( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 2 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
聴覚障害児の親の血と涙と汗の要求
ろう学校幼稚部を卒業して、普通校に入学した聴覚障害児は親が教科を教え、教師は集団になじませる、などなどのことはうまく出来るはずがない、ことは明らかだった。
そのため普通校に入学した親は、自己責任ではなく多くの人々と一緒になって聴覚障害児の教育保障を要求した。
京都府教育委員会は、各市町村教育委員会と協議して通級制の難聴学級。
すなわち「聞こえの教室」(難聴学級と言わなかった。高度難聴の子どもも通級するという考えであったからである。)をつくり、定期的にそこへ聴覚障害児が通ったり、必要に応じて常時相談体制をつくるようにした。
同時期、「ことばの教室」もつくられていた。
聴覚障害児の在籍する学校は、広域なので一校につくると他の聴覚障害児がなんの保障も受けられないという状況の中で考えられたものであった。
だが、聴覚障害児の多くは京都市内の学校に入学していた。
ここでは、京都府立学校と京都市立学校、学校市町村学校という教育委員会との管轄の問題があった。
京都府教育委員会と京都市教育委員会は、京都市が政令指定都市という関係で同格の権限を持っていた。
京都府教育委員会と京都市教育委員会の違い
京都のとなりの府。大阪府も大阪市も同様のことがあったが、大阪府立ろう学校と大阪市立ろう学校をつくっていた。
しかし、京都の場合は、歴史的経過の中で京都府立ろう学校だけしかつくられていなかった。
京都市は、この問題に対応すべく固定制の難聴学級をつくった。
固定制の難聴学級と通級制の聞こえの教室の大きな違いは、固定制の難聴学級の場合は地元の小学校に入学せず難聴学級のある学校に入学しなければならないが、通級制の「聞こえの教室」は、地元の学校に入学して必要に応じて「聞こえの教室」に通ったり、援助(サポート)を受けるという違いがあった。
聴覚障害児への線引きと分断
さらに京都市教育員会は、固定制難聴学級入級基準を中度とし、その㏈まで定め、軽度・中度は難聴とするが「ろう」は、難聴ではないので入級できないとした。
この㏈値をめぐる問題は書けば切りがないほど経過がある。
軽度・中度・高度(重度)というのはあくまでも区分であってそれに対して、善悪や優劣の評価を加えることは、別の問題であるが、日本ではこのことが混合されて理解されていることもある。
当時、聴覚障害児教育に携わる教師たちの中には、聴覚障害についてかなり専門的な研究や実践経験を持っていたため5㏈や10㏈の違いで線引きすることは非科学的なものであることを充分承知していた。
京都市教育委員会は、肢体不自由養護学校入学基準でもIQで線引きしていた。
数値的線引き・基準との闘い
このことに対して親の中には多くの疑問や改善を求める声があったが、「基準」は基準として京都市教育委委員会は変更しようとはしなかった。
1960年代から1970年代にかけては、障害児教育の分野において、数値的線引き・基準との闘いも大きな課題であり、それを乗り越えていくだけの力量が求められた。
現在、その基準なるものの再来が教育の分野に持ち込まれていることを考えると教育の歴史に対する逆流とも言える。
1960年代から1970年代にかけての血と涙と汗にまみれた公的保障が蔑ろにされてはならない。
( つづく )
( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師親の反論 1 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
教科については親が責任
社会性を身につけることが小学校の教師の責任
ろう学校幼稚部を卒業した子どもたちは、大きな集団である地域の普通小学校通学することで、社会性も見につき育てられるとされていた。
教科については親が責任を持ち、学校は友だち関係の中で育つようにする。
さらに、社会性を身につけることが小学校の教師の責任とされ、ろう学校幼稚部ではその課題を任せていた。
どちらかが仕事を辞めざるを得なかった
ここでは、親の経済力はまったく考えられていないばかりか家庭環境も考えられていなかった。
経済的に困難な親は、5歳までに聴覚障害のわが子に教育をしないと一生子どもが困ることになる。
聴覚に障害があると分かってあらゆる所をまわったが、結局幼稚部にすがるしかなかった。
親同伴の幼稚部教育では、両親が働いていた家庭ではどちらかが仕事を辞めざるを得なかった。それは、また経済的な困窮を生みだしていった。
ほとんどの家庭では、母親が仕事を辞めていた。
お父さんが幼稚部に付き添い
休みの日には単身外国に行き商売
6年ほど前、N県のお父さんとたまたま別のことを話していて、娘さんが聴覚障害があったので幼稚部に通うときに、お母さんが仕事を辞めるか、お父さんが仕事を辞めるかの深刻な話しになった。
結局、お母さんは、資格を持っていてお母さんのほうが収入が多かったので、お父さんが仕事を辞めて幼稚部に付き添った。
そして、夏休みなどを利用して単身外国に行きある品物を買って販売する仕事をはじめたという。
「低開発国」と言われる国に行って、話が充分分からないまま仕事をはじめていたが、「物乞い」をする子どもたちが、家族を支えているために働いていることが理解出来るようになった。
さらに、その子どもたちの中に多くの障害児がいることも。
彼らには、いじめはなく、どんなに貧しくても助け合っていることが分かって胸が熱くなった。
当然、自分の子どもと同じような聴覚障害の子どももいた。
仕事を辞めて新しい世界に飛び込んで、日本と「低開発国」と言われている国々の教育を考えるようになった、と話された。
裕福な家庭との違いが子どもに現れていたが
裕福な家庭は、子どもに家庭教師をつけ予習、復習をさせていたが、経済的に困難を抱える家庭では、とてもそんなことは出来なかった。
当然、普通校の中で学ぶ聴覚障害児の子どもたちに差が出てきた。
もともと、教科は学校ではなく家庭でするということ自体矛盾がありすぎた。
しかし、ろう学校幼稚部では、普通校に行った生徒には、何らかの形でアフターケアをするということになっていた。
このアフターケアを良心的に行う教師と「付け届けなど」を当然とする教師があったが、それは決して表面化しないタブーであった。
ところが、1973年3月に卒業するよう幼稚部生徒に対して、ろう学校では進学先の小学校の発音指導はしてはならないということが突然出されてきた。
( つづく )
( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師親の反論 1 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
京都府立ろう学校が、幼稚部生徒を普通校に入学させるといういわゆるインテグレーションは、1966年から実行されていたが、1969年に文部省は協力者会議でインテグレーションの問題を取りあげる。
しかし、このインテグレーションの紹介は、今日のように大々的に報道したり、核マスコミも大きく取りあげるようなものではなかった。
教育は、不当な支配に服することなく
国民全体に対し直接に責任を負う
それは、当時の教育行政が教育基本法の第10条を守らなければならないという制約があったからである。
教育基本法
第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
2006年改正
(教育行政)
第十六条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。
各学校の実践が重んじられていた
そのため文部省や各都道府県教育委員会は、文部省の方針に沿った教育をさかんに奨励しその取り組みを広げた。
京都府立ろう学校幼稚部が取り組んだインテグレーションは、京都府教育委員会の意向とは関係なくすすめられていた。各学校の実践が重んじられていたからである。
それは教育基本法から考えても当然のことであった。
この時期でよく誤解されて理解されているのは、1970年代に入って京都府教育委員会委員長をめぐる京都府と文部省との対立から京都府教育委員会と文部省はもともと対立関係にあったと考えられていることがある。
しかし、ろう学校幼稚部でインテグレーシュンが行われた時期は、決してそういう関係ではなかった。
むしろ、京都市委員会の方が文部省路線を踏襲していた。この矛盾は、さまざまな所で生じる。
分かりやすく書くと、京都府教育委員会は、各市町村教育委員会に助言等はできた。しかし、京都市が特別政令都市であったため京都市教育委員会とは同格であった。
ろう学校幼稚部の教師から ひろがりはじめた疑問
1970年になって、ろう学校幼稚部の教師の中にインテグレーションについて、次第に疑問が出てきた。
すでに述べてきた京都方式と呼ばれる「対応教育」が一定の成果を収めていると言われていることに対して、それはアメリカの行動主義的発達観の色合いが濃く、子どもたちの集団の発達を考えていない。
個人の能力のみをとらえ、子ども「のび」は、その子ども1人1人、親一人一人、教師一人一人の力量にのみにされている。
ことなどに、多くの疑問が出てきた。
しかし、その疑問を出すことすらかなわない学校の状況の中で幼稚部の方針が強固におしすすめられ、ともかく聴覚障害児が普通小学校へ出ることのみが目的になってしまっていた。
それがインテグレーションとされた。
ところが、このことをめぐって教師と親が真剣に相談し行動する事態が生じてきた。
( つづく )
( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 9 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
子どもの努力と家族の努力+教師の努力の追求
2歳で、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして。
3歳で、ひらがなが読めるように。
4歳で、日本語の単音の発音を完了する。
このことを集中的に指導された子どもには「ついてゆけなく」なる子どもがいる。
この子どもたちは、子どもの努力と家族の努力が責任として問われる。
小学校に入学して以降は、子どもの努力と家族の努力+教師の努力が責任として問う。
幼児期の取り組みが終わったのだからとして。
責任押しつけ 責任逃れの教育
小学校は、なんとか聴覚障害児の教育に取り組み、幼児教育からの責任追求を逃れて、中学校に「下駄を預ける。」
中学校は、小学校からの責任追求を免れ、高校になんとか入学させようとし、入学したら高校の責任「追求」する。
ところが、高校は義務教育でないので原級留置や退学がある。
ろう学校幼稚部を卒業した親はその間で揺れ動く。
一方、「おとなしくていい子」でない子どもたちは、小学校段階から親の言っている事や自分への「しつけ」に疑問を持ちはじめ、健聴の子どもとのあまりにも大きな「違い」に気がつきはじめる。
こんなしんどい目をするのやったら
そして言う。
「なんでお母さんは、ことばことばを言うのや」
「こんなしんどい目をするのやったら聞こえる子どものようにならなくてもいい。」
「ほっといて」
などなど、急激に親に対する「反発」が強くなり「悲劇が拡大」していく。
従順な子どもがインテグレーションの成功例?
そういう子どもは、インテグレーションできない子どもである、とされ、はい、はい、と「素直に従う子ども」がいることを例にあげて「インテグレーションの成功例」とされる。
そして、なんの「保障」もなしに、有名大学に入り成績優秀な聴覚障害生徒として評価される。
次世代の親には、インテグレーションの成功例を示し、失敗しないためには幼稚部教育のカリキュラムをすべてやり遂げることを強調する。
ここには、育っていった生徒たちから学んで「幼稚部教育のカリキュラム」を見直し、さらに適切なものにしていこうという姿勢はなかった。
何もしなくてよい良い やりたいことをする自由?
すでに述べた最近、発達障害児の教育指導等をめぐって、一部で子どもたちに、何もしなくてよい良い、やりたいことをする自由、ただ、他人のじゃまをしない節度、の中で子ども自身が育つかのように強調する傾向と対比すると、どちらも子どもたちの内面の発達を見ていないことがわかる。
ろう教育から引用した「9歳の壁」をとりあげ、9歳の問題を主張する人々もまた子どもの内面を見ていないのである。
なぜなら、子どもたちを年齢別に見る傾向も、幼稚部・小学校・中学校・高校・大学・社会と見る傾向も人間を分割・細分化して見ているに過ぎないからである。
人間が産まれてから死ぬまでの過程を踏まえて、重点的に学校教育や年齢を踏まえた主張ではない。
○○○だから○○○しなければいけない
そもそも
2歳で、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして。
3歳で、ひらがなが読めるように。
4歳で、日本語の単音の発音を完了する。
を子どもたちに「教える(注入する)」ことが、人間の摂理にかなった教育なのか、どうか、すら検討されもしないで「9歳の壁」ということばがひとり歩きさせられている。
2歳が、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして、とまで話せること自体が「非常識」なのである。
このような超天才教育と言うべき理屈がまかり通るのは、「聴覚障害」があるからということである。
聴覚障害だけではなく、いろいろな障害がある場合、○○○だから○○○しなければいけない、ということもまかり通っていないだろうか。
障害児教育分野では、人間としての常識からはじまる教育が、人間としての非常識からはじめる教育に打ち負かされることがしばしばある。
( つづく )
( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 9 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
人間の発達や教育をめぐる二つの潮流
人間の発達や教育を考えた場合、二つの潮流がある。
ひとつは、人間は外からの働きかけで(教育で)育つ。
ふたつは、人間は、人間は本来持っている力で育つ。
というふたつだろう。
詰め込めば詰め込むほど子どもたちは学ぶのか
前者は、すでに明らかにしてきたろう学校幼稚部の「対応教育」である。
小学校入学までにことばや文字を習得しておいて、小学校入学以降はことばの世界に入って普通児と同じように育っていく。
そのために早期教育は、絶対欠かせないものであり、5歳児までが勝負になるという考えである。
厳密に言えば、これは5歳児までは外から徹底的に詰め込んでおいて、6歳児以降は、本人自身で育つということになるかも知れない。
そうね、そうねと言うだけで子どもたちは学ぶのか
ふたつ目の傾向は、ひとつ目の人間は外からの働きかけで(教育で)育つ、という考えを「つめこみ」「子どもの否定」などとして「あるがままに育つ子ども」をあたたかく見守るなどとする傾向である。
そして「子どものここによりそい」とか「ともに共感して、その子のこころを認めてあげる」などを言う。
そう言いながら、何もしないのかと思えば、カウンセリングや教育相談として保護者から少なくないお金を受け取る。
これでは、詐欺ではないか、という意見も出てきている。
これらの二つの潮流は、子どもたちの発達を考えているようで考えていない。
無責任ということが
はやり言葉カタカナ表記で惑わされる
はやり言葉で生徒の心に寄り添って、ということばがしばしば使われるが、男の先生が女の生徒に寄りそう、女の先生が男の生徒に寄りそう、ということを想定すればここには奇妙な問題が内在することになる。
このことを指摘すれば、そういう風にとる人たちの考えに問題があるのだという怒りの声が返ってくるが、はたしてそういう人々は「寄りそう」という日本語の意味を理解しているのか疑問になる。
子どもたちの事を考えているようで
子どもの発達や教育の可能性を奪う
教育は、子どもたちを教えれば教えるほど効果をあげるものだろうか。
教育は、子どもたちを放置して自然にしておけば育つのだろううか。
高度に発達した現代社会に於いて、子どもたちの事を考えているようで、子どもを決めつけ、断定し、子どもの発達や教育の可能性を奪う主張が新たな装いをこらして横行しているようである。
温故知新。
1960年代中頃から1970年代にかけての聴覚障害児の早期教育と言われたことを紹介しているが、これは「過去」の問題ではなく、現在の問題であるとも言える。
もっと言えば、過去の教育実践の蓄積を脇に置いて居るがゆえん、同じ過ちをくり返しているように思える。
無責任。
M君が「三無主義」に飛びついた時に、教育が無責任状態にさせられている、とも言ったように思えた。
( つづく )
( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 8 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
2歳からの「言葉の洪水」。
京都ろう学校幼稚部では、先に挙げた理屈と実際の指導が次第に局限していく。
いわゆる「たくさんのマッチ箱」論である。
ことばを「マッチ箱」から引き出す?
ようは、小学校入学まで「ことばのマッチ箱」をたくさんつくっておけばおくほど、聴覚障害児たちは「ことばのマッチ箱」から必要な「ことば」を出して話しに対応できるようになる。
その「マッチ箱」が少なければ、ことばについて行けなくなり「小学校生活」が過ごせなくなる。
その例が「9歳の壁」として主張されてきたのであり、「9歳の壁をのりこえ」られないのは、「ことばのマッチ箱」の少ない子どもだと言うことであった。
すなわち、「9歳の壁」問題は、インテグレーシュンの失敗を引き起こした「劣等な子ども」たちにあり、「優秀な子どもたち」は、「9歳の壁」など生じないとしたのである。
ここで、インテグレーシュンした生徒の優劣が決まるとされたのである。
劣等生をふるい分ける意味としての「9歳の壁」
このような重大な問題を含んだ「9歳の壁」ということばを、その内容を吟味することなく「ろう学校で出されてきた9歳の壁問題」として、今だ、論じる人がいるのは極めて残念なことである。
「劣等な子どもたち」は、ここでふるい落とされる。
そこには、人間の思考やことばといったものが多くのことばの箱に詰められたものであり、必要に応じてそのことばの箱からことばを取り出す、という機能になっていることへの科学的検証は、まったくない。
むしろ、ことばを教えると言うことを口実にして人間を機械化して、周辺に「対応」できる人間を造ろうとしていたと言っても言いすぎではないように思う。
喜びと感動をともなう「ことば」
無関心。
当時、G君の言う「無関心」には、否定できないものがあった。
諸説あるが、ヘレンケラーが「水=WATER」が解ったときは、それまで彼女に「入力」されていた指文字のサイン「W・A・T・E・R」が、水というものにふれることによって、その感覚と文字が重なり、「WATER」という一つの単語の意味が理解出来たという感動があったと思われる。
でも、G君たちは、幼児期から遠足に行ってもことば漬けで、興味関心や不可思議さなどを一切味わうことがさせられなかったのである。
「もみじ」 「あかい」
「赤いもみじ」
「きいろ」 「きいろいもみじ」
こんな遠足は、子どもの心を感動で揺さぶっただろうか。
ことばを覚えたことで、感動はななかった、とG君は振り返っていた。
G君には「悪い生徒」とのレッテルが貼られた。
素直、何でもよく聞き、覚える子が、インテグレーシュンの優等生だった。
だが、このインテグレーションの優等生が、それまでの教えに疑問を持った時期が来るが、それが遅ければ遅いほど、そのブレは強烈になり続ける。
ことばを覚えることに喜びと感動を。
( つづく )
( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 7 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
無気力・無関心・無責任
1970年代に入って三無主義という言葉が流行した。
無気力・無関心・無責任。
の三つである。
このことに一番共感した聴覚障害生がすでにブログで述べたG君の話であった。
彼は、幼稚部教育の矛盾と問題と人格形成に与えた影響について「見事に行動で示してくれた。」
猛獣のような生徒と言われた
聴覚障害生徒の大波の向こう
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今になって私はそう思える
G君は、次のような事を書いた。
私は京都ろう学校の幼稚部へ入学するまでは何一つおぼえていませんが、幼稚部へ入学してから中学1年まで、ろう学校の生活を送った。
その生活の中でもいろいろと感動を味わった。
私は同級生の中でも勉強の方は誰にも負けませんでした。
授業に入るたびに先生が説明する前にも今日の勉強は何をするかは始めからわかっていたから。
それは不思議と思っていたが、あとでわかったのは、私のお母さんが、私が耳がわるいとわかっていてその上に、お母さんまで中途難聴になったショックから、出来れば自分の息子だけでも不幸な世の中に送ってほしくないと思いながら、幼稚部に入ってから私への口話訓練をほかの人よりも倍にしこんでいたからだった。
小学部からは、復習に予習に毎晩のように厳しくしこんでいたおかげであった。
残念なことには、私のお母さんは、口話訓練についても、ほかの普通の人と同じように出来なかった……。
というのは、お母さんが中途難聴のため、自分の息子のことばの声が聞きとれないためでもあったと思うし、その時、お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。
でも当時の私は、勉強がよく出来るといってじまんしていたわけでもなかった。
と。
今になって私はそう思えるようになった……と考えるまで多くの問題と荒波があった。
このことから、青年期から成人期にかけての聴覚障害者は、自らの過去を振り返り、回復する力を持っているので、乳幼児期より難しくない、とする意見がある。でも決してそうではない。
三つ子の精(たましい)死ぬまでも
三つ子の精(たましい)死ぬまでも、という昔からの教えがあるように、乳幼児期に得られたものはその子の人生を左右すると言っても過言でもない。
では、すべてそうなるのか、となるとそうではない。
必要なときに必要な示唆が得られるようになると人間は回復するものである。
そこに人間の人間たる素晴らしさがあるのだ。
G君が「今になって私はそう思えるようになった」と懐の広い考えに到達するまでには長い時間と葛藤があった。
彼と同じ幼児期を過ごした聴覚障害者には犯罪を犯すものも少なくなかった。
だが、彼はそうまでにならなかったのはなぜか、を解明するつもりはない。
彼自身の文章の中にそのことが織り籠められているからである。
つくられた無気力
ここで、G君が三無主義という流行に飛びついたのはなぜであろうか、を乳幼児期の教育との関係で少し明らかにしておきたい。
無気力
通常子どもたちはことばを覚え、言葉に関心を持ち始め、コミニケーションという交通手段を獲得していていく場合は、喜びや感動がある。
あ、からあー、ああ、ああー、あん、あんと変化して子どもが言葉を発するときに
それを受けとめる側は声を発したことを喜び、あ、は何のことをいっているか考える。
すべてが、あーであってもそれが喜びを持って迎えられるのである。
そして、それが、まんま、と言っても必ずしもご飯のことを言っているのではないことも解りつつ「まんま」を受けとめる。
そういう環境の中で、「まんま」は次第に分化して、「ご飯」のことを意味したり、「まま」とお母さんのことを意味したりするようになって行く。
気持ちの交流が広がり 言葉も広がっていく
ここにおける言葉のやりとりは、意味のないものの中に意味をたしかめるものであり、その中で分化する意味を子どもも受けても知って行く。
そして、言葉を通じて気持ちの交流が広がり、言葉も広がっていくのである。
子どもと回りの育ち合い、育つことの喜びがここには溢れている。
だが、言葉の分化を先に教え込まれたらどうなるだろうか。
「まんま」は、だめ「ご飯」
「まんま」は、だめ「まま」
と。
耳の不自由な子どもは、ほっておいたら間違った言葉を覚えてしまい、後々、大人になってもその言葉が正しいと思って使う。
だから聞こえる子どもよりも先に、「キチンとしたことば」を教えておかないと大変なことになる。
何か、説得力があるようで、疑問が残りつつ教師に力説されたとおり子どもに「ことば」を教えてきた。
その結果が、G君を「無気力」と言う言葉が引き寄せた。
( つづく )