教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
哀しい話なのになぜ笑う
哀し話なのに「アンタも同じやったんや」と分かって笑う。
このようなことは、ろうあ者の集まりや学習会で数多く経験してきた。
最初は、哀しい話なのになぜ笑う、と疑問に思っていたけれど、それが次第に「共感の笑い」に気がついてきた。
だから、前回は、「共感の笑い」、と書いたが、そのことは多くの人々のとってなかなか理解出来ないのではないか、と思えてならない。
虐げられてきたことの連帯と共感が笑いに変化
虐げられてきたことの連帯と共感が、笑いに変化するとき、真の友情と連帯が産まれる。
ここに、聴覚障害教育の重要なポイントがあるように思えてならない。
このことを踏まえて、健聴生徒も聴覚障害生徒もお互いが学び合い、意見を交わして成長していった。
そして以下のような文章が出来上がっていった。
ちょっとしたからかいのつもりでも
いじめられた方は傷ついてしまう
僕は、N中学、山城高校での経験を通して、思った事を話したいと思います。
N中学校に入学した当時、僕は友達作りを頑張ろうと思いました。
しかし、2学期、3学期と月日が流れていくにつれて、その意欲を失っていきました。
僕は難聴学級に通っていました。
1年生の時は何かというと難聴生達にいじめられたり嫌がらせを受けたりしました。
例えば、机をゆさぶられて中の物を出されたり殴られたり、僕はとても苦しい思いをしました。
相手はちょっとしたからかいのつもりでも、いじめられた方は傷ついてしまうのです。
自分をいじめた相手にうっぷん晴らしや嫌がらせ
2年になると、今度は僕が自分をいじめた相手にうっぷん晴らしや嫌がらせをしました。
たとえば、相手が話しかけてもそっぽを向いたり、相手に意地悪をして、それを正当化しました。
健聴生との関係もよくありませんでした。
たとえば、2年生の3学期に難聴生が健聴生のクラスで授業を受ける、いわゆる長期交流がありました。
そこで、勇気を持って話しかけても相手はからかって笑ったり、聞き流したりしました。
他に女の子に『好きだ。』と告白するように強制されたりもしました。
また、発音の悪さをいじめのタネにされたこともしばしばでした。
たとえば、僕は『7』の発音が苦手です。
『7』」を発音するのに苦しむ僕をからかって楽しむ生徒もいました。
そのため、この交流が終わっても何も学べないまま暗い気持ちで難聴学級に戻りました。
これから話したい いろいろ考えたことを
とにかく、僕は難聴生にしても健聴生にしても、心から僕を理解してくれる本当の友人がほとんど出来なかったのが何よりも残念でした。
なぜ、こんなふうに、僕はいじめや批判を受けたのでしょうか。
いろいろ考えたことをこれから話したいと思います。
周囲の人々の気持ちを傷つけて
まず、僕の気持ちが狭かったからではないかと思います。
具体的にいうと、人の意見をとり入れずに、自分の考えだけで行動したりすることです。
これでは、周囲の人々の気持ちを傷つけてしまうことになります。
それから、短気も原因だと思います。
たとえば、人の批判や反論を少し聞いただけで腹を立てたりするなどです。
これでは、周囲の人々が僕を避けてしまってもおかしくないと思います。
そして、生真面目さもいじめの大きな原因になったと思います。
冗談を真に受けて相手を不愉快にさせたりもしました。
今度こそ 本当の友人を作りたい
僕が山城高校に入学した理由は、聴障生に対する配慮があったからで、また聴障生の先輩がいたからです。
そして、今度こそ僕は、本当の友人を作りたかったからでもあるのです。
(つづく)
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
すべての文章がマイナス
僕は、頑張りました。だめでした。
一年生の時は、難聴生徒にいじめられ、嫌がらせを受けました。
二年生になると僕が嫌がらせをしました。
長期交流でもいじめを受けました。
僕は、友人が出来なかった。
すべての文章がマイナスで完結している。
自分の表現が不足している
どのように頑張ったのか。
一年生の時、どのようないじめや嫌がらせを受けたのか。
二年生になると、なぜいじめられた自分がいじめるようになったのか。
健聴生徒の教室で、どのようないじめを受けたのか。
友人が出来なかったのは、なぜか。
どうして、なぜ、だめなことばかりだったのか。
それなら苦しくて、苦しくてたまらなかったはずだ。
自分自身にも問題はなかったのか、聴覚障害生徒も健聴生徒もそのような意見を出してきたが、そういう自分も、いじめられた、楽しかった、イヤだった。
としか書いていない。
自分の表現が不足している、と気がつき始めた。
その時の様子をゼスチャーで現してみたら
この生徒同士のやりとりは、その後非常に大きな教訓を残すことになる。
その時、教師から提案した。
だめだった、苦しかった、いじめられたなどの様子をゼスチャーで現してみたらと。
するとこれ以上書けないと行っていた、聴覚障害生徒がうなずいて、身振り手振りで、
一年生の時、どのようないじめや嫌がらせを受けたのか。
二年生になると、なぜいじめられた自分がいじめるようになったのか。
健聴生徒の教室で、どのようないじめを受けたのか。
を必死になって演じた。
自分と他の聴覚障害生徒。
自分と健聴生徒たち。
自分がイヤだったことを。
すると、話合いをしていた健聴生徒も聴覚障害生徒が大笑いしはじめた。
まじめに演じていた聴覚障害生徒は、ものすごく怒り出し部屋を飛び出して行ってしまった。
健聴生徒も聴覚障害生徒も大笑いしたわけ
みんなが追いかけて部屋に戻ってくるのに数時間かかったが、聴覚障害生徒の怒りは収まらなかった。
しばらくして、全員が、同じいじめや嫌がらせを受けていた。
いつも黙っている「アンタ」は、そんなことはないのか、と思い込んでいたけれど、そうでないことが解った「共感の笑い」だった。
「アンタもそうだったんや……」
と思うと哀しさよりも
「アンタも同じやったんや」
と分かって笑ってしまったゴメンなあ、と説明した。
ゼスチャー・身振り手振りがお互いの理解を深め共感関係が広がりはじめたのである。
理解し合った生徒たちは、文章でどのように表現したらいいのか、辞書などを引いたり、意見交換して学び合っていった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
「書ける」「間違いないように書く」ことが強くもとめられ
文章の順序性に「拘る」のは、聴覚障害生徒のそれまでうけてきた教育と大きな関わりがあった。
ことば獲得期における「受け身的発声」それに対する評価。
自分の言いたいこと、感じたこと、疑問に思うこと「なぜなぜ」「なんで……」なども発することなく、言うとおりに発するで評価される「受け身」の言語指導を受けてきた。
文字を習う場合も、「書ける」「間違いないように書く」ことが強くもとめられ、一つの文章が出来れば、それで評価されてきた。
自己表現として「読む」「書く」「話す」
と言うことは ほとんど教えられてこなかった
そこには、聴覚障害生徒が、人間発達を遂げて行く上でなんの「疑問」も出すことが出来なかったことが次第に明るみになって来た。
そのため「読む」「話す」「書く」と言うことがすべて教師や保護者の言う通りにすることが、「出来た」「勉強した」とほめられてきた。
この時点で、聴覚障害生徒自身のため自己表現として「読む」「書く」「話す」と言うことは、ほとんど教えられてこなかったことが手話弁論大会の取り組みで明るみに出てきた。
このことは、聴覚障害教育のためだけでなくあらゆる教育分野でも考えられなければならないこととして提起し続けたが、当時ほとんど研究者などには受け入れることなかった。
ことばの教室やきこえの教室やろう学校の一部の先生や心ある耳鼻科医の間で意見・交流し、言語指導や聴覚指導、文章指導の基本的原則を確立していった。
過去の教育実践が研究されないで 自画自賛でいいのだろうか
そのことを調べようとしない研究者は、近年さかんに普通学校や普通教室にいた障害のある子どもたちの「専門的な読み書き指導」が放置され続けてきたことを強調し、自分たちの専門研究が以下にその子どもたちを援助し、人としての教育、人権としての教育を守り続けているのかを主張している。
だが、それは全面的な過去の否定であり、諸外国の研究の「模倣」としか思えないように思える。
少なくない京都の教師は、教育行政がやろうとやるまいと教育実践上の課題を可能な限り追求してきたのである。
頑張りました しかし だめでした
弁論大会における聴覚障害生徒の文章の一つの例をあげておきたい。
最初次のような文章を書いていた。
僕は、N中学校に入学した時友だち作りに頑張りました。
しかし、だめでした。
一年生の時は、難聴生徒にいじめられ、嫌がらせを受けました。
二年生になると今度は、僕が嫌がらせをしました。
長期交流(注*:聴学級から普通学級で学ぶ方式)でもいじめを受けました。
僕は、心から僕を理解してくれる友人が出来なかった。
というもので、「先生これ以上書けません」と言い出して、もともと手話を否定していたことから、手話弁論大会には出ないと言いだした。
文章を書くことは 自分との格闘だ
そこで、手話弁論大会参加の準備をすすめている健聴生徒と聴覚障害生徒と交えて話し合いをした。
すると、
1、友だち作りはなぜだめだったの?
2、なぜ、いじめらつらい思いをしたのに二年生になると嫌がらせするようになったの。
3、長期交流でどんないじめを受けたの。
4、聴覚障害生徒同士でいじめ合い、健聴生徒にいじめられたら、今度は健聴生徒をいじめるの?
5、そんなことが正直に書かれているかなぁ。
という意見が出た。
意見を出した自分もそういうことが書けてないので、自分の文章を書き直し始めた。
ここから、書いては直し、意見を聞き、書く。
書いたものを読んで見るの取り組みが、自主的に延々と続いた。
あとで、お母さんから
「あんなに自分で悩み、自分で書いては直す姿は初めて見ました。」
「文章を書くことは、自分との格闘だ、と言ってましたけれど、すごく険しい表情でした」
と話があった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
3段階を踏まえた手話弁論大会
生徒たちと話合って、手話弁論大会は、次のような順序で準備し、当日ろうあ協会の人々を必ず招待することとなった。
① 弁論大会で発表する内容は、あらかじめ原稿用紙に書いて、みんなと意見交換しながら創り上げる。
② 原稿が出来た段階でその原稿にもとづいて、手話表現に挑み、手話をより深く学んで行く。
③ ①、②が出来た段階で、発表することをすべて覚えて、手話弁論大会の時は参加者に向かって発表する。
という3段階を踏まえて取り組むことになった。
与えられたテーマでないことに苦しむ
まず、発表は自由と言うことで、健聴生徒も聴覚障害生徒もとまどいはじめた。
自分は、なにを言いたいのか。
という戸惑いである。
それまで、与えられたテーマに答えることばかりしてきた健聴生徒も聴覚障害生徒も次第に苦しみはじめた。
そして、教師のところに何を発表したらいいか、たずねてきたが一定のアドバイスをしても「自分のテーマは、自分で決める」と言い続けた。
参加者は、自由だったので手話は説対したくないという聴覚障害生徒は、時折その様子をチラッと見る程度だった。
すべて順序通り書く
原稿を書くことについては、非常に時間がかかったが、最初の原稿を見て聴覚障害生徒の書いていることに共通性があった。
あることを書くのにすべて順序通り書く。
例えは、普通小学校でひとりぽっちであったことを書くのに、いつ入学して、どのこの学校で、クラスは○年○組で……と京都から大阪に行くのに停車した駅を順番に書いて、大阪で起きたことになかなか行きつかないのと同じような書き方であった。
停車した駅を書くことを飛ばして大阪に着いたところから書くことが出来ないばかりか、それを省略することに対しても激しい「抵抗」をしめした。
そのため、原稿用紙の量は増えるだけで、自分の中で混乱して「何を書いているのか、分からなくなった。」とまで言い出した。
自己表現が出来ないことの「脱却」
そこで、書いた原稿を読んで見るようにアドバイスした。
読めば、
「なにかへん」「言いたいこと書けてない」
と分かりはじめてきた。
それは、聴覚障害生徒が、幼児期から受けてきた「言語対応」「書き対応」などの「マッチング」への決別であったことに気づくのは、ズーと後のことであった。
自己表現が出来ないことの「脱却」。
これが手話弁論大会の第一の難関であった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
成人のろうあ者のかたがたに見てもらわないと
手話を学んだことが自己満足になる
手話部の生徒と聴覚障害生徒たちと話合って、
① 手話を学んで手話表現して学校の生徒だけに、手話発表するだけでなく大人の人に見てもらおう。特に成人のろうあ者のかたがたに見てもらわないと手話を学んだことが自己満足になる。
② 参加は自由。テーマは自由にする。
③ ただ審査員をつくって、評価をしてほしい。
表彰されるのもいい。
表彰で、友人あん形が壊れることはない。
何がどのようによかったのか、いけないところはどこか、ハッキリしたほうが自分のためになる。
④ 山城高校手話発表会など名前は、考えていこう。
と言うことになった。
突然「弁論大会」と
言った校長
会場が視聴覚教室で階段机になっていること。
そのため見に来ていただいたかたは、上を見るのじゃなく下を見てどの場所からも見やすい。
その会場を日曜日に借りるように校長先生に頼んでほしい、と言うことになった。
そこで、校長と会って話をした。
概要を理解した校長は、突然「弁論大会」と言うことにしたらと言い出した。
「べっにー」「なんにもー」から自分の意見を持てるように
「弁論?」、予測もしない言葉に驚いた。
校長の話によると最近の高校生は、自分の意見を持たない。何か聞くと「べっにー」とか「なんにもー」とか言う。
それじゃ、「これでどうか」と言うと「べつにー」と自分の意見をまったく言わない。
それで家に帰って「校長先生が、これこれするように言われた。」と言って、校長が生徒に「強要」したようになって保護者が府教委に電話する。府教委から電話がかかってくるなどのことがあまりにも多すぎる。
自分の意見をしっかり持つ、と言ってもすぐには無理だから一方的に人の前で意見を述べるだけではなく、参加者や会場から論じ合う、そういうことが出来ないか、という意味の話の内容だった。
飛びついてきた「弁論」
「弁論」。
はたして、そんなことが出来るのだろうか、と思いつつ生徒に聞いてみると
「弁論」という言葉に飛びついてきた。
健聴生徒が、聴覚障害生徒を理解する。
聴覚障害生徒が健聴生徒を理解する。
これは、一方通行の話だけで出来ないことだ。
今まで、なんども「くい違い」「すれ違い」があったけれど、お互いが「知らんぷり」している間は、理解し合えなかった。
だから、違う意見が出てもいい。
会場に来られた人の意見も聞いて、みんなで考えたい。
生徒たちは口々にそう言った。
「山城高校手話弁論大会」という名称で一致したが、そのための多くの困難があることを健聴生徒も聴覚障害生徒も予測していなかった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
「聴覚保障」と手話
山城高校の聴覚障害教育では、「聴覚保障」を柱にしていたことはすでに述べた。
だから、あらゆる「聴覚保障」の取り組みを考えてきた。
今までは非常に安価になっているが、ボードに打ち合わせたことを印字して、もう一度確認することの出来るボードなども購入していた。
聴覚活用では、ろう学校の聴言室と連携したり、そこの担当者が異動してきたりしていた。
だが、「聴覚保障」は、聴覚障害生徒がただ単に「してもらうという受け身」ではなく、自らも働きかけ、みんなと協力・共同することも重視してきた。
その中で、新たなる「聴覚保障」が、見いだせることもあった。
手話を学校が取り組むというのは
ろう学校と同じになる
山城高校内での手話の広がりと手話部というクラブの活動は、「聴覚保障」の重要な一つとしてみんなで学んでいく必要があった。
だが、この手話に対して一番多く抵抗したのは、聴覚障害生徒たちと保護者であった。
手話を学校が取り組むというのは、普通高校に来た意味がない。
手話を学校が取り組むというのはろう学校と同じになると言うことではないのか。
激しい意見が出されてきた。
だが、おかしいことに、ろう学校では手話は少なくない場面で取り入れられていたが、すべてではなかった。
手話=ろう学校でもなかったし、口話=ろう学校ではなかった。
これらのことは、聴覚障害生徒も保護者も充分知っていながら「ろう学校と同じになると言うことではないのか」と山城高校の聴覚障害教育を批判したのである。
聴覚障害生徒の中には
「私は難聴だ。絶対ろうではない。」
「難聴とろうと同じにしてほしくない。」
「絶対、手話を学ばないし、覚えようとはしない。」
と言い切る生徒も多かった。
くり返してはいけない
抵抗を持つ聴覚障害生徒を一方的に押さえつけること
ろう学校から来た生徒は、手話が出来ると思い込んでいるものの手話を否定する聴覚障害生徒に何も言えない状況があった。
山城高校で最低必要な手話テキストを創ることは簡単だった。
だが、そのテキストで教えると、コミニケーション手段に抵抗を持つ聴覚障害生徒を一方的に押さえつけることにもなる。
当時話題になっていたスウェーデンのろう学校・カルフォルニア州立大学で手話を取り入れれた経過を調べてみ
た。
どちらの場合も、現にその国で使われている手話を徹底的に調査、記録していた。
さらに、学習に必要な用語で、手話が確立していない場合はその用語に近い手話の特質を踏まえて考えられていた。
生徒の自主性と自分に合った表現 コミニケーション
前野良沢と杉田玄白が、解体新書を翻訳したような取り組みがなされていたのである。
しかも、スウェーデンのろう学校では、日本で言う高校の時期には
「手話で受ける授業か」
それとも
「口話で受ける授業か」
が生徒の選択講座として位置づけられていた。
このことは、聴覚障害教育だけでなく、教育全体でも重要な意味を持っていた。
それらのことを考えて、手話テキストを作って生徒に教える方法は、よくない。
生徒の自主性と自分に合った表現、コミニケーションが必要ではないかと考えた。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
楽しい野球を生徒に教えた先生
山城高校定時制では、全日制と違う動きだった。
聴覚障害生徒は、クラブ活動に参加したけれど、特に野球部に多く所属していた。
野球部の監督・顧問の先生は、必要なときはピシャリと言うが、生徒の自主性をことのほか大切にして「楽しい野球」を生徒に教えていた。
野球部に聴覚障害生徒が入部したときも、特に他の健聴生徒に聴覚障害生徒の状況についてあれこれ言わずにじっくり見守る先生だった。
先生は、責任感や正義感が強く、ことのほか弱いものをいじめることに対して厳しい注意をしたが、それ以外はランドの最終点検をして定時制の中でも一番遅く帰る先生だった。
グランドの土に字を書いて「筆談」
野球部員は、なんの気兼ねもなしに練習をしていたが、時々食い違うことが起きる。
そんな時は、照明が十分でないため一番明るいバックネットの前に集まり、グランドの土に字を書いて「筆談」をした。
野球部員には、ろう学校から来た生徒も多く、「筆談」を読んで、手話で聴覚障害生徒同士に連絡し合っていた。
「?」と思ったのは、健聴生徒だった。
聴覚障害生徒のする手話を見て、自分たちも同じ動きをした。
「イケー」「ヒキカエセー」「ハシレー」
「なんだ簡単じゃないか」
クラブ員は、次から次へと手話を覚え始めて、野球のサインと手話を「合成」していった。
神宮球場より お互いの気持ちが通じ合うことの喜びのほうが
他の定時制との野球部の試合。
山城高校の定時制の野球部は、へんなサインをしているぞ、と思ったらしいが、なんの「サイン」かまったく解らなかった。
そうするうちに、チームワークと連絡が密に取れる山城高校の定時制の野球部が次々点数をとる。
今までとはまったく違う様子にとまどった、との話は野球部の顧問会議ででた、との報告があったのはしばらくしてからのことだった。
定時制の野球部の甲子園は、神宮球場だった。
これなら、行けるかも知れないと思われたけれど、野球部員はお互いの気持ちが通じ合うことの喜びのほうがはるかに大きかったらしい。
なるほど うまいこと表現する
だが、練習やお互い帰宅途中の食事時に、どうしても食い違うことがある。
健聴生徒も聴覚障害生徒もそのように考えはじめだしてきた。
この時、野球部の監督・顧問の先生は
「聴覚障害教育担当の先生と相談したら」
とアドバイスした。
健聴生徒と聴覚障害生徒がそろって相談に来た。
じっくり話を聞いてみると、ろう学校から来た生徒は
「ろう学校の生徒同士が通じ合う手話」
しかしらないことが解ってきた。
そこで、野球は昔からろうあ者の楽しみのスポーツであったので、いろいろな野球に関する手話表現があることを紹介した。
「なるほど。うまいこと表現する」
と感心したのは、健聴生徒だけではなく、聴覚障害生徒も同じだった。
簡単。明瞭。
野球の本質をここまでつかんで手話表現できるのか、感激したらしい。
「こんな表現もある」「あんな表現もある」と教え
それから、たびたび、質問されることが増えたが、その度に「こんな表現もある」「あんな表現もある」と教えた。
決して一つだけの手話表現は教えなかった。
若い世代は、いろいろな表現にとまどうことなく、すぐ「これだ。」と今自分たちに必要な手話表現を取り入れた。
それから、手話表現は、どんどん豊かなものになり、健聴生徒と聴覚障害生徒の絆は強まる一方になった。
これが、山城高校定時制での手話学習の広がりの原動力になった。
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してもらう聴覚保障ではなく
山城高校では、聴覚障害生徒の受け入れにあたって「聴覚保障」という柱を立てた。
でも、この聴覚保障は、聴覚障害生徒が「してもらう聴覚保障」ではなく「自ら聴覚保障を要求し、みんなと手をつなぐ聴覚保障」をめざした。
それは、入学してきた聴覚障害生徒が、誰か周りの人がしてくれる、してくれてあたりまえだ、という考えが強く、自ら友人と協力して友人も助け、自分も助けられる、という考えが強かったことにも原因していた。
手話が学ぶきっかけは 女子バレー部
山城高校で、手話が学ぶきっかけはクラブ活動だった。
全日制の場合は、女子バレー部に聴覚障害生徒が入部した。
バレー部全員は大歓迎した。
だが、クラブの時には、聴覚障害生徒は補聴器を外す。
チームワークだから、打ち合わせをしたり、このボールは私が……などの場面がしばしばある。
それが、スムースに行かない。クラブ員は全員悩んだ。
手話なんて私に必要ない いやや
その時、手話でコミニケーションをとる方法があるとある健聴生徒が言い出して、聴覚障害担当の先生やクラブで必要な合図(サイン)を考え出していった。
ところが、そのことに対して聴覚障害生徒が激しく抵抗した。
「手話なんて、私に必要ない。いやや。そんなんしたくない」
と言い出した。
びっくりしたのは、健聴生徒。
手話って十分知っているわけでもないのに、少し覚えてクラブ活動で生かそうと思っていただけなのに。
なぜ、聴覚障害生徒は、極端に嫌がるのだろうか。
みんなで考えはじめた。
汗や雨に濡れても水泳も出来る
補聴器があったらいいのにねぇ
でも、解らない。
そこで聴覚障害生徒にゆっくり聞いて、話合ってみることにした。
口話法で育ったこと。
補聴器を使わなくなると補聴器に慣れなくなって、みんなの声の聞き取りが出来なる心配があること。
熱心に聞いて、みんなで考えた。
「汗や、雨に濡れても、水泳も出来る補聴器があったらいいのにねぇ」
心を砕いた話。
聴覚障害生徒も信頼して、今まで哀しかったこと、苦しかったことをすべて話した。
手話って言わんと サインだけ決めとこう
健聴生徒の中には、そのことが手話に対する反発になっていることに気がついて、
「別に手話って言わんと、サインだけ決めとこう」
と言い出した。
そして、聴覚障害生徒一緒に必要なサインを決めた。
みんな練習も、試合も楽しかった。
聴覚障害生徒もその渦の中にいて、聴覚障害を全然意識しなくなった。
試合やクラブの会話。
身振り手振りの会話が、知らず知らずのうちに手話表現になっていた。
忘れてたわ 手話なんかしたくないと言ったこと
「あんた。手話きらいといってへんかった?」
ある日健聴生徒が、聴覚障害生徒に聞いた。
「そうやった。忘れてたわ。そんなことこだわらへん。話し合えたらいいのや。前、あんなこと行ってごめんなぁー」
「かまへん、かまへん。気にせんときやー」
そこでみんな大笑い。
コミニケーションとれるなら何でもいい、友だちになれるなら何でもいい、拘らない。
いつしか、女バレー部のメンバーが、山城高校で手話の出来る生徒となり、クラブ以外の学習でも聴覚障害生徒と協力し合うようになっていった。
これが、山城高校の全日制における生徒の手話学習のはじまりだった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
お母ちゃん、あれなあに?
山城高校2年
お母ちゃん、あれなあに?
僕がろう学校幼稚部に通っていた時のことです。
学校を終えいつものように母と二人で帰ろうとしていたら、高校生らしき人が、同じように帰ろうとしているところでした。
そのときあることに気がついたのでした。
その人たちは何か身振りを使い、手をよく動かし表情もオーバーなのです。
「お母ちゃん、あれなあに?」
と母に聞いたのです。
「ああ、あれはね、手話っていうのよ。」
と母は言いました。
小さい自分には何もわからないまま、ただ手話とはああいうもんなんだと感じていました。
何だ、これ
その後小学校に入学したころでした。
母の部屋に入りあちらこちらをさがしていると、手話の本が出てきたのです。
「何だ、これ」
とその本を広げてみると、真っ先に手の絵が出てきました。
「1」はひと差し指で表すとか書いてありました。
なるほどと思い、その場は夢中になって1から9までを覚えていました。
それから長い間、手話の事をたまには見かけたり耳にすることはあったけど、自分とはほと遠いものでした。
僕の周囲では、健聴者が多いという事情(環境)もあってか、話はあまり必要じゃなかったのかもしれません。
僕以外の聴覚障害生徒と話すには、手話も必要だ
ところが山城高校に入学することになって、初めて僕以外の聴覚障害生徒と接し、手話に再び出会いました。
それに彼らと話すには、手話も必要だということもわかりました。
それで彼らと話しているうちに、手話をだんだん覚えることができて今では片言ですが、何とか手話だけで話すこともできるようになりました。
手話というものを少し使えるようになると、次に何のために手話を使うのかということが気になりました。
今まではただ、僕以外の難聴生やろうあ者としゃべってみたいというだけで、何となく手話を覚えているようなものでした。
でも本当に手話を使う意味を考えるとなると、本当に難しいことだとあらためて考えさせられました。
難聴者やろうあ者の人は一般の人に比べ会話が困難であることも 十分に理解し、手話を覚えることが大事
今でも結論らしきものは出ていません。それを悟るには10年は早いでしょう。
ただ言えるのは、難聴とかろうあとかそういう障害を持っている人がいなかったら、手話というものはありえなかったということです。
難聴者やろうあ者の人は一般の人に比べ会話が困難であり、彼らにとって、手話は一種の情報伝達をする方法なのです。
聴覚障害者以外の健聴者もこのことを十分に理解し、手話を覚えることが大事です。
それは相手と話すとき、相手にとっても自分にとっても話しやすい情報伝達の方法を使ったほうが、会話も進むからです。
僕はこう考え、そして手話を覚えてゆきたいと考えています。
これは山城高校手話弁論大会で聴覚障害生徒が、高校生以外の多くの人々の前で手話を交えて話した時の記録である。
なぜ、山城高校でこのような手話弁論大会が開かれるようになったのか、それには深いわけがある。
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人に言えないけれど孤独
「もっと聴覚障害生徒の友だちがほしい。」
「聴覚障害は自分だけというのは、人に言えないけれど孤独。」
そういう気持ちは、潜在的に普通校の聴覚障害生徒にありました。
「でも、聴覚障害だから周りの人は親切にしてくれるけれど、同じ聴覚障害の生徒と会ったら、甘えることは出来ないだろうなあ」
という不安もあったようである。
対立的にとらえがちになる中で
彼等はその対立の「壁」を一つ一つとりのぞいて
山城高校では、そういう聴覚障害生徒のことを考えていましたが、全日制の聴覚障害生徒から要求が出てきました。
それは、他校の聴覚障害生徒と交流したり、訪問したり、定時制の聴覚障害生徒と出会うために時間のズレを克服するしようと言うものでした。
定時制の聴覚障害生徒は、午後五時半頃登校。全日制の聴障生は、家が遠距離のこともあり、遅くても四時頃下校。
そのため「交換ノート」を作成し、互いの悩み、希望をつづり交換してゆきます。
全日制生徒と定時制生徒をともすれば対立的にとらえがちになる中で、彼等はその対立の「壁」を一つ一つとりのぞいてゆきました。
京都聴覚障害高校生交流会が作られ
悩みや要求・レクリェーショソなどが
全日制で聴覚障害生徒の仲間がないときは、全日制というワクにとらわれず定時制や他校の聴覚障害生徒と交流して、聴覚障害生徒の集団を形成してゆくという新たな取り組みがすすめられ、それが各々の「学校間格差」と言われているものに立ち向かって友情を暖めていった。
このような中で、京都の公立の全日制・定時制や私学の聴障生が集まり、京都聴覚障害高校生交流会が作られ、悩みや要求・レクリェーショソなどが行なわれるようになってきた。
また聴覚障害生徒の親を中心とした京都難聴児親の会、聴障児が入学している幼稚園・小学校・中学校・高校・難聴学級・ろう学校の教師を中心とした「京都聴覚障害研究会」などが作られてきた。
この生徒・親・教師の三つの集団の確立は、山城の聴覚障害教育のみならず、京都の聴覚障害教育全般をすすめてゆくうえで大きな推進力となってきている。
聴覚障害生徒たちの豊かな発達をめざす取り組みは、教師・父母の集団に援助されはぐくまれながら成長してきた。
深く心に刻み込まれる青年期のこと
そのことが、卒業した聴覚障害生徒同士ですべてがすべて出ないけれど、10年、20年経ってもお互いが「窮地」になると、行動し、助け合うことがあたりまえのようになっている。
仕事を辞めざるを得ない、転勤を強要された、障害福祉の援助が受けられない。
など、あらゆることに対して私心を捨て行動する姿を見るにつけ青年期の取り組みの重要性が深く心に刻み込まれる。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
1年生の合唱は聴覚障害生徒も
一緒に出来なかったから演劇となったが
「文化祭を迎えて、二年一組のホームルームでは演劇をやろうということが決まりました。
それは、一年生のとき合唱のため、聴覚障害生徒がついていきにくかったためであり、『演劇ならみんなが参加できる』と考えて『白雪姫』をすることが相談されました。(「白雪姫」は原作どおりではなく、生徒の苦しみや学校への要求、ベトナム問題などを含んだ脚色されたものでした)。
おかしい 聴覚障害生徒を見下した考えがみんなにある
クラス全員は積極的であり、各人が役をかってでました。
ところが、召使いの役に決まった一人の聴覚障害生徒(女子)が
「聴覚障害生徒が小人の役や召使いになるのは、おかしい。聴覚障害生徒を見下した考えが、みんなにあるのではないか」
と怒り泣き出してしまった。
ホームルムの中心メンバーの健聴生徒と(女子)は、びっくりして聴覚障害生徒に話したが、問題を提起した聴覚障害生徒は教室を飛び出してしまうという状況が生じた。
クラスの一人として誤解はなくす必要があるが要求が通らないからと
そのため、後日引続き討論されたなかで、病弱な聴覚障害生徒(男子)からみんなの前で初めて発言して、
「ぼく、無理矢理役を押しつけられたのではなく、やりたかったので申しこんだのや」
などの意見が出された。
①聴覚障害生徒を見下して、役が決まったのではない。
②クラス全員がなんらかの役を持つこと。
③聴覚障害生徒が怒って発言したとき、健聴生徒に対して言いすぎがあったこと
などを、互いに厳しく反省する中で、演劇の練習が始められていきました。
このことは、
『聴覚障害生徒が言ったから聞かねば』
という健聴生徒の同情が、
『同じクラスの一人として、誤解はなくす必要があるが、要求が通らないからと言って、勝手なことを言って教室を飛び出すのはおかしい』
『聴障生をのけものにするのはおかしい』
という相互批判ができるようになったということであり、互いに決まったことは
やり抜くのだということが明らかになっていったことで示されています。」
(1972年、山城高校聴覚障害教育のとりくみより)
互いに批判するだけでなく、一つの目標にむかって行動するという共同行動が
誤っているならそれを正す、でも、筋違いのことは反論するという健聴生徒の動き、筋違いのことは通らないのだという聴覚障害生徒の認識、こういうことは無数に広がりをもっていった。
しかもさらに重要なことは、たんにたがいに批判するだけでなく、一つの目標にむかって行動するという共同行動が生まれてきた。
この動きの中で、学友として仲間の連帯が、がみんなのものになっていった。
「聞こえない」からそうなのだという決めつけや同情ではなく
おたがいに真に自由に語り話し合える状況が作り出され、おたがいの学び合い。
「聞こえない」からそうなのだという決めつけや同情ではなく、生徒として人間としての前提のうえに、障害者問題や定時制での生活を統一して考えるようになってくるといえた。
このことは、学校を卒業してからも生徒達の中で一層深まりを示してきた。
全日制では「もっと聴覚障害生徒がいたら」
ところが、山城高校の聴覚障害教育の発足当時は、全日制は三年間。二名の聴覚障害生徒のみになってしまい、聴覚障害生徒の仲間しかいなかった。
でも、二名の聴障生は健聴生集団の中に積極的に参加してゆく。
その中で感じたこと、思うことについて二名の中で定期的にに話し合うが、意見が異なった時にはそのままになりがちだった。
そのこともあって
「もっと聴覚障害生徒がいたら」
というのは、彼等の切なる希望だった。