2013年12月6日金曜日

インテグレーション  子どもが笑顔を取り戻す教育

 
 
   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 5 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


            お互いよそよそしい関係

 話し合いは、親の家で行われた。
 話し合いの時間がかかるので、親は、聴覚障害の子を連れて集まっていた。
 ろう学校幼稚部の先生は、親の話に参加する一方で手分けをして子どもたちと時間を過ごすようにした。

 ところが、ろう学校にいた頃は、子どもたちはまとまって遊んでいたのに、それぞれ違った小学校に入ったことでお互いよそよそしい関係になって、話し合うこともしなかった。

 幼稚部の子どもたちは自分たち同士で遊ぶ。

 普通小学校に行った子どもたちは、幼稚部時代と違ってまったく知らんぷり。
 めいめいが、自分だけの世界に入り込んでいるようだった。特に親しかった子ども同士でも。

 幼稚部の先生たちは、まずそのことに驚いた。
 

  花いちもんめ が知らせてくれた

 
 そこで、先生たちは親の話しの合間に子どもたちを二手に分けて遊ぶ「花いちもんめ」の遊びをすることを子どもたちに提案した。

 子どもたちは、賛成したが、
 

 「か~ってうれしいはないちもんめ」
 「まけ~てくやしいはないちもんめ」。
 「あの子が欲しい」
 「 あの子じゃわからん」

 はじめのうちは歌はそろわない。

 あの子が欲しい、とこの子が欲しいと、言うことがなかなか出来なかった。


  自分の気持ちを相手に伝える
        相手の気持ちを受けとめる

 ようするに子たちは、自分の気持ちを相手に伝える、相手の気持ちを受けとめることができなかったのである。

 粘り強く「はないちもんめ」を繰り返していくと、次第に子どもたちの声がそろい、歌と足拍手、が合うようになり、子どもたちの喜びの輪が広がっていった。

 さらに「イスとり遊び」「壁新聞づくり」などをする中で、聴覚障害の子どもたち同士の思いやりや助け合いが生まれだしてきた。
 そして、そういう取り組みをするために中心になって聴覚障害の子どもたちに呼びかけ、遊びの輪の中に入れるようにする子どもも出て来た。

 いつしか、各学校にバラバラに通っていた聴覚障害の子どもたちが、1週間に一度集まり、話したり、遊んだりするようになって行った。

  どうしても必要   聴覚障害児の子どもたち同士の友だち


 この取り組みに参加していたろう学校幼稚部の先生の中から、聴覚障害の子どもたちは、ひとりぼっち、では自分の気持ちを出すことはできないばかりか相手の気持ちを受けとめられなくなってしまうことに気がついた。

 さらに、聴覚障害の子どもたちには、健聴児の子どもたちの友だちも必要だが、聴覚障害児の子どもたち同士の友だちがどうしても必要だ、と確信するようになっていった。

                                                            ( つづく )

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2013年12月5日木曜日

インテグレーション  一番大切なことをわすれてる


   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 4 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   経済的困窮がますますひどくなったが……

 ろう学校幼稚部の教育は、親の付き添いが絶対条件であった。

 経済的に困難を抱えている家庭では、両親が働いていてもどちらか一方が辞めざるを得なかった。
 そのためますます経済的困難にさらに経済的困難が追い打ちをかけたが、子どもたちのためにと必死になって生活してきた。


 小学校に入ると、なんとか時間がとれるのではないかと考えていた。
 でも、ろう学校幼稚部の先生のアフターがなくなるとどうなるのか、幼稚部の親も普通小学校に入学していた親も途方にくれる。

  困ったらいつでもというねがいが……

 困ったらいつでも相談できるところがほしい。

 そういう教育相談所設置願いを望むようになっていった。
 ところが、強固に京都市教育委員会から「設置ができない」と言われた。

 考えあぐねたあげく親の中から京都府下で行われている通級制の難聴学級(聴力の制限はなかった。)を作ってほしい、聞こえの教室を作って欲しい、と要求するようになっていった。

  くり返し、くり返し話し合う中で

 それでも京都市教育委員会は、話し合ってもかたくなに通級制の難聴学級の設置を受け入れなかった。
 聴覚障害児の親の中で何度も何度も話し合いが繰り返されてきた。

その話し合いの中で、

 普通小学校通っていると、発語がだんだん崩れてくる。


 発音指導なんとか京都市教育委員会のとしてやってもらいたい。

 でも、発音指導だけ子どもたちに保障してやればいいのだろうか。

 大きな集団の中に入れてやったことが、聴覚障害児にとって、良い言語環境と なっていると言い切れるだろうか。

 大きい集団に入って、健聴児の友だちが出来たら、聴覚障害児の友だちはもう いらないということになるのだろうか。

  何が一番大切で必要なことなのだろうか
   そのことが忘れられているのでは

 先生や友だちの話の20%ぐらいしか判読出来ないのに教科学習について行けていると言えるだろうか。

 ついていけない教科は、家庭で親がしたり、家庭教師を頼んだりしているのだが、それで良いのだろうか。

 受け入れ体制が充分でない場合は、子どもは学校の中やクラスの中にきちんと学校生活が出来ているとは言えないのではないか。

などなどの反芻した意見が聴覚障害児の親の中から出され、討論し合う中で本当に聴覚障害の自分の子どもにとって何が一番大切で必要なことなのだろうか、そのことが忘れられているのではないか、という話になっていった。

  子どもの眼に投影された 親の話し合いや行動が

 これらの話し合いは、聴覚障害児の親の家に集まって話し合われた。

 話し合いが夜遅くまでされ、ときには明け方4時ごろになることもしばしばあった。
 しかし、話し合えば話し合おうほど聴覚障害児の親の団結は強まり、さらに他の親の中に話が広がった。

 この親の取り組みは、その後の子どもたちや教師たちに大きな影響を与えた。

 真剣に自分のことを考えてくれている親。考えるだけでなく行動する親。
 

 聴覚障害児の子どもたちにも教師たちにもその姿が、次第に「見える存在」として映し出されていった。

                                                                                             ( つづく )


 

インテグレーション 教育はだれが責任を持つの



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 3 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 卒業後のアフタ-ケアの複雑ないきさつ

 1960年代末から1970年代にかけてろう学校幼稚部では、言語力を持ってもっと大きな集団である地域の普通小学校通学することで社会性を身につける手段としてとらえていた。

 かんじんな教科指導については親が責任を持つ。
 しかし、発音指導は、課題が残ったので「歪みや」「正しい発語」のため教師が何らかの形でアフターケアをするということになっていた。

 このアフターケアを良心的に行う教師。
 アフターケアーの名の下に金銭や物そのた教師の私生活に対する「親からのお礼」も横行していた。
 これらのことは、ろう学校ではタブーでありながら半ば公然と行われる「慣習」があり、新採用の教師は激しい憤りさえ感じていた。
 ところが、朱に交われば赤くなるというようにそれがあたりまえのような感覚に陥る雰囲気に次第に呑み込まれてしまう傾向も少なくなかった。

  進学先の学校の発音指導はしてはならないという現実

 さまざまないきさつから1973年3月からろう学校幼稚部卒業の子どもについては、進学先の学校の発音指導はしてはならないということになった。
 これはある意味では当然のことであった。


 責任の持つべき生徒たちでない生徒に対して、教育委員会の所管外の学校に教師が関わることは問題があったからである。

 現在、特別支援教育という名目で教育委員会の所管外の学校に教師が関わることが、公然と行われているが、その責任の所在はあいまいで、問題が生じる度に教師個人の責任とされ「自殺」に追い込まれていることがあまりにも多くなっている。

 制度はつくっても責任は持たない教育行政の姿勢は、現在に至っても改善されていないのである。

  難聴児教育相談所設置のねがい


 ろう学校幼稚部を卒業した生徒のほとんどは、京都市内であった。

 
 ところが、京都市教育委員会は、京都市内は固定制難聴学級を作っていた。
 ろう学校幼稚部から来た生徒は、固定制難聴学級でないと指導しないと京都市教育委員会は、頑固な方針であった。

 そのため各行政区に点在している小学校に入学している聴覚障害児は、アフターを受けることが全くできなくなった。

 そこで、聴覚障害児の親は、京都市教育委員会に「難聴児教育相談所設置」のねがいを出した。

 しかし、京都市教育委員会はそれをまったく受け付けなかった。
 今まで陳情や請願など行政にたして要求いた経験のない聴覚障害児の行動を起こした。
 

何も知りません、というのではあまりにも無責任

 その取り組みにろう学校幼稚部の教師たちも参加しはじめて行った。

 幼稚部を卒業したから私たちは、何も知りません、というのではあまりにも無責任だという気持ちからだった。

 聴覚障害児の親が、

 聴覚に障害を持ったわが子になんとか「ことば」を話させてやりたい、と幼稚部3年間を必死で朝・昼・晩もおかまいなしにはなしかけた。
 バスの中。
 買い物。
 どんな時にも、子どもに話しかけ、ことばを教え続けてきた。

 そんな気持ちを無にしていいのか、という気持ちがろう学校幼稚部の先生からうまれてきた。
                                                   ( つづく )


 

2013年11月26日火曜日

エリート インテグレーション 基準を作って切り捨てる動き


     ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 2 )
 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   聴覚障害児の親の血と涙と汗の要求

 ろう学校幼稚部を卒業して、普通校に入学した聴覚障害児は親が教科を教え、教師は集団になじませる、などなどのことはうまく出来るはずがない、ことは明らかだった。

 そのため普通校に入学した親は、自己責任ではなく多くの人々と一緒になって聴覚障害児の教育保障を要求した。

 京都府教育委員会は、各市町村教育委員会と協議して通級制の難聴学級。
 すなわち「聞こえの教室」(難聴学級と言わなかった。高度難聴の子どもも通級するという考えであったからである。)をつくり、定期的にそこへ聴覚障害児が通ったり、必要に応じて常時相談体制をつくるようにした。

 同時期、「ことばの教室」もつくられていた。

 聴覚障害児の在籍する学校は、広域なので一校につくると他の聴覚障害児がなんの保障も受けられないという状況の中で考えられたものであった。

 だが、聴覚障害児の多くは京都市内の学校に入学していた。
 ここでは、京都府立学校と京都市立学校、学校市町村学校という教育委員会との管轄の問題があった。

 京都府教育委員会と京都市教育委員会は、京都市が政令指定都市という関係で同格の権限を持っていた。

 
  京都府教育委員会と京都市教育委員会の違い


 京都のとなりの府。大阪府も大阪市も同様のことがあったが、大阪府立ろう学校と大阪市立ろう学校をつくっていた。

 しかし、京都の場合は、歴史的経過の中で京都府立ろう学校だけしかつくられていなかった。
 

 京都市は、この問題に対応すべく固定制の難聴学級をつくった。

 固定制の難聴学級と通級制の聞こえの教室の大きな違いは、固定制の難聴学級の場合は地元の小学校に入学せず難聴学級のある学校に入学しなければならないが、通級制の「聞こえの教室」は、地元の学校に入学して必要に応じて「聞こえの教室」に通ったり、援助(サポート)を受けるという違いがあった。

 聴覚障害児への線引きと分断

 さらに京都市教育員会は、固定制難聴学級入級基準を中度とし、その㏈まで定め、軽度・中度は難聴とするが「ろう」は、難聴ではないので入級できないとした。
 この㏈値をめぐる問題は書けば切りがないほど経過がある。

 軽度・中度・高度(重度)というのはあくまでも区分であってそれに対して、善悪や優劣の評価を加えることは、別の問題であるが、日本ではこのことが混合されて理解されていることもある。

 当時、聴覚障害児教育に携わる教師たちの中には、聴覚障害についてかなり専門的な研究や実践経験を持っていたため5㏈や10㏈の違いで線引きすることは非科学的なものであることを充分承知していた。

 京都市教育委員会は、肢体不自由養護学校入学基準でもIQで線引きしていた。
 
 数値的線引き・基準との闘い


 このことに対して親の中には多くの疑問や改善を求める声があったが、「基準」は基準として京都市教育委委員会は変更しようとはしなかった。

 1960年代から1970年代にかけては、障害児教育の分野において、数値的線引き・基準との闘いも大きな課題であり、それを乗り越えていくだけの力量が求められた。

 現在、その基準なるものの再来が教育の分野に持ち込まれていることを考えると教育の歴史に対する逆流とも言える。

 1960年代から1970年代にかけての血と涙と汗にまみれた公的保障が蔑ろにされてはならない。

                                                  ( つづく )
 

2013年11月23日土曜日

エリート インテグレーション 教科を教えるのは親の責任



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師親の反論 1 )

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  教科については親が責任 
  社会性を身につけることが小学校の教師の責任

 ろう学校幼稚部を卒業した子どもたちは、大きな集団である地域の普通小学校通学することで、社会性も見につき育てられるとされていた。

 教科については親が責任を持ち、学校は友だち関係の中で育つようにする。
 さらに、社会性を身につけることが小学校の教師の責任とされ、ろう学校幼稚部ではその課題を任せていた。


   どちらかが仕事を辞めざるを得なかった

 ここでは、親の経済力はまったく考えられていないばかりか家庭環境も考えられていなかった。

 経済的に困難な親は、5歳までに聴覚障害のわが子に教育をしないと一生子どもが困ることになる。
 聴覚に障害があると分かってあらゆる所をまわったが、結局幼稚部にすがるしかなかった。

 親同伴の幼稚部教育では、両親が働いていた家庭ではどちらかが仕事を辞めざるを得なかった。それは、また経済的な困窮を生みだしていった。
 ほとんどの家庭では、母親が仕事を辞めていた。


  お父さんが幼稚部に付き添い
      休みの日には単身外国に行き商売


 



6年ほど前、N県のお父さんとたまたま別のことを話していて、娘さんが聴覚障害があったので幼稚部に通うときに、お母さんが仕事を辞めるか、お父さんが仕事を辞めるかの深刻な話しになった。

 結局、お母さんは、資格を持っていてお母さんのほうが収入が多かったので、お父さんが仕事を辞めて幼稚部に付き添った。

 そして、夏休みなどを利用して単身外国に行きある品物を買って販売する仕事をはじめたという。

 「低開発国」と言われる国に行って、話が充分分からないまま仕事をはじめていたが、「物乞い」をする子どもたちが、家族を支えているために働いていることが理解出来るようになった。

 さらに、その子どもたちの中に多くの障害児がいることも。
 彼らには、いじめはなく、どんなに貧しくても助け合っていることが分かって胸が熱くなった。
 当然、自分の子どもと同じような聴覚障害の子どももいた。


 仕事を辞めて新しい世界に飛び込んで、日本と「低開発国」と言われている国々の教育を考えるようになった、と話された。
 

  裕福な家庭との違いが子どもに現れていたが

 裕福な家庭は、子どもに家庭教師をつけ予習、復習をさせていたが、経済的に困難を抱える家庭では、とてもそんなことは出来なかった。

 当然、普通校の中で学ぶ聴覚障害児の子どもたちに差が出てきた。

 
 もともと、教科は学校ではなく家庭でするということ自体矛盾がありすぎた。

 しかし、ろう学校幼稚部では、普通校に行った生徒には、何らかの形でアフターケアをするということになっていた。
 このアフターケアを良心的に行う教師と「付け届けなど」を当然とする教師があったが、それは決して表面化しないタブーであった。


 ところが、1973年3月に卒業するよう幼稚部生徒に対して、ろう学校では進学先の小学校の発音指導はしてはならないということが突然出されてきた。

                                                            ( つづく )

2013年11月20日水曜日

エリート インテグレーション への教師からの疑問



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師親の反論 1 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  京都府立ろう学校が、幼稚部生徒を普通校に入学させるといういわゆるインテグレーションは、1966年から実行されていたが、1969年に文部省は協力者会議でインテグレーションの問題を取りあげる。

 しかし、このインテグレーションの紹介は、今日のように大々的に報道したり、核マスコミも大きく取りあげるようなものではなかった。


   教育は、不当な支配に服することなく
                    国民全体に対し直接に責任を負う


 それは、当時の教育行政が教育基本法の第10条を守らなければならないという制約があったからである。

教育基本法
第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。


2006年改正
 (教育行政)
第十六条  教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2  国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3  地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4  国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。


   各学校の実践が重んじられていた

 そのため文部省や各都道府県教育委員会は、文部省の方針に沿った教育をさかんに奨励しその取り組みを広げた。

 京都府立ろう学校幼稚部が取り組んだインテグレーションは、京都府教育委員会の意向とは関係なくすすめられていた。各学校の実践が重んじられていたからである。
 それは教育基本法から考えても当然のことであった。

 この時期でよく誤解されて理解されているのは、1970年代に入って京都府教育委員会委員長をめぐる京都府と文部省との対立から京都府教育委員会と文部省はもともと対立関係にあったと考えられていることがある。
 しかし、ろう学校幼稚部でインテグレーシュンが行われた時期は、決してそういう関係ではなかった。

 むしろ、京都市委員会の方が文部省路線を踏襲していた。この矛盾は、さまざまな所で生じる。
 分かりやすく書くと、京都府教育委員会は、各市町村教育委員会に助言等はできた。しかし、京都市が特別政令都市であったため京都市教育委員会とは同格であった。


  ろう学校幼稚部の教師から ひろがりはじめた疑問

 1970年になって、ろう学校幼稚部の教師の中にインテグレーションについて、次第に疑問が出てきた。

 すでに述べてきた京都方式と呼ばれる「対応教育」が一定の成果を収めていると言われていることに対して、それはアメリカの行動主義的発達観の色合いが濃く、子どもたちの集団の発達を考えていない。

 個人の能力のみをとらえ、子ども「のび」は、その子ども1人1人、親一人一人、教師一人一人の力量にのみにされている。

 ことなどに、多くの疑問が出てきた。

 しかし、その疑問を出すことすらかなわない学校の状況の中で幼稚部の方針が強固におしすすめられ、ともかく聴覚障害児が普通小学校へ出ることのみが目的になってしまっていた。

 それがインテグレーションとされた。

 ところが、このことをめぐって教師と親が真剣に相談し行動する事態が生じてきた。
                                   ( つづく )


 

2013年11月16日土曜日

エリート インテグレーション 現代と変化していない無責任論

 
 ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 9 )
 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   子どもの努力と家族の努力+教師の努力の追求

 2歳で、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして。

 3歳で、ひらがなが読めるように。

 4歳で、日本語の単音の発音を完了する。

 このことを集中的に指導された子どもには「ついてゆけなく」なる子どもがいる。
 この子どもたちは、子どもの努力と家族の努力が責任として問われる。


 小学校に入学して以降は、子どもの努力と家族の努力+教師の努力が責任として問う。
 幼児期の取り組みが終わったのだからとして。


  責任押しつけ 責任逃れの教育

 小学校は、なんとか聴覚障害児の教育に取り組み、幼児教育からの責任追求を逃れて、中学校に「下駄を預ける。」

 中学校は、小学校からの責任追求を免れ、高校になんとか入学させようとし、入学したら高校の責任「追求」する。

 ところが、高校は義務教育でないので原級留置や退学がある。

 ろう学校幼稚部を卒業した親はその間で揺れ動く。

 一方、「おとなしくていい子」でない子どもたちは、小学校段階から親の言っている事や自分への「しつけ」に疑問を持ちはじめ、健聴の子どもとのあまりにも大きな「違い」に気がつきはじめる。
 

  こんなしんどい目をするのやったら


  そして言う。

 「なんでお母さんは、ことばことばを言うのや」

 「こんなしんどい目をするのやったら聞こえる子どものようにならなくてもいい。」

 「ほっといて」

などなど、急激に親に対する「反発」が強くなり「悲劇が拡大」していく。

  従順な子どもがインテグレーションの成功例?

 そういう子どもは、インテグレーションできない子どもである、とされ、はい、はい、と「素直に従う子ども」がいることを例にあげて「インテグレーションの成功例」とされる。

 そして、なんの「保障」もなしに、有名大学に入り成績優秀な聴覚障害生徒として評価される。

 次世代の親には、インテグレーションの成功例を示し、失敗しないためには幼稚部教育のカリキュラムをすべてやり遂げることを強調する。

 ここには、育っていった生徒たちから学んで「幼稚部教育のカリキュラム」を見直し、さらに適切なものにしていこうという姿勢はなかった。
 

  何もしなくてよい良い やりたいことをする自由?

 すでに述べた最近、発達障害児の教育指導等をめぐって、一部で子どもたちに、何もしなくてよい良い、やりたいことをする自由、ただ、他人のじゃまをしない節度、の中で子ども自身が育つかのように強調する傾向と対比すると、どちらも子どもたちの内面の発達を見ていないことがわかる。

 ろう教育から引用した「9歳の壁」をとりあげ、9歳の問題を主張する人々もまた子どもの内面を見ていないのである。

 なぜなら、子どもたちを年齢別に見る傾向も、幼稚部・小学校・中学校・高校・大学・社会と見る傾向も人間を分割・細分化して見ているに過ぎないからである。

 人間が産まれてから死ぬまでの過程を踏まえて、重点的に学校教育や年齢を踏まえた主張ではない。
 

  ○○○だから○○○しなければいけない


 そもそも
  2歳で、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして。
 3歳で、ひらがなが読めるように。
 4歳で、日本語の単音の発音を完了する。


 を子どもたちに「教える(注入する)」ことが、人間の摂理にかなった教育なのか、どうか、すら検討されもしないで「9歳の壁」ということばがひとり歩きさせられている。

  2歳が、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして、とまで話せること自体が「非常識」なのである。

 このような超天才教育と言うべき理屈がまかり通るのは、「聴覚障害」があるからということである。

 聴覚障害だけではなく、いろいろな障害がある場合、○○○だから○○○しなければいけない、ということもまかり通っていないだろうか。

 障害児教育分野では、人間としての常識からはじまる教育が、人間としての非常識からはじめる教育に打ち負かされることがしばしばある。

                                                     ( つづく )
 

2013年11月14日木曜日

エリート インテグレーション 無責任な教育システム



  ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 9 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   人間の発達や教育をめぐる二つの潮流

 人間の発達や教育を考えた場合、二つの潮流がある。
 

 ひとつは、人間は外からの働きかけで(教育で)育つ。
 


 ふたつは、人間は、人間は本来持っている力で育つ。
 

 というふたつだろう。

 詰め込めば詰め込むほど子どもたちは学ぶのか

 前者は、すでに明らかにしてきたろう学校幼稚部の「対応教育」である。


 小学校入学までにことばや文字を習得しておいて、小学校入学以降はことばの世界に入って普通児と同じように育っていく。

 そのために早期教育は、絶対欠かせないものであり、5歳児までが勝負になるという考えである。
 
 厳密に言えば、これは5歳児までは外から徹底的に詰め込んでおいて、6歳児以降は、本人自身で育つということになるかも知れない。

 そうね、そうねと言うだけで子どもたちは学ぶのか

 ふたつ目の傾向は、ひとつ目の人間は外からの働きかけで(教育で)育つ、という考えを「つめこみ」「子どもの否定」などとして「あるがままに育つ子ども」をあたたかく見守るなどとする傾向である。

 そして「子どものここによりそい」とか「ともに共感して、その子のこころを認めてあげる」などを言う。

 そう言いながら、何もしないのかと思えば、カウンセリングや教育相談として保護者から少なくないお金を受け取る。
 これでは、詐欺ではないか、という意見も出てきている。

 これらの二つの潮流は、子どもたちの発達を考えているようで考えていない。

 無責任ということが
     はやり言葉カタカナ表記で惑わされる

 はやり言葉で生徒の心に寄り添って、ということばがしばしば使われるが、男の先生が女の生徒に寄りそう、女の先生が男の生徒に寄りそう、ということを想定すればここには奇妙な問題が内在することになる。

 このことを指摘すれば、そういう風にとる人たちの考えに問題があるのだという怒りの声が返ってくるが、はたしてそういう人々は「寄りそう」という日本語の意味を理解しているのか疑問になる。

  子どもたちの事を考えているようで
      子どもの発達や教育の可能性を奪う


 

教育は、子どもたちを教えれば教えるほど効果をあげるものだろうか。

 教育は、子どもたちを放置して自然にしておけば育つのだろううか。

 高度に発達した現代社会に於いて、子どもたちの事を考えているようで、子どもを決めつけ、断定し、子どもの発達や教育の可能性を奪う主張が新たな装いをこらして横行しているようである。

 温故知新。
 1960年代中頃から1970年代にかけての聴覚障害児の早期教育と言われたことを紹介しているが、これは「過去」の問題ではなく、現在の問題であるとも言える。

 もっと言えば、過去の教育実践の蓄積を脇に置いて居るがゆえん、同じ過ちをくり返しているように思える。

 無責任。

 M君が「三無主義」に飛びついた時に、教育が無責任状態にさせられている、とも言ったように思えた。
                        ( つづく )

 

2013年11月6日水曜日

エリート インテグレーション 無関心の養成



( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 8 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 2歳からの「言葉の洪水」。
 京都ろう学校幼稚部では、先に挙げた理屈と実際の指導が次第に局限していく。

 いわゆる「たくさんのマッチ箱」論である。

   ことばを「マッチ箱」から引き出す?

 ようは、小学校入学まで「ことばのマッチ箱」をたくさんつくっておけばおくほど、聴覚障害児たちは「ことばのマッチ箱」から必要な「ことば」を出して話しに対応できるようになる。

 その「マッチ箱」が少なければ、ことばについて行けなくなり「小学校生活」が過ごせなくなる。

 その例が「9歳の壁」として主張されてきたのであり、「9歳の壁をのりこえ」られないのは、「ことばのマッチ箱」の少ない子どもだと言うことであった。

 
 すなわち、「9歳の壁」問題は、インテグレーシュンの失敗を引き起こした「劣等な子ども」たちにあり、「優秀な子どもたち」は、「9歳の壁」など生じないとしたのである。

 ここで、インテグレーシュンした生徒の優劣が決まるとされたのである。
 

  劣等生をふるい分ける意味としての「9歳の壁」


 このような重大な問題を含んだ「9歳の壁」ということばを、その内容を吟味することなく「ろう学校で出されてきた9歳の壁問題」として、今だ、論じる人がいるのは極めて残念なことである。

  「劣等な子どもたち」は、ここでふるい落とされる。

 そこには、人間の思考やことばといったものが多くのことばの箱に詰められたものであり、必要に応じてそのことばの箱からことばを取り出す、という機能になっていることへの科学的検証は、まったくない。

 むしろ、ことばを教えると言うことを口実にして人間を機械化して、周辺に「対応」できる人間を造ろうとしていたと言っても言いすぎではないように思う。

 
  喜びと感動をともなう「ことば」


無関心。

 当時、G君の言う「無関心」には、否定できないものがあった。

 諸説あるが、ヘレンケラーが「水=WATER」が解ったときは、それまで彼女に「入力」されていた指文字のサイン「W・A・T・E・R」が、水というものにふれることによって、その感覚と文字が重なり、「WATER」という一つの単語の意味が理解出来たという感動があったと思われる。

 でも、G君たちは、幼児期から遠足に行ってもことば漬けで、興味関心や不可思議さなどを一切味わうことがさせられなかったのである。

 「もみじ」 「あかい」
  「赤いもみじ」

 「きいろ」  「きいろいもみじ」

 こんな遠足は、子どもの心を感動で揺さぶっただろうか。
 ことばを覚えたことで、感動はななかった、とG君は振り返っていた。

 G君には「悪い生徒」とのレッテルが貼られた。

 素直、何でもよく聞き、覚える子が、インテグレーシュンの優等生だった。

 だが、このインテグレーションの優等生が、それまでの教えに疑問を持った時期が来るが、それが遅ければ遅いほど、そのブレは強烈になり続ける。

 ことばを覚えることに喜びと感動を。
           
                          ( つづく )

 

2013年11月4日月曜日

エリート インテグレーション 無気力の養成


  ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 7 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育

 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

                 無気力・無関心・無責任

  1970年代に入って三無主義という言葉が流行した。

 無気力・無関心・無責任。
 の三つである。
 このことに一番共感した聴覚障害生がすでにブログで述べたG君の話であった。
 彼は、幼稚部教育の矛盾と問題と人格形成に与えた影響について「見事に行動で示してくれた。」
 

猛獣のような生徒と言われた
    聴覚障害生徒の大波の向こう


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http://kyoikkagaku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_4844.html
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   今になって私はそう思える

  G君は、次のような事を書いた。

 私は京都ろう学校の幼稚部へ入学するまでは何一つおぼえていませんが、幼稚部へ入学してから中学1年まで、ろう学校の生活を送った。
 その生活の中でもいろいろと感動を味わった。
 私は同級生の中でも勉強の方は誰にも負けませんでした。
 授業に入るたびに先生が説明する前にも今日の勉強は何をするかは始めからわかっていたから。

 それは不思議と思っていたが、あとでわかったのは、私のお母さんが、私が耳がわるいとわかっていてその上に、お母さんまで中途難聴になったショックから、出来れば自分の息子だけでも不幸な世の中に送ってほしくないと思いながら、幼稚部に入ってから私への口話訓練をほかの人よりも倍にしこんでいたからだった。
 小学部からは、復習に予習に毎晩のように厳しくしこんでいたおかげであった。
 残念なことには、私のお母さんは、口話訓練についても、ほかの普通の人と同じように出来なかった……。

 というのは、お母さんが中途難聴のため、自分の息子のことばの声が聞きとれないためでもあったと思うし、その時、お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。
 でも当時の私は、勉強がよく出来るといってじまんしていたわけでもなかった。

と。

 今になって私はそう思えるようになった……と考えるまで多くの問題と荒波があった。
 このことから、青年期から成人期にかけての聴覚障害者は、自らの過去を振り返り、回復する力を持っているので、乳幼児期より難しくない、とする意見がある。でも決してそうではない。

 

  三つ子の精(たましい)死ぬまでも

 三つ子の精(たましい)死ぬまでも、という昔からの教えがあるように、乳幼児期に得られたものはその子の人生を左右すると言っても過言でもない。

 では、すべてそうなるのか、となるとそうではない。
 必要なときに必要な示唆が得られるようになると人間は回復するものである。

 そこに人間の人間たる素晴らしさがあるのだ。


 G君が「今になって私はそう思えるようになった」と懐の広い考えに到達するまでには長い時間と葛藤があった。
 彼と同じ幼児期を過ごした聴覚障害者には犯罪を犯すものも少なくなかった。

 だが、彼はそうまでにならなかったのはなぜか、を解明するつもりはない。
 彼自身の文章の中にそのことが織り籠められているからである。

      つくられた無気力

 ここで、G君が三無主義という流行に飛びついたのはなぜであろうか、を乳幼児期の教育との関係で少し明らかにしておきたい。

  無気力
 

 通常子どもたちはことばを覚え、言葉に関心を持ち始め、コミニケーションという交通手段を獲得していていく場合は、喜びや感動がある。
 あ、からあー、ああ、ああー、あん、あんと変化して子どもが言葉を発するときに
それを受けとめる側は声を発したことを喜び、あ、は何のことをいっているか考える。

 すべてが、あーであってもそれが喜びを持って迎えられるのである。
 そして、それが、まんま、と言っても必ずしもご飯のことを言っているのではないことも解りつつ「まんま」を受けとめる。

 そういう環境の中で、「まんま」は次第に分化して、「ご飯」のことを意味したり、「まま」とお母さんのことを意味したりするようになって行く。

  気持ちの交流が広がり 言葉も広がっていく

 ここにおける言葉のやりとりは、意味のないものの中に意味をたしかめるものであり、その中で分化する意味を子どもも受けても知って行く。
 

 そして、言葉を通じて気持ちの交流が広がり、言葉も広がっていくのである。

 子どもと回りの育ち合い、育つことの喜びがここには溢れている。
 

 だが、言葉の分化を先に教え込まれたらどうなるだろうか。

 「まんま」は、だめ「ご飯」

 「まんま」は、だめ「まま」

と。
 

 耳の不自由な子どもは、ほっておいたら間違った言葉を覚えてしまい、後々、大人になってもその言葉が正しいと思って使う。
 だから聞こえる子どもよりも先に、「キチンとしたことば」を教えておかないと大変なことになる。

 何か、説得力があるようで、疑問が残りつつ教師に力説されたとおり子どもに「ことば」を教えてきた。

 その結果が、G君を「無気力」と言う言葉が引き寄せた。
                                                      ( つづく )


 

2013年10月29日火曜日

エリート インテグレーション の養成



  ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 7 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  普通教育・普通学校 
 通常教育・通常学校 のまったく異なった内容

  京都ろう学校幼稚部の対応教育によって、幼稚部から普通小学校に行った生徒の資料がある。

 ただ、この資料には他府県から幼稚部に入るため一時移動した生徒の数は含まれていない。

 1970年代になると聴覚障害児の母親は子どもと一緒になってろう学校近くに仮住まいして幼稚部に通い、地元の普通小学校に入学した。

 このこと事態は、大変問題を含むことであるが、今回はそれについては述べない。
 なお、特別支援教育や「発達障害児」の指導から文部科学省の通達や文章で「通常学級」「通常学校」という言葉が一斉に使われている。

 しかし、「通常」という言葉は教育法などの制度にはない。そのため普通学校、普通学級という従来の言葉を使って述べる。

  もっと重視を 普通教育という意味

 
  特に、普通教育という言葉を考えるとき、日本国憲法に「普通教育」という用語が使われていることを想起して欲しい。


 日本国憲法第26条第2項には、

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする」。
とされている。

 憲法で使われている「普通教育」という用語は、憲法の指導精神と深く結びついたものであり、そこには、戦前の教育に対する根本的な反省、普通教育概念に関する歴史的認識や明治以降の普通教育についての歴史認識等が含意されているからである。

 特に、盲聾教育は、戦前からの歴史があるが後に述べる社会生活・仕事に就くことと関連して重要な意味を持っている。

  40年を経過しても解ってくる幼稚部教育の課題

京都ろう学校幼稚部から普通小学校に入学した生徒の推移(かなり正確であるが、)

 1966年    3人(5人は小学部へ・のちに全員難聴学級や普通校へ)

 1967年  2人(6人は小学部へ・のちに4人は難聴学級や普通校へ)

  1968年    2人(10人は小学部へ)

  1969年  4人(6人は小学部へ)

  1970年  2人

  1971年  5人(1人は小学部へ、1人は他府県のろう学校へ)

  1972年  11人

  1973年  7人(4人は小学部へ)

 1974年  12人(1人は小学部へ)


 現在、幼稚部を卒業した生徒は、40代であるが、そのほとんどの人々のその後、どのような悩みや要求や生き方をしたのかが大筋解る。

 これは、京都の教師たちが学校間を越えて聴覚障害教育について学習・交流したためであるが、プライベートな問題を除いて幼稚部教育がその後の生徒たちに与えた影響が相対的に解ってきている。

                                                                           ( つづく )
 

2013年10月25日金曜日

ともかく 話せればいい 話が分かればいい との方法論



( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 6 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

口話教育 
1965年前後ろう学校がすすめていた口話教育(対応教育)の理屈と実際


4,言語の聴覚補償の側面について

 これについては、早期に補聴器を装用させ正しく取扱いできる訓練が大切であることは論をまたない。

 しかし、言語指導のゆきづまりの打開として補聴器に期待した中、重度の難聴児の発音指導をこれにすりかえりょうとする考え方はまったく正しくないことをはっきりしておきたい。

 補聴器は、補聴器の助けがなくても十分に言語指導できる教育計画をより効果的にすすめる補助手段である。

 言語を十分に持っているこどもは、それによせて、聞く訓練をしていく時、途中失患者に似た高度の効果を示すものである。

 90㏈の壁は、聴力と補聴器の問題の他に、その子のもっている言語力とも関係をもつことを感じさせられる。

 以上の方法によって獲得した言語力を核として、ひっかかりとして、わからないことばがあった場合も、その場面や文脈の中で理解していくだけの力に高めることができると考えられている。

 言語を獲得する核を体得した上は、普通学級の中で豊富な言語環境の中で学習することが望ましいし、可能であるという考えである。

                       
 ( 京都聾学校幼稚部におけるインテグレーションの考え方より 終わり )    

  方法論・マニュアル主義の犠牲と教育


※ 1960年代後半に書かれた「京都聾学校幼稚部におけるインテグレーションの考え方」を引用してきた。
 ここには、「考え方」と「具体的指導には大きな違いが見られる。
 今回掲載した部分でも、「言語指導のゆきづまりの打開として補聴器に期待した中、重度の難聴児の発音指導をこれにすりかえりょうとする考え方はまったく正しくないことをはっきりしておきたい。
 補聴器は、補聴器の助けがなくても十分に言語指導できる教育計画をより効果的にすすめる補助手段である。」と断定している。
 ところが、考え方の基本部分では、「私たちの過去の失敗は、聴覚を奪われた子供たちに、本来聴覚からのみ容易に入る音声記号を、それには不適当な他の残された感覚経路からストレートに押し込もうとしたことにある。
 私たちは学習理論の原則に立ちかえって、彼らの残存感覚にもっと無理と抵抗のない信号をもちいて彼らに言語の存在に気づかせ、言語の価値を自覚させ、それを利用して耳の聴こえる子供たちに劣らない外界の把握と分割法を夫々の年齢で持たすべきである。そして次の段階で、彼らの信号をいくつかの条件づけの過程を経て、私たちの基本的伝達経路をしている音声言語へと移行させていく計画を立てるべきである。」と「残存感覚にもっと無理と抵抗のない信号をもちいて彼らに言語の存在に気づかせ」と述べている。

 当時の、京都聾学校の幼稚部では、子どもたちに補聴器を付けさせていても「事実上は何の意味」と考えていたのである。

  「90㏈の壁は、聴力と補聴器の問題の他に、その子のもっている言語力とも関係をもつことを感じさせられる。」としながらも当時、90㏈の子どもは幼稚部にほとんど在籍していなかった。


 後で述べるエリートインテグレーション(インテグレーションの成功した生徒)たちのほとんどは残存聴力があった子どもたちである。
 この点では、京都ろう学校幼稚部は、聴言室と呼ばれた「聴能教育」に取り組んでいる先生たちと連携しているようでいなかったのである。

 そして、基本的な考え方はさておいて、話せる、話が分かるという方法論に傾注していく。

 そして、とんでもない指導が基本的考えを打ち捨てて言語指導がされていく。
  これらの傾向は、現代の「発達障害指導」や「特別支援教育」などの傾向に「伝承されている」ように思えてならない。

 基本と方法の分離。方法論への終始。

 方法論と基本の相互関連。

 多くの問題と教訓がすでに投げかけられていた。      
                                                                                                        ( つづく )

 

2013年10月10日木曜日

公式・ドリル・ごほうび 見失われる感情


( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 5 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


口話教育 1965年前後ろう学校がすすめていた口話教育(対応教育)の理屈と実際

   知識欲の刺激 吸収の手段 疑問詞分割 


2,言語の概念的な側面について

 この拡充についてはもっとも力を注いでいるが、将来、統辞能力を培う時にもっと有効な分割方法として、又、知識欲を刺激し、吸収の手段となるものとしての疑問詞による分割法を重視している。

2才児教育相談

 A,身振り言語による経験の概念化をすすめる。

 B,絵記号を代表にして種と類の概念を養う。

 C,Key Word、なに、だれ、どこ、いくつ、(どんな)いろ、(どんな)かたち、どうして、

 などの概念をいれ、それによる外界の分割法を学習する。 

 この段階で、Cued Speech、口形図を用いて語を習得するものが100語前後になる。
 

 絵カードにより、種、類の概念を並べることで四語文相当の表現を理解し、反応できる。又、それが既につくり上げた100語文以外のものであれば、Cued Speechで追うことが出来る。

 二語文に入れる素地ができる。

3才児学級以降

 主として総辞訓練へ移行していく。

 この段階に通じて、私たちが重視しているのは事物と記号の結合ではなく、概念と記号の結合となること。

 そしてその概念が、年令相応に発達しているかどうかである。

3,言語の統辞的な側面について

 この問題については、私たち言語入門期のプログラムの文型のところに詳しいのでここでは詳細にふれないが、幼児が言語を生活の必要に応じて文として表出する動機を主軸として彼らの得る情報の乏しさでもっと統辞能力を獲得できるように計画した。

 しかし、これらの文型は、単なるドリルで形はめ的に学習できるものではない。
感情の動く生活の場を用意する努力の必要なことは当然である。

 だが、反面、子供自身が、公式を知ってそれをあてはめる次々回答でほめられるといった風なドリルを楽しめるような工夫がないと自動的に使えるまでの練習ができないことも事実である。
 


※ 概念形成が、年齢相応に発達しているかどうか、という視点は重要なものがある。
 ただ、ここで述べられている「概念」は年齢相応に発達して行く概念かどうかは、大いなる疑問が残る。
 1980年代に大阪教育大学のM教授は、言語指導としての口話は、将来、簡単に手話法に置き換わるように主張されるだろう、という指摘をしていた。

 たしかに、現在ろう教育に手話を主張する人々の多くが、乳幼児や学童期の子どもたちの「年齢相応」の発達を考えているかどうか大いなる問題がある。
 乳幼児や学童期の子どもたちの精神・肉体の発達を考えられているとは考えにくい。

 例えば、手話を教えるときに子どもたちの身体形成が十分でないのに大人でも肉体的負荷がかかる手指の動きを要求している。その最も悪しき傾向が指文字の導入である。
 医学的にも指文字は手話の中で最も手指腕に負荷がかかり、成人でも大きなダメージを与えることがあきらかにされている。しかし、なんのためらいもなく、乳幼児や学童期の子どもたちに教えられている。
 


ろう学校幼稚部の
 言語指導で

「彼らの得る情報の乏しさでもっと統辞能力を獲得できるように計画した」

「これらの文型は、単なるドリルで形はめ的に学習できるものではない。
感情の動く生活の場を用意する努力の必要なことは当然である」

としながら、

「子供自身が、公式を知ってそれをあてはめる次々回答でほめられるといった風なドリルを楽しめるような工夫がないと自動的に使えるまでの練習ができないことも事実である」
 
とドリル=知識や技術を習得するための反復練習・指導法や教材を肯定して行く。
 そして、反復練習を嫌がる子どもには、「ごほうび」が準備され「楽しめる工夫」がなされるのである。


 
 ここで、「感情の動く生活の場」が極限にせばめられ、子どもたちの感情表出は、「与えられたこと」に対して「それに応える」ことに限定されていく。
 

 2歳児に教える側から、「なに、だれ、どこ、いくつ、(どんな)いろ、(どんな)かたち、どうして」と迫られなどが続くと、

子どもたちから生じる気持ち「なに、だれ、どこ、いくつ、(どんな)いろ、(どんな)かたち、どうして」が出せると言えるだろうか。

 この逆転した発想と指導は、その後の子どもたちの人格形成に重大な悪影響を与えて行く。

 この頃の幼稚部のお母さん方は、子どもたちを動物園や遊園地に行くことに極端に嫌がった。
 特に、イルカショウーは「見たくない」という第一番であった。
                          

                                                                                                       ( つづく )
 

2013年10月6日日曜日

行動主義教育の導入がろう学校幼稚部の子供たちにあえた弊害

 


  ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 ④ )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

口話教育 1965年前後ろう学校がすすめていた口話教育(対応教育)の理屈と実際

  Cued Speechの導入とその消滅


3才児学級

 A,色分け口形図をCued Speechで読むことが出来る。

 B,ローマ字を利用した子音部と母音部を分離したり統合したりした方法での発音指導が出来る。

 C、Key Word、子供の名前などから自然に平仮名が読めるようになる。

 D,必要以外、音声表出に際してCueを使わないようにする。

4才児学級

 A、日本言語の各音韻の単音としての発音を殆ど完了する。 

  B,日本語のリズムの基調なる二音をなめらかに続けていく。
 

 C,個人別の意識的な発音指導をすすめる。

5才児学級

 A,文章の発音をくずれないように注意し、努力する。 

  Cued Speechとその考えの背景

※ Cued Speechについては、さまざまな評価がある。
 1960年代頃、ソ連では,早期から口話法に指文字を併用する方法が採られていた。当時、ソ連と対立するアメリカでも、手指の動きで話すことの手がかりを与えるキュード・スピーチcued speechが提唱・実践されていた。

 これらの傾向について、京都の聴覚障害児教育担当教師は、さまざまな文献を元に研究したが、ソ連とアメリカは、ともに教育手法をとりいれていて当時の時代背景から考えて教育交流がないと思われていたが、そうではないことが解ってきた。
  それは、現在でも主張されている心理学における「行動主義 behaviorism」でもあった。


  行動主義教育の導入の歪みと問題

   そのため刺激に対する反応としての行動からろう児を見て、客観的に究明しようとする傾向であった。

 このようなことを基に京都ろう学校では、Cued Speechとして「あかさたな……」の部分を記号化(これを身振りと言っていた)して言語習得の混乱を防ぎ、それが出来るようになると、Cued Speechとして「あかさたな……」の部分を記号化をと取り除いていくという方法である。

 2歳、3歳、4歳、5歳児の言語指導を見ても、

3歳児で

「子音部と母音部を分離したり統合したりした方法」

「自然に平仮名が読めるようになる」

など他の児童よりも数年早く幼稚部の生徒に教えていこうとするのであるから、当然そこには、

「ろう児の潜在能力が耳の聴える子供たちに対して何ら劣るものではないという見解に積極的に支持する。」

としながら、耳の聴える子どもたちより「超潜在能力」をつくり上げようとする。

 ここには、すでに無理と歪みが生じているが、「耳の聴える子供たちに対して何ら劣るものではない」という目的に傾注し続けるため「無理と歪みが生じている」ことを直視しない。

 形態は違ってもこれらと同じ動きが近年増幅しているのではないだろうか。
                         
                                                                                     ( つづく )

 

2013年10月2日水曜日



言語指導の方法論に翻弄されていくろう児たち
( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 ③ )

 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


口話教育 1965年前後ろう学校がすすめていた口話教育(対応教育)の理屈と実際

  ろう幼児に対して
 全体的成熟を遅らせない配慮して しかも語の習得を

 (尚残る問題として、どれだけの期間をかければろう児と耳の聴こえる子供たちの間の接点が出来るか、という問題がある)
 これについては、私たちは耳の聴こえる子供の言語的基礎が確立されるまでの期間と同じ期間にろう児にも言語の基礎を確立してやる必要があると考えている。

 この時間的な可能性の問題は耳の聴こえる子供がランダムに受ける言語刺激の中から語を拾い出し、語と語の間の統辞法を身につけていく過程を見る時、彼らの概念化、法則化の能力の発達に則してマチュリティの原則の枠内ですすめてことが、ろう幼児に対して、全体的成熟を遅らせない配慮して、しかも語の習得をその統辞法の習得を計画的に援助してやれば、聴覚の障害というハンディを克服できると私たちは考えている。

 

   京都ろう学校幼稚部における言語指導の方法論


 これについては、もう私たちにとっては過去のものとなったが、ろう教育モノグラムNO7「言語入門期のプログラム」をつくり、実践してその可能性を証征した。

 全ゆる言語指導に関する効果的評価法に先立つものは、ろう児に対する耳の聴こえる子供に劣らず伸び得るものだという評価と認識であると考えている。
 

  記号から入って
順次高次に条件づけて音声記号を駆使できるように

 京都校における言語指導の方法論

1,言語の記号的側面について
 

原則的については、既述のとおり、ろう児の残存感覚にとって無理と抵抗の最も少ない記号から入って順次高次に条件づけて音声記号を駆使できるように導いてゆく立場をとっている。

 2才児教育相談( 週一回、1h、 個別指導)

A,ここでは、まず身振り言語の積極的奨励をする。
  そのねらうところは、


  ① 言語の残存とその有効性を意識させる。

  ② 経験の概念化をたすけ、言語の巾広い土台をつくる。

     ③ 身振り言語の細分化と身体機能訓練を併行し、将来、音声言語に必要な    音器の発達への伏線をつくる。

B,次に視覚的な記号の識別訓練をする。
 そのねらうところは、

  ① 静止した且、2才児の知覚識別力の枠をこえない記号を利用して記号の    視覚識別訓練をする。

  ② 色と形の合成から成る口形図を単なる模倣ではなく、手がかりとして口    形表出できる訓練をする。

  ③ 最終のねらいは、日本語の音韻体系に叫応した彼等なりのCueを口形又    は、口声による音韻意識を頭の中につくっていく。

   2歳児の発達と言語 その理論と実践のはざま


 ※ 2歳児の言語獲得について、各論になると極めてはっきりとした差異が見られるようになっていく。

 今まで理屈と記述したのは、論理ではないからである。

 このことは、現在の多くの研究者が教育論理なり、教育心理なりをさかんに振りかざしているが、具体的実践を明らかにしている研究者は極めて少ない。

 その点で、「理屈」と「方法論」を明らかにしていた50年余前の幼稚部の教師のほうが正直であるかも知れない。
 しかし、現在も過去も教育の分野で教育理論と教育実践の双方向からの検討は極めて少なかったのではないだろうか。

 2歳児の言語指導の方法は、2歳児の発達を充分踏まえたものと言えるだろうか。

 また、

「身振り言語を駆使するなら、経験や概念の発達診断、推理の思考の発達において少なくとも幼児段階の精神発達で遅れを残すことはないはずだということを私たちに教えてくれるのである。」

という引用をしながら、

「将来、音声言語に必要な音器の発達への伏線をつくる。」

ということは、

「身振り言語」を解消する

ということであり、身振り言語を肯定したものでないことにも注目して欲しい。


 方法論は、子どもたちが方法通りに行かなかった場合は、すぐ方法やり方に問題にされ、基本的な考え=理論を見直すことはほとんどない。

 ここに、ろう教育の内包していた重大な問題がある。
           
                

         ( つづく ) 





 

2013年9月8日日曜日

模倣学習を中心に困難な音声言語をたたきこまれたらろう教育の壁に ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 ② )



 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


口話教育 1965年前後ろう学校がすすめていた口話教育(対応教育)の理屈と実際

  京都ろう学校幼稚部におけるインテグレーションの考え方  ②

] 私たちの過去の失敗は、聴覚を奪われた子供たちに、本来聴覚からのみ容易に入る音声記号を、それには不適当な他の残された感覚経路からストレートに押し込もうとしたことにある。

 私たちは学習理論の原則に立ちかえって、彼らの残存感覚にもっと無理と抵抗のない信号をもちいて彼らに言語の存在に気づかせ、言語の価値を自覚させ、それを利用して耳の聴こえる子供たちに劣らない外界の把握と分割法を夫々の年齢で持たすべきである。

  信号をいくつかの条件づけの過程を経
           音声言語へと移行

 そして次の段階で、彼らの信号をいくつかの条件づけの過程を経て、私たちの基本的伝達経路をしている音声言語へと移行させていく計画を立てるべきである。
 しかも、このようなこのような手続きを経ていくことが、ろう児の人間発達を遅らせるという論拠はどこにもないのである。

 自然法の著名な提唱者であるシントン校のGroht女史は、言語の理解と使用は豊かな経験を土台にして成り立つ、と言っているが、この豊かな土台、はこのような手続きの中でこそ真に育つものである。

  身振り言語を駆使するなら 
   幼児段階の精神発達で遅れを残すことはない

 ろう児の精神発達の問題を徹底的に再検討しているFarthは、非言語性テストにおけるろう幼児の成績が耳の聴こえる子供に比して本質的に劣りが見られないと結論しているが、彼はその秘密が、私たちの言語とは違うがそれにかわり得る何か別の手がかりを持っていることにあるようだと言っているが、このことは重大な示唆を与える。

 即ち、身振り言語を駆使するなら、経験や概念の発達診断、推理の思考の発達において少なくとも幼児段階の精神発達で遅れを残すことはないはずだということを私たちに教えてくれるのである。

  あまりにも単純な事物と記号の結合を急ぎすぎた

 私たちの過去の失敗の今一つの原因は、豊かな概念の発達を見落して、あまりにも単純な事物と記号の結合を急ぎすぎたことにある。
 ここで、言語の習得とは、一体どんなことか今一度考え直す必要があると考える。

 言語は、概念と記号との間に神経的促通が出来ることにより成り立つものである。

 Groht女史の豊かな経験は、豊かな経験の概念化と考えるべきである。

 言語の習得は、その所属する社会の成員が外界を分割している分割のしかたを学ぶことであるといわれている。

 それは人間として、その所属する社会の人々と同じものの見方を学ぶことである。

 この人間の成長と並行することなしに言語は育たないのである。

 K.レヴィンが、人間の大脳をトポロギー図で示した精薄の図はこの分割量の乏しさと、分割と分割の間の容易に転移、シフトしない固さを表している。
 
 模倣学習を主軸に
   困難な音声言語を叩きこまれたらろう教育の壁

 十分な概念の発達をはかることなくして、模倣学習を主軸に、困難な音声言語を叩きこまれたら、ろう児が固い、ろう教育の壁と言われる精神発達の停滞現象を示すようになるのは当然の帰結である。

 私たちのろう児に達成を望むものは、耳の聴こえる子供たちと同じ精神発達(当然言語発達もふくめたもの)である。

 そして、この可能性は、私たちの指導法を徹底的に改変していけば可能であるということもはっきりしたとしても、尚残る問題として、どれだけの期間をかければろう児と耳の聴こえる子供たちの間の接点が出来るか、という問題がある。

※ 十分な概念の発達をはかることなくして、模倣学習を主軸に、困難な音声言語を叩きこまれたら、ろう児が固い、ろう教育の壁と言われる精神発達の停滞現象を示すようになるのは当然の帰結である。
 と書かれている理屈は、教育実践とその展開でどのように行われたが検討して見る必要がある。
 
 基本的考えがそうであっても「 模倣学習を主軸に、困難な音声言語を叩きこむ」ことに繋がらないのか、を検証してみたい。
 なお、口話主義と単純に断定している人々は、「身振り言語を駆使するなら、経験や概念の発達診断、推理の思考の発達において少なくとも幼児段階の精神発達で遅れを残すことはないはずだ」と言うことを調べもしていないのではないかと思える。

  「身振り言語」から「手話」に行きつくことになるのかどうかを注視して読んでいただきたいと同時に「身振り言語」を否定していないことから口話主義批判をしても教育実践をすすめる側は、自分たちへの批判とは受けとめないのである。
 この複雑な縺れた糸を解きほぐすと極めて重要なことが明らかになる。

                                                                                                                ( つづく )
 

2013年9月2日月曜日

残酷な「ことばの宿題」の背景の理屈 ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 ① )

 
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
   すでに掲載したことをより深く考えるために

すでに以下のことを掲載してきた。

 残酷な「ことばの宿題」の項

  1969年当時、私はろう学校に用事があって行くときはいつも嫌だった。
 仁和寺のバス停を降りて、ろう学校に行く道すがら、青々とした樹々に覆われた道に心が洗われるのではなく、非常に苦しく、悲しい情景を見なければならなかったからである。


 樹々に覆われた道は夏は涼しく、春夏は心地よく、冬は京の底冷えを防いでくれた。
 だが、幼稚部から帰路につく親子の姿を見るのは辛かった。

 多くの場合は、お母さんが本気で子どもにビンタを打ち続けるか、拳を振り上げ頭をたたいているかのどちらかであった。
 その他の光景は見ることはなかった。

 お母さんの言っている様子からすると、子どもが今日の「授業」でしくじったこと。ことばを覚えていないことを大声で繰り返し、子どもに「教えて」いた。
 子どもは泣いて、お母さんはすごい形相をしている。
「ナニナニでしょう。もう一度行って」
「〇∥…~」
「ちがうでしょ。もう一度。」とビンタ。
 何度そのような姿を見たか知れない。

 親の必死さは解らないでもないが、あの暴力の中で5歳までの子どもたちが「ことば」を教えられていいのだろうか。

 そんな思いがするのでいつも幼稚部帰りの親子に出くわさないように行くのだが、「ことば」を覚えていなかった子どもは残されるので、遅く行けば行くほど「見てられない光景」に出くわした。

 その当時、ろう学校幼稚部では親子がそろって授業を受け、多くの宿題を持ち帰って「ことば」を覚えさせる「宿題」があった。
 それは小学校入学までに覚えれば覚えるほどいいのだ、とされていた。

 そして、それがこなされない子どもは、たとえ普通小学校に入っても「9歳の壁」にぶつかり、ろう学校にUターンせざるを得なくなると経験主義から出された方針が一水の隙もないほどに貫徹されていた。

 声を出さない私達の口形が どれだけ読みとれますか ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(3)の項

  ある先生のお話では、このためには、やはり三才位から、十分な教育条件を整えてやらなければ不可能だとおっしゃいました。

 私達は殆どが六才~八才になってろう学校へ入って来た者ばかりです。
 当時は幼稚部もありませんでしたし、かりにあっても家庭の事情で、その教育を受けられるものばかりではありませんでした。

 家が遠く寄宿に入っても寮母さんは私達の食事や身のまわりの世話に忙がしくて、とても学校で学習したことを教えて下さる余裕はありません。

 これらの現象の背景になった幼稚部教育の考えを当時のC先生の文章を以下、掲載したい。

口話教育
 1965年前後ろう学校がすすめていた口話教育
   (対応教育)の理屈と実際

  京都ろう学校幼稚部におけるインテグレーションの考え方

 ろう児を普通小学校に入学させて、普通児と共に勉強させることは可能であるという基礎には、幼児期に特別な教育方法をとることによって、ろう児も普通児と変わらない言語能力を獲得させることが出来るという考え方である。
 従来の「純粋口話法」の批判の上に立った新しい方法をとることによって、たしかにろう児の言語能力は著しくのびたといえる。
 以下は、京都校における言語指導法の基本的な考えをまとめたものである。


  京都校における言語指導法の基本的な考え方

 あらゆる末梢的な技術的な方法の根本となるものとして、私たちは、ろう幼児の学習能力をどのように評価し、把握すべきかという問題、即ち、ろう幼児に関する私たちの認識の問題がまず明確にされる必要があると考える。

 私たちは、この問題に関しては、長い間、心理学者と現場のろう教育者の間に対立があったこちを知っているが、はっきりと心理学者の側に立っている。
 即ち、ろう幼児の潜在学習能力が耳の聴こえる子供たちに対して、なんら劣るものではないという見解を積極的に支持する。
 そして、ろう幼児が耳の聴こえる子供たちと同じように伸びないとすれば私たちの指導法の側に問題があると考える立場に立っている。

 これは、大脳生理学的に見ても明確に判断の下せることである。聴覚障害者は
言語獲得のための決定的なダメージではない。

 単に聴覚を奪われただけのろう幼児の場合、その大脳は経験し、記憶し、それを概念化し、さらにそれを記号と結びつけて言語を習得していくためのどの重要な部分にも克服できない程、広範囲に及ぶ損傷を受けているという根拠はないのである。
 その根拠を最も端的に立証したのは、ソビエトにおける指文字を導入したろう幼児教育の実践である。

 全ゆる条件をコントロールされた実験群と統制群の間の大きな言語的能力の修得度の差は、はっきりとろう幼児が伸びるか伸びないかの差は、彼らに対する指導法が適切であるか否かという問題があることを教えてくれている。

                                                                   ( つづく )