教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
哀しい話なのになぜ笑う
哀し話なのに「アンタも同じやったんや」と分かって笑う。
このようなことは、ろうあ者の集まりや学習会で数多く経験してきた。
最初は、哀しい話なのになぜ笑う、と疑問に思っていたけれど、それが次第に「共感の笑い」に気がついてきた。
だから、前回は、「共感の笑い」、と書いたが、そのことは多くの人々のとってなかなか理解出来ないのではないか、と思えてならない。
虐げられてきたことの連帯と共感が笑いに変化
虐げられてきたことの連帯と共感が、笑いに変化するとき、真の友情と連帯が産まれる。
ここに、聴覚障害教育の重要なポイントがあるように思えてならない。
このことを踏まえて、健聴生徒も聴覚障害生徒もお互いが学び合い、意見を交わして成長していった。
そして以下のような文章が出来上がっていった。
ちょっとしたからかいのつもりでも
いじめられた方は傷ついてしまう
僕は、N中学、山城高校での経験を通して、思った事を話したいと思います。
N中学校に入学した当時、僕は友達作りを頑張ろうと思いました。
しかし、2学期、3学期と月日が流れていくにつれて、その意欲を失っていきました。
僕は難聴学級に通っていました。
1年生の時は何かというと難聴生達にいじめられたり嫌がらせを受けたりしました。
例えば、机をゆさぶられて中の物を出されたり殴られたり、僕はとても苦しい思いをしました。
相手はちょっとしたからかいのつもりでも、いじめられた方は傷ついてしまうのです。
自分をいじめた相手にうっぷん晴らしや嫌がらせ
2年になると、今度は僕が自分をいじめた相手にうっぷん晴らしや嫌がらせをしました。
たとえば、相手が話しかけてもそっぽを向いたり、相手に意地悪をして、それを正当化しました。
健聴生との関係もよくありませんでした。
たとえば、2年生の3学期に難聴生が健聴生のクラスで授業を受ける、いわゆる長期交流がありました。
そこで、勇気を持って話しかけても相手はからかって笑ったり、聞き流したりしました。
他に女の子に『好きだ。』と告白するように強制されたりもしました。
また、発音の悪さをいじめのタネにされたこともしばしばでした。
たとえば、僕は『7』の発音が苦手です。
『7』」を発音するのに苦しむ僕をからかって楽しむ生徒もいました。
そのため、この交流が終わっても何も学べないまま暗い気持ちで難聴学級に戻りました。
これから話したい いろいろ考えたことを
とにかく、僕は難聴生にしても健聴生にしても、心から僕を理解してくれる本当の友人がほとんど出来なかったのが何よりも残念でした。
なぜ、こんなふうに、僕はいじめや批判を受けたのでしょうか。
いろいろ考えたことをこれから話したいと思います。
周囲の人々の気持ちを傷つけて
まず、僕の気持ちが狭かったからではないかと思います。
具体的にいうと、人の意見をとり入れずに、自分の考えだけで行動したりすることです。
これでは、周囲の人々の気持ちを傷つけてしまうことになります。
それから、短気も原因だと思います。
たとえば、人の批判や反論を少し聞いただけで腹を立てたりするなどです。
これでは、周囲の人々が僕を避けてしまってもおかしくないと思います。
そして、生真面目さもいじめの大きな原因になったと思います。
冗談を真に受けて相手を不愉快にさせたりもしました。
今度こそ 本当の友人を作りたい
僕が山城高校に入学した理由は、聴障生に対する配慮があったからで、また聴障生の先輩がいたからです。
そして、今度こそ僕は、本当の友人を作りたかったからでもあるのです。
(つづく)
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
すべての文章がマイナス
僕は、頑張りました。だめでした。
一年生の時は、難聴生徒にいじめられ、嫌がらせを受けました。
二年生になると僕が嫌がらせをしました。
長期交流でもいじめを受けました。
僕は、友人が出来なかった。
すべての文章がマイナスで完結している。
自分の表現が不足している
どのように頑張ったのか。
一年生の時、どのようないじめや嫌がらせを受けたのか。
二年生になると、なぜいじめられた自分がいじめるようになったのか。
健聴生徒の教室で、どのようないじめを受けたのか。
友人が出来なかったのは、なぜか。
どうして、なぜ、だめなことばかりだったのか。
それなら苦しくて、苦しくてたまらなかったはずだ。
自分自身にも問題はなかったのか、聴覚障害生徒も健聴生徒もそのような意見を出してきたが、そういう自分も、いじめられた、楽しかった、イヤだった。
としか書いていない。
自分の表現が不足している、と気がつき始めた。
その時の様子をゼスチャーで現してみたら
この生徒同士のやりとりは、その後非常に大きな教訓を残すことになる。
その時、教師から提案した。
だめだった、苦しかった、いじめられたなどの様子をゼスチャーで現してみたらと。
するとこれ以上書けないと行っていた、聴覚障害生徒がうなずいて、身振り手振りで、
一年生の時、どのようないじめや嫌がらせを受けたのか。
二年生になると、なぜいじめられた自分がいじめるようになったのか。
健聴生徒の教室で、どのようないじめを受けたのか。
を必死になって演じた。
自分と他の聴覚障害生徒。
自分と健聴生徒たち。
自分がイヤだったことを。
すると、話合いをしていた健聴生徒も聴覚障害生徒が大笑いしはじめた。
まじめに演じていた聴覚障害生徒は、ものすごく怒り出し部屋を飛び出して行ってしまった。
健聴生徒も聴覚障害生徒も大笑いしたわけ
みんなが追いかけて部屋に戻ってくるのに数時間かかったが、聴覚障害生徒の怒りは収まらなかった。
しばらくして、全員が、同じいじめや嫌がらせを受けていた。
いつも黙っている「アンタ」は、そんなことはないのか、と思い込んでいたけれど、そうでないことが解った「共感の笑い」だった。
「アンタもそうだったんや……」
と思うと哀しさよりも
「アンタも同じやったんや」
と分かって笑ってしまったゴメンなあ、と説明した。
ゼスチャー・身振り手振りがお互いの理解を深め共感関係が広がりはじめたのである。
理解し合った生徒たちは、文章でどのように表現したらいいのか、辞書などを引いたり、意見交換して学び合っていった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
「書ける」「間違いないように書く」ことが強くもとめられ
文章の順序性に「拘る」のは、聴覚障害生徒のそれまでうけてきた教育と大きな関わりがあった。
ことば獲得期における「受け身的発声」それに対する評価。
自分の言いたいこと、感じたこと、疑問に思うこと「なぜなぜ」「なんで……」なども発することなく、言うとおりに発するで評価される「受け身」の言語指導を受けてきた。
文字を習う場合も、「書ける」「間違いないように書く」ことが強くもとめられ、一つの文章が出来れば、それで評価されてきた。
自己表現として「読む」「書く」「話す」
と言うことは ほとんど教えられてこなかった
そこには、聴覚障害生徒が、人間発達を遂げて行く上でなんの「疑問」も出すことが出来なかったことが次第に明るみになって来た。
そのため「読む」「話す」「書く」と言うことがすべて教師や保護者の言う通りにすることが、「出来た」「勉強した」とほめられてきた。
この時点で、聴覚障害生徒自身のため自己表現として「読む」「書く」「話す」と言うことは、ほとんど教えられてこなかったことが手話弁論大会の取り組みで明るみに出てきた。
このことは、聴覚障害教育のためだけでなくあらゆる教育分野でも考えられなければならないこととして提起し続けたが、当時ほとんど研究者などには受け入れることなかった。
ことばの教室やきこえの教室やろう学校の一部の先生や心ある耳鼻科医の間で意見・交流し、言語指導や聴覚指導、文章指導の基本的原則を確立していった。
過去の教育実践が研究されないで 自画自賛でいいのだろうか
そのことを調べようとしない研究者は、近年さかんに普通学校や普通教室にいた障害のある子どもたちの「専門的な読み書き指導」が放置され続けてきたことを強調し、自分たちの専門研究が以下にその子どもたちを援助し、人としての教育、人権としての教育を守り続けているのかを主張している。
だが、それは全面的な過去の否定であり、諸外国の研究の「模倣」としか思えないように思える。
少なくない京都の教師は、教育行政がやろうとやるまいと教育実践上の課題を可能な限り追求してきたのである。
頑張りました しかし だめでした
弁論大会における聴覚障害生徒の文章の一つの例をあげておきたい。
最初次のような文章を書いていた。
僕は、N中学校に入学した時友だち作りに頑張りました。
しかし、だめでした。
一年生の時は、難聴生徒にいじめられ、嫌がらせを受けました。
二年生になると今度は、僕が嫌がらせをしました。
長期交流(注*:聴学級から普通学級で学ぶ方式)でもいじめを受けました。
僕は、心から僕を理解してくれる友人が出来なかった。
というもので、「先生これ以上書けません」と言い出して、もともと手話を否定していたことから、手話弁論大会には出ないと言いだした。
文章を書くことは 自分との格闘だ
そこで、手話弁論大会参加の準備をすすめている健聴生徒と聴覚障害生徒と交えて話し合いをした。
すると、
1、友だち作りはなぜだめだったの?
2、なぜ、いじめらつらい思いをしたのに二年生になると嫌がらせするようになったの。
3、長期交流でどんないじめを受けたの。
4、聴覚障害生徒同士でいじめ合い、健聴生徒にいじめられたら、今度は健聴生徒をいじめるの?
5、そんなことが正直に書かれているかなぁ。
という意見が出た。
意見を出した自分もそういうことが書けてないので、自分の文章を書き直し始めた。
ここから、書いては直し、意見を聞き、書く。
書いたものを読んで見るの取り組みが、自主的に延々と続いた。
あとで、お母さんから
「あんなに自分で悩み、自分で書いては直す姿は初めて見ました。」
「文章を書くことは、自分との格闘だ、と言ってましたけれど、すごく険しい表情でした」
と話があった。
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3段階を踏まえた手話弁論大会
生徒たちと話合って、手話弁論大会は、次のような順序で準備し、当日ろうあ協会の人々を必ず招待することとなった。
① 弁論大会で発表する内容は、あらかじめ原稿用紙に書いて、みんなと意見交換しながら創り上げる。
② 原稿が出来た段階でその原稿にもとづいて、手話表現に挑み、手話をより深く学んで行く。
③ ①、②が出来た段階で、発表することをすべて覚えて、手話弁論大会の時は参加者に向かって発表する。
という3段階を踏まえて取り組むことになった。
与えられたテーマでないことに苦しむ
まず、発表は自由と言うことで、健聴生徒も聴覚障害生徒もとまどいはじめた。
自分は、なにを言いたいのか。
という戸惑いである。
それまで、与えられたテーマに答えることばかりしてきた健聴生徒も聴覚障害生徒も次第に苦しみはじめた。
そして、教師のところに何を発表したらいいか、たずねてきたが一定のアドバイスをしても「自分のテーマは、自分で決める」と言い続けた。
参加者は、自由だったので手話は説対したくないという聴覚障害生徒は、時折その様子をチラッと見る程度だった。
すべて順序通り書く
原稿を書くことについては、非常に時間がかかったが、最初の原稿を見て聴覚障害生徒の書いていることに共通性があった。
あることを書くのにすべて順序通り書く。
例えは、普通小学校でひとりぽっちであったことを書くのに、いつ入学して、どのこの学校で、クラスは○年○組で……と京都から大阪に行くのに停車した駅を順番に書いて、大阪で起きたことになかなか行きつかないのと同じような書き方であった。
停車した駅を書くことを飛ばして大阪に着いたところから書くことが出来ないばかりか、それを省略することに対しても激しい「抵抗」をしめした。
そのため、原稿用紙の量は増えるだけで、自分の中で混乱して「何を書いているのか、分からなくなった。」とまで言い出した。
自己表現が出来ないことの「脱却」
そこで、書いた原稿を読んで見るようにアドバイスした。
読めば、
「なにかへん」「言いたいこと書けてない」
と分かりはじめてきた。
それは、聴覚障害生徒が、幼児期から受けてきた「言語対応」「書き対応」などの「マッチング」への決別であったことに気づくのは、ズーと後のことであった。
自己表現が出来ないことの「脱却」。
これが手話弁論大会の第一の難関であった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
成人のろうあ者のかたがたに見てもらわないと
手話を学んだことが自己満足になる
手話部の生徒と聴覚障害生徒たちと話合って、
① 手話を学んで手話表現して学校の生徒だけに、手話発表するだけでなく大人の人に見てもらおう。特に成人のろうあ者のかたがたに見てもらわないと手話を学んだことが自己満足になる。
② 参加は自由。テーマは自由にする。
③ ただ審査員をつくって、評価をしてほしい。
表彰されるのもいい。
表彰で、友人あん形が壊れることはない。
何がどのようによかったのか、いけないところはどこか、ハッキリしたほうが自分のためになる。
④ 山城高校手話発表会など名前は、考えていこう。
と言うことになった。
突然「弁論大会」と
言った校長
会場が視聴覚教室で階段机になっていること。
そのため見に来ていただいたかたは、上を見るのじゃなく下を見てどの場所からも見やすい。
その会場を日曜日に借りるように校長先生に頼んでほしい、と言うことになった。
そこで、校長と会って話をした。
概要を理解した校長は、突然「弁論大会」と言うことにしたらと言い出した。
「べっにー」「なんにもー」から自分の意見を持てるように
「弁論?」、予測もしない言葉に驚いた。
校長の話によると最近の高校生は、自分の意見を持たない。何か聞くと「べっにー」とか「なんにもー」とか言う。
それじゃ、「これでどうか」と言うと「べつにー」と自分の意見をまったく言わない。
それで家に帰って「校長先生が、これこれするように言われた。」と言って、校長が生徒に「強要」したようになって保護者が府教委に電話する。府教委から電話がかかってくるなどのことがあまりにも多すぎる。
自分の意見をしっかり持つ、と言ってもすぐには無理だから一方的に人の前で意見を述べるだけではなく、参加者や会場から論じ合う、そういうことが出来ないか、という意味の話の内容だった。
飛びついてきた「弁論」
「弁論」。
はたして、そんなことが出来るのだろうか、と思いつつ生徒に聞いてみると
「弁論」という言葉に飛びついてきた。
健聴生徒が、聴覚障害生徒を理解する。
聴覚障害生徒が健聴生徒を理解する。
これは、一方通行の話だけで出来ないことだ。
今まで、なんども「くい違い」「すれ違い」があったけれど、お互いが「知らんぷり」している間は、理解し合えなかった。
だから、違う意見が出てもいい。
会場に来られた人の意見も聞いて、みんなで考えたい。
生徒たちは口々にそう言った。
「山城高校手話弁論大会」という名称で一致したが、そのための多くの困難があることを健聴生徒も聴覚障害生徒も予測していなかった。