2012年5月31日木曜日

非難し合っていた子どもたちが変わり 教職員も親も変わる


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー

 京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと教師・親(2)

1973年3月

   お祝のことばより

六年生のみなさん、ご卒業おめでとうございます。………
 わたし達は、耳が聞えないのでお話が下手です。だから買物に行っても、お店でみんなからめずらしそうに見られます。
 くやしいと思ったことが何度もありました。………


 10歳を過ぎると 自分の障害を人にうったえられるようになった

 高学年になると、自分の障害を他人に語ることに抵抗を持っていた子供達が、自分の障害を人にうったえられるようになった。
 集団としてのたかまりにまだまだ弱点は残されている。

 
 しかし、盲の人が……、
     ろうの人が…、


と非難し合っていた子供集団とそれを見過していた教職員集団であったけれど、この共同教育のとりくみの中で集団としての高まり・発展が見られるになってきている。

         子どもたちが変わり 教職員も変わる

 全盲の子供の手を引くろう児の姿。
 自転車の荷台にろう児をのせて走る弱視の子供の姿。


 また週一度体育学習と朝礼を合同でやるようになっているし、盲児・ろう児がお互の名前を知り合うためにとろう児も教職員も点字プレートつきの名札を全員がつけている。


教職員集団も変革された。
 一昨年まで、盲・ろう別々の職員室で職員会議等も年に数回行事調整のためのものが持たれるにすぎなかったが、現在は同じ職員室に机を並べ職員会議もそれぞれの独自性は尊重しつつ、分校の子供の問題は全員での考え方から、必ず合同会議で検討されるようになった。

障害のある子をつれて人の中に出るには大変勇気がいりますが

お母さんからの手紙
高野小学校・盲ろう分校交流のスケート教室におさそいいただきありがとうござます。
 高野校のお友達と仲良しになってもらい、盲学校だけよりも友情の輪が大きくなることは本当に良いことだと思います。

 私自身、障害のある子をつれて人の中に出るには大変勇気がいりますが、さそっていただいたことで、昨日のような楽しい集団の中へ入れたことを心から喜んでおります。
 M代も、このような集団の中で苦しみものりこえて行くだろうと思います。
 いつまでもよい友達として、この友情の輪をさらに大きくしていって下さい。
と、喜びと手紙に託した盲分校の母親。


   三つの学校の運動会とは思えない
       一つの学校の運動会のようだ

高野のお母さん達は、この交流をどう思っておられるのだろう。
 内心迷惑に思ってわられるのでは……。
 反対しておられるのでは……。


と心配した分校の母親が、数々のとりくみの中で、共に走ったり、菊なえを植えたりする経験を通して、障害を持った子どもの幸せには人々の正しい理解がいかに大切か、そしてその理解を深めるためにに自らが積極的に働きかけることの重要さに気づき、高野校保護者との文通交流の提案をするようになってきている。

今年六月、合同運動会が盲ろう分校で行われた。
 高野の育友会員の半数の参加があった。
この運動会は、来賓の地元のろうあ協会の会長が三つの学校の運動会とは思えない。
これは一つの学校の運動会のようであったと感想をもらす程楽しいものであった。


今年はみなさんばかりでなく
 私たち親どうし交流したいと思います

《メッセージ》
盲・ろう学校のみなさま、こんにちは、私達は高野小学校育友会の者です。
 今日は運動会ですね。高野校といっしょに、みんな仲良く走ったり、とんだりして下さい。
 私達は、盲・ろう学校のみなさんと高野校のみなさんが仲艮く交流していることを知っています。
 それで今年はみなさんばかりでなく、私たち親どうし交流したいと思います。


 それで今度、みんなが一番都合のよい日に親子そろって交流会をもちたいと思います。
 そのときは、みなさんのお父さんやお母さんに是非来てもらうようにおねがいしてください。
 今日の運動会が盛大に終ることを祈っております。さようなら
    


                                       高野小学校育友会教育文化部
 

 子供達からスタートしたこのとりくみも、このようにして親の中へとその輪の拡がりをもちはじめた。


全盲の女の子が、高野川に入ってうぐいを一匹素手でつかみとることが出来た


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー


 京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと教師・親(1)

 高野小学校の取り組みを掲載してきたが、次に京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと教師・親の取り組みについて先生の記録や子どもたちの手紙を掲載して行きたい。

              生れてから普通の人といっしょに勉強するのが初めて

分校の子どもたちの感想と先生たちの感想記録より

1972年3月合同体育学習 

……僕は生れてから普通の人といっしょに勉強するのが初めてです。
 また、府立盲・ろう舞鶴分校も生れてから初めてのことでしょう。
 このことは大変うれしいことと思った。


 行く前に「はずかしくない。平気でする。」と決心した。
 ……今日のことは大変よい思い出です。死ぬまで忘れません。
 今までの交流で一番おもしろかったのは、今日の体育の授業です。
 高野校との交流の前は、僕達は普通の人とは別に勉強するのが良いと思っていたが、交流をやってみるとやはり一番良いことだった。

 ろうの人だけでなく、普通の人といっしょに勉強するのが良いことだということがよくわかったし、よく勉強できました。



1972年9月自慢話大会

 いつも消極的で発表をきらうA子さん。
 とても発表は無理だろうと担任は準備させなかった。
 ところが、友達が発表するのを見で、自分にもさせてくれと申し出、堂々と発表した。


                 うぐいを一匹つかみとることが出来た  全盲の女の子

1973年6月合同運動会

 自分達が、はじめて力を合せてガリ切をやり作りあげたプログラムを、閉会式の時、高野の校長先生に「よくがんばりました」といわれてとてもうれしかった。

1973年4月 高野小学校の前に流れる高野川を遡上してくるうぐいつかみ

 全盲の女の子が、うぐいを一匹つかみとることが出来た。

 魚にさわることがどうしても出来なかったのが以後可能になり、教室で飼育しているタニシにもさわることが出来る。

1973年4月 ふきつみ

 つみとったふきは、両校の教職員が買った。

 売上げ金は今後の共同学習のために使用することにしている。
 子供達は生れてはじめて、自分の労働によってお金を得た経験である。

  文通も個々に行なわれている。

 ろう児にとって苦手な文を書くことが、だんだん苦にならなくなり、手紙をもらったら当然返事を書く認識が出来た。

高野の人たちは、私たちを差別しなかった
  けれど、私たちは重複の友だちを差別していた

「高野の人たちは、私たちを差別しなかった。けれど、私たちは重複の友だちを差別していた。私達も差別しないようにしょう。」

とH・Rで話し合われたり、卒業生の就職先へ職場見学に行った中学部生徒は、

 障害者は何人働いていますか。

 聞えない人のための通訳は、どのような方法でしていますか。

 大勢の中に手話のできる人が一人もないのですか。

 障害者が淋しい思いをしていませんか。

 障害者のことを、みんなにどのように話していますか。

といった障害者と健常者とのかかわりの観点に立った質問をし、付添の教師を驚かせたりしている。












2012年5月30日水曜日

「M君の点字手紙」と子どもたちの いのり


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー


                高野の教育   (その7)

  先生の話を胸にM君は必死になって、
「盲学校の人は、ぼくの書いた手紙を読めないのでは」
から
「盲学校の人は、ぼくの書いた手紙を読めるように」
手紙を書きはじめます。


              完成した「M君の点字手紙」

 時間がすぎても、まって、まって、と言うM君を先生は待ち続けました。
 そうして出来上がったのが「M君の点字手紙」だった。

  「M君の点字手紙」をどのようにして作ったのかを先生が聞いてみるとM君は、まず、はじめに普段通り鉛筆で手紙を書いた。
 次に、自分の書いた手紙をひっくり返して、書き写した。
 そして、ひっくり返して書き写した文字に、鉛筆でていねいに、細かく凹を打ち続けた。
 そして、細かく凹を打ち続けた手紙を、ひっくり返して凸面が表になるように先生のところに持ってきたのである。

 凸を手で触っていくことにより、M君からの手紙が盲学校の生徒さんたちに「読んでもらえる」という熱い思いを込めたM君からの手紙だった。
 

いやあ  あれ、宇宙人かもしれんど からの変化

  はじめに普段通り鉛筆で手紙を書いた手紙は、ろう学校の生徒のみんなに読んでもらい、凸面が表になった手紙は盲学校の生徒のみんなに読んでもらおうというM君の気持ちだったことが、高野小学校の先生に初めて解ったのである。

先生 遠足はいろんな人が行きます。
   目が見えん人や耳の聞こえん人も来とってかもわからんよ。
   出合ったらどうする?


先生 いっしよに遊ぶ?

生徒 (即座に)いやあ(と体を傾けて何かをさける様子をする)

先生 そう………

そして、

「何言うとってんや、わからへん」
「あれ、宇宙人かもしれんど」
「イギリス人かもしれん」
「フランス人や」


と、会話をしていた高野小学校の1年生。

 それに対する「こころからの返事」が、「M君の点字手紙」だった。

 「M君の点字手紙」は、そのまま京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校に届けられた。
 先ず大感激したのは先生たちだった。

 点字でない点字だけれど、M君の汗の結晶が点々と残っている「M君の点字手紙」に子どもたちのこころからの思いが込められ、相手を思いやる純な気持ちをしっかり受けとめられたからだ。
 京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の先生は、高野小学校の子どもたちからの手紙を生徒に手渡したが、「M君の点字手紙」は盲学校の生徒にその意図をきちんと説明されていった。


  100点をやりたい思いで何度も読みかえしていました

 のちのち「M君の点字手紙」も含めた高野小学校と京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の生徒たちの交流文集を読んだM君のお母さんから

「子どもなりに、自分の思いを相手に知ってもらいたいと思って、時間がくるのも忘れて一生懸命、最後まで点書きしたことに対して100点をやりたい思いで何度も読みかえしていました。」

との手紙が両校の先生に届けられた。
  かくまくをあげる人が見つかるように

 3学期。
 角膜手術を受ける盲分校の友だちを心配して


「かくまくをあげる人が見つかるようにといのっています」

という手紙や千羽鶴が京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校に届けられた。



2012年5月27日日曜日

宇宙人かもしれんど イギリス人かもしれん と思った子どもたちが

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー


   高野の教育   (その6)

 京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと高野小学校の子どもたちはそれぞれ別の道から山道を登り、山の頂上近くの円隆寺で出会った。

   グリコのおやつの「おまけ」が きっかけに交流がはじまる

 でも、それぞれの学校の子どもたちは、それぞれの学校のグループに別れて、お互いが知らんぷりでお弁当を食べていた。
  が、しかし、子どもたちが、お弁当も食べ終わった頃、京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちは、グリコのおやつの「おまけ」が同じものであることに気づきだした。
 一部の子どもがそれぞれの学校の子どもたちに近づきあった。
 その輪は次第に大きくなり、高野小学校の子どもたちも京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちも一緒になって、おまけとが「同じ」というように、くっつけあったり。
 「同じでないキャラメルのおまけ」をとり替えようとしたり、しはじめた。

     コミニケーションがうまくいかなくても楽しい

 それからは、お寺の本堂の階段、石段などを一緒になってあがったり、下ったり。
 草むらの中でずっ・こけたり。
 古木のほら穴へいっしょに入って、くずだらけになったりしながらはしやぎまわったりしだした。

高野小学校の子どもたちが、

「こつち、こつちやで」

と大声で呼んでも、京都府立ろう学校舞鶴分校の子どもたちは、向うへ走って行く。
 その子らの後を追いながら
「ああもう、いうとんのに」
と高野小学校の子どもたちが独りごとを言ってはいても、とても楽しそうだった。

      ことばにならなかったが 大きな変化が

 遠足の帰り道。

 高野小学校の子どもたちと京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちは、自然に手をつなぎ合って山道を下っていった。
 高野小学校の担任の先生は学校に帰ってから

「きょう、何かめずらしいことあったか?」
「びっくりしたことなかったか?」


とたずねてみても、へび、犬などなどの話は出てきても、分校の子たちについては、ひとことも出なかった。
 


 言葉にならなかったのか、遠足先での、ひとこまに過ぎなかったのか……。

 と高野小学校の担任の先生は悩むが、子どもたちの気持ちの中には大きな変化があった。

 宇宙人かもしれんど   イギリス人かもしれん からおはじまり

 その後で解ってきたのは、高野小学校の子どもたちは京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちに出会った時、

「何言うとってんや、わからへん」
「あれ、宇宙人かもしれんど」
「イギリス人かもしれん」
「フランス人や」


と、そのような会話をしていたそうである。
 それは、京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちに対して、おもしろがったり、からかかったりして言った会話ではなかったのではなく、ほんとうにそう思ったと言うことだった。

  盲学校の人は ぼくの書いた手紙を読めないのでは

 そんなことがあって5ヶ月後、京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちへ高野小学校の1年生が手紙を書くことになった。
 その時、M君が先生に

「盲学校の人は、ぼくの書いた手紙を読めないのでは」

と先生に聞いた。
先生は、

「盲学校の生徒さんは、点字と言って、点の出っぱった部分を指で追って読むのよ」

と説明した。

 するとみんなが手紙を書き終わってもM君はずーっと何かを書き続けて止めることはなかった。


2012年5月24日木曜日

耳が聞こえん人や、目が見えん人から、うつることはぜったいない と言ってしまった先生が学んだこと


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー


              高野の教育   (その5)

先生 おばあちやんからうつったかな?

生徒 うつっとらん うつっとらん

  うつる病気になった人は
  入院院したり、家で休んでおらんならん

先生 しんちゃんは、はしかで休んどったし、
  みっちゃんは、今おたふくかぜで休んでいるね。

   うつる病気になった人は、入院院したり、家で休んでおらんならんので学校へ来たり、遠足 にいっしょにいったりしとってない

   耳が聞こえん人や、目が見えん人から、うつることはぜったいないのです。

生徒 ………………

先生 遠足はいろんな人が行きます。

   目が見えん人や耳の聞こえん人も来とってかもわからんよ。
   出合ったらどうする?

先生 いっしよに遊ぶ?

生徒 (即座に)いやあ(と体を傾けて何かをさける様子をする)

先生 そう………

   教師は うつらんと力んでみたが
生徒 ぼくとこのおじいちやん、お仕事かてようしてや。

生徒 目が見えんでも、一生けんめいお仕事したり お勉強したり 遠足したりしてやもんね。

 ぼくらもきばって歩いていこうね。

生徒 てるてるぼうず作ろ作ろ作う

 ついに絶対にうつらんと力んでみたがこの子たちに。

 言葉で教えることは全く無意味なことであった。

 これからのいろいろな機会に子どもたち一人一人が、じかに見、はだで触れる体験を重ねる中でなら本当にうつらんことを理解する子どもに育てることができるかも知れない………。

 ひとつだけ 同じキャラメルをおやつにしようと考えた先生たち

(感想)

 この1年生の子どもたちの記録は、何度読んでも、こころ惹かれ、見せられる。
 素直に見て、素直に考えて、素直に発言する。
 先生は、「ついに絶対にうつらんと力んでみたが」と反省する。

  「あしたの遠足で一、二年は目的地の円隆寺で(京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと)合流します。特別の配慮や事前の指導をしないでいきましょう」ということである転任して間もない新米の私は迷った、と先生は書いている。
 

 別々の登り口から遠足がはじまり 合流点で出合う。

 その時、京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちに1年生の子どもたちが、悲しませることをしないだろうか。

 京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちは、高野小学校の子どもたちをいやらないだろうか。


 先生の頭の中にぐるぐる不安が渦巻いたと言う。

 だが 「あしたの遠足で一、二年は目的地の円隆寺で(京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと)合流します。特別の配慮や事前の指導をしないでいきましょう」
という京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の先生と高野小学校の先生の事前の打ち合わせに、納得したようで、納得していなかった。


 だから、
先生は、「耳が聞こえん人や、目が見えん人から、うつることはぜったいないのです。」と言ってしまった。

 だがそれに対する生徒の答えは、

生徒 ………………

だった。

 このことも教師もまた素直に受け入れていく。

 これが、共同教育にとって最も大切なことであったことにあとで気づく。

 「特別の配慮や事前の指導をしないでいきましょう」の両校の先生の打ち合わせには、一つだけ共通する「おやつ」を子どもたちが持っていくようにしていた。

 それは、グリコのキャラメルとしていた。



2012年5月21日月曜日

耳が聞こえん人や目が見えん人 だいじにしてあげる かわいそう うつる?


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー

                       高野の教育   (その4)
1973年

 1月15日 高野小学校・京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校全員、書初大会、正月遊び大会、たこあげ大会
2月15日 (高野小学校・京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校)合同学習会
2月17日  両校委員会
3月
 両校スケート学習会、給食会、反省会
 両校の卒業式の交流

 以上が共同学習の経過ですが、はじめにでもも述べた通り、あくまでも。
 子どもの発案と要求によってスタートしたものであり、同情とか、ほどこしてやる、お世話になるという関係でなく、集団としてのとりくみの中で、お互いに対等平等の立場でともに学ぴあい、理解しあい、全面発達をめざしたものなのです。

         1972年4月
 高野小学校1年生の前の日

 「あしたの遠足で一、二年は目的地の円隆寺で(京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の子どもたちと)合流します。特別の配慮や事前の指導をしないでいきましょう」

ということである転任して間もない新米の私は迷った。

 交流の出発にあたって、子どもの実態を大事につかみたいが、気のむくままに行動する一年生と、盲ろう分校の四、五歳という小さい子たちである。
 とんでもない行動によってとりかえしのつかないようなことがおこったら、私には何事も全く予想ができなくて不安でならなかった、何をどうおしえたらよいかわからないままに、とにかく、盲ろうの障害のある子どもがあること、遠足で会うかも知れないことを知らせておくことにする。

先生 あした遠足で学校の外へ勉強に行くね
   そとえいくとどんなことがあるかな


生徒 自動車、バス、トラック(交通安'全)

先生 いろんな人に出会うね、おじさん……

生徒 おばあさんおかあちゃん……

先生 おじいさんやおばあさんに出会ったらどうする?

生徒 先に通してあげる
生徒 大事にする
先生 なんで?

生徒 長いこと働いちやったで

生徒 ゆっくり歩いてやで

生徒 ぼくとこのおじいさん目がみえんでおうちにおってやもん

先生 目が見えんのは、おじいちやんではないね

生徒 うちのおじいさんかって耳聞こえんで

先生 そんな耳が聞こえん人や目が見えん人どう思う?
生徒 だいじにしてあげる

生徒 かわいそう


生徒 うつる?

先生 うつるかな?



(声なし)







 

2012年5月18日金曜日

先生がつくるプログラムはきれい でも ポイ


 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー


 教師たちの仲間意識や学習がはじまった

           高野の教育   (その3)

なかながふえた
なかまがふえた、自主的な教師の体制ができてきた。算数をやろう。(水道方式)
図工をやろう、体育をやろうーと、それぞれサークルや、全国の民間教育の研究会に積極的に参加していった。


討論する職場 意見を出し合う学校になってきた
科学的認識とか
集団主義の教育とか、
全面発達とか、

 討論する職場に変ってきた。

 そしてすべての教育を保障することこのことは、ただ単に高野校だけのことではない。
 民主教育の本質にせまる問題であり、まさに国民的課題としてとらえるようになった。

郷土を知る学習は 高野川で遊ぼう
うぐいのつかみどり、千石山へ登ろう、やまぶきとり  など

 高野校の基本的な構えは
「差別か実現から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しょう」
という同和教育の主題をふまえて


一、地域の実態、子どもの要求にこたえていこう

○ 郷土を知る学習
 高野川で遊ぼう、うぐいのつかみどり、千石山へ登ろう、やまぶきとり、伝説を調べよう、由来の劇化


○ 動物を飼育しよう
 鯉、金魚、兎、チャボ、十姉妹、インコ、蛙、亀、など

○ 植物を育てよう

1973年
4月26日 第二回(高野小学校・京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校)合同職員学習会
5月12日 交流記録第四集発行
5月18日 京都フィルハーモニー鑑賞
5月27日 菊の鉢植えを行なう
6月27日 (京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校)両校職員代表で委員会を構成今後の計画を 立てる
9月7日  高野で自慢話大会 全員
9月9日  (高野小学校・京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校)第三回合同職員学習会
9月11日 今までの(京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校、高野小学校)文書総括のためのレポート委員会をつくる
9月18日 第二回 レポート委員会
9月23日 盲ろう運動会、 高野5,6年と希望者多数参加



 先生がつくるプログラムはきれい
 でも お父さんだまってみます。そしてポイ

  「六月の運動会のプログラムは、私たち生徒がつくった。
 九月の運動会のプログラムは先生がつくった。
 これは悪い!

 先生がつくるときれいです。
 生徒がつくるとへた。
 まちがいもあります。
 けれどつくりたいおもしろい。
 

 先生のつくった。プログラム、お父さんだまってみます。そしてポイ(見終ったら横においてしまうこと。)
 生徒がつたプログラム、お父さん、お母さんいろいろお話します。楽しいです。」(文集より 盲ろう分校中学部の生徒)

こんどは、高野校の運動会です。
  ぜひ来て下さい。

〈第二回合同運動会の案内状〉

盲ろう分校の友だちへ
盲ろう分校のみなさん、こんにちは

 来る10月2日は高野校の秋季大運動会が行なわれます。
 6月17日の盲ろう分校の運動会に招待していただいてとても楽しかったです。
 こんどは、高野校の運動会です。ぜひ来て下さい。
 今までに、何度か高野校へ来て運動会の練習をがんばってしました。その成果を大運動会に発揮してたのしい運動会にしましょう。

 昭和48年9月30日
                 高野小学校児童会


10月2日 高野小運動会に盲ろう分校全員参加
11月5日 舞鶴公園で両校の菊花展と写生会
11月5日 写生会の作品展を両校で行なう
11月7日 (高野小学校・京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校)第四回合同職      員学習会
12月1日 共同教育学習記録第五集発行
12月16日 盲ろうクリスマスの集いに参加

 このようなゆったりした時間と共に子どものこころを育む教育が、高野小学校・京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校の共同歩調による取り組みとしてすすめられていく。

 子どもたちは自由に話し、誤解も理解もふくめて学んで行くのである。




2012年5月16日水曜日

盲ろうの人は、かわいそうだと考えなくてもよろしいよ でも、行ってみてとても安心しました


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー


  高野の教育   (その2)で

  共同教育の経過
1971年
12月4日 盲ろう分校へ竹馬をプレゼン
12月19日  高野校六年全員「盲ろうクリスマスの集い」に招待をうける。
12月24日 盲ろう分校へ礼状を出す

と紹介されている部分について、すべての子どもたちが延々と時間をかけて書いたり、自分の気持ちを現すために書いた分厚い交流冊子があった。

 それを紹介したほうがより、深く共同教育のことが解っていただけると思い掲載するつもりであったが、それを掲載出来ていなかった。
 そこで、前後するが前号の部分に子どもたちの手紙のやりとりを付け加えたい。


 なお、子どもたちの率直な気持ちの表現については、高野小学校、盲学校舞鶴分校、ろう学校舞鶴分校の先生は一切訂正や加筆を指示するなどをしていない。


竹馬をプレゼンからはじまった共同教育 子どもたちの育ち合い

  1971年
12月4日 盲ろう分校へ竹馬をプレゼン

12月19日  高野校六年全員「盲ろうクリスマスの集い」に招待をうけた時の子どもたちとの文通から。

招待のあった日、そんなのを見るのはとてもかわいそうではないかと思って

高野校から盲ろう分校へ

「皆さんから招待のあった日、そんなのを見るのはとてもかわいそうではないかと思っていました。
 でも、行ってみてとても安心しました。私たちとぜんぜんかわらないように、私の目にうつったからです。
 すず虫姫、友達を助けたきつね、心臓手術、とみな心をうつ作品ばかりでした。 特に心臓手術なんかはすばらしかったです。
 それに自作でしたね。
 みんなで感心して見ていました。


 私達でもなかなかできないのに、あなた達はやりとげました。

 大変な力の持ち主ですよ。
 自分達のいいたい所がよくでていました。
 でも、もう少し長くして見せてほしかったです。そして、盲・ろう、いっしょにした劇も見たかった。
 合奏はそろってできていました。がんばって練習をしたのでしょう。……」(六年M・J)


 上手ですと書いてありましたが、少しお世辞ではないですか

盲ろう分校から高野校へ

「舞鶴市の町はずれにある高野小学校六年から、手紙をもらってサソキュー。

 僕達は、『心臓手術』の劇をしたが、少し失敗がありました。
 皆様からの手紙には、心臓手術は上手ですと書いてありましたが、少しお世辞ではないですか?
 僕達は、まだ下手だと思っていたので少し変だと思いました。


 盲ろうの人は、かわいそうだと考えなくてもよろしいよ。

 僕達は、普通の人と同じ人間だと考えています。

 君達、さかだちが大変うまかった。
 僕は出来ません。ぜひ教えて下さい。
 ……僕達は、心臓手術の前にむねが、ドキドキしましたが、だんだん平気になりました。

 12月上旬、竹馬をもらいましてサソキュー。
 僕は、まだまだむずかしいです。
 最後に、おもちを食べましたネ。

 ほかほかで、やわらかくてうまかったネ。
 これでおしまい。
 では、高野小学校六年の皆様、三学期もガンバラナクッチャー。
 また、会う日まで。
 バイバイ。さようなら。グッドバイ。」(中学部一年A)


  そういう意味で書いたのでなく
    内容がよかったと書いていたのです

おりかえし(高野小学校の生徒から)盲ろう分校へ

「A君、返事の手紙ありがとう。
 君達の、やった心臓手術は、失敗もあったし下手と書いてあったのは、よく見ると失敗もあったと思いますが、僕達は、そういう意味で書いたのでなく、内容がよかったと書いていたのです。

 かんちがいしていたようですネ。
 君が、言っているようにきみ達をかわいそうだとは思わないようにします。


 君達は、僕達と一緒にスケートへ行きたいと言っているそうですネ。
 僕連は、それを聞いてぜひ一紺に行きたいと思います。
 必ず行こうネ。


 これからも、長く長く友達として行こう。パイパイ。さようなら。」(六年H・M)

 これらの文章のやりとりの中で、子どもたちは文を通して心を通わせ、文も通して理解し合うようになって行く。

 そして、書いた文章の返事を心待ちにするようになる。

 このゆったりした時間の中で、子どもたちの共同教育がはじまるのである。


子どもたちが 京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校との交流をしようと言いだしたことが


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー

     高野の教育   (その2)

奪われている

 みんなで菊を、朝顔、ひまわり、へちまいも、稲、その他四季の草花

一 自主的、創造的な学習を発展させよう

○ 創造的な学習、解放された子どもの表現
○ 教科書批判、自主編戊めざして
○父母、地域とともに、市販テスト批判
学力とは赤軍学生などの問題

二 集団づくりの学習

○ 児童会の活動、創造的、民主的運営
○ 教育目標、学習内容、指導法の統一

以上のことが、教師集団としてとりくんできた部分であるが、いつも教育内容や指導法を相互批判するとき、

その基準となるものは、
科学的認識がどのように変ったか

 集団としてのとりくみで、その質はどのように変革されたか。
 子どもの全面発達にどのように意義つくのか、という点であった。

子どもたちが自主的に積極的に
  京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校との共同教育を提起

 このように教育が、民主的に人権教育であり、差別をゆるさないよりよい社会の変革をめぎして発展するものと考えている。
 このような高野教育のあゆみの中から、子どもたちは自主的に積極的に、京都府立盲学校、ろう学校舞鶴分校との交流を提起してきたのである。

 以下数多くの交流をしていくが、たんなる交流でなく、子どもたち自身は、同一の目標にむかって学習する「共同教育」という方が適当といえる。

   共同教育の経過

1971年

12月4日 盲ろう分校へ竹馬をプレゼン
12月19日  高野校六年全員「盲ろうクリスマスの集い」に招待をうける。
12月24日 盲ろう分校へ礼状を出す

1973年

1月 両校で図画と習字の展覧会
1月20日 交流第一集発行
      第二集発行

2月21日 両校合同スケート学習会
3月6日 高野小六年、ろう中学部、合同教育学習会
3月17日 交流記録第三集発行
3月6日 両校職員学習会
3月6日 ろう分校卒業式、高野小六年参加
3月18日 盲分校卒業式、校長参加
3月23日 高野小卒業式、ろう分校参加
4月21日 合同遠足

共同教育から知った 何か大事なものが奪われていること

 子どもから何か一番大切なものが奪われているのとちがうだろうか。

 われわれ教師 も奪われている。
 しんどい。
 仕事にたのしみがない。
 何か大事なものが奪われているのとちがうか、

地域の人はどうか、やはり奪われているようだ。
 何だろう、みんなででかけてきいてみよう。

  みんなで   ほんとの教育を考えよう

 何とかしようもっと勉強しよう
 


 ほんとの教育を考えよう
 


 学力とは、真の学力とは何か
 


 自主的にとりくもう
 


 みんなでやっていこう

 

2012年5月14日月曜日

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


(はじめに)

 現在N教育大学のT教授の依頼・協力要請(なかば強要?)で、戦後京都の障害児教育の歴史と課題と未来への展望を研究する手伝いをしている。
 が、N教育大学のT教授は徹底した研究をする人でいいかげんなことは決して許さない姿勢。

 あちこち、行って聞いたり、文献を調べたり、教育をうけた生徒たちの意見や批判を聞いて回っている。

 諸外国を評価しすぎて
  日本の教育実践の教訓が一刀両断で切り捨てられている

 しかし、調べれば調べるほど他の研究者が外国の論文を引用して、日本の教育に機械的にあてはめようとする傾向に非常な危険性を感じるようになってきた。
 やたらカタカナを乱発し、外国では、アメリカでは、国際的には、と書かれているが原文を読んでみると都合のいい部分だけ引用していることがあまりにも多いのに驚く。
 そればかりか、諸外国を評価しすぎて、諸外国より優れた日本の教育実践が一刀両断で切り捨てている事に大いなる疑問を抱いてきた。
 日本の教育や障害児教育は、諸外国よりはるかにおくれてきたのであろうか。
 諸外国の文献を読むと、日本が遙か昔に解決してきた教育課題をあれこれ解釈していることに驚きを禁じられないことも多い。

非人道的な教育
 乗り越えて来た過程を知って

 そこで、現在まで解っている教育実践、とりわけ障害児教育・ろう教育・聴覚障害児教育を中心に書き、教育とはなにか、日本の教育には多くの問題があるけれどそれを凌駕して育ってきた子どもたちの事を断片的だが書いて行きたい。

 ここには、今まであきらかにされなかった非人道的な教育も掲載するが、それを断定的に判断しないで、それを乗り越えて来た過程を知っていただきたいと思う。

1973年 京都北部舞鶴市立高野小学校の教師であった四方修吉先生は、京都府立盲学校舞鶴分校・聾学校舞鶴分校との共同実践を次のように書いておられる。
 

 高野の教育   (その1)

 数年前、こんな学年があった(分裂攻撃のはげしいとき)。

 道で遊べなくなった、山へもいけない 、 つつみも川も、もちろん禁止地区。 広場はない、球を投げても、打っても叱られた、自転車に乗ったら、スピード出すな、遠乗りするな。……

 「ええい」と電信棒めがけて石を投げたはずれた。
 西瓜に穴があいた。
 野荒ししたと、こつぴどく叱られた。


 弱い者をいじめるようになった。
 女の子を泣かすようになった。
 掃除や当番は弱い者がする仕事になった。


家へ帰ってもおとうちゃんもおかあちゃんもおらへん。

 うちにおじいちゃんがいる。
うちにはおばあちゃんはいるけど「うるさい」「死んでしまえ」勉強なんかわからへん。
する気にならん


 宿題なんかする奴あほや。
 学校へ花持って来よった。
 ええかっこしょんのや。
 やめとけ「わしらあ幼稚園のときから。あかん組やいわれていたんや」……と。

 けれど、この学年は、みんなといっしょうに芋をくったり、魚をとったり、郷土の歴史を調べたり、池を作ったり、労働する中で、父母集団といっしょに労働もする中で変っていった。
 地域の要求を学習し、ともに要求運動をおこしていく中で、子どもは変革され、立派に成長していった学年でした。
 中学校でもよく学び、よく運動し、高校へも全員が入学したと聞いています。

 その後、かたちは変ったが、

 うずくまって何かはしているが、ぼんやり立っている子に表情がない、感動がない、子どもらしい気力を感じない、生き生きした子どもらしい集団を見ることがない。

(これでよいのだろうかと教師)
 学校の勉強がわからん。
 どう教えたらよいのだろうか。
 この教科書これでよいのだろうか。


 親は「遊んでばかりで、少しも勉強しない」というけれど……。


 遊ばん、遊びを知らん、自分の発活に工夫がない、集団のよろこびを知らないとちがうだろうか。








 

2012年5月12日土曜日

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー


  これから、京都のほどんど知られていない障害児教育、とくにろう教育・聴覚障害児教育について書いて行きたい。

 それは、これらの取り組みが一面で的に理解されたり、特別支援教育の名の下に全面的に抹消されていることもあるからである。

 しかし、何よりもよくないことやよかったこともふくめて 教育とはなにかを考えて行くための話を提供したい。

 写真二つは、1974年当時の京都府立山城高校全日制普通科の授業風景である。

 高性能のマイクがなかった時代。


 京都府は、独自予算をつくって普通学級で学ぶ生徒のための特注補聴機器を製造し、聴覚障害生徒の「聞こえの保障」を順次整備した。

 これらのことを書くと、膨大なものになるが、ほとんど京都でも日本でも知られていないろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育について連載して行きたい。

 みなさんのご意見・ご批判をおねがいします。

なお写真中央のヘッドホーンで授業を受けている生徒は京都聴覚障害協会(旧称 京都府ろうあ協会)の役員をして聴覚障害者福祉・障害者福祉の先頭に立って奮闘している。

2012年5月11日金曜日

役場は ろうあの生活や保育園入所を相談するところでない

 

Once upon a time 1969

 両親が働く人々にとって、保育所入所は切実な要求である。

 40年以上前は、両親ろうあ者の場合は、児童福祉法ににもづく「保育に欠ける」という条件として両親ろうあ者の保育所入所は困難を極めた。

 しかし、保育園で働く保母(当時)さんたちは、積極的に保育所入所の運動を進めてくれた。
 また、そのために障害者団体とともに行動してくれたことは忘れてはならないことだろう。
 これらの必死の運動で、両親ろうあ者の子どもも保育園に入所出来るようになったことは記憶に留めておかなければならないことだろう。


             日給月給と瓦製造業

 ろうあ者のMさんは、瓦職製造の会社に勤め奥さんが長男を保育園に連れて行っていた。
 その頃から、瓦製造業界は不況で、冬期は仕事もなく収入は極めて不安定だった。
 日給月給。


 なにか、給料制度に聞こえるが、その内実は働いた日にちだけお金が支払われるという時給制度と同じであった。
 この日給月給を手話で直接現すと、日給・月給となり、月給制度に働いた日数分だけおkぁねが支払われると理解され、月給より多くの収入が得られると思うろうあ者は少なくなかった。
 そのため、仕事に就く時の「うちは、日給月給です。」という会社の説明に対しては、ていねいできちんとした手話通訳がもとめられた。

 両親が聞こえないということもあり遊んでもらえない長男

 Mさんには長男に続き、長女も生まれた。
 生活はますます苦しくなり、奥さんも働かないとやって行けない状況になった。
 長男も近所の子どもたちと、両親が聞こえないということもあり遊んでもらえず、寂しい思いをしてますます無口になっていた。
 そのため引っ越しを考えたが、先立つものがない。
 そこで、ろうあ者相談員とともに役場の身障担当を訪ねた。


        子どもの保育のことを相談するために来るところではない

 話はのっけから

「耳が聞こえないぐらいで、保育に欠けるとは考えられない。」
「保育所入所措置はしない。」
「だいたい、ここはMさんや子どもの保育のことを相談するために来るところではない。」
「社会福祉協議会に行って、相談すべきことだ。」


と頭ごなし、威圧的にガミガミ言われた。

        残酷なことが書かれている筆談メモ

 その時、手話通訳者が同行していなかったために筆談のメモが残っていてあとから読むと、なんとひどい、残酷なことを平気で書くのか、とおどろいた。
 しかし、このようなことはどこでも同じようなことが見られた。

 民生(福祉)行政は、ガミガミ言うが、なにもしてくれない、というのが「常識」だった。


   点在して住んでいるろうあ者の問題は

 社会福祉協議会では、担当の人が親切に応対してくれて、奥さんの仕事も一緒になってあちこちと探し回ってくれた。
 その結果、役場から保育所入所を考えて見るという返事が来た。


 京都府下は、京都市内と違いろうあ者が点在し住んでいる。
 そのため協力することも、困った時の相談することも出来ない。
 その上、行政が非常に高圧的であった。

 そのことを、ひとつひとつ紐解くことが、ろうあ者の喜びにつながった。




 

 

2012年5月10日木曜日

気持ちを紛らわせないことから来るイライラは ろうあ者もみんなも


Once upon a time 1969


  Cさんは、京都南部のある電気メーカーンの工員である。
 夫の給料が少ないためCさんの収入は、家計にとって極めて重要なものであった。
 ようは、生きていけるか、行けないかを決めるほどのギリギリの生活を支えていた。
 

    
     みんなに嫌がられている悩み

 でも、ろうあ者者成人講座に来るとみんなにいつも嘆くことがあった。

 「あんたは怖い顔をいつもする。」
 「冷たい態度だ」
といわれていつも、
「みんなが嫌がり、重い仕事ばかりさせられる」
という訴えであった。
 そこで、ろうあ者相談員と手話通訳者がCさんの職場を訪ねることになった。


一分一秒も手を抜けないほどの速さが必要な
         ベルトコンベアー方式

 Cさんの職場は、女性が圧倒的に多く、ベルトコンベアー方式。

 一分一秒も手を抜けないほどの速さでベルトが流れ続けている。
 その速さに追いつくのにみんな必死。

 働く人の顔もその必死さが、浮き上がっていた。
 ただ、Cさんと一つ違うことがあった。

 それは、職場に音楽が流れ、聞こえる人はその音楽を聴きながら気持ちを和ましていることであった。

   音楽を聞いて仕事をしていることをまったく知らないで

 でも、Cさんは、入社した時から職場に音楽が流れていることを知らなかった。
 一分一秒を争う仕事と音楽。


 聞こえる人は、それなりに気を紛らわせていても、Cさんはそうではなかったのである。
 みんなは、自分も必死の形相なのに音楽で時々表情が変わる、でも、Cさんは、そういうことはなかったため
  「怖い顔をいつもする。」
 「冷たい態度だ」
と思われていることが解った。

        へーっ 音楽を聞くと気が紛れるの

 Cさんにみんなは音楽で気持ちを和ませていること、だから、音楽が流れていなければたえずみんなは、「怖い顔をいつもする。」「冷たい態度」になることを知らせた。
 
「へーっ 音楽を聞くと気が紛れるの、知らんかった」
とCさんは言う。

 眼と手先だけを集中させ続けるCさんにとって、音楽を聞くことで仕事中に気持ちを紛らわしたり、気持ちを切りかえたりすることが出来ない連続作業だったのである。

 Cさんは  おしゃべりしながら仕事が出来なかった

 だから、他の人に少し話しかけられても答える余裕もなく、つい、つい、自分の手を止めなければならないのでイライラしてなにも答えなかったことが解った。

 聞こえる人同士なら、おしゃべりしながら仕事が出来ても、Cさんは相手の顔を見なければならなかった。
 と、手が止まる。
 するとベルトコンベアーの作業物が他の人のところに流れていって、その人に迷惑がかかる。


 そんなことがあることを職場の人に説明すると、職場の人もそういうことがあるのか、気が付かなかったゴメンね、と言った。

 次から次へと流されるコンベアーを見る度にCさんの顔がよく浮かんだ。

 こまめに休憩が取れることは Cさんだけのことではなかった
 

 近年、ヨーロッパのある国では自動車生産をベルトコンベアー方式から、グループで一台つくる方式に変えたら、生産能率も働く人の製造への誇りが高まったことを聞いた。
 聞こえないから、そのことだけに全身で集中することによる疲労。

 その蓄積によるイライラ。

 聞こえない人にも聞こえる人にも生産ラインをこまめに止めたり、こまめに交代休憩がとれるようになることが大切だと思うのだが。