Nさんが、私たちの前に立ちふさがってきた。
おまえら ろうあ者を利用しているのに手をかしているやろ
「おまえら 労働組合がろうあ者を利用しているのに手をかしているやろ。」
「利用するだけ利用して、DやEをほったらかしにするに決まっている。」
「利用するのもいいかげんにせー」
「本気でやる気ないのに やるふりするな」
Nさんは徹底的に懐疑的で、説明すればするほど、さらにしかめっ面になった。
また 嵐が吹き荒れる という不安だけが
周りのろうあ者は、過去Nさんが幾多の問題を引き起こし、ろうあ協会から遠ざかっていて安心していたのに、また現れた。
現れて、批判の嵐が吹き荒れる。
そう思ったのだろう、Nさんの周りにはだれもいなくなっていた。
Nさんもそのことに気づいて、叫びながら帰ってしまった。
やっかいな問題の上にやっかいな人が出てきた、と思ったのはそこに
いた全員だったことが後で分かった。
そして、だれひとり、Nさんがこのやっかいな事件に力を発揮してくれるとは思いもしなかった。
ロックアウトの長期化にともなう新しい方針が出されたが
4月下旬から5月のはじめにかけて、第一組合はロックアウトしたまま新しい方針を打ち出した。
それは、
1,会社と法廷闘争を行う
2,アルバイト体制をつくり、若い独身男性が8人が会社居続けロックアウトが破られないよう監視し、ロックアウトを続ける
3,その以外の人は、アルバイトをして当面の生活費をかせぐ
というものだった。
でも、2人のろうあ者には、アルバイトなどどこも見つからなかった。
面接すらも断られた。
健聴者が想像できないほどの不安と打ち分けた胸のうち
不安にさらに不安がつけ加わった。
今まで長く働いていた職場を離れる。職場には数々の思い出と愛着がある。
二人にとって誇りある職場。
欠くことの出来ない生活の拠点。
そこを離れて、今さら他の企業に行ってどうなるのだろうか。
それは、健聴者が想像できないほどの不安だった。
手話通訳を介して組合の役員にその胸の内を打ち分けても
「他の企業にアルバイトに行ってる連中の中には、会社でもらっていた給料以上の金をもらっている奴がいる」
と言う。
そして、そのまま組合は取り組んでいる。
二人のろうあ者は、悩みに悩み続けてゲッソリとやせ細りはじめた。
そんな時、A鉄工所の近くの家に住んでいるNさんが、
「俺の家にみんな集まって、相談しようじゃないか」
と言い出してきたのである。
Once upon a time 1969
A鉄工所は、従業員100人ほどの小規模企業だった。
でも、その技術は高く精密機械製造では全国的に名が知られていた企業であった。
だれもやらない仕事を黙々とやってくれる、という社長
「だれもやらない仕事を黙々とやってくれる。」という社長のろうあ者に対する評価。
そのため戦後間もない頃からろうあ者を「積極的」に採用してくれる企業だった。
この企業に労働組合が出来て、全国的な金属労働組合に参加していた。
1969年の春闘(春季闘争の略。1955年以来、毎年春に、賃上げ要求を中心として労働組合が全国的規模で一斉に行う日本独特の共同闘争)要求として、
1,14482円の賃上げ
2,退職金の増額
3,定年制の延長
4,年齢別最低賃金の確立
を会社側に出し、団体交渉をしていた。
会社側からは、
1,5018円の賃金値上げの回答
をしたまま、労働組合との交渉に一切応じなかった。
第二組合が作られ複雑な事態が日々続いた中で
そのため労働組合は、いく組みかが交代でストライキをするというリレーストを行っていた。
ところが、4月下旬になると会社側の「指示」で第二組合が作られ、会社側はその第二組合と話し合うとして、第一組合との団体交渉を全面的に拒否してきたのである。
ちょうど、その時、A鉄工所を訪ね、ろうあ者のDさんやFさんに会ったのである。
会社と労働組合の激しいやりとり、会社側から第一組合員を第二組合に入れるための工作など複雑な状況が日々続いていた。
ろうあ者のDさんやFさんにとっては、何が何だか解らない状況に追い込まれていたのである。
連日の長い集会の後に 筆談で「前回から進展せず」
第一組合は、連日の闘争の変化を組合員に知らすべく集会を開いていたが、ろうあ者のDさんやFさんはその話の中味は何のことかさっぱり解らなかった。
時々筆談で第一組合員が書いてくれるのは
「前回から進展せず」
というものであり、集会に参加していたろうあ者のDさんやFさんにとっては、集会の時間が長いのに、文章は短すぎる、と不安一杯になったのは当然のことだった。
ともかく早く働きたい、というのが二人の共通する願いでもあった。
でも、第一組合を支持して組合に入っていた。
それは、会社の回答では、このまま生活するのは大変だ、と言う気持ちがあり、第一組合の要求は正しいと思っていたからであった。
そのため手話通訳の依頼がたびたびあり、第一組合の会議の手話通訳をすることになった。
委員長代行になったYさんは、
「自分も障害者として労働運動に参加してきた。A鉄工所には身体障害者が多いが、ろうあ者の人たちが組合に結集して、一緒に闘ってくれることは大きなはげましである。」
と語った。
ろうあ者のDさんやFさんからは、当時病気入院中のろうあ者Tさんのことも気遣って委員長代行に経済面での援助が必要であることを話した。
委員長代行は、そのことでは労組としてすぐ援助をすると約束したが、刻々と事態は変わっていった。
Once upon a time 1969
最近、このブログを読んだ人から、このブログに掲載されていることは、過去のことであり今とはまったくちがうと言われた。
だが、はたしてそうだろうか。
歴史は繰り返すと言われるが、過去の悲劇や哀しみは無くなって欲しいと思うが、現在のほうが「隠された悲劇や哀しみ」が多いように思える。
ことばの言い回しは何かしらていねいで、新しいことのように思えるが幾重にも張り巡らされた着ぐるみを取り除いてみると、そこにはヒューマニズムの欠片もないことが多い。
時間の切り売りではなかった手話通訳の公的保障
1969年の頃の京都の手話通訳は、あまりにも少なく、また手話通訳者の犠牲も多くあった。
だから手話通訳保障を求めて公的保障を求めてきた。
その公的保障は時間の切り売りではなかった。
今、よいにつけ、悪しきにつけ手話通訳は時間で切り売りされていることがほとんどになっているように思える。
だから、過去がいいと言っているのではない。
まじめに手話通訳をする人が病気になってもなんの補償もない。
一方、お金がないからと言って手話通訳を替わってもらうというアルバイト感覚の人もいる。
どちらもよくないと言っているのではない。
手話通訳とは何かという基本に立ち返らなければしばしば、気づかないうちにろうあ者の人々も手話通訳者の人々も窮地に追い込まれていることになっているのではないか、と思うことがしばしばあるからである。
方法だけですまない問題が
手話通訳の方法、このことばをどう手話にするのか、という講習会や資格講習には多くの人がどっと現れるが、手話通訳の本質や手話の論理についての学習会に参加する人が少ない。
これは、手話通訳関係の書籍にもハッキリ表れている。
ハウツーの本を買う人は多いが、手話通訳とはなにかを論じた本はほとんど売れないか、発行もされなくなっている。
福祉や教育の分野でも共通する課題
このことは、福祉や教育の分野でも共通して言えるのではないだろうか。
書店に行き、教育の本棚を見たら奥付(書物の終りにつける、著者・著作権者・発行者・印刷者の氏名、発行年月日、定価などを記載した部分。)を見るのが癖になってしまっているが、初版からはじまって増刷されている本は、いわゆる堅い本ではない。
そこには、1960年代の本などはほとんど見いだせない。
書かれていても、なんの根拠も調べもしない憶測がある。
手話通訳関係もそうである。
過去を繰り返す可能性が充分ある
過去を見ないで、今だけを見る風潮は過去を繰り返す可能性が充分あると思える。
A鉄工所問題でも、夜を徹してろうあ者と手話通訳者が話し合った。
あれやこれや、ああでもない、こうでもない、と。
今、そのような話が出来るだろうかと考える。
誰かが、こうではないかと言うと……。
こうしようというと……。
が、多いようの思える。
最初の一歩。
たえず反芻するが、A鉄工所問題も論議をつくしたから大きな教訓が得られたが、京都ではそのことすら知らない、いや知ろうとしない手話通訳者がほとんどである。
それらの記録は残されているにもかかわらず。
Once upon a time 1969
たどり着いたA鉄工所の塀や門には、争議内容を書いたビラがはりめぐらされていた。
正門には見張り役のはちまき姿の労組の人が、イスを並べて見張っていた。
ろうあ者のDさんやFさんに会いたい、と言うと見張り役の労組の人は柔和な顔を浮かべて、DさんやFさんのところに案内してくれた。
ロックアウトとは なに
A鉄工所は、現在労働争議で「ロックアウト中です。」と労組の役員が説明してくれたが、
「ロックアウト」をどう手話通訳するのか、
でとまどった。
私の友人が、法学部の時に労働法を選択していて全国的にも著名なロックアウト権の教授の授業を受けていた。そのことを思い出しながら、手話通訳した。
手話通訳には、このような場合基礎的知識がいる。
労組の役員は、日常使う労働組合用語を乱発するが、DさんやFさんはキョトンとしている。
仕事をしない日々
ロックアウ 不安
話がわからなかったら聞いてみたら、と相談員のOさんは二人に話を投げかけたが、DさんやFさんは手を振るだけだった。
ろう学校を出てひたむきにA鉄工所で働き続けきた二人にとって、仕事と労組の人たちの言うことを素直に聞くこことが人生だった。
しかし、仕事をしない日々。ロックアウト。
不安がひたひたと押し寄せてきていることは、わかる。
心配。
どうなるの。
どうしたらいいの。
働けなくなったら生きていけない。
切実な事態にぶちあたっている。それは、辛いほど解る。
言われたことをすることで生きて来られたが
でも、それまでの生き方は、言われたことをすることが生きることだ、と教えられてきた。
たしかにそうだった。
そのようにしたら、生きてこれた。
でも、それではやって行けないようになっている。
揺れに揺れるこころは、DさんやFさんの表情にありありと現れていた。
印象深い日となった1日だったが、それから苦労と連帯の運動がはじまるとは思いもしなかった。
Once upon a time 1969
京の春の兆しは、梅にはじまる。
そして、桜のつぼみが膨らみ、ぽっぽつと桜が花開きいっきょに満開になる。
その頃の京は、観光客で一杯になるがそれは名所・旧跡でろうあ者の住むうねうねと都路地裏の小さな家には桜の花が舞い散ることもなかった。
桜が舞い散り、瓦屋根や路に花びらの模様を描くころ
1969年。
そんなろうあ者の家を訪ねて手話通訳やさまざまな問題に取り組んでいたが、今思えば、桜の花の下で相談をしていたらどんなに落ち着けただろうか、とも思う。
でも、そんなどころでない深刻な問題が多すぎた。
桜が舞い散り、瓦屋根や路に花びらの模様を描くとすぐに初夏が来るそんな頃のことだった。
あるろうあ者が息を切らして走って来た。
はちまき姿で座り込んでいるろうあ者が不安そう
「A鉄工所に行ったら、驚いた。」
「工場の門は固く閉ざされ、門にはべたべたとビラが貼られ、回りの塀には赤旗が乱立している。」
「すき間から中をのぞいてみるとろうあ者のDさんやEさんもいた。はちまき姿で座 り込んでいるが、すごく不安な顔をしている。」
「工場で何かあって、長引いているようだ。このままであの二人はやって行けるのか、 とても心配」
「聞こえない二人に、なんの手立てもされていないよう。このままでやって行けるのか、心配、心配」
という話だった。
労働組合の独特の労働組合用語
をわかりやすく手話表現するために
手話を見ているだけで、二人のろうあ者の苦悩が切々と伝わってきた。
これはただ事でない、と思いながらも当時さかんだった春闘(賃金をあげる闘い)が続いているのかも知れないとも思えたが、ともかくA鉄工所に行って様子を調べようと言うことになった。
相談員のOさんと同行することになったが、労働組合には独特の労働組合用語がある。
その用語を、解りやすく、的確に表現する手話表現をみんなで相談しながら、市電に乗ってA鉄工所に向かったが、その車中の中でも
「鉄工所」「労働組合」「春闘」「争議」
などなどの、ことば、がDさんやFさんにも解る手話表現をどうするかをずーっと二人で相談し続けた。
Once upon a time 1969
数年前のある日。
ある人が訪ねてきて、次のような相談が持ちかけられた。
社会体験学習ということ養護学校の生徒が
プレス機に挟まれて足を切断
養護学校の生徒が、社会体験学習ということである工場で体験実習していた。
ところが、その工場でプレス機に挟まれて足を切断した。
会社も、養護学校も、教育委員会もひた隠しにしている。
障害のあるそのこのことをほったらかしにして、かくすことで必死。
労働災害などの手立てはないか。
という話の内容だった。
障害のある生徒だからと 隠し続ける
養護学校の生徒を社会体験学習として、工場のプレス機を扱わす工場も工場だが、養護学校も養護学校だ、とさえ思った。
それでなくても、危険なプレス機を扱わすなんてとても信じられない話だった。
詳しく調べて欲しいと、頼んだがそのご報告があり「堅い堅いガード」でとても調べられない。
災害にあった養護学校の生徒にこっそり会って聞き出そうとしたが、事実関係を聞き出せなかった。
障害がある生徒。
だからうまく言えないし、表現出来ない。
それをいいことにして、工場も学校も教育委員会も、生徒の責任にして両親に説明をしている。
両親は、その子の今後のこともあってなにも言えない状況にされている。
こんなことが許されるのかよー。
労災補償の対象にはならないだろうと説明したら
その痛みと怒りが痛いほど分かったが、労災補償の対象にはならないだろうと説明した。
すると
「何でや、工場で働いて、工場のプレス機で空きを足を切断したのに補償がないのって、そんなのあるかー」
と私がひどく叱られるような状況になった。
雇用関係があるかどうか と言っても
現実はそれですまない哀しみ
労働基準法「第九条 この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。」を説明して、「事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者」
にならないとされるから労働災害補償が受けられないだろうと説明したが、
「働いていたではないか」
「なんでそんなことになるんや」
と納得されなかった。
この制度は問題があるが、働いていたから労災補償が受けられる、と思い込んでいる人は少なくなかった。
現場を見た職場の人はいたのだが
養護学校の生徒が、プレス機の操作をさせられている現場を見た職場の人はいた。
でも、そのことを言うと工場におれなくなるから内緒にしてくれ、と言ったそうである。
「先進国日本」
このようなことが今だまかり通っている。
私は、災害補償の弁護士さんを紹介するとともに「学校災害」の制度のことを説明した。
社会体験学習で労働現場で被災した生徒があまりにも多い
独立行政法人日本スポーツ振興センターの「災害給付」を充分調べてのことであった。
「学校管理下」と条件にあてはまるかどうか、も検討して。
後日。独立行政法人日本スポーツ振興センター「災害給付」で、対応されたとの報告があったけれど、
なにが 社会体験学習だ。
ただ働きで危険な労働させて、と思い調べたら社会体験学習で労働現場で被災した生徒があまりにも多く、すべて不問にされていた。
Once upon a time 1969
細川汀著「健康で安全に働くための基礎」には、
有機溶剤中毒として、
ゴム糊、シンナー、ペンキなどにはゴム、脂肪、ろうなどを溶かす有機化合物の溶剤が含まれている。
ベンゼン、トルエン、キシレン、トリクロルエタン、ノルマルヘキサンなどである。
溶剤自体は液体であるが、揮発しやすいから蒸気になって吸われたり、脂肪を溶かすから皮膚から吸収される。
高濃度のガスを吸うと頭痛・めまい・吐き気が起きたり意識を失ったりする(急性中毒)。低濃度でも長く吸うと肝臓を傷めたり、貧血や手足のしびれが起きたりする(慢性中毒)。
塗装、洗浄、印刷、修理などの職場に多い。1960年代サンダル製造作業者に多発したベンゼン中毒が有名である。
これに対しては有機溶剤中毒予防規則がある。予防には密閉化や局所排気装置が有効である。
とされ、慢性化すると中枢神経に影響を及ぼし、死に至ることもある非常に危険なものであることもあきらかにされている。
1975年の府議会本会議での杉本源一府議の質問はシンナーの危険性が1960年代にすでに解っているのに、あえて障害者になんの安全対策を打つことなく働かせている企業・施設・行政の問題を鋭く追求したものである。
でも、これらの問題は現在まで昔の話としてすまされることとなっていない。
1975年12月の京都府議会本会議で杉本源一議員質問続き
職員の反対を押し切って株式会社Mと契約を結び、今日このような事態を引き起こしたA学園の理事者には重大な責任があります。
同時に、この洗たく工場を授産種目として安易に認可したことや、社会福祉事業法の66条、67条では、都道府県の指導監督にかなり強い権限が与えられているにもかかわらず、その権限を行使しきれず、今日の事態を引き起こした府の行政指導についても、その責任を厳しく追及せずにはおれないのであります。
事態を重視したA学園の職員の強い反対と申し入れで、作業は直ちに中止され、現在では株式会社Mに対して機械の撤去を申し入れるところまできております。
私は府理事者がこの洗たく工場で起きた問題をどのように受けとめておられるのか、また今後どのように積極的な指導を学園に対してされようとしているのか、府民の前に明らかにする必要があると思います。
この際、A学園が今回の事態を教訓として、園生を大切にする民間社会福祉施設として再建されていくために、私は次の措置を学園が講じるよう、また京都府が強力な指導援助をされるよう要望します。
第1は、身体に異常をきたした園生の健康診断を厳密に行い、治療の万全を期すことであります。
第2は、洗たく工場の機械を直ちに撤去して、園生の立場に立った適切な授産種目が検討され、その作業が開始されるようにすることであります。
第3はてこの際、京都府では民間の社会福祉施設における授産作業について、厳守しなくてはならない具体的な基準となるものを作成する必要があります。
第4に、今日公害の規制が厳しく求められているときに、A学園の側溝の流末はたれ流しの状態となり、地元では非難の声が上がっております。
園内外の環境を改善する必要があります。
以上、私はA学園の授産作業について緊急の措置として4つの提案をしてきました。
国の授産種目の基準は極めて抽象的であります。
これは改善されなくてはなりません。
しかしこの国の基準のあいまいさを補強し、真に園生の立場に立った種目を選定して、その適切な運営をきめ細かく指導するところにこそ、民主府政の真価があると思います。
その点で、今回のA学園の洗たく工場で起きた事件は、これを指導監督してきた府の行政と、特に直接これを所管している民労部長としては、厳しい反省の求められる事件であったと思います。
この際、民労部長が真摯に今回のこの問題を振り返り、毅然とした姿勢で指導を貫徹されるよう望むとともに、今後の改善対策、指導の方向について、具体的にどう対処されるか、明確な答弁を求めるものであります。
続いて、私どもの調査では、このA学園には更に重大な事態が発生していることが明らかになっています。
生活保護家庭の園生に対する生活保護費や措置費及び補助金の会計の乱脈ぶりを指摘をし、私はこの際府理事者の厳しい指導と監督を要求しておきます。
創立当初園生30名で出発したA学園は、11.月1日現在234名の園生を収容する規模に拡大され、そればかりか昭和49年度には沖縄県名護市に定員100名のA学園沖縄分園を建設するなどして、施設規模を拡大してきました。
このことから借入金は莫大なものになっております。
園長が保護者会で行った財政報告によりますと、負債は5億円で、この処理方法としては、3億円を長期で返済し、残り2億円のうち1億円は青谷と山城町にある土地を処分し、残りの1億円は長期負債に切・替えていくようにすると説明されていますが、いずれにしても社会福祉法人A学園が莫大な借入金を持っていることは明らかであります。
社会福祉に対する政府の貧困な施策を免罪して民間の施設にすべての責任を負わすことはできませんが、莫大な借入金があるからといって、生活保護世帯の園生に補助されている生活保護費や措置費、そしてこの施設に園生を預けている市町村と府が、職員及び園生の処遇改善費として支出している補助金を、それぞれ独立の会計として整理せず、これらのお金を法人会計に繰入れ、借入金の償還財源に充てるというようなことは、許されない行為であります。
(以下略)