2012年11月30日金曜日

山城高校で 手話を教えることは ろう学校と同じになる?

 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
             「聴覚保障」と手話

 山城高校の聴覚障害教育では、「聴覚保障」を柱にしていたことはすでに述べた。
 だから、あらゆる「聴覚保障」の取り組みを考えてきた。

 今までは非常に安価になっているが、ボードに打ち合わせたことを印字して、もう一度確認することの出来るボードなども購入していた。
 聴覚活用では、ろう学校の聴言室と連携したり、そこの担当者が異動してきたりしていた。

 だが、「聴覚保障」は、聴覚障害生徒がただ単に「してもらうという受け身」ではなく、自らも働きかけ、みんなと協力・共同することも重視してきた。
 その中で、新たなる「聴覚保障」が、見いだせることもあった。

 
手話を学校が取り組むというのは
      ろう学校と同じになる

 山城高校内での手話の広がりと手話部というクラブの活動は、「聴覚保障」の重要な一つとしてみんなで学んでいく必要があった。

 だが、この手話に対して一番多く抵抗したのは、聴覚障害生徒たちと保護者であった。

 手話を学校が取り組むというのは、普通高校に来た意味がない。
 手話を学校が取り組むというのはろう学校と同じになると言うことではないのか。

 激しい意見が出されてきた。
 だが、おかしいことに、ろう学校では手話は少なくない場面で取り入れられていたが、すべてではなかった。
 手話=ろう学校でもなかったし、口話=ろう学校ではなかった。
 これらのことは、聴覚障害生徒も保護者も充分知っていながら「ろう学校と同じになると言うことではないのか」と山城高校の聴覚障害教育を批判したのである。
 聴覚障害生徒の中には

「私は難聴だ。絶対ろうではない。」
「難聴とろうと同じにしてほしくない。」
「絶対、手話を学ばないし、覚えようとはしない。」

と言い切る生徒も多かった。

   くり返してはいけない
 抵抗を持つ聴覚障害生徒を一方的に押さえつけること

  ろう学校から来た生徒は、手話が出来ると思い込んでいるものの手話を否定する聴覚障害生徒に何も言えない状況があった。
 山城高校で最低必要な手話テキストを創ることは簡単だった。

 だが、そのテキストで教えると、コミニケーション手段に抵抗を持つ聴覚障害生徒を一方的に押さえつけることにもなる。
 当時話題になっていたスウェーデンのろう学校・カルフォルニア州立大学で手話を取り入れれた経過を調べてみ
た。
  どちらの場合も、現にその国で使われている手話を徹底的に調査、記録していた。

 さらに、学習に必要な用語で、手話が確立していない場合はその用語に近い手話の特質を踏まえて考えられていた。

  生徒の自主性と自分に合った表現 コミニケーション

 前野良沢と杉田玄白が、解体新書を翻訳したような取り組みがなされていたのである。

 しかも、スウェーデンのろう学校では、日本で言う高校の時期には

「手話で受ける授業か」

それとも

「口話で受ける授業か」

が生徒の選択講座として位置づけられていた。

 このことは、聴覚障害教育だけでなく、教育全体でも重要な意味を持っていた。

 それらのことを考えて、手話テキストを作って生徒に教える方法は、よくない。
 生徒の自主性と自分に合った表現、コミニケーションが必要ではないかと考えた。





 

2012年11月26日月曜日

楽しい野球と手話学習のはじまり

 
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
  楽しい野球を生徒に教えた先生

 山城高校定時制では、全日制と違う動きだった。

 聴覚障害生徒は、クラブ活動に参加したけれど、特に野球部に多く所属していた。
 野球部の監督・顧問の先生は、必要なときはピシャリと言うが、生徒の自主性をことのほか大切にして「楽しい野球」を生徒に教えていた。


 野球部に聴覚障害生徒が入部したときも、特に他の健聴生徒に聴覚障害生徒の状況についてあれこれ言わずにじっくり見守る先生だった。

 先生は、責任感や正義感が強く、ことのほか弱いものをいじめることに対して厳しい注意をしたが、それ以外はランドの最終点検をして定時制の中でも一番遅く帰る先生だった。

      グランドの土に字を書いて「筆談」

 野球部員は、なんの気兼ねもなしに練習をしていたが、時々食い違うことが起きる。
 そんな時は、照明が十分でないため一番明るいバックネットの前に集まり、グランドの土に字を書いて「筆談」をした。
 野球部員には、ろう学校から来た生徒も多く、「筆談」を読んで、手話で聴覚障害生徒同士に連絡し合っていた。

 「?」と思ったのは、健聴生徒だった。
 聴覚障害生徒のする手話を見て、自分たちも同じ動きをした。


 「イケー」「ヒキカエセー」「ハシレー」
 


  「なんだ簡単じゃないか」

 

 クラブ員は、次から次へと手話を覚え始めて、野球のサインと手話を「合成」していった。

  神宮球場より  お互いの気持ちが通じ合うことの喜びのほうが

 他の定時制との野球部の試合。

 山城高校の定時制の野球部は、へんなサインをしているぞ、と思ったらしいが、なんの「サイン」かまったく解らなかった。
 そうするうちに、チームワークと連絡が密に取れる山城高校の定時制の野球部が次々点数をとる。

 今までとはまったく違う様子にとまどった、との話は野球部の顧問会議ででた、との報告があったのはしばらくしてからのことだった。
 定時制の野球部の甲子園は、神宮球場だった。
 これなら、行けるかも知れないと思われたけれど、野球部員はお互いの気持ちが通じ合うことの喜びのほうがはるかに大きかったらしい。


      なるほど うまいこと表現する

 だが、練習やお互い帰宅途中の食事時に、どうしても食い違うことがある。
 健聴生徒も聴覚障害生徒もそのように考えはじめだしてきた。


 この時、野球部の監督・顧問の先生は
「聴覚障害教育担当の先生と相談したら」
とアドバイスした。

 健聴生徒と聴覚障害生徒がそろって相談に来た。
 じっくり話を聞いてみると、ろう学校から来た生徒は

「ろう学校の生徒同士が通じ合う手話」
しかしらないことが解ってきた。

 そこで、野球は昔からろうあ者の楽しみのスポーツであったので、いろいろな野球に関する手話表現があることを紹介した。

 「なるほど。うまいこと表現する」

と感心したのは、健聴生徒だけではなく、聴覚障害生徒も同じだった。

 簡単。明瞭。
 野球の本質をここまでつかんで手話表現できるのか、感激したらしい。

     「こんな表現もある」「あんな表現もある」と教え
 それから、たびたび、質問されることが増えたが、その度に「こんな表現もある」「あんな表現もある」と教えた。

 決して一つだけの手話表現は教えなかった。

 若い世代は、いろいろな表現にとまどうことなく、すぐ「これだ。」と今自分たちに必要な手話表現を取り入れた。

 それから、手話表現は、どんどん豊かなものになり、健聴生徒と聴覚障害生徒の絆は強まる一方になった。

 これが、山城高校定時制での手話学習の広がりの原動力になった。







 

2012年11月23日金曜日

あんた 手話きらいといってへんかった?


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


     してもらう聴覚保障ではなく

 山城高校では、聴覚障害生徒の受け入れにあたって「聴覚保障」という柱を立てた。

 でも、この聴覚保障は、聴覚障害生徒が「してもらう聴覚保障」ではなく「自ら聴覚保障を要求し、みんなと手をつなぐ聴覚保障」をめざした。
 それは、入学してきた聴覚障害生徒が、誰か周りの人がしてくれる、してくれてあたりまえだ、という考えが強く、自ら友人と協力して友人も助け、自分も助けられる、という考えが強かったことにも原因していた。

  手話が学ぶきっかけは   女子バレー部
 

 山城高校で、手話が学ぶきっかけはクラブ活動だった。

 全日制の場合は、女子バレー部に聴覚障害生徒が入部した。
 バレー部全員は大歓迎した。

 

 だが、クラブの時には、聴覚障害生徒は補聴器を外す。

 チームワークだから、打ち合わせをしたり、このボールは私が……などの場面がしばしばある。
 それが、スムースに行かない。クラブ員は全員悩んだ。


     手話なんて私に必要ない いやや

 その時、手話でコミニケーションをとる方法があるとある健聴生徒が言い出して、聴覚障害担当の先生やクラブで必要な合図(サイン)を考え出していった。
 ところが、そのことに対して聴覚障害生徒が激しく抵抗した。

 
 「手話なんて、私に必要ない。いやや。そんなんしたくない」


と言い出した。
 びっくりしたのは、健聴生徒。

 手話って十分知っているわけでもないのに、少し覚えてクラブ活動で生かそうと思っていただけなのに。
 なぜ、聴覚障害生徒は、極端に嫌がるのだろうか。
 みんなで考えはじめた。


 汗や雨に濡れても水泳も出来る
       補聴器があったらいいのにねぇ

 でも、解らない。

 そこで聴覚障害生徒にゆっくり聞いて、話合ってみることにした。
 口話法で育ったこと。
 補聴器を使わなくなると補聴器に慣れなくなって、みんなの声の聞き取りが出来なる心配があること。
 熱心に聞いて、みんなで考えた。
 

「汗や、雨に濡れても、水泳も出来る補聴器があったらいいのにねぇ」

 心を砕いた話。
 聴覚障害生徒も信頼して、今まで哀しかったこと、苦しかったことをすべて話した。


   手話って言わんと サインだけ決めとこう

 健聴生徒の中には、そのことが手話に対する反発になっていることに気がついて、

「別に手話って言わんと、サインだけ決めとこう」

と言い出した。
 そして、聴覚障害生徒一緒に必要なサインを決めた。
 

 みんな練習も、試合も楽しかった。
 聴覚障害生徒もその渦の中にいて、聴覚障害を全然意識しなくなった。
 試合やクラブの会話。


 身振り手振りの会話が、知らず知らずのうちに手話表現になっていた。
  忘れてたわ 手話なんかしたくないと言ったこと

「あんた。手話きらいといってへんかった?」

ある日健聴生徒が、聴覚障害生徒に聞いた。

「そうやった。忘れてたわ。そんなことこだわらへん。話し合えたらいいのや。前、あんなこと行ってごめんなぁー」

「かまへん、かまへん。気にせんときやー」

 そこでみんな大笑い。
 コミニケーションとれるなら何でもいい、友だちになれるなら何でもいい、拘らない。
 いつしか、女バレー部のメンバーが、山城高校で手話の出来る生徒となり、クラブ以外の学習でも聴覚障害生徒と協力し合うようになっていった。

 これが、山城高校の全日制における生徒の手話学習のはじまりだった。





 

2012年11月18日日曜日

難聴とかろうあとか そういう障害を持っている人がいなかったら 手話というものはありえなかった


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  お母ちゃん、あれなあに?
            山城高校2年

          お母ちゃん、あれなあに?

  僕がろう学校幼稚部に通っていた時のことです。
 

 学校を終えいつものように母と二人で帰ろうとしていたら、高校生らしき人が、同じように帰ろうとしているところでした。
 そのときあることに気がついたのでした。
 

 その人たちは何か身振りを使い、手をよく動かし表情もオーバーなのです。

「お母ちゃん、あれなあに?」

と母に聞いたのです。

「ああ、あれはね、手話っていうのよ。」

と母は言いました。
 小さい自分には何もわからないまま、ただ手話とはああいうもんなんだと感じていました。

                            何だ、これ

 その後小学校に入学したころでした。
 母の部屋に入りあちらこちらをさがしていると、手話の本が出てきたのです。


「何だ、これ」

とその本を広げてみると、真っ先に手の絵が出てきました。

「1」はひと差し指で表すとか書いてありました。
 なるほどと思い、その場は夢中になって1から9までを覚えていました。


 それから長い間、手話の事をたまには見かけたり耳にすることはあったけど、自分とはほと遠いものでした。

 僕の周囲では、健聴者が多いという事情(環境)もあってか、話はあまり必要じゃなかったのかもしれません。

  僕以外の聴覚障害生徒と話すには、手話も必要だ

 ところが山城高校に入学することになって、初めて僕以外の聴覚障害生徒と接し、手話に再び出会いました。
 それに彼らと話すには、手話も必要だということもわかりました。

 それで彼らと話しているうちに、手話をだんだん覚えることができて今では片言ですが、何とか手話だけで話すこともできるようになりました。

 手話というものを少し使えるようになると、次に何のために手話を使うのかということが気になりました。

 今まではただ、僕以外の難聴生やろうあ者としゃべってみたいというだけで、何となく手話を覚えているようなものでした。
 でも本当に手話を使う意味を考えるとなると、本当に難しいことだとあらためて考えさせられました。

難聴者やろうあ者の人は一般の人に比べ会話が困難であることも 十分に理解し、手話を覚えることが大事

 今でも結論らしきものは出ていません。それを悟るには10年は早いでしょう。
 ただ言えるのは、難聴とかろうあとかそういう障害を持っている人がいなかったら、手話というものはありえなかったということです。

 難聴者やろうあ者の人は一般の人に比べ会話が困難であり、彼らにとって、手話は一種の情報伝達をする方法なのです。

 聴覚障害者以外の健聴者もこのことを十分に理解し、手話を覚えることが大事です。

 それは相手と話すとき、相手にとっても自分にとっても話しやすい情報伝達の方法を使ったほうが、会話も進むからです。

 僕はこう考え、そして手話を覚えてゆきたいと考えています。

 これは山城高校手話弁論大会で聴覚障害生徒が、高校生以外の多くの人々の前で手話を交えて話した時の記録である。

 なぜ、山城高校でこのような手話弁論大会が開かれるようになったのか、それには深いわけがある。

 

2012年11月16日金曜日

孤独から 友情を育み私心を捨て行動する聴覚障害者に


 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


        人に言えないけれど孤独

 「もっと聴覚障害生徒の友だちがほしい。」
 「聴覚障害は自分だけというのは、人に言えないけれど孤独。」

 そういう気持ちは、潜在的に普通校の聴覚障害生徒にありました。
 

 「でも、聴覚障害だから周りの人は親切にしてくれるけれど、同じ聴覚障害の生徒と会ったら、甘えることは出来ないだろうなあ」

という不安もあったようである。

対立的にとらえがちになる中で
 彼等はその対立の「壁」を一つ一つとりのぞいて

 山城高校では、そういう聴覚障害生徒のことを考えていましたが、全日制の聴覚障害生徒から要求が出てきました。

 それは、他校の聴覚障害生徒と交流したり、訪問したり、定時制の聴覚障害生徒と出会うために時間のズレを克服するしようと言うものでした。

 定時制の聴覚障害生徒は、午後五時半頃登校。全日制の聴障生は、家が遠距離のこともあり、遅くても四時頃下校。

 そのため「交換ノート」を作成し、互いの悩み、希望をつづり交換してゆきます。

 全日制生徒と定時制生徒をともすれば対立的にとらえがちになる中で、彼等はその対立の「壁」を一つ一つとりのぞいてゆきました。


  京都聴覚障害高校生交流会が作られ
   悩みや要求・レクリェーショソなどが

 全日制で聴覚障害生徒の仲間がないときは、全日制というワクにとらわれず定時制や他校の聴覚障害生徒と交流して、聴覚障害生徒の集団を形成してゆくという新たな取り組みがすすめられ、それが各々の「学校間格差」と言われているものに立ち向かって友情を暖めていった。
 このような中で、京都の公立の全日制・定時制や私学の聴障生が集まり、京都聴覚障害高校生交流会が作られ、悩みや要求・レクリェーショソなどが行なわれるようになってきた。

 また聴覚障害生徒の親を中心とした京都難聴児親の会、聴障児が入学している幼稚園・小学校・中学校・高校・難聴学級・ろう学校の教師を中心とした「京都聴覚障害研究会」などが作られてきた。
 この生徒・親・教師の三つの集団の確立は、山城の聴覚障害教育のみならず、京都の聴覚障害教育全般をすすめてゆくうえで大きな推進力となってきている。

 聴覚障害生徒たちの豊かな発達をめざす取り組みは、教師・父母の集団に援助されはぐくまれながら成長してきた。

          深く心に刻み込まれる青年期のこと

 そのことが、卒業した聴覚障害生徒同士ですべてがすべて出ないけれど、10年、20年経ってもお互いが「窮地」になると、行動し、助け合うことがあたりまえのようになっている。

 仕事を辞めざるを得ない、転勤を強要された、障害福祉の援助が受けられない。
 など、あらゆることに対して私心を捨て行動する姿を見るにつけ青年期の取り組みの重要性が深く心に刻み込まれる。



 

2012年11月12日月曜日

「聞こえない」からという決めつけや同情ではなく

 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  1年生の合唱は聴覚障害生徒も
  一緒に出来なかったから演劇となったが

「文化祭を迎えて、二年一組のホームルームでは演劇をやろうということが決まりました。

 それは、一年生のとき合唱のため、聴覚障害生徒がついていきにくかったためであり、『演劇ならみんなが参加できる』と考えて『白雪姫』をすることが相談されました。(「白雪姫」は原作どおりではなく、生徒の苦しみや学校への要求、ベトナム問題などを含んだ脚色されたものでした)。

  おかしい 聴覚障害生徒を見下した考えがみんなにある

 クラス全員は積極的であり、各人が役をかってでました。
 ところが、召使いの役に決まった一人の聴覚障害生徒(女子)が


「聴覚障害生徒が小人の役や召使いになるのは、おかしい。聴覚障害生徒を見下した考えが、みんなにあるのではないか」

と怒り泣き出してしまった。
 ホームルムの中心メンバーの健聴生徒と(女子)は、びっくりして聴覚障害生徒に話したが、問題を提起した聴覚障害生徒は教室を飛び出してしまうという状況が生じた。

 クラスの一人として誤解はなくす必要があるが要求が通らないからと

 そのため、後日引続き討論されたなかで、病弱な聴覚障害生徒(男子)からみんなの前で初めて発言して、

「ぼく、無理矢理役を押しつけられたのではなく、やりたかったので申しこんだのや」
などの意見が出された。

 ①聴覚障害生徒を見下して、役が決まったのではない。
 ②クラス全員がなんらかの役を持つこと。
 ③聴覚障害生徒が怒って発言したとき、健聴生徒に対して言いすぎがあったこと


などを、互いに厳しく反省する中で、演劇の練習が始められていきました。

 このことは、

『聴覚障害生徒が言ったから聞かねば』

という健聴生徒の同情が、

『同じクラスの一人として、誤解はなくす必要があるが、要求が通らないからと言って、勝手なことを言って教室を飛び出すのはおかしい』

『聴障生をのけものにするのはおかしい』

という相互批判ができるようになったということであり、互いに決まったことは
やり抜くのだということが明らかになっていったことで示されています。」
(1972年、山城高校聴覚障害教育のとりくみより)


   互いに批判するだけでなく、一つの目標にむかって行動するという共同行動が
 誤っているならそれを正す、でも、筋違いのことは反論するという健聴生徒の動き、筋違いのことは通らないのだという聴覚障害生徒の認識、こういうことは無数に広がりをもっていった。

 しかもさらに重要なことは、たんにたがいに批判するだけでなく、一つの目標にむかって行動するという共同行動が生まれてきた。

 この動きの中で、学友として仲間の連帯が、がみんなのものになっていった。

  「聞こえない」からそうなのだという決めつけや同情ではなく

 おたがいに真に自由に語り話し合える状況が作り出され、おたがいの学び合い。
 「聞こえない」からそうなのだという決めつけや同情ではなく、生徒として人間としての前提のうえに、障害者問題や定時制での生活を統一して考えるようになってくるといえた。

 このことは、学校を卒業してからも生徒達の中で一層深まりを示してきた。
 
  全日制では「もっと聴覚障害生徒がいたら」 

 ところが、山城高校の聴覚障害教育の発足当時は、全日制は三年間。二名の聴覚障害生徒のみになってしまい、聴覚障害生徒の仲間しかいなかった。

 でも、二名の聴障生は健聴生集団の中に積極的に参加してゆく。
 その中で感じたこと、思うことについて二名の中で定期的にに話し合うが、意見が異なった時にはそのままになりがちだった。

そのこともあって

「もっと聴覚障害生徒がいたら」

というのは、彼等の切なる希望だった。





 

2012年11月9日金曜日

ともに 机にむかって学ぶ学習の連帯 と ともに 働いている連帯


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


     てんで見当がつかなかったのが正直なところ

「身障者の高校進学を保障しようという府教委の方針のもとにすすめられたのであるが、理念は理念としても、実際はどのようなことになるのか、少なくとも学校現場の者には、てんで見当がつかなかったのが正直なところである。
 自信が持てなくて、どうして引き受けられるか、行政の充分な保障がなくてどうして受け入れられるか等々、私どもの気持は容易に決定しなかったことも事実である」


と、1972年に「山城高校聴覚障害教育のとりくみ、山城高校校長のことば」として、校長は率直な意見を書いている。
 
    校長が先頭切って授業をはじめた

 そのわずか2,3年後に生徒たちが大きく変わってきて、新しい学びをはじめたのである。

 だから、その事実を校長は受けとめていた。
 校長になって教室で教えることがほとんどなかった。

 しかし、自分の教科である国語の先生が都合で休まざるを得ない時に自ら申し出て聴覚障害生徒の授業を受け持ったりした。

 退職後、神戸の大学で教えることになった校長は、いつまでも山城高校の聴覚障害教育を案じていた。

 
   一年すぎるころ次第に「冷たく」なってきて不満

 1975年3月に卒業した聴覚障害生徒は、四年間をふり返り、次のような感想を述べた。

 「当初入学した頃は、クラスの健聴生は聴障生に対して非常に『親切』にしてくれてうれしかった。
 でも、一年すぎるころ次第に『冷たく』なってきて不満だった。
 つきはなされた感じで学校も楽しくなく、聴障生のみで話すことの多い日が続いた。


 けれど、文化祭などクラス全体の取り組みの中で、健聴生と言い争ったり、ケンカや対立が生まれたりする中で互いげ気持がわかってきた。
 
 ああ甘えていたんだ、健聴生に対して……。

 このことがわかり始めたら、真に互いに友人として信頼し、なんでも言えるようになってきた」。

  しばらくすると、彼等は自分達の苦しみや生活と
 「同じ」だと知って、同情すべきではないと考えるように

 また健聴生は、

「入学した時、障害者がこの世の中にいるなんて知らなかった。
 耳が聞こえないと知って驚き『同情』したものだ。


 しばらくすると、彼等は自分達の苦しみや生活と『同じ』だと知って、同情すべきではないと考えるようになった。

 甘えているところもある。

 そんな時は、健聴生みんなでつき放した。
 そうしたら、互いの事が理解し合えるようになって、今までのギコチナイところがなくなってきた」


と語っている。

     四年間の健聴生と聴障生の集団のぶつかり

 そのことから、四年間の健聴生と聴障生の集団のぶつかりは次のように考えることが出来る。

 健聴生は聴障生とのかかわりでは、驚き←同情←「同じだ」←批判・討論.行動←仲間としての深い結びつき。

 聴障生は、不安(健聴生とうまくやれるか)←親切は当然←「不満」←批判・討論・行動←仲間としての深い結びつきのように変化してゆくことが考えられた。

 まず第一に、互いに障害者の人、障害がない人のことを知らなかったということのたじろぎ、驚き。

 第二に、しかし共に机にむかって学ぶという学習の連帯。

 もう一つ重要なことは、健聴生のほとんどが昼働いていたことがある。

 当時、聴障生の中で働いている生徒は少なかったこともあり、健聴生はそのことを「一つの問題」として考えていた。

 聴障生は、そういう健聴生と接する中で全日制の健聴生と異なった何か……「あたたかさ」を感じ、「働きたい」という要求を持つようになる。

  「ぼくは働いているのだ」という自信と喜びを持つ

 そして、二年生になるころにはほとんどの聴障生が、なんらかのかたちで働くようになり、

「ぼくは働いているのだ」

という自信と喜びを持つようになる。

 そういう意味での、働いているという連帯。

 この二つを基礎に、

「聴障生も健聴生も障害はあってもなかっても、人間として同じなのだ」

という連帯の輪は、一層拡大してゆく。

第三には、そうすると今までと異なった健聴生集団と聴障生集団の動きが生じてくる。
 

 それは、二年生の秋のことだった。

 

2012年11月6日火曜日

俺の生きがいに多大なる影響を与えてくれたのが  聴障生だった


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 俺にとって
 俺の生きがいに多大なる
 影響を与えてくれたのが
 聴障生だった。


今までの俺の甘えた人生に
真の生きる道を
与えてくれたのである。


聴障生はガンバッテ
四年間をつらぬいた
俺も四年間つらぬいた


聴障生が苦しみながら
かよった四年間

俺の四年間より
はるかに苦難の道だったろう。


聴障生と一緒に高校生活を送れたことをおおいに感謝いたします。

 
(卒業にあたって京都府立山城高校定時制の健聴生の感想文より) 


  わびしさとさびしさの漂う空気の中に
        深い熱気があふれ

1975年年三月一日

 午後六時・京都市内の北部・大将軍にある京都府立山城高校の体育館に定時制の仲間が集まってきた。

 あるものは華やかな衣装を身にまとい、あるものはジーパン姿で、そしてあるものは仕事を終えてきたそのままの姿、作業服のままで。


 その日の午前1000名以上の生徒と保護者が集まり、盛大に行なわれた全日制の卒業式と対照的に、わずか200名程の生徒と父母と教師が集まる定時制の卒業式。
 一見、わびしさとさびしさの漂う空気の中に、深い熱気があふれていた。
 四年間。
 この長いようで短かかった生活。
 労働にいそしみ、学び続けてきた定時制の生徒の新たな出発点ー卒業式。
 この日は、彼等にとって、何ごとにも換えがたい大切な日であると同時に、山城高校の教育の歴史の一ぺージをかざる聴覚障害児教育の第一段階が終わることになる。


  見たところ誰が聴障生かわかりませんでした ある日

「昭和四六(1971)年四月、私達を迎えた山城定時制の内部は、ほんの少し前の年と違っていたそうです。
 京都ではじめて聴障生を受け入れるための高校として歩きだそうとしていたからです。
 私達卒業生のなかに六人の聴障生がいます。


 わが友は入学当時を想いだして、

 『見たところ誰が聴障生かわかりませんでした。ある日、声をかけたのです。でも、ちゃんと答えてくれません。あ、私の言っていることが聞こえないんだわ』

と書いています。
 聴障生の友は、


『普通の人達と仲良く勉強していけるだろうか、授業についていけるのだろうかと思いながら友の顔を不安な気持で黙ってながめていた』

と。

 同情的だった一年生の頃、手話や書くことに積極的だったクラスの空気も同情だけで、彼等と話し合えないことを感じていた様です。
 一年生の文化祭にはコーラスしかだしものがなくて、彼らも一緒に舞台にあがり、ならんで口を開けていたものです。

  親しみと心のふれあいの
         難かしさを感じるよい機会であった

 聴障生に対してクラスは親切とは言えないかもしれません。

 だけど、聴障生を特別に扱わなくてもよいという思いは、四年間のクラスの状態を見ていればわかります。

 言葉のない会話でいろんなハプニソグがありました。
 お互いに言いたいことが理解できなくて、泣いた日も悩んだ日もありました。

 けれど、それはクラスメートとしての親しみと心のふれあいの難かしさを感じるよい機会であったとも思います。

 定時制高校の理想とする授業のあり方を

 

 けれども、聴障生を受け入れる学校としての準備、設備に対して私達は少なからず不満を感じています。
 一人は、


 『授業に対してわかりやすいのと、わかりにくい授業の差が激しい。
 積極的に私達が理解できる様な授業の仕方を研究していただきたい』


と言います。
 このことは、聴障生を受け入れる学校というのでなく、定時制高校の理想とする授業のあり方を意味していると思います。……」


(京都府立山城高等学校定時制第二七回蘂告答辞より)
 卒業生の答辞を聞く教師、父母の胸の中には四年前のこと、そしてこの四年間のことが飛びかっていた。

 この喜ばしい日に、私たちは、次のステップを実行しなければならなかった。
以下参照参照
Google
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http://kyoikkagaku.blogspot.jp/2012/07/blog-post_13.html
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2012年11月3日土曜日

保健室は甘やかしてもらえるとこと違うんや エネルギーためて課題に立ち向かうとこや


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 この間連載で、新採5年目の国語教師の取り組みと、山城高校定時制に来て「すべての人々が健康に」という課題に取り組んだ養護教諭の当時と現在の報告を掲載した。

 山城高校定時制にいた時の養護教諭が

「すべての人々が健康に」

という課題に取り組んでいることについてや生徒たちに対する接し方に、集中的な批判をされた時があったし、今もそれも残っているという。

    保健室は「生徒を甘やかせている。」という批判

  特に保健室は「生徒を甘やかせている。」という批判は依然強いらしい。
 これに対して養護教諭は、こう言う。


「いろいろな悩みを抱えてくる生徒の中には、病気や学校や家庭や人間関係で悩
んでいる生徒がほとんど。」

「でも、保健室によく来る生徒は、中退や原級留置になる生徒はいない。」

「一部では、ドロップアウトする生徒は、学校や教師の生徒に対する理解が欠落しているからだ、と言い切る研究者もいる」

「私たち養護教諭としては、まず生徒を受け入れる。
 ただそれだけですましてはいない、受け入れながら、何が問題か、何が課題か、を考えて行動する。」

「そして、例えばある教科がまったく解らないことが、その生徒がイライラし、問題を抱えていることが問題だと分かるとその教科の先生に補習をお願いする。けれど……」

「俺あんな教師の顔も見たくない、と反発する生徒には同じ教科の先生に補習をお願いして、徐々に教えてもらっている教科の先生に補習をしてもらうよう準備をしておく。反発していた生徒も担当の教科の先生の補習が受けられるように生徒と一緒にお願いする。」


「最近は、勉強しすぎて、頭が痛いと言うようになっている。」
 
 そんな取り組みもしている。


  保健室は甘やかしてもらえるとこと違うんや
   エネルギーためて課題に立ち向かうとこや

 「先生!俺天才違うかなあ。5点しかとれなかったテストが、ちょっと勉強しただけで数十点取れるようになった。と息を切らせて保健室にやってくる。」

 卒業生が来たら、保健室に来て保健室に居る生徒たちに話しかける。
 それが生徒たちのこころにすとんと落ちることが多い。


「クラスでゴチャゴチャあって保健室にきたんやろ。今のうちの会社にも保健室なんかないで。働いたらそんなものや。」

「保健室がなかったら、卒業も出来なかったし、大学にも行かれへんかった。あのな。大学には保健室なんてないよ。今のうちにエネルギーためとけよ。」

「保健室は、甘やかしてもらえるとこと違うんや。エネルギーためて課題に立ち向かうとこや」
 高校ににやってくる卒業生は、まず保健室に来て、いつも同じような話を在校生にしている。

  保健室はいつも笑いがある。笑い声に癒やされる。でも、職員室に行ったら

 養護教諭の研究会で、年間15回以上保健室に来る生徒たちの進路を話す機会があった。

 私たちの学校では、年間15回以上の生徒はあまりにも多すぎた。でも、15回以上と特別に50回以上保健室の生徒の進路状況も調べてみた。

 すると全員、進級、卒業していた。多の高校ではそうではないいことに驚いた。

 生徒たちの中には
「保健室はいつも笑いがある。笑い声に癒やされる。でも、職員室に行ったら笑い声がない。」

「大学に入ったけれど、養護教諭になりたいので専攻を変更するわ。」  

という卒業生も出てきている、という話である。

 学校や教師やひとりひとりの教職員がどのような方向に向かって進んでいるか。生徒たち全員が大切にされているかが、今日、一番求められていることである。

 だから、○○の障害児が普通校で受け入れられた。入学が認められた、と話題になるが、その学校全体の動きや方向は問題にされない。
 最初と結果だけが問題にされる。
 だが、その間が大切なのである。
 ひとりの障害が「大切にされて」いたとしても、他の生徒が蔑ろにされていたのでは、生徒間の理解も生徒の平等感も育たない。