2013年8月28日水曜日

すりかえられた 「手話か口話か」 無視されたろう学校高等部の生徒たちの切実なねがい ( 生徒たちの要求 授業拒否事件から学ぶ 5 )




 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 ろう学校では、生徒に「よくわかる授業」をもっと大規模に研究・検討・教育実践すべきだったのが「授業拒否事件」の教訓だったのである。

 特に、高等部の生徒たち深く検討してみると、義務教育における普通教育が充分保障されてこなかっこと。そのため、引きつづき引きつづき普通教育の保障をもとめていたことが解る。

 最近、この普通教育ということばが「通常教育」ということばにすり替えられていることが多く、少し普通教育について述べておく。
 

ろう学校高等部の生徒は
  個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する
人間の育成、普遍的にして個性ゆたかな文化の創造と
   しての普通教育の保障を強く求めていた

 普通教育は、すべての人が共通に必要とする一般的・基礎的な教育のことで、特定の職業人の養成を目的とする職業教育や専門教育と区別されている。

 日本国憲法26条、教育基本法4条(授業拒否当時)で、義務教育の内容は普通教育と規定し、学校教育法でも、義務教育である小学校、中学校の目的をそれぞれ初等普通教育、中等普通教育としているほか、高等学校の目的として、高等普通教育を専門教育とともにその課程が置くことが定められていた。
 

 これは、第2次大戦中まで普通教育が国家統制下にあったことから、共通の普通教育=画一的な教育とされたり、高等教育段階の専門教育と対比して低次の教育と考えられたりする傾向が改められ、普通教育の目的は、教育基本法の前文(授業拒否当時)に見られるように、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成、普遍的にして個性ゆたかな文化の創造におかれていて、画一的・権力的国家統制を否定したものであった。

 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成、普遍的にして個性ゆたかな文化の創造を求め、画一的・権力的教育にろう学校高等部の生徒たちが反対したことが彼らの声明や日記などから充分読み取れる。

 義務教育の普通教育すらろう学校では保障されていないではないか、と。

 このことは、1970年代に入って京都の障害児教育推進協議会で大論議になるが、後に述べる。

  「聞こえる」ことと「理解する」こと

 このことが、真摯に行われていたら、ろう学校生徒はもちろん、インテグレーションで普通校で学んでいたすべての聴覚障害生徒に豊かな教育が保障され、教育内容が享受できたはずである。

  「授業拒否事件」の教訓を充分検証していない人は、「授業拒否事件」の教訓が「口話教育」から「手話教育」への転換であったと極言する。

 だが、はたしてそうであったのだろうか。

 その答えは、聞こえる学校であるとする普通校で、主として先生がしゃべり、生徒が聞くという教育が行われているが、生徒たちがはたして「授業がわかる」という状況になっているのか、どうか、ということだけでも考えて見れば明らかである。

 コミュニケーションの成立が前提にしても「知ること」「聞こえる」ことと「理解する」ことは、次元の異なったことである。

 その点で、「授業拒否事件」の当事者であるろう学校と生徒たちが出した要求は、大切であった。

  基本的で総合的な教育改革
         の中で手話による教育を要求した

 彼らは、単純に手話による授業ということではなく、基本的で総合的な教育改革の中で手話による教育を要求したのであり、手話教育だけを要求したのではないと言うことである。

論点がすり替えられた
   「聾学校教育=口話法」 「聾学校=手話法」


  授業拒否事件について、現在聴覚障害教育を実践している教師は、以下のように書いていることを紹介しておきたい。

 当時のろう学校の生徒は、単純に手話による授業ということではなく、基本的で総合的な教育改革の中で、聴覚障害者である自分たちにも「教師と生徒が通じあえて、学べる学校教育が当然享受されるべきである」と要求したものである。

 それが彼らのコミュニケーション手段であった「手話を取り入れた教育」として具現化されたのである。

 単に手話教育だけを要求したり、現在言われている「バイリンガル教育」を求めたものではなかったのである。

 奇しくも当時「口話法」という指導方針を頑なに堅持していた聾学校教育において、その成果が不十分とされた高等部の生徒の意見に耳を傾ける教師が少なく、そのことが「聾学校教育=口話法」という構図を生み、「聾学校批判=口話法批判=手話による教育」と論点に置き換えられていったものであった。

   生徒たちは ひとつの方法論に偏るものではなく  聴覚障害者のコミュニケーションに関して科学的研究に基づく改善を求めた

 授業拒否事件は、そのようなひとつの方法論に偏るものではなく、広く聾学校での教育について手話や口話を含めて、聴覚障害者のコミュニケーションに関して科学的研究に基づく改善を求めたものであった。
 このように課題意識を持ち 教育改善を求めるにいたった生徒たちの力を育んできたのは、皮肉にも、後の授業拒否事件の解釈によって批判の的になる当時の口話法による聾学校教育であった。

 手話とは相対する立場であると決めつけられている聴覚活用を進めた教育による成果が、結果として手話による教育を求める生徒の声となって現れたことは、まったく知られていない。

 このこと一点をとらえてみても、単なる方法論として「手話か口話か」という問題ではなく、広く聴覚障害教育のあり方に関わる問題が、授業拒否事件であったとみることができよう。


  では、1860年代の京都ろう学校幼稚部ですすめられた対応教育とはどんな考えの基ですすめられたのかを紹介して行きたい。

 決して単純な教育観に基づいて行われたことだけは知って、それに対する考えを述べてほしいものである。

 今日、手話を学ぶ人々の中には、口話教育とはどのような考えで、どのようにすすめられたのかを知ろうとしないで断定的に判断していることを考えて。              
                  
                
                                                                                          ( つづく )

2013年8月20日火曜日

首謀者は生徒たちなのに 教師の首謀者をさがす ( 生徒たちの要求 授業拒否事件から学ぶ 4 )



 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 首謀者の教師を探して押さえよ

 ろう学校授業拒否事件、当時の京都府教育委員会は、「生徒たちがこのようなビラや行動を起こすはずがない」と生徒たちの行動を軽視し、生徒を先導する教師「要注意教師」「首謀者」、その教師をろう学校から異動させれば、事態はは収まると考えていたのである。

 しかし、ことはそうはいかなかった。
 「授業拒否事件」以降に、京都府教育委員会の「授業拒否事件」の担当者に予測ができなかった事態が起きたからである。
 即ち、「授業拒否事件」以降、京都府・京都府教育委員会は、「首謀者」として京都府教育委員会に報告していた教師を京都府教育委員会の指導主事に抜擢すしたのである。

  天変地異の出来事からのウエーブ

 ろう学校の管理職やそれと通じ合っていた京都府教育委員会担当者には、「天変地異」の出来事であった。

 京都府教育委員会の「授業拒否事件」の担当者がろう学校管理職とともにろう学校と高等部やろうあ協会を押させ込もうと画策していることをまったく知らず、新しく指導主事になったろう学校にいた教師は、「授業拒否事件」の一連の書類をみて自分が首謀者として生徒を扇動したという報告書を見て驚愕する。

  ろうあ協会・ろう学校同窓会・ろう学校高等部の生徒たちの要求を正当な要求とみていた

 このことは、京都府と京都府教育委員会が、ろうあ協会やろう学校同窓会・ろう学校高等部の生徒たちの要求を正当な要求とみとめていた証であった。

 そして、京都府と京都府教育委員会がろう学校の生徒たちやろうあ協会・ろう学校同窓会の要求の正当さを認め、ろう学校教育やろうあ者福祉に根本的「改革」をはかろうとした決意の現れでもあった。

 京都府や京都府教育委員会は、「授業拒否事件」などを切っ掛けに、府民の要求に応えて当時あった就学猶予・免除を無くすべくすべての障害児教育保障の画期的展開方向を打ち出していく。
 このことは、京都ろう学校で起きた「授業拒否事件」が大きな影響を与えたことを知る人々は極めて少ない。

  「学校」としての基本的原則を守る

  ここでは、1965(昭和40)年7月11日 京都府立ろう学校の授業拒否事件で、ろう学校やろう学校の教師たちは、なにを考え、改善・改革の方向を打ち出していくべきであったか要点だけを述べておく。

① ろう学校が、ろう学校という以前に「学校」としての基本的原則を守るべきであった。

 このことを書くと、当時惜しみない努力と日本でも先駆的なろう教育を進めていた教師までも否定することになるのではないか、と言われてきた。

 ろう学校の教育やろう学校で事件が起きる度にくり返しろう学校の一部の教師から発せられた言葉であったからである。
 たしかに、日本でも先駆的なろう教育は京都ですすめられていたことは、いくつかの事例であげられる。

 ここでは1例だけをあげておく。
 「授事業拒否事件」が起きた時、教師と生徒で、「そのようなことを言った」「言っていない」ということがしばしばあった。教師の側から聞こえない生徒が「聞き間違っている。」とする発言である。

   先生の言ったことが充分聞き取れる生徒がいるのに

 ところが、生徒の中には先生の言ったことが充分聞き取れる生徒が居た。

 補聴器を装用していて聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が複数居たからである。
 生徒会の中で、これらの生徒を含めて先生の言ったことが、どうだったのか、が絶えず確かめられていた。

 その上で、生徒たちが先生の言ったことは、こうだった、と言ったのである。
 ところが、補聴器を装用していて聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が居ることすら認識していない、一部の教師は、生徒の言っている事は「違う」と主張したのである。

 聞こえる、聞こえないという根本に関わることすら理解できないろう学校の教師が居たのである。

 この補聴器を装用していて、聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が居たことは、京都ろう学校で聴能教育の先駆的実践と繋がる教師たちがいたからである。

 先駆的実践をしていた教師と「素人同然の教師」

 ところが、その「先駆的実践者」である教師と生徒がどのように聞こえているのかすらも知ろうとしない「素人同然」と言われても仕方がない教師がろう学校では「混在」していた。その教師たちが主流であったとも言える。

 ろう学校として一定まとまり、一定の水準を維持していなかったからろう学校に対する批判は、先駆的実践をしていた教師までを否定することにならない。
 

「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」

という生徒の要求に対して、ろう学校の専門性を問題にする以前に学校として原因を追求し・反省して、改善すべきであったのである。
 普通校では、当たり前のこととして行われれている教育原則が、なぜろう学校で守られていなかったのか。ろう学校も教師も深く反省すべきであった。

 ろう学校として一貫性がなく 各学部でバラバラ

②  ろう学校は、対外的には「ひとつの学校」と見られていたが、ろう学校の内部では、幼稚部、小学部、中学部、高等部など各部がそれぞれ「まったく別な学校」として「存在」していたことを改めるべきであった。

 幼稚部、小学部、中学部、高等部など各部が一貫性を持った学校として設立されていたのだからその特徴を生かした教育を進めるべきであった。

 今日では、一貫教育とよく言われる。
 当時の京都ろう学校が幼児期から青年期までの「一貫性」の機能を持ちながら、内実はまったく逆でばらばらで統一性のない動きをしていた。
 そのため「授業拒否事件」は、対外的には、ろう学校で起きた事件として認識されていたが、ろう学校内部では、「あれは高等部で起きた事件」とされ、ろう学校全体の問題として、認識されず、検討もされてこなかったとも言える。

「授業がよくわかるもの中心であり、こうした差別には納得がいかない」
という背景には数多くのろうあ者の不満がある。

 ろう学校全体でまとまり ろう教育への実践を


 事件が起きた当時ろう学校卒業生の多くから聞いた話は、「私は、小学部6年なのに教科書は4年生の教科書で授業がされた。なんかへんだった。」などなどのことがある。

 そのことをろう学校の教師に聞くと「ろう学校の生徒は、聞こえないから4年、5年、6年遅れた授業をしているのだ。」という話がしばしば、返ってきた。
 「遅れがある」ならそれ以降の学年で取り戻すようにされているのか、と言えばそうではなかった。
 高等部になると普通科教育はなく、「手に技術をつけてこそ、ろうの生徒は生きていける。」として、職業学科が置かれていたからである。

 では、その職業学科。例えば和裁の課程を卒業した生徒が、和裁で自立して生活できていたのか、と言えばほとんどは関連のない仕事か、例え和裁の仕事についても薄給でしかなかった。
 そればかりか、奴隷的労働を強いられしばしば問題になった事件は数知れない。

 ろうあ者やろうあ協会は、これらのことを充分承知していた。
 だから、ろう学校は、「授業拒否事件」を教訓にろう学校の各学部がばらばらではなく、ろう学校全体で大綱的基準でまとまり、その機能を発揮すべきであった。

③ ろう学校では、教育方法や教育改革をろう学校としての専門性から深く追求し、ろう教育の規範を示すべきであった。

 「授業拒否事件」が起きた時期。
 ろう学校の幼稚部では口話教育を徹底し、インテグレーション(幼稚部では対応教育と言っていた。)として、幼稚部の生徒を普通校に積極的に送り出し、インテグレーションができなかった生徒が、小学部に行くという生徒の能力主義、序列化傾向が強まっていた。

 1970年代になると、幼稚部を卒業し、普通校に在籍する生徒がろう学校の小学部・中学部・高等部の生徒数を上回る事態も生まれていた。
 この時期、この問題をめぐって②の項で述べたようにろう学校全体の中で充分論議されることなく事態が進行していったため、京都の教育に少なくない混乱が生まれた。

 それを克服して行くには、少なくない時間と普通校の教師の少なくない奮闘が必要とされた。

 しかし、インテグレーションの方法がよかったのかどうか、という激論があったが、今日、注視しなければならないことは、授業拒否事件の時に生徒たちが出した、「授業がわかるように研究をもっとやって欲しい」ということである。
                              
                                                     ( つづく )

 

2013年8月15日木曜日

消すことの出来ない基本的人権を要求するろうあ者の姿 ( 生徒たちの要求 授業拒否事件から学ぶ 3 )

  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  LO・ユネスコ
 「教員の地位に関する勧告(1966年)の重要な意義

 LO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告(1966年9月21日-10月5日) ユネスコにおける特別政府間会議は、当時の教師や教育関係者は知りうる立場に居たが、今日ほど国際的な動きが知らされていなかったためろう学校生徒・ろう学校同窓会・ろうあ協会が知ることは困難なことであった。

 そればかりか、教育関係者の中でこのLO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告(1966年9月21日-10月5日)今だよく知っていない人が多すぎる。
 
 国際的には、このような勧告や政治機関を設けて順次国際的な改善と水準の向上を図っているのである。


 ユネスコには、国際的拘束性比較的少ない。
 しかし、ILOは違う。
 ILOは政府・企業(政府)・労働者によって運営されているためILO総会で決められたことは、国際的制約を持つし、それに違反した場合は国際司法裁判所で裁かれる。

 
LO・ユネスコは勧告している 
  いかなる不公平も  適正な注意が払われなければ 
 

LO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告(1966年9月21日-10月5日)をよく知る人は、

 「教員は、生徒の進歩を評価するのに役立つと思われる評価技術を自由に利用できなければならない。しかし、その場合、個々の生徒に対していかなる不公平も起こらないことが確保されなければならない。」

「個々の生徒に対していかなる不公平も起こらないことが確保されなければならない」

などや
「(a)子供ができるだけもっとも完全な教育の機会を与えられることは、すべての子供の基本的権利である。特別な教育的取扱いを必要とする場合には、適正な注意が払われなければならない。」

「特別な教育的取扱いを必要とする場合には、適正な注意が払われなければならない。」
を周知していた。

 従って、イギリスのスペシャルニーズ教育などは、この特別な教育的取扱いを必要とする場合には、適正な注意が払われなければならないのLO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告」に基づくことは承知していた。

 しかし、教育を独立した存在=教育は教育としてだけ成り立つ、と考えていた人々には、全く関係の無いこととして考えられていたのである。

  基本的人権を要求する      消すことの出来ないろうあ者の姿

 温故知新ということばもあるように、過去をきちんと学ばなければならないのである。
 その点で、あまりにも過去を単純化してとらえる人々のために、この部分ではより詳細に記録しておかなければならないと思う。

 ろう学校で起きた「授業拒否事件」は、ろう学校が学校として、教師が教師としての役割を果たすべきべきであると要求したのであり、その点ではそれまで我慢を重ねてきたろうあ者のろう学校への爆発的ろう教育改善要求であり、それは当たり前でささやかな要求であったと言うことが事態の本質であった。

 そのことすらもろう学校に言えないことが長期に続いていたためろう学校生徒・ろう学校同窓会・ろうあ協会がろう学校に対してその教育を改めるように要求したことは、京都のろうあ者運動で天地をひっくり返した大事件であったと言っても言い過ぎではないだろう。

 このことを書くこと自体が、憂うことである。
 だが、現実的には、そのことが事実としてあったのだから哀しいことであった。


 しかし、そこには基本的人権を要求するもう消すことの出来ないろうあ者の姿が立ち現れてきたと言っても言い過ぎではないだろう。

   「沈黙」「自己保身」 落ち着いてから頭角を表す


 「授業拒否事件」が起きた時、京都府教育委員会は、「授業拒否事件」は、ろう学校の生徒の自主的な動きでないと「断定」し、生徒を扇動した教師がいる、と断定し、その「首謀者」を調査することを秘密裏に行って「首謀者」を「特定」している。
 その「首謀者」の中には、近年、手話や手話通訳分野でさまざま「授業拒否事件」に関わったとされている教師の名前は、全く上がっていないことはすでに述べてきた。

 近年、「授業拒否事件」に関わったとされている教師は、事件にはほとんどアクションを起こしていなかったからである。

 ましてや生徒の要求を支持して動いたということもなかった。

 「沈黙」して「自己保身」をはかり、ことが静まってからあれこれと言ったり、書いたりするこの傾向は、ろう学校教師自身による「授業拒否事件」問題の解決を産み出すことができなかったのである。

 だからこそ、生徒やろうあ協会の要求と行動は、ろう教育の改革への動きを産み出したのである。

 これらのことは、当時行動したろう学校生徒たちからその後、すべて証言を得てきた来たことからでも明らかに出来る。
    


        消せない証言がある。
                              

                                                   ( つづく )
 

2013年8月13日火曜日

国際的基準に 一致していたろう学校高等部の生徒の要求 ( 生徒たちの要求 授業拒否事件から学ぶ 2 )



   
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 

生徒の真に教育を受けたいという要求を
                               差別認識にすり替えた「逃げ」

 ろう学校の生徒の要求に応えずろう学校、ろう学校長は、

「高等部における指導上の上で『差別』と受けとめられる事例が発生しました。無意識ではあったと思われますが、これはきびしい教育の反省の上に立って、今迄に現れたことは『差別』であったと認めます。」(聴覚障害者福祉の源流 文理閣 )

とろう学校、ろう学校長は、ろう学校生徒の当然な授業要求を無視して、「差別」があったことを「認定」して、学校での授業要求を無視して事態を収めてしまうった。
 
 すなわち、ろう学校の「授業拒否事件」の背景にあった高等部生徒たちの当たり前で切実な

教育を受けたい、

という要求が、生徒指導上

 差別があったか、なかったか

ということに「すり替え」られ、最終的に差別認識や差別認定で幕が下ろされてしまった。

  このことは、ろう学校高等部の生徒の授業はさほどたいしたことではない、と軽んじる憲法に保障された教育の機会均等、ひとしく学ぶことを踏みにじるものであり、ろう学校の生徒への「差別的授業」容認することではなかったか。

 すなわち、ろう学校の生徒に対する差別的授業が存在していたのである。
  差別的授業が行われていると認め、教育内容や授業のあり方を改善すべきだったのである。

 差別認識論に問題をすり替えないで、生徒の言う「授業がわかるように研究をもっとやって欲しい」と言うことに応えるべきであった。
 

  検討と実践されただろうか
     ろう学校高等部生徒の7つの要求

1、「授業がよくわかるもの中心であり、こうした差別には納得がいかない」を、生徒を差別することなく、授業がよくわかる生徒にも、よくわからない生徒にも、ひとしく授業実践がきめ細かくなされ、どの生徒もわかる授業が実践が追求されるようになったのか。

2、「一生懸命に質問に答えても、先生は聞こえないふりをする」ことに対して、質問に答えている生徒に対して、充分聞き取る、聞き取ろうとしたのか。またそういう努力をしたのか。先生が、聞き取れないのは、「生徒の発語能力が悪いからだ」などと決めつける考えを基本的に改めたかどうか。

3、「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」
授業をするという学校では、当たり前のことをすべての教師が授業時間を守ったか、どうか。


4,「手話で教えて欲しい」
手話を使って授業をしている教師も少なからずいたのだから、手話で授業をする方法を受けとめ、改善したのか、かどうか。
 少なくとも、生徒たちが使っている手話を学習し、コミニュケーションとして重視したかどうか。


5、「授業がわかるように研究をもっとやって欲しい」
教科書をただ黒板に書き、生徒にそれを書き写すだけの授業だけではなく、生徒に指摘される以前に、教師の努めである授業研究をしたのかどうか。


6、「私たちと先生は仲よく勉強したい」
教師と生徒の立場は別であるが、生徒からのもっと話し合いたい、職員室に閉じこもっていないで私たちともっと話し合ってほしいという要求に応えて、生徒との気持としての交流がされたかどうか。


   自分たちの先輩から学んで
  「何のために勉強するのか」という疑問を提出

7、「何のために勉強するのか、その目的について話してほしい」
 この要求の背景には、教育の基本である教育の目的とそれぞれの教科目標をきちんと生徒に示して、授業を進めたのかどうか、


が問われる。

 特に、生徒たちの気持ちにあったのは、京都の高校生との交流を通してろう学校高等部には職業学科と別科だけしか無いという問題意識が次第に強くなっていた。

 教えられている教科も教科名は高校課程の名称が使われているが、その内容は小学校や中学校程度でで、普通高校課程の授業が行われていないという疑問・問題意識があった。

 さらに、職業学科では聴覚障害があるから早くから「手に職をもつ」ようにして、社会で生きていかなければならない、と何度も教えられてきた。
 だが、卒業生の状況を見てみると、例えば紳士服科を出てどれだけの人が紳士服関係の仕事に就いているのか。
 ほとんどが、職業学科で学んだ=手に職を持つ ことと別の仕事についていて健聴者よりはるかに低賃金で働いている。
 紳士服の仕事に就いている人でも朝から晩まで高級紳士服を縫い続けているが、寝るまもなくみんなと話し合う時間さえとれない。

 そればかりか、高級紳士服を縫い上げているにもかかわらず手間賃はきわめて安い。店が、ほとんどの利益を得ているではないか。
 
 どんな圧力や誘惑にも切り崩しにも
       屈することなく一致した力の形成

 ろうあ協会人々と会うにつれ、ろうあ協会の会員の不満や怒り、嘆きが、即自分たちのこととしてジンジン胸に迫ってきた。

 
  ろう学校高等部の生徒たちは、この時期中学部の先生たちの援助の基に自主性とともに健聴生徒高校生と交流し、学び合いつつ、同じ聞こえない人々から学び自分たちの置かれている状況と明日と未来を考えるようになっていたのである。


 青年期にこのようなことを知ったから、彼らはどんな圧力や誘惑にも、切り崩しにも屈することなくみんながみんな手を取り合って自分たちの意思を守り通したのである。

  1966年  ILO・ユネスコ 教員の地位に関する勧告  は    ろう学校高等部の生徒を鼓舞するものだった

 ろう学校で「授業拒否事件」が起きた同時期に、ILO・ユネスコ 教員の地位に関する勧告(1966年9月21日-10月5日 ユネスコにおける特別政府間会議)が出されている。
 

 ろう学校生徒の要求と関連する部分だけを列挙しても次のようなことが国際的に「勧告」されている。(以下、LO・ユネスコ 教員の地位に関する勧告抜粋)

 3 指導的諸原則


「 教育は、その最初の学年から、人権および基本的自由に対する深い尊敬をうえつけることを目的とすると同時に、人間個性の全面的発達および共同社会の精神的、道徳的、社会的、文化的ならびに経済的な発展を目的とするものでなければならない。これらの諸価値の範囲の中でもっとも重要なものは、教育が平和の為に貢献をすることおよびすべての国民の間の、そして人種的、宗教的集団相互の間の理解と寛容と友情にたいして貢献することである。」
 

4 教育目的と教育政策
「それぞれの国で必要に応じて、人的その他のあらゆる資源を利用して「『指導的諸原則』に合致した包括的な教育政策を作成すべく適切な措置がとられなければならない。」
「(a)子供ができるだけもっとも完全な教育の機会を与えられることは、すべての子供の基本的権利である。特別な教育的取扱いを必要とする場合には、適正な注意が払われなければならない。」


8 教員の権利と責任
「教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められたものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。」


「教員は、生徒の進歩を評価するのに役立つと思われる評価技術を自由に利用できなければならない。しかし、その場合、個々の生徒に対していかなる不公平も起こらないことが確保されなければならない。」

 以上のことだけを見ても、ろう学校の生徒が要求したことは、生徒の権利と言うよりも国際的には教師の権利としても当然のこととして受け入れられるべき者であり、教員の権利と生徒の要求はまさに一致していたのである。

「私たちと先生は仲よく勉強したい」
という要求は、LO・ユネスコの国際的方向とまさに一致した要求であったのである。
                                      ( つづく )
 

2013年8月12日月曜日

何のために勉強するのか 授業がわかるように ( 生徒たちの要求 授業拒否事件から学ぶ 1 )



 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  検証 京都ろう学校における「授業拒否事件」

 京都ろう学校における「授業拒否事件」は、今日では手話通訳者の関係者の間では、あまりにも有名な事件となり、手話や手話通訳分野でさまざまに解釈されているらしい。

 1965(昭和40)年7月11日 京都府立ろう学校高等部の生徒が写生会に出ないで同盟登校。いわゆる授業拒否。
 1966(昭和41)年3月3日 京都府ろう協と府立ろう学校同窓会共同 で「3・3声明」発表。


 とういう経過をもつこの事件。

 よく論じられるのは、「口話」教育の押しつけに対する「手話」教育への要求という歴史的事件であったということである。

 しかし、この「授業拒否事件」の全容は、京都ろう学校の教育内容の大巾改善とともに、福祉や労働などさまざまな分野と教育の区別と分担などの改革が求められたものであった側面は理解されていない。
 

  まず、ここで「口話」教育の押しつけに対する「手話」教育への要求が引き出されたとする意見を検証してみたい。

  恥ずべき事に終止符が打たれた


 「授業拒否事件」が起きた時期、ろう学校の生徒が要求したことは、

「授業がよくわかるもの中心であり、こうした差別には納得がいかない」

「一生懸命に質問に答えても、先生は聞こえないふりをする」

「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」

「手話で教えて欲しい」

「授業がわかるように研究をもっとやって欲しい」

「私たちと先生は仲よく勉強したい」

「何のために勉強するのか、その目的について話してほしい」

などのことがあきらかにされている。(聴覚障害者福祉の源流 文理閣より)
 
  ここには、もっと学びたい、知りたい、という生徒たちの心底からのねがいが現れている。
 だが、このねがいに応えるばかりか、「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」と生徒が教師に言っているのである。


 これは、授業以前の問題として教師としても学校としても恥ずべき事なのではないだろうか。

 いいかげんな授業という以前の問題にろう学校や教師たちは、生徒に誠意ある「回答」をしないまま事態に「終止符」が打たれた。

  テスト前に教えて高得点のテスト

 後日、ろう学校が100周年を迎えるときに、ろうあ協会の機関紙にろう学校での教育を受けた者の側からの100年が連載された。

 その時、ある卒業生が次のような趣旨の文章を投稿した。
 

 高等部のテスト前になるとある先生は、前日にテストと全く同じ問題を生徒に配り、回答させる。
 回答を書いた生徒に正解を書かせて訂正させ、覚えさせる。
 テスト日。一字も違わない問題が出される。
 生徒は、先生の正解を思い出し、一生懸命書く。
 
 その生徒たちのテスト結果は、他の教科と比べて飛び抜けていい。
 両親は、子どもの成績を喜び、教えてくれた先生に感謝する。


 このような趣旨だった。

 このことを数人のろうあ協会会員に尋ねた。
 そういうことをする先生はひとりやふたりでなかった、と言う。

 信じられない話だと思ったが、調べてみると普通校でもよくあることも分かってきた。

 特に、全国・地域の学力検査などは、その地域、学校、クラスの成績が判明するため教師は必死になる。生徒にあからさまなやり方をすると生徒や両親からすぐ批判が来るのでさまざまな工夫をしながら学力テストで好成績をとるようにしていた。

 しかし、ろう学校高等部の一部の先生はそのことを平然と行っていたのである。

 
今でもあるかのように誤解される、と抗議

 ろうあ協会の機関紙に掲載されてすぐろう学校高等部から抗議がきた。

 このようなことを掲載されると今でもろう学校でも同じようにしていると誤解される、という内容だった。
 

 過去のことと現在のことがゴッチャマゼにされて理解しているのは、ろう学校高等部のほうだった。
 こういうことは過去にすでに解明して、改善し、二度と同じ事が無いようにしているので、誤解されるから、過去のこととして断りを書いてほしい、ということではなかった。

 断りを書くまでもなく、ろうあ協会の連載のタイトルを見るだけで分かるはずだった。
 血相を変えて抗議をしてくることではなかった。


   ろう学校に逆らえない、という心証

 ろうあ協会や関係者からこのまま連載を続けるべきだ、そうでないと学校から見た100年誌だけが記録として残る、という意見があった。

 だが、まだまだろう学校に逆らっては私たちろうあ者が困るから連載を中止しようという役員の強固な意見が出され、白熱した論議が繰り返された結果やむを得ず連載が中止された。
 

 ろう学校から出された100年誌には、残念ながら教育を受けた側からの意見がほとんど反映されなかった。

 3・3声明を考えても当時は、もっとろう学校に対する「遠慮」があったことは、想像に難くない。
                                                                                                         ( つづく )
 

2013年8月10日土曜日

「3・3声明」の歴史的評価と当時の問題点及び未来への伝言 いわゆる(3・3声明 資料 2)


  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

※ 「教育の基本問題」「民主々義と共に歩む高い理念をろう教育」「熱意と才能をもった教師をろう学校へ」と主張していたろうあ協会やろう学校同窓会は、高等部の教職員が出してきた「人間には、潜在的差別観があるもの」「言動の中で生徒達が肌で差別と感じ取ったとすれば、潜在的差別観から来る差別と受けとられたことは率直にこれを認め」という「理屈」に疑問を持ちながらも、次第にその「理屈」に巻き込まれていく。

 そして、教師個人の責任を「存在的差別感」に置き換え、高等部やろう学校の教職員全員にそのような考えがあるとの方向へ進む。
 ここには、生徒たちが「人はにくまないが態度をにくむ」と教職員と手を結び合いながらよりよきろう教育をめざす教育方向が打ち消されている。

 

   君ら権利をうばわれて ではないのか

 同時期、盲ろう分校がすすめた普通小学校との共同教育では、生徒間の誤解や無理解を「差別」としてとらえることはしなかったし、そういうことを引き起こしている教職員を「潜在的差別感」があるとはしなかった。

 ましてや与謝の海養護学校設立過程で述べたように不就学の重度の寝たきりの子どもたちの教育保障に対する取り組みへの数え切れない偏見や差別的言辞に対しても、「差別」という「理屈」が持ち込まれなかった。

 盲ろう分校と交流をすすめた先生は、京都で同和教育をすすめた先生で有名だが、その先生も差別という「理屈」で物事を考えはしなかった。

 だが、ろう学校高等部では、京都の同和教育のひとつの潮流にのる人々の「存在的差別論」が校長・高等部から持ち込まれたが。そこには、意図的な考えがあった。

 これらのことは、ろうあ協会が1970年代以降多くの聞こえるほとびとと手を携える中で急速に克服していく。
 その中で、授業拒否事件の関係生徒は極めて積極的な役割を果たす。

 

 だが、「存在的差別感」という考えは、ろう学校高等部でさらに深く「沈殿」し、ある教師が「ろう教育ー君ら音うばわれてー」の本を出版した時に大阪の聾社の生活と権利を守る会から徹底的な批判を浴び「ー君ら権利をうばわれてー」ではないのか、ともいわれる事態が生じる。

  やがて すべてのろうあ者が声をはりあげて叫ぶ

  3・3声明
 「ろう教育の民主化をすすめるために-「ろうあ者の差別を中心として-」  (2)

 昨年10月東京でろうあ者2人が手まねで話しているのを、人にからかわれ、それがもとでけんかとなって、相手を死なせてしまった事件がおこり今裁判中である。
 ここにはっきり差別の事例がある。しかしそれは殺人という痛ましい悲劇に終っている。


 われわれの過去に程度の差こそあれ、この様な悲劇が数え切れないほどあったし今もある。
 
 また、家庭でのうちの子はきこえないのだから、月給が安くても、結婚ができなくてもしかたがないというあきらめも差別に対する認識が正しく行き渡っていない証拠である。


 われわれは、日本じゅうにいる、すべてのろうあ者の届かない抗議を代表していると信じているし、やがて、すべてのろうあ者が声をはりあげて叫ぶだろう。
  人間としての権利を 時として生命すらおびやかされている

5.差別問題の正しい解決のために

 京都のろう学校における差別問題はたまたま生徒とわれわれ成人ろう者のねばり強い抗議によってそれが正しい形で発展させられて来た。
 けれどもそれは、ろう学校における数多くの差別のほんの一例にすぎず、更に一層深刻な形の差別が社会にあり、われわれは、人間としての権利を、時として生命すらおびやかされている。

  差別問題は 教育委員会
 ならびに文部省の行政方針の欠陥としてとらえるべき

 差別問題は単にろう学校当局や個々の教師の過失としてとらえるべきでなく、かえってろう学校当局や教師をしてこの過失をおかさせたもの、教育委員会、ならびに文部省の行政方針の欠陥としてとらえるべきである。

 ろう教育に何の情熱も関心も持たない人を先生としてろう学校へ送るだけでなく、こんな奴は、ツンボかメクラの学校へという露骨な差別意識が教育委員会の中にあったことを追求する。

 また親や子の教育への願いをふみにじって特殊な技術が必要なこの学校の先生に、研究や訓練の機会もない状態、また子どもの要求を尊重して権利をまもり、可能性を無限に伸ばす道が明らかにされていない今日の状態を追求する。

 親が安心して子どもを通わせることができる学校になるよう要求する。

 文部省や教育委員会は、ろうあ者がどのような生活をしているか知っているのか。
 こういうろうあ者の生活実態を理解しないまま教育を受ける権利を保障しないままでどうして身障者が一人の人間として社会的な権利を保障され、差別をなくせるだろうか。

  ろうあ者に対するあきらめとあなどりのムードが
    ただよっているろう学校

 行政そのものに差別がある。

 差別行政のどん底に置かれている今日のろう学校に、ろうあ者に対するあきらめとあなどりのムードがただよっているのは、いったいだれの責任だろうか。

 このムードがある限り、差別を差別と感じる正常な感覚と切実感は生れるはずがない。

 こうしたぬるま湯につかっている限りこの問題を差別としてとらえることに根強い抵抗があったことは、この事件の経過をみても明らかである。

 われわれは、ここでろう学校、教育委員会、ひいては文部省が、その責任を明らかにし、積極的に具体的な解決のためにこの問題に取り組むよう要求する。

   われわれの人間としての権利を尊重する姿勢を

 われわれに対する認識を正し、われわれの人間としての権利を尊重する姿勢をもって、ろう教育の発展ひいては成人ろうあ者の地位の向上に力をそそぐべきである。

 その時になって始めて、われわれはその崇高な目的に達するために関係諸機関と協力してこの事業の推進に努力を惜しむものではない。

     昭和41年3月3日
                      


     耳の日にあたって
                                                                      ( つづく )
 

2013年8月8日木曜日

「3・3声明」の歴史的評価と当時の問題点及び未来への伝言 いわゆる(3・3声明 資料 1)



              
  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


※ 一部の関係者で有名な「3・3声明」を以下掲載する。掲載以降この「3・3声明」の歴史的評価と当時の問題点及び未来への伝言として考える上で、「3・3声明」は、従来のろうあ協会・同窓会の主張が大きく変えられていく部分がある。
 そのため       を引いて、3・3声明について考えを述べてゆきたいと思う。



                                            3・3声明
「ろう教育の民主化をすすめるために-「ろうあ者の差別を中心として-」

     

                                                                 社団法人 京都府ろうあ協会
                                                        京都府立ろう学校同窓会


 昭和40年11月18日京都府立ろう学校高等部の生徒全員は学校行事として予定されていた船岡山写生会をボイコットして学校に集まり、その立場を明らかにするビラを全校に配布、生徒集会を開くという事件をおこした。

 われわれは、この事態を重視し、学校側及び生徒代表者の説明を求め、次の様な事実をつきとめた。

  生徒の怒りの頂点をしめしたのが写生会ボイコット

1.どうしてこういう事件がおこったか

(1)第1学期末に学校プールの清掃問題で、教師と生徒に対立が生じた。
 理由は、教師間の連絡不充分及び指導性、計画性の欠如による事故が、生徒の非常識、無理解という点にすりかえられ、生徒が教師によって一方的に非難されたことによる。


(2)その結果、高等部生徒会と教師の話し合いがもたれ、生徒の懸命の抗弁にもかかわらず、教師側は、これは単なる誤解であり、生徒の無理解であるとの見解をゆずらなかった。

 しかし、生徒のもっていたいろいろの問題については、更に第2学期に話し合いを開いて、問題を討議すると同時に、お互いの理解を深め合おうという確約が出された。

(3)生徒は前記の確約の線に沿って教師に対し、9月上旬、9月の下旬および10月に3度にわたって、話し合いを申し入れたが、いずれも理由の説明もないままに、そのまま延引され、結局握りつぶされた形になった。

(4)これらの事態に対する生徒の個々の抗議に、教師は「ろうあ者は常識がない。」「生徒は民主々主義、はきちがえている。」という差別的言動でしか報いることを知らなかった。

(5)たまりかねた生徒会は、高等部生徒全員の一致をもって、先に確約した教師と生徒の話し合いの実行を要求し、生徒指導部や高等部主事の責任を追及する文書をつきつけたため、11月16日にやっと生徒指導部と生徒の話し合いが、開かれることになったが、その当日に教師側の担当者の一人は用事があるからと帰ってしまって、残った教師では、とうてい生徒を納得させることが出来なかった。

(6)事件前日には、ついに某教師がこうした事態に対する抗議の生徒集会の場で生徒会長に対しバカヤロウとどなった。

(7)以上の教師の度重なる不誠意と無責任による事態の紛糾にもかかわらずプールの清掃問題の直接の責任者でもある高等部主事は様々の口実と弁解をもって責任を他に転嫁し、事態の混乱に一層の拍車をかけた。

(8)この様にして、生徒の切実な要求を無残に踏みにじって来た教師に対し生徒の怒りの頂点をしめしたのが、今度の写生会ボイコットなのである。

  われわれはろうあ者に対する差別ととらえ

2.われわれろうあ者の抗議・「これは差別である」


 この事件を、われわれはろうあ者に対する差別ととらえ、ろう学校当局に抗議、事実の究明に乗り出す一方で、京都府教育委員会に事情を訴え、府教委の責任に於て、ろう学校に対する指導の強化を要請、全組織を挙げてこの問題に取り組みを開始した。

 当初学校当局はわれわれの度重なる抗議にもかかわらず、言を左右にして、事実を明らかにせず、単なる教育上に於ける手落ちや行きちがいに帰して責任を取ることを拒否して来たが、われわれろうあ者の一致した断乎たる追求と、次々と明らかにされて来た客観的な事実の前に、われわれの抗議の正当さを認めざるを得なかった。

  この事情を最近開かれた高等部職員会に於ける結論は次のようにのべている。

「人間には、潜在的差別観があるものであるから、先生方が意識的に差別をしようとする気持ちはなかったと思うが、その言動の中で生徒達が肌で差別と感じ取ったとすれば、潜在的差別観から来る差別と受けとられたことは率直にこれを認めよう。」

 この高等部職員会による結論は、甚だあいまいであり、その言葉にもかかわらず率直でない。

 ともあれ、われわれはこの事件を契機として、ろう教育ひいてはろうあ者の地位の一層の向上を目指すべく、差別問題合同研究会の発足に学校当局と合意に達した。

 これは、失われた人間としての権利の回復を主張して、団結した全京都のろうあ者のかちとった最初の輝かしい成果である。

  うあ者に対する軽視
 ろうあ者に対する許し難い人権の無視

3.われわれは何故これをろうあ者に対する差別ととらえたか

(1)プールの清掃問題は事態の進展にともなって教師側に手落ちのあった事が、客観的に明らかにされた。
 これが何故生徒に責任を転嫁するような事態にいたったのか。


(2)生徒の4ヶ月3回にわたる教師との話し合いの申し入れが当初の確約にもかかわらず、何故4ヶ月間放置されて来たのか。

(3)生徒のたまりかねた抗議の声がどうして「ろうあ者は非常識だ」「生徒は民主主義をはきちがえている」という反応しかよばなかったのか。

(4)生徒の写生会のボイコットに際し、学校当局はどうして生徒の切なる抗議の声を取り上げず教師の一方的な説明をうのみにして生徒の非難に終始したのか。

(5)教育委員会は学校行事のボイコットという重大なる事態に際し、われわれの乗り出すまで、何故何等の措置も講じなかったのか。

 ここには「いろいろの事情があった」「誤解があった」という弁解では説明できない要素がある。
 このことは、ろうあ者に対する軽視、ろうあ者に対する許し難い人権の無視という観点にたったとき始めて納得のいく説明が出来る。

 われわれはこのことを正にわれわれろうあ者に対する差別であると訴える。
 

  尊重されるべき人権が尊重されないこと それが差別


4.差別について、それをどのようにとらえるか

 差別といえばすぐ部落差別、同和問題を思いうかべるが、差別は、部落にだけあるとは限らない。

 われわれの身のまわり、いたるところにさまざまの形で存在する。

 尊重されるべき人権が尊重されないこと、それが差別である。

 差別の一つの特色は、社会的に弱い立場にあるものに集中される。

 したがって実際に差別があったとしてもそれがただちに差別の具体的な形として取り上げられる場合はすくない。

 何故なら差別されたものが強く意識しても差別したものは、無意識もしくは、ほんの軽い気持ちといった程度にしか認識がないのが普通である。

 したがって抗議の声をあげるのは被害者すなわち差別された者に限られているといってよい。

 しかし、ここに差別された者が社会的に弱い立場にあるという前提があり、このことが抗議の声をあげること、またそれが人権の無視の重大な事例として社会的に取り上げられることを非常に困難にしている。

 イソップ物語にこの様な話がある。「池にカエルが遊んでいた。子供が通りかかってカエルがとびあがるのを面白がって石を投げる。カエルがやってくる。子供さん、石を投げるのはやめて下さい。あなたにとっては遊びでしょうが私達にとっては生死の問題です。どうかやめてください。」
 子供が石を投げるのをやめ、カエルが平和に暮らせる様になるために、次のことが必要である。

 まず、カエルが堂々と子供の前にやってきて自分の生死の問題について抗議すること。
 ついで、子供がカエルの抗議によって自分の行為の意味するところのものを知ることである。


 もし子供にカエルの生命に対する温い気持ちがあれば、子供は石投げをやめ、カエルは元の平和な生活にかえることが出来る。

 したがってわれわれは抗議の声をあげ、ここにろうあ者の人権が無視されている数々の事例を取り上げて訴えているのである。
 人間がカエル権をおかしても、それは社会的に問題にはなり得ない。
 しかし人間が人間の権利をおかした場合それは社会的に大問題である。

 しかし身体障害者に対する差別には「能力が欠けている」「きこえない」「見えない」ということがついてまわるためにたとえその人格が尊重されなかったとしてもはっきり社会的差別として取り上げにくい。

 同時にこのことは、われわれろうあ者を含めた全身体障害者の人権が十分尊重されているか、差別されていないかという事に社会的な関心が払われていないことを物語るものであり、このこと自体が差別なのである。

 京都のろう学校で高等部生徒によって写生会のボイコットが行なわれ、今、ここにわれわれの抗議にまで発展して来た。

 われわれは差別問題を個々の教師の非行の問題としてとらえず、まったく社会的な問題としてとらえられて来た。又とらえようと努めて来た。これは差別の正しい取り上げ方であると考える。

 けれども具体的な差別の事例があったとしても、それがこの様な形に発展するとは限らない。
                                                                      ( いわゆる3・3声明 資料 つづく )

 

2013年8月5日月曜日

日本最初のろう学校としての輝かしい伝統の母校を こよなく愛し 誇りを持って ろう学校授業拒否事件 ろうあ協会・ろう学校同窓会の京都府教育委員会への要求(2)



  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   京都府立ろう学校の事件に関する京都府教育委員会への要望

   差別的・逃避的態度から理解と深い教育愛を

  教師の差別的、逃避的な態度を反省し、生徒に対する正しい理解と深い教育愛をもって、生徒が障害をのりこえて訴えていることに耳をかたむけ、又我々成人ろうあ者の団体であるろうあ協会や同窓会の意見に耳を傾けるのが当然ではないでしょうか。

 学校側がどれほどこの問題の本質に盲目であるか、又は、故意に目をつぶっているかは、ここでくだくだしく我々の主観的評価をのべなくとも次の事実を見れば明らかです。

  誰が 常識がなく 民主々義をはきちがえている

(一)生徒が「自分たちは、口話、手話を云々しているのではない。
 先生の私たちに対する態度の誠実さを問題としているのだ」とはっきりビラの中で述べているのに、強引に口話、手話の問題にすりかえて、口話研究会とやらを開いて現象を糊塗しようとしていること。

(二)事件の経過の「四」の中でも述べたように、学校長まで出席している場で、主事が後日部会で検討ののち回答すると確約しておきながら。

 その後ニカ月余り討議も何もせず、返事もせず、生徒にさいそくされてやっと主事名で回答を出したが、それは生徒の要求から全く的外れのものであったということ。
 

 生徒のビラによると、この主事は、日頃からしきりに

「ろう生徒は、常識がない」

「民主々義をはきちがえている」
 

などと放言しているらしいですが、これでは

「常識がなく、民主々義をはきちがえている」

のは、一体誰でしょうか、

生徒でしょうか、

高等部主事でしょうか。
 

ろうあである事を利用して
 故意に事実をゆがめ 
     常識で考えられない不当な解釈がされている

 主事および校長は、学校行事を拒否した生徒の行動の非難に重点を置いています。

 本来ならば、生徒をしてこの様な行動に踏み切らせた原因の追求にこそ重点を置くことが教育者として正しい態度ですが、校長および主事がこの様な非常識な態度を示して平然としている裏に、ろうあ者に対する抜き難い差別感が明らかに読みとれるのではないでしょうか。

 この様に、われわれがろうあである事を利用して、故意に事実をゆがめ、常識で考えられない不当な解釈を行い、これでもって自分達の誤りをおおい隠して、 事件を落着させようとすることは、教師が如何にわれわれろうあ者の教育を、ひいてはその人格を粗略に取り扱っているかという事を証明しています。
 
  学校・教師の態度は 必ず将来に重大な禍根を残す

 もし我々ろうあ者が校長や主事が思い上って考えているような常識のない、不健全な人間ならば格別、実際にわれわれなりに常識的な判断を持ち合わせている場合、こうした学校教師の態度は、必ず将来に重大な禍根を残すものと云わなければなりません。

 これが根本的に大事であり、この文書を委員会へ出す我々の本当の気持ちですが、我々は決してこれをもって、ただにろう学校の個々の先生の非をあげつらっているのではありません。

 我々は、むしろ学校の先生方がなぜこんなになってしまうのか、その本当の責任者は教育委員会にあるのではないかと大きな疑問をもつのです。

  教育を受けて卒業した我々が
  主観的に知っている専門的知識・特別な技術

 我々は、教育についてむずかしいことはわかりません。

 しかしろう教育が本当にむずかしい教育だということは、そのためいろいろ専門的な知識と特別な技術がいるものだということは、又、深い教育愛がいるものだということはかつてこの教育を受けて卒業した我々が主観的に知っています。

 又私たちがこの社会に出てもいろいろと差別を受けなければならないのですから、この教育がイコール教育技術ではすまないということも日々感じています。

 委員会は、ろう教育のこの特殊性に対して果してどのような理解と配慮をもってのぞんで来られましたか。

 私たちは個々の不良教師の非行をのりこえて、この事実を厳しく追求するものです。

  京都府教育委員会が
  「ろう学校の先生であることを恥しい」
                                   ことだと思わさせている 

 ろう学校には、ろう学校の先生であることを恥しいことだと思っている先生が今でも沢山います。
 私たちにはわからないことです。


 このむずかしい、又深い教育愛を必要とする仕事をしていることがなぜ恥しいことなのでしょうか。

 本当を言えば、ろう学校の先生こそふつうの学校の先生よりも尊敬されて当然だと思うのですが……。

 しかしろう学校の先生をそのように思わせているのは、委員会ではありませんか。

 「こんな奴は、ツンボかめくらの学校へでも」

といいかげんな人事で無能教師、非行教師、ロートル教師をろう学校へ配置してこられませんでしたか。

 又この教育に才能も性格も合わない情熱も持ちえないでいる教師をいつまで
もろう学校にほったらかしておかれませんでしたか。


 耳のきこえない子供を教えるための特別な訓練や知識を与えた後、ろう学校へ配置して下さいましたか。
 

 「同和教育」というりっぱなことを言っておられる委員会がなぜろう学校の先生に、肩身のせまい思いをするようなムードを作っておられるのか、我々には不可解なのです。

 以上にのべた我々の見解と立場な十分御検討下さい。
 そして以上の我々の立場にたってのみ、我々の次の要求を受け人れて下さい。


日本最初のろう学校としての輝かしい伝統の母校
     をこよなく愛し 誇りを持っている

(一) ろう教育の特殊性に対する認識を深め、その対策を人事・制度・施設の面に具体的に画策して下さい。

(二)熱意と才能をもった教師をろう学校へ優先的に配置して下さい。

(三)この教育に自信も情熱も持ちえずにいる先生に対しては、本人のためにも適当な人事交流をはかって下さい。

(四)少くとも、今日まで生徒に対して差別的な言動の絶えなかった教師に対しては、教師として失格であるとの判定のもとに断乎と配置転換を行って下さい。

 我々は、日本最初のろう学校としての輝かしい伝統をもっている我々の母校をこよなくも愛し、誇りとしています。

 又その発展のためいつでも喜んで協力するつもりです。

 がこのことは、同時にわれわれの母校を傷付け、伝統をけがそうとするものに断乎として対決することも意味しています。

 民主々義と共に歩む高い理念をろう教育に

 委員会も教師に誤りがあれば、これを正し、すべてのろう学校の教師がその仕事に誇りをもち、自信をもち、又一人一人の生徒を心から愛して、安んじて教育に専念していけるようにしてあげて下さい。

 かつて哀れむべき不具者を教育によって治癒救済してやるのだという貧民救済的な理念を一歩も出たことのないこの教育に、同和教育におけるような、日本の民主々義と共に歩む高い理念をこの教育にも与えて下さい。

 以上のことを府下全域のろうあ者の総意として強く要求いたします。

※ ろう教育に対して、冷静で沈着に考えぬいたこのろうあ協会・同窓会の要望書は、苦しみ抜いたろうあ者を代表する教育への要求(現在、教育的ニーズと書く人々は、なぜかこの言葉を避けているが。教育的ニーズということば自体あいまいでなにを意味しているのか不明である。)は、現代教育の中でも絶えず流れているものではないだろうか。

 
  「 熱意と才能をもった教師をろう学校へ」「この教育に自信も情熱も持ちえずにいる先生に対しては、本人のためにも適当な人事交流を」という人事要求は、現在でも考えなければならないことである。

 
 「 熱意と才能をもった教師をろう学校へ」


と書いた要求には、「 熱意と才能をもった教師」は、学び・研究し・生徒とともに教育を発展させる条件を備えた人であるという教訓が籠められている。

 1970年代を前後して、京都府教育委員会はこの要求に徐々に応えていくが、

 「 かつて哀れむべき不具者を教育によって治癒救済してやるのだという貧民救済的な理念を一歩も出たことのないこの教育に、同和教育におけるような、日本の民主々義と共に歩む高い理念をこの教育にも与えて下さい。」という要求に対して、当時、同和教育の主流であった「差別論」で、本来の要求が「すり替えられていく」。

 それは、運動の高まりとともにそれを抑え込もうとする動きと同調してはじまる。

 残念ながら、このことは手話や手話通訳を学ぶ人々が絶えず引用する「3・3声明  ろう教育の民主化をすすめるために-『「ろうあ者の差別を中心として-』」(略称 3・3声明)に明確に現れている。

 京都府教育委員会に出した要望書の数日間に要望書とは、一部に極めて違和感のある「3・3声明」を以下分析してゆきたい。
                                                                                                          ( つづく )
 


 

2013年8月4日日曜日

横たわり続ける三つの「溝」 解放してくれる希望の光 ろう学校授業拒否事件 ろうあ協会・ろう学校同窓会の京都府教育委員会への要求(1)



  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
 京都府立ろう学校の事件に関する
          京都府教育委員会への要望

  昭和四十一年二月十四日 京都府ろうあ協会と京都府立ろう学校同窓会は、連名で京都府教育委員会に対して以下の要望書を出した。
 非常に長文にわたるものであるが、ろう学校校長などとの意見に対する事実にもとずく批判等は、省略する。


 ろうあ協会・ろう学校同窓会は京都府教育委員会
   に対してどのような要望を出したのか

  京都府立ろう学校の事件に関する京都府教育委員会への要望 (概略)
 
     京都府立ろう学校の事件に関する要望の件

  我々一千名の京都府立ろう学校同窓会会員及び六百名の社団法人京都府ろうあ協会々員は、昨年十一月十八日の京都府立ろう学校高等部の学校行事拒否事件、及び其後の事件処理の経過に関連して、この教育の現状及び前途について真に憂慮に耐えず、ついに意を決してあえてこの一書を草し、教育委員会の責任ある善処方を促すものであります。

   我々を苦しめている   解放してくれる希望の光

 我々は、耳が聞えないというただそれだけの理由で、仕事の面でも社会生活の面でも、いろいろ差別されています。

 そして、我々の団体は、極端にいったら、この差別を受けているという共通の事実によって結成され、又この問題を解決するために色々活動すべく結成されている団体としての性格がいずれの場合も強く表われています。

 そして、我々が今回の事件だけではなく、ろう教育一般に切実な関心を持たざるをえないのは、我々がこの問題を追求すればするほど、我々を苦しめている差別から我々を解放してくれる希望の光は、ろう学校が全力をあげて我々や我々の後輩に出来るだけ完全な教育、正しい民主主義の理念にそった教育を与えてくれるかどうかにかかっていることを日々の苦しみの中で切実な実感として感じているからです。

  私たちの幸せのためのもので
   ろう学校への不当な干渉ではない

 従って、ここにろう学校の問題をあえてとりあげるのも、決してろう学校に不当な干渉をなすものではなく、それなくしては、私たちのこの世における幸せはかなえられないという切実な関心に根ざしているのです。

 また次に記しますように、後輩たちからくり返し、くり返し学校教師の不当な仕打や、言動について、何とかしてくれと訴えられているからです。

 この事件に対する学校側の解釈及び解決策は、当然学校長より委員会へなんらかの形で報告があったと思いますので、ここでは、私たちの立場からの事件の経過だけを述べます。

 十一月十九日私たちは、事件の発生を知るとすぐろう学校へおもむき、校長、副校長、高等部主事に面会を申入れ、事件についての説明を求めました。
 (問題の指導部の三先生との面会は、校長から拒否されました。)

学校側から次の主旨の見解説明がありました。
    ( 略 )

  私たちが恐れていた方向へ解決されている

 このように生徒を含めたわれわれろう者の要望は、ことごとくふみにじられ、行動の不当な合理化しか行われていない。

 このような教育の実態をどのように判断されますか。

 このような状態の中で、我々は、人間の権利を正しく守り、差別や偏見と戦っていける子供の教育をろう学校へ託することができるとお考えですか。

 このような状態のままで、我々は果して日本国憲法に保障された自由及び権利を守り、義務を果していけるとお考えですか。

 私たちは、いたずらに主観的な評価をのべることは、ひかえていますが、以上の経過を見ても、この問題は、私たちが恐れていた方向へ解決されていっています。

   生徒の権利を守る方向ではなく逆な方向へ

 つまり、生徒の権利を守る方向にではなく、不良教師の「権利」を守る方向へ。

 耳の聞えない者がその時、その場に応じた適切な発言も出来ないでいるうちに、なんだかんだで、万事耳あきの都合のよいように問題が解釈され事が運ばれるという方向に。
 
 砂をかむような思いが
  生徒に対する耐えがたい仕打となって

 それは私たち自身余りにもしばしばこの社会で経験し、砂をかむような思いをさせられていることです。
 今にそれが生徒に対する耐えがたい仕打となって向けられていくことでしょう。


 さらに「五」

( 注 高等部の指導部の教師が中学部の授業で「高等部の生徒が勉強を放り出しテストをやったが、ストをやるような生徒はバカだ。みなさんは高等部の生徒のようなバカなことをしてはいけない、と諭したこと。
 高等部の主事が生徒会代表との話し合いで「泥棒にも三分の理があるというが、どのような場合にせよ一方的な断定は出来ない。問題が複雑な場合は尚更だ。これが世の中の道理というものだ。生徒が一方的に主張することは間違いだ」と説教した。
 事件後指導部の教師が「この問題は、教師の方に落ち度があったと思うが、事を穏便にすませるために生徒の行動が誤りであったことにして、先生にわびるべきだ」と公言したこと。
 学校長が生徒会長に対して「負けるが勝ちということわざがあるが、これは真理である。生徒会もそろそろ要求をひっこめて、妥協したらどうか」と言ったことなどなど )

の生徒からの訴えに関連して、なぜ生徒が学校の先生や父母に相談せず、ろうあ協会へ訴えてくるのでしょう。

  横たわり続ける三つの「溝」

 それはろう学校では、ふだんから安心して何でも訴え相談できるよううなあたたかい心のふれあいが先生と生徒の間にないからです。

 先生と生徒の間に次のようなみぞがあるからです。
 
(一)つんぼと耳あきの間にできる必然的なみぞ

(二)この教育に情熱も意欲ももたない先生との問に生れるみぞ

(三)(二)と関連して、とくに「つんぼとはしょうのない奴」という差別的態度から生れるみぞ

 このみぞが横たわっていること。しかも(二)、(三)、のみぞが主な原因であったことは明らかです。

 このことが大事だと私達は評価します。
 

 相手が耳のきこえない生徒であればある程度そこにみぞが生れることはさけられないとです。
 しかし、だからこそ、学校側は、この問題について常に細心でなければならないはずです。


  許すことが出来ない
 耳のきこえない手まねも指文字もわかる先生
 への差別的言辞

 この事に関して、しかし学校は、今学校にいる二名の耳のきこえない手まねも指文字もわかる先生を、いずれも生徒指導部へ配置しているほか、これについてどんな対策を講じているでしょうか。

 これらの先生は、生徒と話ができないてふつうの先生の代わりになって、全く生徒の問題のよろず受けたまわりになって苦労しているのに、その仕事は一向に評価されず「なんでも生徒の肩ばかり持ちやがって」と陰では悪口されているのです。

 あまつさ高等部の主事は、ろうあ協会との話し合いの席上で、

 「耳の聞えない先生は、口話教育の能力はない思う。」

などその先生たちの職業的使命にかかわるような重大な差別的言辞をろうしているのです。

 自分の無能から来る問題を全部カバーしてもらっていながらなんと横暴で手前勝手なことを言う主事でしょう。

 私たちは許すことができません。

 問題の根本にこのようなみぞがあったのならば、そのみぞが何であり、それをうずめるためにどうしたらよいのかを具体的に画策するのが、この問題の正当な解決策です。

 ※ 「つんぼと耳あきの間にできる必然的なみぞ」の「耳あき」という言葉を聞いた時、驚いたことがある。
 そして、この「耳あき」と言うことばが、ろうあ者が、見下した言い方で「おし」「つんぼ」と言われることに対抗して「耳あき」ということばを使っていたことを知った。

 「耳あき」「目あき」という意味の歴史は古いが、ろうあ者は聞こえないことを嘲笑わられた時、逆に、耳あきのくせにこんなことも知らないのか、と手話で言い返していたことをよく見た。

 1960年代のことである。
 この表現は、レジストresis(抵抗する=手話で手の甲を立ててすり合わせる。反対の手話表現をすり合わすことで一時的なものでないという意味もある。)としてとらえることが出来る。


 しかし、この表現だけに留まらず、ろう学校での教育に対する期待と裏切りと、憎しみと愛が複雑に交差した非常に重要な京都府教育委員会への要望書であったと読むことが出来る。

 我々を解放してくれる希望の光は、ろう学校が全力をあげて我々や我々の後輩に出来るだけ完全な教育、正しい民主主義の理念にそった教育を与えてくれるかどうかにかかっていることを日々の苦しみの中で切実な実感として感じている。

 という文章は、日本で最初にろう教育が行われた京都からすべての国民に発したものであったと言える。

 だが、残念なことにこのことは、広く国民に知らされなかった時代制約の波に押しつぶされようとしていた。

 だから、ろうあ協会の会員は、乏しい財布を開けてみんなで後世にこの事実を残すべく冊子を作ったのである。

                ( 京都府立ろう学校の事件に関する要望 概略 つづく )

 

2013年8月3日土曜日

みんなは別科の人に対して特別な感情(差別に近い意識)をもっていることは事実だが、とろう学校高等部の生徒 ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(8)



教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


      特別と別の違い

 ※ 当時、京都府立ろう学校高等部では、職業学科( 和裁 紳士服 などなど)の他に別科という二つの学科が置かれていた。
 別科というのは、ろうで重複の生徒が学ぶクラスとされていた。

 しかし、中学部ではろうで重複の生徒は特別学級という名称だったのに「別科」という名称そのものは、学科としても、生徒たちの言い方にも「違和感」を与えるものであった。
 

 手話で、職業は主として「仕事」として表現されたが、「特別」は、海軍将校などの袖襟の楕円形の刺繍で表現された。
 すなわち、特別とは、スペシャルの意味合いを持ち表現されたが、別科では、「別」という手話表現で表されていた。


 そのため、高等部の多数の生徒は、職業課に属していたため「別科」は、「(自分たちと)別の科」の意味合いとして表現されていた。

  四十数年ぶりにろう学校高等部の大幅学科編成

 この名称や高等部の学科編成は、数年前から大幅に編成され「授業拒否」の時に生徒たちが望んだ「耳の不自由でない人達と同じようになるため」の学科が創設されるようになってきているが、教育内容面での実践ははじまったばかりである。
 しかし、このことでも現在の京都府教育委員会には、大きなぶれが見られる。


 四十数年余にして初めてろう学校高等部の大幅学科編成がはじめられことは、それなりに評価出来るかもしれないが、遅きに失した、とも言える。
 だが、当時の高等部の生徒は、「別科」の生徒に対する考えを率直に語り、それぞれがその考えを変えていった記録が残っている。

 この時の討論は、以下の文章で終わっているがその後ろうあ協会の役員になった高等部の生徒たちは、「別科卒業」の生徒を暖かく迎え入れ、各行事には、誘い合い「ろうで重複」の人たちの生きがいを支え合うようになっていく。

 別科(ろうで重複)の生徒のことについて生徒会の討論記録から

  司会 昨年7月、高二年生は海へ行く計画をたてていたが、別科の生徒が一緒に行くことは拒否するということがあったが、今日はそのことから話し合いたいと思います。

男 別科の生徒は経済的にめぐまれていない人が多いと思う。
  一緒に行ってもよかったが、お金のない人は苦しいと思うので断わった。


女 別科の生徒は父母が非常にかわいがっている。一緒に行ってもしものことがあったら、とても責任がもてない。

男 別科の人は言ったことがよくわからないから、一緒に海へ行くと、とても危  い。

男 H君の意見に反対。
  経済的に苦しいから断わるのでなくて、それなら皆がカンパをやってでも一  緒に行くのが当り前ではないか。


    別科と一緒に行くのが嫌だという人がいたのは事実

女 一部の生徒には別科と一緒に行くのが嫌だという人がいたのは事実だ。
  ふらふらしていて足手まといになるのも困るし、それではせっかく海へ行っても楽しくないという理由からだ。

  しかしこれは、私も含めて反省しなければならない。

〈注 海へ行く云.々は、臨海学習の計画を二年生のホームルームで立案した時のこと。
 別科生が一緒だったら行きたくないという生徒が多数あって、この計画は流れてしまったのだそうである)


司会 昨年秋の遠足の時、1年の人は別科の人と一緒にバスに乗ることに反対し、  3年生に説得され、しぶしぶ同意したということがあったが、これについて  ……
 
 何だか後あじが悪い気持が

男 話をしても面白くない。
  服装、態度もだらしない。
  別科の生徒より三年生の生徒と一緒の方が楽しいというのが大部分考えだった。


 一部の女子の中には、別科と一緒でもかまわないという人があったが……。

男 3年はそのさわぎを知り、ふんがいして1年の代表と話し合い、説得した。
  別科の人は大へん怒って1年の人と口論した。
  3年生が中に入って、1年生がどうしても反対なら3年生と一緒にするからといって結末をつけたが、1年生の人はもっと考えてほしかった。

女 あの時は何だか後あじが悪い気持がした。
  3年生の人も1年の時は、今の1年と同じように別科の人を差別的な目でみていたが、だんだんわかってきた。

 仲良くしないのは悲しいこと

   別科の人は学力でおくれているとはいえ、それは彼らの責任ではない。
   そんなことがだんだんわかってくると、別科の人と話をするのが、けっこう楽しい。

  ろうあ者同志が仲良くしないのは悲しいことだ。

司会 ほかに。

男 この前、2年の1組と2組がちょうど同時に自習時間となった。
  それで1組と2組が相談して修学旅行の話し合いをしたが、あとで、一緒に  修学旅行に行くことになっている別科の人が、黙ってやるとはけしからん、と怒ってきた。

女 終ってから別科の人に、その内容を伝えたが、別科の人は1組、2組だめだめ、と言って……。

男 1組と2組で相談を開く前に、別科の人に一緒に開くことが出来ない理由を  説明してあげればよかったのではないか。

女 しょうと思ったが、別科は授業がはじまっていたので出来なかった。
  別科の人に秘密で相談したのではない。

  しかし別科の人はどう説明しても聞いてくれない。

  別科の人に対して特別な感情(差別に近い意識)をもっていることは事実だ


男 若し1組と別科が自習だったら、旅行の相談を一緒にしただろうか。
  たとえ別科の時間の調整が出来ていたとしても、やらなかったのではないか。


司会 ともかく、みんなは別科の人に対して特別な感情(差別に近い意識)をもっていることは事実だと思う。

  それでは、これをどうしたらよいのか話し合ってみたい。

 話し合いだけでは
        仲良くなれない

女 2年生は、卒業式がすんだ後、別科の人も一緒に2年生全員で話し合いをもつことにしている。
  しかし、この話し合いだけでは仲良くなれない。

男 昼休みでも別科の人と気安く話し合うべきである。

男 それはよくわかるし同感。
  しかし、話し合うだけでは、別科の人はまいってしまう。


男 やはり別科の人達の中に入りこむことが大切。

  そのためには話し合うことも大切だし、一緒に遊ぶことも大切だ。
  日曜日ハイキングに行ったり、いろいろ考えられると思う。
 

司会 もうそろそろ終りにしたい。
   心のふれ合いが大切だと思います。どうも御苦労さま。

                                                                                                                ( つづく )
 

2013年8月2日金曜日

決して不可能なことではない先生と生徒にある「みぞ」「壁」をなくすこと ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(7)



 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  1965(昭和38)年聾学校高等部生徒会校内討論分科会記録より
 授業についての高等部生徒の討論まとめ

 心からの叫び 楽しく はっきり理解できる授業を

 すべての生徒は、現在の授業に大きな不満をもっています。
 これは学習意欲の減退に関係があります。
 生徒はエスケープなどの方向にはけ口を求めているのです。

 もっと楽しく、全員がはっきりと理解できるように教えてほしいというのが全員の切実な心からの叫びでした。

 無理に 分からなくても分かった

 現在における授業のあり方に対する,不満とは、教え方に対する.不満であり、先生の授業中の態度に対する不満です。

 先生の話が何故理解出来ないのか。

 それは理解出来るように教えて下さらないからだといっています。

 また、一部の生徒から、先生の話は教科書通りで、何の興味もわかない。

という意見もありました。

 理解出来ない時は質問すればよいといわれるが、生徒の立場に立てば、わからなくても、先生に「わかりましたか」といわれたら、わかったような顔をするのも無理はないでしょう。

 えこひいきする先生への不満

 先生の態度に対する不満は、一番大きなのは、えこひいきに対する不満です。
 発声のよい生徒、

 先生の質問にすぐ答える生徒、

 頭のよい生徒のみに焦点をあてて、授業を進行させられる先生に対する不満、

 生徒の質問に耳を傾けようとされない先生の態度に対する不満、

 授業時間におくれてこられても、平気でおられる先生の態度に対する不満、

 その他いろいろとありました。

    先生と生徒はもっと話し合おう

 教える者と教えられる者についての高等部生徒の討論まとめ


 先生にも手話を覚えてほしいという意見が沢山ありました。

 教える立場にある先生と、教えられる立揚にある者の間に、みぞ、あるいは壁があっては教育は出来ないのではありませんか。

 また、先生に手まねを覚えてほしいといっても、それは無理ではないかという意見もありました。

 しかし、それはともかく、先生は職員室にとじこもっているのではなく、もっともっと、生徒と話し合うべきです。

 生徒も

 「もっと生徒と話し合うように」

と注文するだけでなく、

自分達から積極的に先生に近づき、話し合っていこうという意見もあり、両者が努力すれば、決して不可能なこととは思われません。

 しかしながら、そのきっかけがない現状では何も出来ないままとなっています。

  楽しく学習できるための具体的提案

 みんなが楽しく学べる場とするために

 生徒全員が、みんなが同じように楽しく学習したいと望んでいるのは事実です。
 では具体的にどうすればよいのか。
  みんなの意見をまとめてみました。

 まず、先生と生徒が努力しあうことによって、言葉のみぞをなくすることです。

 次には、先生の指導方法に誠意と熱意がこもっていること。
 

  えこひいきのない教え方。

 教え方の研究心があること。

 生徒も先生の熱意と誠意にこたえることです。

  総合的な能力を身につけ
 ろうあ者の孤立した世界からぬけ出し
   みんなと一緒に考え、行動を

 何のために学習するのかについての高等部生徒の討論まとめ

 耳の不自由でない人達と同じようになるためという意見がありました。

 しかし、正しい日本語を身につけていない、また、聾学校の勉強すら満足に理解していない自分をよく知っているから、自分の将来を考え、何の目的ももっていない生徒が大部分でした。

 将来とは、悪い条件の職場で働くことです。

 この責任はだれなんでしょうか。

 ある一人の生徒は、みんなと仲良くするためという意見を出しましたが、その意見は大いに学習し、総合的な能力を身につけ、ろうあ者の孤立した世界からぬけ出し、みんなと一緒に考え、行動しなければならない。

  そのために学習するのだと言うことでした。

 私達は、大変大切な意見のように思いました。 ( 以下略 )


※ 1965(昭和38)年にこのような生徒たちの授業に対する不満とともにその改善を図る具体的提案がされていたのである。

 対立を亀裂としてとらえることなく、対立を統一的に考え、それぞれの立場を尊重し合う考えが率直に高等部の生徒自身の中から出されている。
 教師の立場、生徒の立場をわきまえつつ双方が出来るところから授業をすすめてほしい、それは無理しない自然で明日にも実現できる提案だった。

 
 そのことに背を向けた教師や学校側の深刻さが、くっきりと浮かび上がる。

 
 「ナニナニだからコウシナケレバナラナイ」
 「なにがなんでも シンボウシナケレバナラナイ」
  「学校を出ても悪い条件の職場で働くことになるからコウシナケレバナラナイ」

 といったガンジガラメの考えに立つのではなく、そのガンジガラメからの解放が自由にのびのび語られている。

 この心底学びたい、という要求になぜろう学校の教師やろう学校が応えられなかったのか。
 ここにろう学校の抱えていた重大な問題があると言えるのではないか。


 1960年代に提起された問題が、1970年代以降どれだけ実現され、改善されてきたのかを考える目安がここにある。

 生徒たちは、決してろう学校は特殊だ、とは言っていない。

 むしろ教師の側にそれが残り続けていること、それが現代まで伝承されているところに問題の根深さと深刻さが横たわっていると言わざるを得ない。

 すべての子どもたちに等しく教育を。
 愛人に会うようにいそいそと行ける学校を。
 楽しい学校分かる授業。
 うつるから手を取り合っての共同教育。


 それと同じことが、生徒たちから出されていたのにろう学校では。

  それが実現されたとは言いがたいのは、なぜなのか。
                                                        ( つづく )
 



 

2013年8月1日木曜日

傷口にドロをぬってかくしてしまおうとされた、とろう学校高等部の生徒          ろう学校授業拒否事件生徒たちの意見(6)



教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  ※  48年前のろう学校高等部の生徒たちは、先生の言ったことのおかしさを感じ必死に日記を書いていた。
 すでに例をあげたようにこれらの日記はすべてのろう学校高等部の生徒が綴ることが出来たわけでもない。
 だが、みんなと必死に話し合い、「そうだ そうだ」と一致したことをそれぞれの想いで書き綴っていた。
 文章として十分書けなくても。


 ろうあ協会は、文章として書けていることを資料集に入れているが、充分話せない、書けない生徒たちの思いも含めて日記が書かれていることから、いくつかの解説を加えて行きたい。

 夜道に佇み帰宅を待った親の怒りにも守り抜いた約束事

 なお「写生会拒否」事件を前後して、高等部生徒の帰宅が遅く、早朝学校に行くとことが続いた。男女生徒とも親からそのことを案じて叱責を受けたが、誰ひとりそのわけを言わなかった。
 
 特に、ろう学校に通うのに2時間以上かかる生徒もいたが、女生徒の親は心配で夜道に佇み帰宅を待った。
 その理由が、学校長の通知で知ったときに、親のほとんどは激怒した。

 どこにも行けないわが子の教育を受け持っていただいている先生に刃向かうなんて、と。

 これらは、事件後、多くの親から聞いたが、親でさえ生徒の行動を理解できなかった。

 

  ウソを見抜いた力の形成
    「学校の決めたことを拒否することは出来ない」

 M主事は高等部入学の時の誓約書をもち出しこういった。

「学校には学校の規則がある。
 生徒側が学校の決めたことを拒否することは出来ない。
 自主性のはきちがえである。
 君達は入学した時、学校の規則には反しませんと印をおした。
 ここにある。……」


「学校をよくするためにはもっと先生達と生徒がお話したい。
 この問題がおこらない前に相談したいと思っていたところが、その前に問題が起こった。……」


 こんなこと真赤なウソだ。
 話し合いたいといっても口だけで何にもやらなかった。(以下略)


※ 生徒の直感と感性は、すごいものがある。誓約書の学校の規則、とは「学則」のことだろうが、学則は、学校が作って教育委員会の承認で作成される。

 そこには、入学、転学、などや教育課程と卒業条件等々のことが書かれている。
 処分という項目があるが、これはあくまでも学校教育法に基づいたものである。

 従って、当時の京都府立学校の学則には、「学校には学校の規則がある。生徒側が学校の決めたことを拒否することは出来ない。」ということは書かれていないし、その根拠はなにもなかった。

 
 先生自身が、規則を守る、決めたことを守る、ことをしてないではないか、と生徒たちは見抜いていた。だから、 M主事の言ったことに何ら動じることはなかった。
 この高等部生徒の自主性と判断の高さには、驚くばかりである。

 

  「首謀者」さえなんとかしたらとする甘い考え

 次に高等部のF先生は、次のようなことを言ったことが日記に綴られている。

「前の水曜日の時、バカヤローといったのは、皆に言ったのではありません。
 O君個人にいったのです。
 僕がその時こうふんして、怒ったことについては反省しています。すみませんでした。
 しかし、プリントに首にせよと書いたり、特定の先生の名前を明記したことは名誉キソン罪です。
 あのビラは思いもかけない所にまで流れました。
 例えばろうあ協会等です。
 この件についてはO君も謝ってくれました。
 しかし、謝罪文を書いてほしい。
 これは高等部の決定です。
 私個人の意見ではありません。」


※ 生徒会長を切り崩せれば事態は、収束する、というろう学校高等部の先生の意図は明白である。

 だが、残念なことに高等部の教育方向の反省もないまま「首謀者」とされるO君だけに謝罪文を求めることに高等部の教職員が一致したこと自体非常に残念ことである。
 後々、全国的に有名になったI・N先生も高等部の教員だった。
  学校外でいろいろ言えても、学校内で意見を言うことが出来ないでいた教師。
 それを生徒自身が着実に乗り越えて行く。
  
 ろう学校の無責任に起因   本質は
 僕達のみでなく、全べてのろうあ者に対する差別

 写生大会拒否事件よりニカ月目をむかえた。
 が、学校側からは何の返事もない。


 12月17日からは一カ月をすぎているのに、だいたい先生方は非常識なのではあるまいか。
 

 今日も又、みんなの不満げな、苦しむ姿を見なければならない。

 改善を加えていくとおっしゃったが、何が改善されたのか僕にはわからない。

 ある先生はあたたかく教えて下さっているが、これは学校側が改善を加えた結果とは思えない。

 それは、その先生個人が反省し、私達を国民の一人としてその権利を尊重して下さっている結果だと信ずる。
 

 僕達は今回の事件は、ろう学校の無責任に起因していると見 その本質は、僕達のみでなく、全べてのろうあ者に対する差別であるという認識に立つようになった。
 
 ろう学校八十年間の放任と、最近の学校運営
     社会的欠陥がしわよせが導火線となった

 その真意は、昨年突然に問題化したのではない、ろう学校八十年間の放任と、最近の学校運営、社会的欠陥がしわよせされ、今回の事件の導火線となったのである。

    はっきり断わってある「人はにくまないが態度をにくむ」

 先生方は

「君達の気持は頭が痛くなるほどよくわかっています。今後明るい学園にするため一層努力をします」

という、これだけの回答で、事件は円満に解決した。

 済んだ、済んだ、の一点張りで生徒側を納得させ、問題が拡大するのを防こうとされた。

 つまり傷口にドロをぬってかくしてしまおうとされた訳だ。

 私達は、これは学校全体の問題であるという立場にたっていたが、別に学校中を混乱にまきこみ、無茶苦茶にしたい等とは考えてはいなかった。

 そこで、一応、学校を平穏にするため、ビラを無断で作成、配布したこと、先生の名前を入れたこと、写生会を拒否したことの非を認め謝罪、反省した。

 しかし、一時の混乱をさけるために謝罪したとはいえ、僕には何故無断でプリントを配ったこと、特定の先生の名前を入れたことがいけないのか、いくら考えても理解出来ない。

 理由は憲法には言論の自由が保障されているし、

 「人はにくまないが態度をにくむ」

と、はっきり断わってあるからだ。
                                                            ( つづく )